【歴史】 織田信長の父・信秀が三河の岡崎を支配していた 中京大教授が新説 [読売新聞]

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2014年06月29日
http://www.yomiuri.co.jp/chubu/news/20140629-OYTNT50036.html

 織田信長の父・信秀が三河の岡崎(現在の愛知県岡崎市)を一時的に支配していたことが、村岡幹生・中京大教
授(日本中世史)の研究で分かった。今春刊行の「愛知県史資料編14」で公表された。徳川家康が幼少期に「誘拐」
されて織田家の人質となったとの通説も誤りの可能性が高いという。

 村岡教授が注目したのは、新潟県三条市の本成寺が所蔵する、法華宗の高僧、日覚が尾張や京都からの情報を
記した「菩提ぼだい心院日覚書状」。

 「岡崎は弾正忠へ降参し、命からがらの様子」「弾正忠は三河を平定し、翌日、京都に上った」などと記されている。
「弾正忠だんじょうのちゅう」とは、当時の官職の名称で、織田家は信長まで3代にわたってこの職を名乗っていた。
村岡教授が現地で調査したところ、この書状は1547年(天文16年)に書かれたことが判明し、弾正忠とは信秀、
「岡崎」は家康の父、松平広忠を指すことが確認されたという。

 広忠は信秀からの攻撃に備えて駿河の今川義元に支援を要請。今川は広忠の長男、竹千代(徳川家康の幼名)
を人質として要求した。

 通説では、同年、竹千代の護送役の田原城(現在の愛知県田原市)城主、戸田康光が裏切って信秀に竹千代を売
り飛ばしたとされている。しかし、これまで、戸田がなぜ裏切ったのか謎とされてきた。

 村岡教授は「広忠が信秀に降参して竹千代を織田家へ差し出した可能性が高い」と指摘。通説については「天下人
となった家康が父親を神格化するため、誘拐されたことにしたのかもしれない」と推測する。

 もっとも、岡崎は1548年の「小豆坂の戦い」をきっかけに、今川の支配下となった。翌年、今川の捕虜となった信
秀の息子と、織田家の管理下にあった竹千代とを交換することとなり、竹千代は今川家の人質となった。

 本郷和人・東大史料編纂所教授(日本中世史)の話「織田がこの時に家康を人質に取った可能性が出てきた非常
に重要な発見だ。信秀がどの程度三河を支配していたかについては慎重な議論が必要となる」

2014年06月29日 Copyright The Yomiuri Shimbun

◆◆◆スレッド作成依頼スレ★867◆◆
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1403846908/257
2名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:09:04.93 ID:r27U3ecq0
辻褄は合うな
3名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:09:56.81 ID:9QlGgQcB0
信秀もDQNだったからなぁw
さもありなん
4名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:10:42.85 ID:DpTYXiV00
織田家は信秀信長信忠以外は糞
信長子孫と言われても信雄子孫だと言われるとがっかりする
5名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:11:30.47 ID:XlgUX3rN0
家康の苦労人伝説崩壊
6名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:12:00.32 ID:FS/tSLK50
無道が子孫なのかどうか、それも調べてほしい。
7名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:13:03.91 ID:qQPPtbuAO
知ってた
8名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:13:08.10 ID:bbS88RPn0
キリスト教に利用されて
キリスト教に数十万の日本人を奴隷として売り飛ばされる原因を作ったやつだから
とてもどうでもいい話
9名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:13:32.33 ID:DpTYXiV00
これが本当なら父の代から今川に助けて貰って嫁まで貰う厚遇されながら
裏切って今川滅亡に追い込んだ家康糞すぎるよね
10名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:14:47.88 ID:xLkK9MybO
のぶやぼでは尾張の虎の混迷に引きずられて、脳筋な能力値にされる人。
11名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:15:54.70 ID:iwIN55X+0
>>5
いや、家康自体の苦労は増してないか?
12名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:16:51.44 ID:ujV9zQCp0
徳川家糞
13名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:17:05.80 ID:93KicKik0
織田信成の父に見えた
14名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:17:45.38 ID:d4ER2RVE0
信長ってトーチャンが金策上手で急に金持ちになった成金ボンボンだよな
15名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:18:32.78 ID:8NKnpqekI
家康さん<<信長さんは幼少期の刷り込みですな
16名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:20:35.41 ID:NNxno24Q0
え?30年くらい前そう習ったけど????
司馬あたりのそういう表記してた小説も溢れてるよね??
支配してたからこその人質だろうに
誘拐こそむしろ初めて聞いたけど何なの?
17名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:21:10.84 ID:Bl4Sd+0Y0
尾張は小国扱いされやすいけど
経済力と生産力が異常
18久保田日出吉 ◆bmzFe7ein6 @転載は禁止:2014/06/29(日) 16:22:21.98 ID:Vsd4zDjA0
は?と思ったが説得力がある。
19名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:23:02.02 ID:A4tOdAGZ0
>>16
初めて聞くは言い過ぎだろ

小説では誘拐が主流だし
20名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:23:50.41 ID:SEhdQ0Vo0
スケートの織田信成はいつまで偽物子孫ネタを使うのかw
21名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:25:14.38 ID:E+kKpIu40
伊勢湾の海上貿易でお金いっぱい持ってたし
22名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:26:04.95 ID:6pbmUnQD0
恒彦
23名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:26:43.84 ID:f7d8L96T0
>>20
一緒にスケートしてたやつによれば、昔はめっちゃ否定してたらしいぞ
24名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:27:14.78 ID:Kwav9a9X0
尾張一国完全に支配できればその時点で大大名だからな。
尾張美濃近江伊勢のたった4カ国で250万石近くあるとか、信長恵まれすぎだろ
25名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:27:31.94 ID:DwRsSCgm0
いやいや、無いわコレ

ちょっとしたネタなら特定の史料に依存することもあるけど、
これほどの大きな話を、「菩提ぼだい心院日覚書状」とやら1つで
その他の史料全て否定とかありえん
26名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:27:45.07 ID:r27U3ecq0
小豆坂の戦いは二度あったとか、いや一回だという話を聞く
攻めて取って、次に攻め取られる
これで合点がいくな
27名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:27:51.60 ID:CN8I4GdU0
>>1
つまり徳川家の大本営発表はまったくアテにならないということです。
同じ成り上がりハイエナ一族の鎌倉北条氏を礼賛する吾妻鏡以上ですね、これは。

血筋のでっち上げは言うまでもなく、
他にも姉川の戦いや、信康事件などで怪しい記述が見られます。

「三河物語」も鵜呑みにするのは非常に危険です。

>>9
築山殿が怒り狂うのも当たり前、ということですね。
28名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:28:08.71 ID:ihLQvxva0
広忠と清康、家康の落差が激しいな
29名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:29:01.17 ID:xkx2cCN70
家系図で2代不明って完全に仮冒じゃん
30名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:29:31.45 ID:V0upoMRi0
小説読んで歴史通語る奴いるんだよな
31名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:29:35.87 ID:SEhdQ0Vo0
>>23
つ、メディアの捏造演出。
32名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:29:58.62 ID:2xXfYr/y0
誰か小説にしろ読むから
33名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:32:20.16 ID:xETZTiEE0
ま、普通に考えたら家康は人質だわな
34名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:32:31.50 ID:wduihFcx0
>>9
だって氏真さんやる気ゼロだもんw

一応氏真さんは保護して幸せな老後送ってるよ!
家も残ってる
35名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:32:32.53 ID:igxNmins0
俺が読んだ資料だと家康は願人坊主だと…('A`)
36名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:33:49.40 ID:3O3+XtRM0
 >本郷和人・東大史料編纂所教授(日本中世史)の話

本郷和人って一昨年の大河ドラマ「平清盛」で時代考証を担当していた男だよ。
あの時代考証は滅茶苦茶でディレクターの磯智明(在日か?)の言いなりになって
おかしな衣装や髪型を放置していたが、その功績で今でもNHKのいろいろな番組に
重用されている。
学者というよりもマスゴミに媚を売ったエセ学者だろうな。
37名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:33:53.03 ID:SrjlfIaZ0
>>30
普通の人は一次資料読めないから

仕方ないっしょ
38名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:34:43.13 ID:A4tOdAGZ0
>>34
氏真は特に非難するような所は無いだろ

家康と信玄に負けたからやる気0なの?
むしろ誰なら勝てるんだよって相手としか戦ってねぇよ
39名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:35:19.12 ID:tad2EQnn0
けつ毛バーガーは関係ないからな
けつ毛バーガーは関係ないからな
大事なことだから2度ry
40名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:35:25.36 ID:CN8I4GdU0
「神君伊賀越え」も非常に怪しい。

十八松平(本家の家康の家とは必ずしも親密、友好的とは限らない)の深溝松平家、
松平家忠の「家忠日記」の記述と食い違うことが少なくないのです。
41名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:36:18.00 ID:rUVm/2Pr0
>>9
雪斎が軍師として君臨していた時代の今川家が最高であって
雪斎亡き後はグスグスですから。
42名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:37:02.34 ID:g7/Yfad+O
だいたい源氏の血筋が松平なんて名乗るとか無理ある
43名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:38:32.77 ID:HzV73Ce90
中京大の村岡幹生は民間史論家村岡素一郎となんか関係あんのかな
44名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:38:54.08 ID:3O3+XtRM0
 >>40

 あの話は明らかに嘘だよ。
 本能寺の変が起きたときに家康は堺にいたんだよ。
 もし身の安全を第一に考えて岡崎に帰るんだったら堺の商人に頼んで
 船を用意してもらえば、陸路よりもはるかに安全に岡崎に到着できた。
 あの話は家康が光秀と通じていたということを誤魔化すために後から
 デッチ上げた話だと思う。
45名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:39:37.00 ID:DpTYXiV00
>>24
でも信長が継いだ時は尾張分裂してたから立ち位置はそれほど良くなかったぞ
46名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:40:46.22 ID:rzLLMM2E0
家康はこの人質時代があったんで人を信用しなくなったんだな。推測するに晩年はおかしくなってた
47名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:43:31.40 ID:P1EUk9Wr0
>>1
ま、これからで分かるのは、

織田信秀が岡崎を平定した時に、その君主・松平広忠を殺してないことだよな。
以後の忠誠を担保するものとして、単に息子の家康を人質にすることで済ましてる。

このことが意味するのは、松平広忠は、進軍して来る織田軍に一切抵抗らしきものをしなかったんだろうな。
おそらくこの父親の対応は、後の家康の行動に潜在的に影響を与えてるだろう。

すなわち、家康は、織田信長に対して、いかなる時もホトンド生来の家臣並みに一切の反逆の素振りをみせることはなかった。
48名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:43:50.63 ID:nObOqKpo0
まじかよ
やっぱ信長は超インチキチートスタートだったんだな
そりゃー天下人直前まで余裕でいけるはずだわ
家臣に謀反起こされて親子もろとも横死した惨めな最期だったけど
49名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:44:27.11 ID:+z2fajYl0
そもそも、隠居場所に、子供の頃人質にとられた嫌な思い出しかない駿府に住むなんてあり得ない。家康は、途中で入れ替わっている可能性が高い。
50名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:44:42.47 ID:wduihFcx0
>>38
普通にやってれば忙しいはずなのに
茶会とか歌会の記録多数じゃないですかー!
51名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:45:06.98 ID:3vjqJYsM0
でも、当時の人質ってのは奴隷のようなものでなく、それなりの待遇で
扱われていたんでしょ。外交的な大切な駒だからな。

まぁ、絶対的に弱い立場であるのは確かだけど。
52名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:45:46.12 ID:Bl4Sd+0Y0
>>50
それ仕事
53名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:45:46.79 ID:x///3AZH0
世良田次郎三郎が幼い時に誘拐されたって話とごっちゃになったんだろう
54名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:47:50.74 ID:3O3+XtRM0
 >>49

それはまったく逆だよ。
子供のころに駿府に住んでいたからこそ、老境に入っても駿府の温暖な気候や
風光明媚、おいしい食べ物が懐かしく思えたんだよ。
55名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:47:55.58 ID:2tRrHDupO
>>44
船に関してはその頃ちょうど不足してたという話しがあるんだよ
堺の近所の岸和田のあたりで四国討伐のために、織田信孝や丹羽長秀が船を集めるのに四苦八苦してたから
56名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:48:13.94 ID:rUVm/2Pr0
>>51
今川はいいぞ、今川はいいぞ と洗脳して
将来忠実な子分を作るために人質にするんだからね。
57名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:51:13.21 ID:X2qjPZnJ0
>>48
信長のじいさん信定が当時の一大商業都市であった津島を抑えて資金力がハンパなかったし、その地盤をそっくり受け継いだからあそこまで行けたんだろう。
小泉進次郎みたいなもんだよ( ・ω・)y─┛〜〜
58名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:52:09.41 ID:1lXa7WeY0
なるほど、辻褄が合うな。
徳川が天下とったことでいろいろとおかしな通説が出来てるからな。
当主を二代続けて殺したり、家康に散々反抗したくせに、何故か忠義者の三河武士とかいう伝説も出来ていたしなw
59名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:54:00.64 ID:CUkvU07u0
一向宗の勢力が強すぎて、さして旨味のない土地柄だったんだろうな
60名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:55:50.88 ID:1lXa7WeY0
>>51
家臣下ですよ。
新たに臣従した豪族の嫡男を人質にとる。
そして主君の側で手塩にかけて育て、元服したら烏帽子親になって諱の一字をあげる。
かくしてかっての独立勢力も完全に忠実な家臣となるわけですよ。
家康も駿河で物凄く大切にされたんだよ。
だから隠居場所を駿府にしたんだ。
嫌な想い出の土地で老後なんて過ごさんよ。
少年時代から青春時代を過ごした楽しくかつ懐かしい場所での老後を選んだんだよ。
61名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:57:13.64 ID:o+6Rrv0xO
全国の戸田さんが訴訟の準備を開始したと聞いてすっ飛んで
62名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:57:48.40 ID:kunLKjmE0
尾張人の三河人の戦いは現代まで続いてるんだな
63名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:59:19.92 ID:6Rtr17D90
>>34

徽宗にしろ足利義政にしろこの方にしろ、知能は相当高い方だと思いますよ。
まつりごとに関しては、政策を貫き通す意志の力に欠けていたのかも
知れませんね。義元公の死は気の毒なことでした。

今川さんの方は絶家みたいですね。残っているというのは高家品川氏の方ですか?

>>38

氏真というか今川氏は武家の名流ですが、内治においても先進的な政策を採用しておりますね。信長もこれを真似た政策はあると思いますよ。
64名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:59:47.01 ID:rzLLMM2E0
ふーん、家康の親父って討ち死にとか切腹じゃなく降参してんのな。なんか凡庸だ
家康が攻めた浜松城の城主の正室は潔く降参を呼び掛けたが応じずに自決してんのにな。
65名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 16:59:59.06 ID:8URTl+lX0
守山崩れみたいに この地方は ほとんど謀反ばっかし
松平家でありながら織田と組んだり もうめちゃくちゃ
だからこの地方の武士団が全国制覇したんだろ
66名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:00:20.06 ID:xkEg9ZYq0
でも、味覚は三河の味噌に支配されちゃってるだろ。
67名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:01:05.15 ID:hfYmiZrG0
いくら信長を貶めても、信長の偉大さは消えないよ
68名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:01:14.05 ID:CN8I4GdU0
>>48
今でも勘違いしている人がいるんだけど、信長って超大金持ちの三代目のボンボンだからな。

自発的に茶道、連歌、囲碁、将棋、相撲などのパトロンになって、
現代にまでその影響力を及ぼすなんて、「粗野」な「田舎大名」には逆立ちしても無理。

朝倉義景、今川氏真タイプになってもおかしくなかった家庭環境。

親父の信秀も、僭称ではなく、正式に備後守や三河守に任官して、
朝廷に莫大な献金をするなど、京・上方とのパイプもすでに太かった。

勝幡城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B9%A1%E5%9F%8E

> 天文2年(1533年)、公卿の山科言継は信秀から勝幡城に招かれ、
> その際に城の規模と出来栄えに驚いたと日記に記している(『言継卿記』)。
> このことから商業地の津島を支配下に置いた「織田弾正忠家」の経済力が窺える。

織田信秀
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%A7%80

> 天文12年には、朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上するなど、
> 朝廷との友好関係を重視していた。単純比較はできないものの、17年後に
> 毛利元就が正親町天皇の即位の際に2000貫文を寄進しており、信秀の代から
> すでに織田家の財力がかなりのものだったことがうかがえる。
> 前述の功績も合わせて、後の信長飛躍の土台を作った。

(いくら日本屈指の豊かな国、生産力の高い国とはいえ)
尾張1国も支配しきれていないのに、
津島と熱田という2つの交易港を抑えていたので↑の経済力だからな。
69名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:04:43.34 ID:1lXa7WeY0
>>68
超大金持ちのボンボンの三代目だけど素行不良でみんなに嫌われてたから、
親父の死後周囲の大半が敵になったのも事実だけどな。
稲生の戦いで700人しか味方いないなんてほんと、自分の親衛隊以外全部背いたってことだから。
ただ、この700人ってのが信長の虎の子の親衛隊で信長自らが育成した部隊でめちゃくちゃ強かった。
後々まで織田軍の中核となる。
桶狭間なんかもこの部隊が中心になって義元のクビを挙げた。
70名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:07:07.28 ID:J03DLyro0
村岡さん
ごきげんよう
さようなら
71名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:07:46.86 ID:3vjqJYsM0
信長が晩年には精神的に病んでいた疑いは濃厚。

光秀の謀反も私心からだけではなく「こんな基地外が権力を持ってたらヤバイよ」
という公憤もあっただろう。
72名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:09:29.70 ID:CN8I4GdU0
信長の家(弾正忠家)は尾張守護代の三奉行の家柄だけど、
斯波氏の守護代の家格というのは、現代の我々の想像以上にかなり高い。

就任や交代に足利将軍が直接自ら介入するくらいの地位(例:織田郷広)。

織田氏(序列2位)ではないが、斯波氏家中で序列1位だった甲斐氏は、
陪臣なのに、屋敷へ将軍の御成り(訪問)があった、家督の安堵は斯波氏当主ではなく、
足利将軍から受けていた、という破格の待遇を得ていた。

陪臣なのに将軍に目通りがかなう、とかそういうレベルをはるかに超えている。

だから全国の大名も尾張の「織田」から手紙が来たと聞けば、
すぐに話が通じる、ちゃんとまともに相手をしてくれるということ。

徳川家康が、斯波氏当主の斯波義銀に卑屈にへりくだった山名豊国を叱ったエピソードがあるが、
あの時代の(旧)常識としては、山名の対応がむしろ普通。

>>68の突出した経済力、祖父・父から受け継いだ有形・無形の財産・人脈に加えて、
信長のスタートラインというのは、まったく不利なものではない。
73名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:10:53.26 ID:7NwU2ixw0
家康の信長評が無いのはこの辺にもあるのかな?
色々とエピソード多いはずの2人なのに
家康の信長評は無い
74名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:11:00.30 ID:zszIQUvr0
実は俺がこの銀河系を全て支配してるんだぜ
内緒だぞ
75名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:11:29.35 ID:148uQrdU0
>>9
今川氏真をちゃんと保護してたよ
76名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:12:24.52 ID:1lXa7WeY0
>>72
信長に用意されたスタートラインは不利でも何でもないけど、
自分の粗野な素行で勝手に不利になったんだよw
まあ、しかしその不利な状況を自分で切り開いたからますます傲慢我儘なおっさんになっちまったんだよw
そうはいっても信長は政治家として超一流だから非常に我慢強いだけどね。
個人の性格としてはめちゃくちゃだけど、政治家としての力量は飛びぬけてるから、信長の評価ってのは難しいんだ。
77名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:12:38.87 ID:eROPMjiq0
なんだセンゴクスレにはなってないのか。

で、センゴクといえばちぇんごくで、ちぇんごくといえば本郷和人、
本郷和人といえばこのスレにも出てきて>>36
なにネトウヨ憤激の王家がどうこうってあれ?
あれは彼自身が本に書いてたから読んだらどうだ。

別に彼一人しか考証役がいないわけじゃないし、
別に考証役が物語やせりふ回しやその他もろもろに
口出しできるわけじゃないってことは当然のことじゃねえか。
これは常識の範疇だぞwww
78名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:13:31.39 ID:7NwU2ixw0
尾張自体は言うなればチートだしな
オマケに港の運用金も納められるように手を打ってある
信長の祖父の功績みたいだけど
79名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:15:01.94 ID:uEo/oq9W0
信長、秀吉、家康の絡みはロマンあるわ
80名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:16:37.95 ID:Kn6Pbv300
中京大も新設の歴史学科をPRするのに必死だな
81名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:16:45.66 ID:3vjqJYsM0
結局のところ信長の功罪を総計するとゼロかマイナスだろう。
秀吉や家康はプラスだと思う。
82名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:18:05.62 ID:xsc6fS/20
500年位前の事くらい把握しておけよ
83名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:18:12.91 ID:c94Ty2vz0
>>74
84名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:19:40.91 ID:iwIN55X+0
>>76
あの女装癖ダンサーに宗教的信仰がないとかいう評価だけはどーにもありえないけどな

自分で髑髏本尊作って飾るとかどう見たって神道系急進保守に傾倒し倒してるのに
85名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:20:01.13 ID:94DkLOWU0
金も権力もあって能力も高く性格の残酷なトップとか、仕えたくねぇ
野暮ったくても家康とかのほうがましだ
86名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:20:22.93 ID:6Rtr17D90
確かに太閤検地ですと、駿遠三と尾張の石高は
左程変わらないそうですね。但し義元の時代の駿遠三と同時代の尾張とを
単純に比較するのは危険とも思いますね。
義元の時代の駿遠三はまずます安定していたのに対し、同時代の、
信長がまず統一を目指していた時期は、内乱の体であったとも言えそうですからね。
87名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:20:34.94 ID:uEo/oq9W0
>>81
秀吉に政治による経済の可能性を見せつけただけでも功績でかいだろう
焼き討ちとかはそれ単体でプラマイゼロ(どっちもどっち)
88名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:21:44.22 ID:hfYmiZrG0
信長も秀吉も、部下の能力を見抜く力は図抜けていた。
部下の方にも自分の家を大きくしたいという野望もあっただろうけど、当時の武士に命をかけて主に仕えさせるのは、並みの能力じゃ出来無い。
89名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:21:56.50 ID:F9B9xudu0
流石信長スレはよく伸びるなあ
日本人は信長大好きでこの人に支配してほしかったんだもんね
90名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:22:44.98 ID:DvZfh1rP0
何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」 

尾張の歴史

◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。

藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼

◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。

◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。

◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。

◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
91名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:23:46.53 ID:eRspv8nY0
>>81
信長がいないと秀吉、徳川は天下を取れてないよ。
92名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:23:47.30 ID:WoJ22T+V0
>>49
まあ、虐めた孕石さんを切腹させたりして復讐しおわった後だし。
93名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:23:50.52 ID:3vjqJYsM0
>>87
って言うか、今の時代の信長の信奉者とか、信長を持ち上げる連中でヤバイのがっぱいるからね。
妙な現実主義者とかマッチョ信奉にアホな影響を与えている。
94名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:24:25.55 ID:kaF1KttL0
>>71
高血圧だったから
95名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:26:42.20 ID:4viSPhIF0
結局三河武士はへたれだったてことか
96名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:26:55.54 ID:3vjqJYsM0
>>91
それを含めての総計がゼロかマイナスってこと。

中央集権化は当時の時流だから、だれかが天下をとってんだし、その取り方の
良し悪しを言えば、信長の影響はマイナスだな。
97名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:27:50.99 ID:4DW2zAPS0
このころの通説ってたいがい講談本が出典だからな。良くできた話は嘘だと思って間違いない。甫庵太閤記とか。
98名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:28:01.79 ID:DvZfh1rP0
>>72
万年パシリ乙


空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京之地也」


「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした


永源寺

中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
99名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:28:23.83 ID:DKsLGeXv0
今川家のピークって太原雪斎がいたころ?
100名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:28:29.65 ID:iwIN55X+0
>>93
実際、戦に勝ってたのは実力だとして
都とパイプ作って経済的な利権占有したら大儲けってのは上杉がやってた手口だしな
101名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:29:16.50 ID:NtiIMZy20
尾張からはるか彼方の田舎寺の坊主の記録なんかあてにならんだろ
内容からして眉唾物だし
102名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:29:36.26 ID:7NwU2ixw0
>>95
でも、天下取れたから
主君を2人殺しても、忠義に篤い三河武士と言われる
何はともあれ結果が第一
103名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:29:38.25 ID:fHDjYXol0
相変わらずいるんだな
信長の功績を否定して見せるオレかっこいいっていう馬鹿が
104名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:29:51.86 ID:JoHbW0w7O
中京大学
日蓮宗僧侶

…つまり、信じるに足らない雑文
105名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:30:16.77 ID:Bl4Sd+0Y0
>>99
桶狭間で豪雨と突風が吹き荒れる直前がピーク
106名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:30:20.69 ID:GyXkIskZ0
>>95
へたれでも天下を取ったんだから十分じゃね(´・ω・`)
107名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:31:23.98 ID:Wbzsvb7D0
一口に三河って言っても

今の新城や鳳来なんかの奥三河は
長篠の合戦まで家康に付いたり武田についたり今川だったりしてたから
三河はずーと混戦状態だったわけで、

戦国初期の尾張に近い岡崎なんか、取ったり取られたりだろ。
108名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:32:22.67 ID:DvZfh1rP0
>天下を取った

日本の歴史(中世〜近世)

◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝

◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数

◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている

◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ

◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
109名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:32:43.19 ID:DKsLGeXv0
>>107
信濃もそんなかんじかな
110名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:32:56.13 ID:/b6YawdS0
>>103
常備兵化政策は革命的だとは思うぞ。
ほかの戦国大名は休耕期しか戦争ができなかったからな。
だから、少ない兵力で豊かな機内を制圧し、本願寺とも戦えた。
後、政教分離も、信長のおかげだろ。
111名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:33:01.26 ID:hfYmiZrG0
まあ、当時の伝聞だからね。
京から尾張の間ですら、名前一つまともに伝わらない時代の。
今の時代と違って、話半分どころか、話し10分の1もない信憑度だろう。
こういう情報が多数あってこそ信憑度が増すわけで、これ一つだけじゃね。
112名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:33:03.88 ID:FoQtL7MJ0
美濃攻略に忙しい信秀が美濃とは地理的に反対の三河に
兵を出す余裕があったんかいな?
113名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:33:06.75 ID:Bl4Sd+0Y0
三河と言うより今川、武田、北条の最強軍団を飲み込んだのが大きい
ちなみに家康も今川家を支えた猛将
114名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:33:53.61 ID:WTHjW9M30
また突飛な説を。
織田弾正忠信秀は、三河のうち刈谷、安城などには勢力を一時的に伸ばしたことはあるが、岡崎を支配したなど、戯けたことだ
115名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:34:16.04 ID:jOcSf/9a0
>>1
なんかヨクワカラン
116名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:34:39.26 ID:P1EUk9Wr0
>>68
まあ、アンタが考えてるような普通の3代目ボンボンとはチョッと違うなW

信長の幼少から青年期の逆境は、余りにも有名。
信長は幼い時から母親からは嫌われ、家臣達からも「うつけ」とバカにされ、織田家の跡継ぎは弟の信行で決まりとみなされていたのを、大逆転したのだ。

これは、ちょうど徳川3代目家光が、その幼少期の逆境を(お福の助けもあり)乗り切って将軍に就いたのと軌を一にする。

すなわち、3代目というものは、ただのボンボン育ちでは当然、家や国を滅ぼすが、(その例は腐るほどあり)
しかし、その生涯の初期に非常な逆境に耐えて抜いた者だけが、さらなる飛躍を家や国にもたらすってことだろう。
117名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:36:24.08 ID:uBJoOdWT0
>>48
>やっぱ信長は超インチキチートスタートだったんだな
>そりゃー天下人直前まで余裕でいけるはずだわ
日本史を良く読むと、尾張・美濃がバックアップすると天下が取れる。
日本武尊、天武天皇(壬申の乱)、からだいたいそんな感じだ。

現代は、なぜか富士山が噴火しないので東京の時代になっている。
118名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:36:36.77 ID:W+bedcOA0
ってことは桶狭間の大逆転劇も嘘ってならないか?
119名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:36:38.75 ID:DvZfh1rP0
>天下を取った

足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河国の矢作川のほとりの矢作宿で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。

19家とは

01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職


太平記第20回「足利決起」

家時殿置文
http://www.youtube.com/watch?v=m8suLFv1sRw
120名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:37:33.64 ID:kaF1KttL0
>>113
といっても実戦経験が意外に少ない>徳川軍団
実戦経験といえるレベルは本能寺の後の信濃奪取くらいまでだろ
121名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:37:43.65 ID:C+ls2Uje0
一時的に支配
122名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:38:05.58 ID:CN8I4GdU0
>>85
信長は基本的にやさしい男(甘い男)、スジを通す男です。

・謀反を起こした庶兄の信広を許し、跡目を争って殺した同母弟の信行の息子(津田信澄)を取り立てた。
・自分の娘を家来にばかり嫁がせている(例外は徳姫)。政略結婚の道具にしない。
・自分から同盟・和議を破ったことは一度もない。

> 『信長公記』によれば、美濃と近江の国境近くの山中という所(現在の関ケ原町山中)に
> 「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。
> 岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを度々観て哀れに思っていた。
> 天正三年(1575年)6月、信長は上洛の途上、山中の人々を呼び集め、木綿二十反を
> 山中の猿に与えて、「これを金に換え、この者に小屋を建ててやれ。また、この者が
> 飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、自分はとても嬉しい」と人々に要請した。
> 山中の猿本人はもとより、その場にいた人々はみな感涙したという。
> 信長は、自分に敵対する者に対しては苛烈を極め、家臣に対しても厳格であった一方、
> このように立場の弱い庶民たちに対しては寛大な一面もあった。
123名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:38:32.50 ID:DvZfh1rP0
>天下を取った

室町幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)

■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、愛知県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)

【八代将軍足利義政時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、愛知県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)

■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)
・高氏(三河国額田郡菅生、愛知県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、愛知県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)

管領
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、愛知県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ

■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、愛知県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(愛知県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、愛知県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(愛知県岡崎市・豊田市)で活動
124名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:38:32.66 ID:V7qfVZob0
>>81
信長が延暦寺を焼き討ちし、一向宗との血みどろの戦いやったおかげで、
日本人から宗教戦争が消えたわけで。
その功績はとてつもなくおおきいよ

信長生きてたら、皇室も存続できてたかどうかわからん
光秀謀反の背景には天皇と公家がいるんじゃないかと漠然と想像してる
125名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:38:54.39 ID:7NwU2ixw0
>>118
最近の説だと正面からぶつかったら、今川軍が意外と脆く義元討ち取られたって説もあるとか
別に奇襲ではなく
126名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:39:01.66 ID:ACIdKRW40
今川家の隆盛は太原雪斉あってのもの。
大河ドラマで太原雪斉やってくれよ。
家督争いで義元を押し立て、内政は先進的、外交は3国同盟結んで、
軍も指揮できて、坊主で教養もある。
ぶっちゃけ何でもできるスーパーマン。
織田・北条・武田・松平と有名どころが出てきて、徳川家康の幼少期もある程度描ける。
雪斉が死んだあとは桶狭間→今川家のその後・・・で締めればいい。
127名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:39:59.90 ID:W+bedcOA0
>>125
もとから織田は今川と対等に渡り合える国力があったって事だよな?
128名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:40:24.02 ID:lWHam3MV0
>>9
あの時代は下剋上がデフォルトというか自分の為に動ける人でないと
129名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:40:59.16 ID:29cYz2ulO
天皇を王家呼ばわりした本郷じゃねえか。
武家が天皇を王家呼ばわりした資料がたったの2点で抗弁したんだよな
どう考えても朝廷とよぶのが適当だったのに、チョンからいくらもらったのかね?
130名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:41:19.71 ID:YMIyH5pu0
その結果 あのヘディングシュートが決まったわけだな
131名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:42:21.57 ID:DvZfh1rP0
>天下を取った

鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)

【鎌倉将軍】
源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)

■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系

■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、愛知県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、愛知県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、愛知県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系

■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、愛知県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)

■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)

■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、愛知県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の妹

■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田)
132名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:42:31.75 ID:Wbzsvb7D0
>>125
支城の鳴海の辺りまで取られてるから
正面決戦は地理的に無理じゃね?
133名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:42:38.61 ID:/b6YawdS0
>>124
皇室は残っていたとおもうが、公家はほぼ全滅したとは思うw
安土城に、天皇を迎える部屋を作っていたし。
織田家はあまりしられていないが勤皇だぞ。
少なくとも父親の代から献金はしてた

本能寺の変は四国説とか、この前2ちゃんで出ていたよね。
ちょうそかべ攻めないといっていたのに、攻めるようになって、
光秀と軋轢が生まれたとかで
134名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:43:07.82 ID:YpoEg1wT0
「僧兵、太源雪斎」のタイトルなら見るわ

その当時の宗教勢力の教育力の高さを紐解く内容ならね
135名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:43:37.12 ID:W+bedcOA0
>>129
王でも間違いでは無いんじゃない?

尊王攘夷
王政復古の大号令

昔から天皇陛下を指す言葉に王と言う字を使ってもいたんだし
136名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:44:04.96 ID:YBswgBJe0
信長には何とも言えないロマンがある
137名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:44:38.59 ID:CN8I4GdU0
>>112
信秀は、僭称ではなく、三河守に正式に任官しています。
(もちろん美濃守には任官していない)

三河にとても興味がある、野心があるのは明らかです。
138名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:45:20.36 ID:/b6YawdS0
>>125
尾張統一していた父親は、3国同盟成立前は戦えたけど、
3国同盟以降はさすがに厳しい。
139名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:45:25.19 ID:LoGn36+J0
普通に考えたら苗字を「松平」から「徳川」に変えないだろ
出自が百姓の秀吉はわかるが
140名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:45:50.93 ID:xLw/JP/a0
しかし、岡崎を支配していたなら、
なんでその後岡崎より終わりに近い安祥を今川に再奪取されたのかが
疑問

安祥を今川に奪回されたから、織田信広←→家康の人質交換があったのだから
141名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:46:16.82 ID:3vjqJYsM0
>>124
日本の宗教戦争なんてのは大したことないもの。もっと盛り上がったほうが、日本の歴史と
文化には良かったのではないか。それを止めてしまったのは信長の罪。キリスト教への肩入れ
も、精神的なものではなく技術的な実利をとったもの。

天皇の扱いについては、信長、秀吉、家康と三者三様だけど、まぁ、家康の扱いが妥当かな。
142名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:47:45.94 ID:GyXkIskZ0
天下を取ったアトのコトを考えてたのって
信長だけなんですよね

実際に天下を取った秀吉と家康は
手に入れたに過ぎないからアトがないのよね

織田信長や坂本龍馬は残された文献や事実から
天下を手に入れるのが目標ではない(´・ω・`)
143名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:49:51.87 ID:lWHam3MV0
>>44
後継者争いでどうなるかわからなかった徳川は速く帰る必要があったのでは?
144名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:49:54.25 ID:Wbzsvb7D0
>>139
三河の松平氏は支族が14個とか15とかあって
それは見苦しい本家争いしてたんだよ。

んで、やっとトップになって松平一族を掌握したのはいいけど
多すぎるから、安城の松平家だけ「徳川」にして
他の支族とは格差を作る必要があった。
145名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:51:08.24 ID:gpCC3c0M0
上杉謙信は自分が神だと言っても叩かれなかった。

織田信長は自分が神だと言っていないのに、叩かれまくった。
(むしろ悪魔で結構だ、と言っていた)

塩野七生は書いている。
「織田信長の最大の功績は、比叡山焼打ちで寺社勢力の武力介入を歴史的に根絶したこと」

どちらが偽善で、どちらが善か、は明白だ。
146名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:52:10.02 ID:hfYmiZrG0
あの時代、本拠地を自在に動かせる方がやっぱり強いからね。視野が広いというか。

自分の本拠地に拘った視界の狭い近隣の「有力」土豪領主は、皆信長に滅ぼされた。
147名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:52:35.35 ID:/b6YawdS0
>>141
比叡山の僧兵は影響力があったよ。
平安時代からずっと。
日本の宗教戦争はたいしたことはないのも確か。
本願寺との戦いは宗教戦争ではないからなあ・・・
信長は宗教の否定はしたことはない。
148名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:52:41.25 ID:xQLft73e0
三河自体、豪族の乱立状態で織田を利用して統一しようとしたのでは?
武田信玄の来襲のときや長篠の戦でも織田を利用してるよな
149名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:53:11.24 ID:Uxy8vYI80
一方、本能寺から200mの近辺の教会からはフランシスコ・パシオ司祭たちイエズス会宣教師たちが本能寺を見ていた。
彼らから情報を得た『イエズス会日本年報』のルイス・フロイス書簡では、「(午前3時頃と言われる)明智の(少数の)兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して
(6月2日に御所前で馬揃えをする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる)、
信長が厠から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は小姓たちを呼び、
鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら明智軍の兵達に対して応戦していたが、明智軍の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。
直後に障子の戸を閉じた(火を放ち自害した)」という内容になっている。

ちなみに本能寺の変の起きた1582年はグレゴリオ暦がカトリックで採用された年であり、
6月21日はほぼ夏至の時期に近い。
150名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:54:38.30 ID:kaF1KttL0
というか尾張統一しないでなんで美濃や三河に手出ししてたんだ?
セガレの時代になって急に尾張を統一できたというわけではなさそうだし。
三河とかに手出しできるから尾張統一なんかさっさとできただろうに
151名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:55:37.30 ID:b8EJ9YDU0
三河武士は凄く強いと言われてたのは、天下人になってからの挿話か
152名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:55:43.05 ID:lWHam3MV0
>>141
一向一揆なんて本願寺に抑えられないと思うぞ
153名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:56:54.68 ID:Uxy8vYI80
ちなみに明智光秀の名前は日、太陽と月は太陽暦と太陰暦を示す対照であり、
智は知恵の意味であり、光は知恵の光の意味であり、完全にイエズス会の教えを体現した名前と言える。
154名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:57:03.32 ID:YpoEg1wT0
当時の流行だったキリスト教の話は置いといて
僧兵だった太源雪斎が徳川家康に与えた影響は大きいと思うだがどうかな?

石山本願寺の勢力も死も厭わない覚悟が門徒にあったのが
軍隊として強かった一因だろうけど、10年戦争で信長を苦しめたのは
軍隊の末端まで指導出来る人材がいたからだろうと思う
155名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:57:03.81 ID:xQLft73e0
>>152
一向宗=本願寺だが…
156名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:57:27.66 ID:Wbzsvb7D0
>>151
まぁだいぶ盛ってるだろうな。
157名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:57:29.59 ID:rzLLMM2E0
>>85
三河武士ってのは田舎侍かも知れんけど松平家臣団ってのはそれでも相当強かったと思う。秀吉の軍には劣るけど
それもこれも家康が相当な苦労人で名君であって
今川の人質時代に岡崎に里帰りした時に苦労をかけてすまぬと家臣たちに頭を下げたそうよ。
その時も三河は今川が城代になってたんで相当遠慮と肩身の狭い思いをしたがいつか家康が帰って来るときの為に家臣たちは隠れて兵糧や武器をため込んでいて
親父は駄目殿だったけど家康と家臣団の結束は相当強かったらしいな
158名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:57:29.46 ID:kaF1KttL0
>>152
一向宗の中にも派閥があって
信長と手を組んでた連中もいた。
進めば極楽引けば地獄なんていう
狂信的な教えはないわけだし。
今で言えばイスラム原理主義の過激派みたいな
感じだったんだろうよ
159名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:57:34.80 ID:V7qfVZob0
>>133
今谷明が、晩年の信長と正親町天皇の軋轢を論じてるが、
勤王家織田家の嫡男とはいえ、信長は単純な勤皇じゃないと思うな

信長暗殺には諸説あるけど、京都朝廷がなんらかの形で絡んでるんじゃないか
160名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:58:03.10 ID:qMCYnuNH0
やたら武力で根絶したがる織田が、徳川だけ同盟国にしたということに
違和感の人間には、何かあるとしか思えない。
もともと信長の竹馬の小姓みたいな存在だったのかも知れない。
161名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 17:58:49.48 ID:Uxy8vYI80
ちなみに戦国大名の中で最もイエズス会を象徴する名前の武将は
徳川家康である。
162名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:00:10.48 ID:kaF1KttL0
>>155
一向宗にも宗派があって高田派や仏光寺派というのは本願寺と対立して
信長と組んでたはず。越前一向一揆だと高田派は信長について本願寺の一揆攻撃してるし
163名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:00:24.84 ID:iwIN55X+0
>>124
織田家が神職の家の系譜だからか、仏門には手厳しい反面
神道などには信仰あった様子でさらには、天皇の権威を手にしようとした節があるからな

正親天皇の孫を自分の猶子にして
その親である誠仁親王に譲位するよう迫るとかって前代未聞な真似してるからな

出自の神社といいオワリって土地が本拠な事といい自分の事は
アマテラスの弟のスサノオ子孫だとでも思ってたんじゃないだろうか
164名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:02:05.60 ID:DvZfh1rP0
>三河武士ってのは田舎侍

室町幕府 西三河の日本支配構造

【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれる
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数

・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏


三河国の奉公衆一覧(全53家)

【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)

【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田

【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部

【三河源氏】
足助、水野

【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永

【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)

【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下

【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、松平、丸山、三浦、大和
165名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:03:11.56 ID:DvZfh1rP0
>三河武士ってのは田舎侍

室町幕府樹立後(開府〜観応の擾乱) 西三河の日本支配構造

【東海道】
・伊賀国守護:仁木義直、細川清氏、仁木義長、高師冬
・伊勢国守護:高師秋、仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・志摩国守護:高師秋、仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・尾張国守護:中条秀長、高師泰
・三河国守護:高師兼、仁木頼章
・伊豆国守護:石堂義房、上杉重能
・遠江国守護:今川範国、仁木義長、今川範氏
・駿河国守護:石堂義房、今川範国、今川範氏
・武蔵国守護:高重茂、高師冬、高師直、上杉憲顕、仁木義章
・安房国守護:斯波家長
・上総国守護:高師直

【畿内】
・摂津国守護:仁木頼有、細川繁氏
・和泉国守護:畠山国清、高師泰、細川顕氏
・河内国守護:細川顕氏、高師泰、畠山国清

【北陸道】
・若狭国守護:斯波(大崎)家兼、斯波高経、斯波氏頼、細川清氏、石橋和義
・越前国守護:斯波高経、細川頼春、斯波氏経
・越中国守護:吉見頼隆、細川頼和、斯波高経

【東山道】
・奥州探題:斯波(大崎)家兼
・羽州探題:斯波(最上)兼頼
・上野国守護:上杉憲房、上杉憲顕
・下野国守護:高師直、仁木頼兼
166名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:03:29.41 ID:GyXkIskZ0
>>159
信長は単純な勤皇で
南北朝時代で間違ったのを
正そうとしてたのかも知れない(´・ω・`)
167名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:03:54.65 ID:lWHam3MV0
>>126
本当に優秀なら死後の事も考えて欲しかった。桶狭間はともかくその後がお粗末過ぎなので>今川
168名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:04:22.64 ID:gpCC3c0M0
>>160 裏切っていない大名を攻撃したことはない。

むしろ、松永久秀を何度か許している。
169名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:05:18.52 ID:Wbzsvb7D0
>>160
地理的な問題じゃね?

あの当時の尾張一国じゃ
美濃と三河と二方面作戦なんかできないし。

あと三河を同盟に組み込めば、東国へのクッションにもなるしな。

実際、武田来襲の時、家康は十分に
クッションになってくれたわけでw
170名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:05:48.26 ID:CN8I4GdU0
>>150
信秀、信長に共通してますが、弾正忠家(信長の家)は
大義名分、理論武装を重んじる家なんですよ。

朝廷に莫大な献金をしたり、官位も正式なものにちゃんと任官したり。
後に、信長が上洛のときに、足利義昭を神輿として担いだのもそうですね。

何の大義名分もないのに、力任せに主家を滅ぼす、下克上するのに抵抗があったんでしょうね。

もし、織田信友(尾張守護代)が斯波義統(尾張守護)を殺していなかったら、
信長による尾張統一はもっと遅れていたかもしれませんよ。
171名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:06:09.33 ID:xh0QCyI60
>>168
松永久秀を許すなんてお人よしって言っていいくらいだよなw
172名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:06:22.56 ID:Pyhwkofd0
歴史学者で後発は先人がさんざんやりつくして参入する隙間がないから
トンデモ珍説ぶちあげて売名するのな
173名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:06:26.84 ID:94DkLOWU0
>>150
ゲームじゃあるまいし、取れる所から取るだろ
リアルの国境も県境も別に線とか無いぞ
174名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:06:26.84 ID:kaF1KttL0
>>167
というか義元がああいう死に方をするとは誰も思わなかった。
それに尼御台と呼ばれた義元のカーチャンも健在だったし。
175名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:06:45.68 ID:DvZfh1rP0
>三河武士ってのは田舎侍

室町幕府樹立後(開府〜観応の擾乱) 西三河の日本支配構造

【山陰道】
・丹波国守護:仁木頼章、高師詮
・丹後国守護:今川頼貞、荒川詮頼、上杉朝定、上野頼兼、仁木頼章
・但馬国守護:今川頼貞、吉良貞家
・伯耆国守護:石橋義和
・石見国守護:上野頼兼、高師泰、荒川詮頼
・因幡国守護:吉良貞家、今川頼貞
・伯耆国守護:石橋和義

【山陽道】
・備中国守護:細川頼之
・備後国守護:仁木義長、石橋和義、細川頼春

【南海道】
・紀伊国守護:畠山国清、
・淡路国守護:細川師氏、細川師春
・阿波国守護:細川和氏、細川頼春、細川頼之
・讃岐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
・伊予国守護:細川頼春、細川頼之
・土佐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之

【西海道】
・九州探題:一色範氏、一色直氏、細川繁氏、斯波氏経
・筑前国守護:一色直氏
・肥前国守護:一色直氏、一色範光
・肥後国守護:一色直氏
・日向国守護:細川頼春、一色直氏
176名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:07:21.15 ID:C8vgiXOY0
>>150
主家筋である織田達勝、または織田信友(斯波家を当時牛耳っていた)と和睦して尾張国内に敵がいなくなったんだよ。
177名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:07:25.09 ID:rzLLMM2E0
>>160
信長が家康を可愛がったんじゃねーかなぁ。弟分的に
178名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:07:50.49 ID:u1uavsA40
おまえ見たんか? あえてね
179名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:07:55.09 ID:lhSVPeDY0
>今川の捕虜となった信秀の息子

誰?
180名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:09:03.91 ID:r27U3ecq0
>>160
詰め将棋なんだわ
織田が三河を取る → 武田と直接対決
織田が美濃を取る → 上洛 → 天下GETだぜ
181名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:09:16.23 ID:SrjlfIaZ0
>>122
ヤクザでも優しい一面があるけどな

信長は人質である子供を
容赦なく殺してるやろ
182名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:09:28.91 ID:V7qfVZob0
>>141
当時の寺社勢力って完全にヤクザと同じだよ
縄張りの領民の経済的収奪がシノギだもん
比叡山延暦寺なんてショバ内の鋳造権もってたらしいし
連中の存在そのものが政治経済のガン的なものだった

天皇家の扱いは、家康よりさらに過酷な扱いになったんじゃないかな
183名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:09:34.08 ID:rzLLMM2E0
>>175
分かったよw
ただ歴代の三河の殿様が全て優秀だったとは限らない
184名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:09:38.05 ID:Pyhwkofd0
>>179
信広
185名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:10:12.56 ID:C8vgiXOY0
>>179
長庶子の信広。
1574年の長島一向一揆戦で弟たちと戦死。
186名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:10:56.08 ID:NNxno24Q0
>>122
身内にクソほど甘いだけ
187名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:11:46.04 ID:lWHam3MV0
>>155
分かってて書いてるぞ
アラブの春と同じで一向宗が国をとったとしてもその後国として維持できないと思う
188名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:12:34.14 ID:HgPi7qxc0
中京大w

解散〜
189名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:12:36.78 ID:QipZz43Hi
確かにこうなると
辻褄が物凄くあってくる
190名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:12:44.90 ID:DvZfh1rP0
>三河武士ってのは田舎侍

■上杉氏

上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か



■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷、愛知県岡崎市)

鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
191名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:13:23.46 ID:Uxy8vYI80
ちなみに徳川イエズスの亡くなったのは西暦1616年6月1日
192名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:13:36.88 ID:CN8I4GdU0
>>181
盟約を破ったときに、人質が殺されるのは、文句言えないでしょう。

信長は、スジを通すことを非常に重視しますし。
193名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:13:50.98 ID:QipZz43Hi
家康もウソつくのが上手いからな
新田氏の子孫説とかナンチャッテにも程があるし
194名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:13:56.38 ID:kaF1KttL0
>>170
なるほど
大義名分できるまで待ってたわけですね。

>>173
だいたいどこの戦国大名もまず国内統一→対外遠征
のところ多いけど
195名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:14:20.43 ID:9QlGgQcB0
松永弾正に関しては、それだけ信長が能力買ってたんだろうねぇ。
柴田勝家だって、元は敵対勢力の有力者だったわけだし。
浅井長政だって、お市嫁にやってからは無茶苦茶大事にしてたからね
196名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:14:20.62 ID:qMCYnuNH0
三河武士の強さを知っていた織田が、徳川を対武田の為に残して
いたと見るのも一つの考えだと思う。
しかし、徳川が織田を裏切らないだけの確信が無いとまずそういう
ことにならないだろうけど、信長と家康の関係がかなり濃密な信頼関係
があったとすれば成り立つと思う。
197名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:15:15.31 ID:wbnBh3W10
>>99
そうだね 小豆坂や三国同盟がピーク
198名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:15:30.43 ID:DvZfh1rP0
>三河武士ってのは田舎侍


蜷川氏

元は物部氏の流れを汲むとされる宮道氏
蜷川氏は、越中国新川郡蜷川郷から発祥した。すなわち宮道式俊・親直父子は、治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げに参じて功があり、越中国砺波・新川の両郡を領した。
室町幕府において、政所執事を世襲した伊勢氏の家臣であり、親直から数えて3代目の蜷川親当の頃より政所代を世襲することとなった
蜷川氏の当主は代々新右衛門と名乗っており、蜷川新右衛門といえば、テレビアニメ『一休さん』(1970年-1982年)に足利義満の側近で寺社奉行の武士蜷川新右エ門が登場する


宮道氏

饒速日命を祖とする物部守屋の後裔(物部氏より分かれる)と称する。ほかに日本武尊系宮道氏
発祥地は三河国宝飯郡宮道郷(現在の愛知県豊川市)と推定される。


宮道天神社(愛知県豊川市)

源頼朝は上洛の折、安達盛長に代参を命じ、京からの帰路、鞍馬装束を奉納
199名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:16:56.55 ID:Wbzsvb7D0
>>196
確かに打算だけの同盟では説明つかないこともあるな。

家康がその気になれば、岡崎から出陣して
清須を包囲とか一日あればできるし。
200名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:17:53.14 ID:C8vgiXOY0
>>193
家系図を寄越せと言われて拒否した新田家宗家滅亡後の新田家嫡流にあたる新田岩松家の当主・岩松守純さん。
20石と冷遇とされ、家臣である横瀬由良家に家を乗っ取られ嫡流までも奪われそうになるが戊辰戦争で功をあげて新田家の嫡流として認められるんだよなあ
201名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:18:25.64 ID:SrjlfIaZ0
>>192
優しかったら
成人していない子供なんて
簡単に殺さねーよ

あと、信長は、よく約束を反故してただろ
筋も、そんなに通してねーよ
202名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:19:07.51 ID:mzNrkpZN0
1547年といえば「信長の初陣」!ていうね
ファンの間では決まり文句の感じがありますから、まあ
203名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:19:17.44 ID:UVYd++9O0
>>193
それは爺さんの清康、三河は足利の所領で源氏揃い
源氏じゃないと統一しても収まらなかった。

で、突然俺源氏宣言して駄々をこねたが、あっという間に殺されて
うやむやになった、のちに家康が再統一をしてもう一度俺源氏宣言をした。
204名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:19:55.02 ID:3vjqJYsM0
>>182
ヤクザ同様というなら当時の武家のほうだな。今のバチカンのシノギも相当なもの。
比叡山のアカデミックな文化を台無しにしたのは、良いことか悪いことか? 
秀吉、徳川時代の無思想性は、信長の仏教破壊が大きかったかも知れない。

いっそのこと信長が生き延びて天皇も破壊して欲しかった。
205名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:20:08.34 ID:Fx4Bk7XV0
信長秀吉家康は面白い
206名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:20:09.45 ID:C8vgiXOY0
>>195
ところで、市が嫁ぐ前に平井定武の娘という絶世の美女が嫁いでたはずなんだけど、あれ結局処女のまま送り返されたのかな?
それとも万福丸を産んで離縁されたのかな?
207名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:21:11.16 ID:Qemlrtlqi
織田信長が最高や!
208名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:21:39.67 ID:C8vgiXOY0
>>202
おいwwww
その動画知ってるぞww
209名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:21:48.19 ID:94DkLOWU0
信長は確かに筋を重んじたのかもしれんが、脳内理論のことも多くて
周囲の理解の範疇を超えてたぞ
210名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:21:55.99 ID:SrjlfIaZ0
>>207
上から目選の人間にはね
211名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:22:14.83 ID:kaF1KttL0
>>181
信長は自分にウソついた、逆らった相手には容赦しない。
比叡山でさえ最初は穏やかに下手を打って衝突さけてたのに
敵をかくまったりとか坊主が調子こいたからだよ。
212名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:22:41.59 ID:QipZz43Hi
武田とか佐竹とか小笠原とか
まともな源氏から見たら
徳川なんて大嘘つきだろ

大嘘つきが力持って天下統一しただけ

最近は保守的な社会だから徳川家康が人気らしいが
歴史上でみたら大嘘つきの田舎もののクズヤロウだよ
213名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:24:04.12 ID:34VAsK4H0
>>203
公家と違って武家の家系図は大名クラスでもホントいい加減らしいからなぁ
214名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:24:24.29 ID:V7qfVZob0
>>163
桶狭間のときには熱田神宮で戦勝祈願してるし
神道への信仰はあったんだろうな
だから皇室への尊崇もあっただろうが、
おそらく天下布武が完成した段階で、徹底的に朝廷を形骸化したんじゃないかな?
上の方でだれかがレスしてたけど、皇室は残しても公家どもは絶滅とか
皇室は神主の一番偉い人、神主は政治に口出すなよ!みたいな感じで
215名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:24:42.94 ID:kaF1KttL0
>>204
比叡山は自業自得っす。
敵をかくまったりして信長挑発してたし、
法華宗や一向宗といった他宗派を襲撃
してた>比叡山

だから焼き討ちされても一向宗や法華宗から
見れば「比叡山ザマー」だったんだよ。あの当時の記録でも
そんなに信長への非難は強くないから
216名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:24:53.93 ID:DvZfh1rP0
>三河武士ってのは田舎侍


■有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所

平安時代〜鎌倉時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は愛知県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い

室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む

戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む


■家康入城前の江戸城主は富永直勝

三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
先祖に源頼義の家来、鶴岡八幡宮社職家の三河伴氏の平松氏、源義家の郎党No.2 三河伴氏の伴助兼
217名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:25:10.45 ID:FKHhFiex0
通説を覆す新発見ってのは大抵回りまわって後々結局元の通説が正しいと判明する
218名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:25:16.54 ID:iwIN55X+0
>>141
「パードレどもの教えと余の心とは何ら相違ないことを、白山権現にかけて誓う。」

と家老に宣言したと言う話もあるけど
219名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:25:33.34 ID:/b6YawdS0
織田家は平氏だから、天下統一しても幕府は開けない?んだよね。
220名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:26:01.53 ID:872Muspp0
>>4
信長の弟、
織田有楽斎は歴史に名を残しただろう?

色々な面で。
221名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:26:48.60 ID:C8vgiXOY0
>>213
織田も平家と仮冒してたからなw
平資盛の子・織田親真を祖とするってあったくらい
222名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:26:50.16 ID:Y0e+BeYT0
まずこの史料の他の記載部分を精査しないと信頼に足る史料かどうかも分からないな。
伝聞を記載した日記の評価で通説を覆すのは難しい。
室町後期から江戸初期のこの手の論文は学界で百出してるのが現状。
223名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:27:13.80 ID:UVYd++9O0
>>212
天下統一をするために源氏を名乗ったのではない
三河統一のため、その当時信長が居て統一なんか考えても居ないよ。

そもそもその前の転嫁人秀吉は腐るほどいる藤原すら名乗れなかったw
天下人になるのに源氏である必要なんかない、信長も藤原、秀吉はお情けで
姓を作ってもらって天下人だ。
224名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:27:32.30 ID:EbhzKWMh0
ねーよ
225名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:28:07.87 ID:D3kC1rm80
>>51
生活費は実家からの仕送りだったので
人質時代の家康主従は常に貧しく、
今川の人間に馬鹿にされていたらしいな。
226名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:28:29.56 ID:kaF1KttL0
>>213
江戸時代に有名な話がある
岡山藩の池田光政(水戸黄門と並ぶ名君と言われる)が他の大名に家柄聞かれて
「いま学者に系図作成させてるから待って」と
幕末になると血筋がほとんど絶えて他藩からの養子ばかり
227名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:28:54.65 ID:s2DirVWQ0
>>221
信長は最初「藤原信長」って名乗ってたからな。

最初は藤原氏を仮冒していた。

当時はそれが普通なので、誰も気にしない。

家系図なんてのが本当だって信じるようになった馬鹿が増えたのって戦後だろw
228名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:29:23.68 ID:7NwU2ixw0
>>206
六角家臣の出戻りだった気がしたけど
229名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:31:03.11 ID:gpCC3c0M0
信長は初めから宗教勢力の武装解除、および過剰な経済力の剥奪を計画しており、いずれ衝突は避けられなかった。

その後はこの種の問題は日本から消える。
230名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:31:49.54 ID:kaF1KttL0
>>225
後年になってその当時馬鹿にしていた今川侍を捕虜にしたとき
真っ先に処刑してる>家康

徳川軍団でも今川系は過去のいきさつからかなり蔑視されてた
とか
231名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:31:52.07 ID:3vjqJYsM0
>>215
法華や一向が、比叡山をザマァというのは当然だね。新興宗教と既存宗教の対立だから。

当時の知的社会にとっては、比叡山の焼き討ちは相当なダメージだったと思う。
その知的社会など糞食らえっていう価値観にとっては、どうでもいい話だけど。
232名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:34:04.02 ID:g7/Yfad+O
信長って守旧派だったんじゃないの?

むしろ周りが急進派だったからぶつかっただけでさ
宗教勢力とか急進派そのものじゃん
233名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:36:15.09 ID:GyXkIskZ0
>>196
知恵者で守旧派
それが信長(´・ω・`)
234名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:37:09.66 ID:NKSNleNa0
真氏さんはセンゴクのネイマールだからそっとしておいてあげて!!
235名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:38:15.78 ID:V7qfVZob0
>>204
中尊寺貫主だった今東光は
比叡山のお宝を灰燼にした責任は信長ではなく、
当時の比叡山の無能バカ幹部どもにある!と怒ってたな
236名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:39:37.73 ID:Y0e+BeYT0
>>214
中世では神道と仏教を明確に区別していたとは思えない。
神社仏閣を保護したり寄進したりするのは為政者として当然のこと。

織田信長も東大寺復興のために朱印状を出してる。
岐阜にも安土にも寺を建ててる。
237名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:39:37.58 ID:kaF1KttL0
>>231
天文法華の乱で本能寺が城塞化されたのは有名な話
法華宗って商工業者が多いから信長と利害関係が一致したりする
比叡山の横暴を何もできなかった知的云々に信長は痛撃を食らわせたに
過ぎない
238名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:39:59.25 ID:iwIN55X+0
>>204
それ多分、織田信成が天皇になってるだけだよw
239名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:40:03.83 ID:g7/Yfad+O
信長が名家の坊っちゃんとなると
ますます光秀の裏切りは根拠薄弱になるよな
240名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:42:03.00 ID:3vjqJYsM0
>>235
責任論はいろいろあろうが、灰燼にしたのはまぎれもなく信長。
比叡山も一枚岩ではなく、ピンからキリまでいろいろいたろうけど、
信長は一網打尽で掃討しちゃった。もったいないとは言える。
今東光が死んでも惜しくはないが。
241名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:43:59.31 ID:14iC3/ct0
徳川史観がどんどん訂正されていくw
242名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:44:42.33 ID:2sKgKs+T0



本能寺の変が 家康黒幕説 ってのあるからねー。(´・ω・`)

自分は一番、可能性が高いと思ってるけど。
そもそも襲われそうになってるのに山を越えて三河まで帰れるわけがないしw
これは光秀と内通してたとしか思えないもん。

つまり、自分が思ってるのは光秀と共に挙兵する手はずで岡崎に帰ったんだと思う。
それが秀吉の中国大返しで頓挫になったために止む無く留まったってお話。
天海も光秀らしいもんねー。
家康もやられるって分かってたんだろうね。
243名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:44:49.48 ID:kdV+B6fb0
>>96
一体、何にたいしての功罪なのかプラスマイナスなのかがさっぱりわからんな
もっと人を殺さずに天下を取れたばずとか?
天下の取り方の良し悪しなんぞ現代目線で言っても仕方なかんべ

信長がいなければ、現代の日本がアジア全域支配してたとか、支配してなくても
日本の総資産が何倍もあったはずとかだったら、マイナスというのもうなずけれるけど
そんなわけないしな
244名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:44:50.40 ID:7NwU2ixw0
どう考えても比叡山は自業自得
中立にしてればいいよってのを朝倉に肩入れしたんだから
なのに派閥があるから許してとか平和ボケ以外の何物でもない
245名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:44:55.01 ID:gpCC3c0M0
>>240 寺にさらってきた女を沢山囲っていましたが・・・

僧兵ならなんでもやっていいの? その寺のトップも同罪だし。
246名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:45:50.58 ID:/lYM/xQP0
織田家内での勢力が今ひとつわからんのだが
信秀の家は三奉行家の分家だよな 確か
247名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:45:50.99 ID:kaF1KttL0
>>240
比叡山が焼き討ちになったのは信長で2回目のはずだよ?
すでに足利将軍に一度焼き討ちされてるし。そのときも比叡山が驕りきってた
からという自業自得だ。
248名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:46:07.30 ID:3vjqJYsM0
>>241
っていうか、徳川史観が訂正されたのは維新後の明治時代で、今はむしろ、
その反動で徳川史観の復興じゃないか?
249名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:47:28.78 ID:gpCC3c0M0
上杉謙信は自分が神だと言っても叩かれなかった。

織田信長は自分が神だと言っていないのに、叩かれまくった。
(むしろ悪魔で結構だ、と言っていた)

塩野七生は書いている。
「織田信長の最大の功績は、比叡山焼打ちで寺社勢力の武力介入を歴史的に根絶したこと」

織田信長が寺社勢力を排除しなければ、その後も大きな混乱が続いた。
どちらが偽善で、どちらが善か、は明白だ。
250名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:48:37.22 ID:g7/Yfad+O
根本的に話が違うのは
信長は織田家の所領安堵しか意外と考えてなかった気はするんだよな

後は商売敵の宗教勢力の排除でさ

何かグローバルな視野があったってのが
シンパとアンチの共通した誤解じゃないかと
251名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:49:24.70 ID:3vjqJYsM0
>>244>>245>>247
どっちが驕ってたかは判らないね。
オレの予想では、親鸞や道元や日蓮並の人物が何人かいたと思う。
尤も、かれらも比叡山全体の振る舞いには無力だったんだけど。
252名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:50:00.85 ID:VZPWhsu80
確かに信秀が押している時期もあったから、
一時的に三河に足がかりを持っていたとしても不思議はない。
でもそれを「支配」って言っちゃうのは大袈裟かな。
253名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:50:01.00 ID:zV58b1TN0
>>49
江戸時代の殿様だって領国より人質同然の筈の江戸の暮らしに馴染んで維新後も東京に住んだ人が多いじゃん
家康も独立して苦労した岡崎や浜松より今川の庇護で楽した駿府の方が居心地良かったんだよ
254名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:50:29.29 ID:SepcWEyZ0
この記事はつまり、独島を実効支配している韓国の領有権を認めるべきってことか
255名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:50:40.21 ID:SrjlfIaZ0
>>250
なんで、このごろアンチ信長になったかというと

あなたは違うと思うが

新自由主義が、よー信長をよいしょするからなぁ
256名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:50:49.94 ID:Y0e+BeYT0
>>248
その通り。今のトレンドは「豊かな江戸時代・貧しい明治時代」。
通説になりつつある(なった?)慶安の御触書の否定もその流れにある。
257名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:51:32.51 ID:kdV+B6fb0
歴史に善悪なんてどうでもいいが
いでよ、現代の信長
しいなまちを焼き討@「pk@gかpmふじこ
258名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:52:02.33 ID:WDLljwLZ0
信秀ってさ、東は安祥から西は大垣まで支配してたりしたんでしょ?
どういう勢力範囲だったのか未だによくわからないw
どうやって大垣まで手を伸ばせたんだ
259名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:52:20.61 ID:SrjlfIaZ0
>>253
駿府は、楽しい学生時代みたいなもので
三河は、熾烈なサラリーマン時代なようなもんか
260名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:52:21.84 ID:gpCC3c0M0
比叡山焼き討ち

足利義教が行った比叡山攻撃と、根本中堂自焼 (1435年
細川政元が行った比叡山焼き討ち (1499年
織田信長が行った比叡山焼き討ち (1571年

3回めでようやく抑えこみできた。
まさに日本のガン
261名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:52:32.24 ID:1lXa7WeY0
>>248
徳川時代が見直されてはいるが、徳川史観が復興してるわけじゃない。
むしろどんどん訂正されてるだろ。
本能寺の前に信長が光秀に無茶したとかの話は大半が江戸時代の作り話ってことが判明してるじゃないかw
262名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:53:17.89 ID:YpoEg1wT0
比叡山延暦寺が時代を読めなくて大敗北したのは自業自得だと思うけど
僧侶の高級官僚レベルの教育水準とか庶民と大きな違いが当時あったのかな?
263名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:54:03.89 ID:y5oAmx+s0


光秀ちゃんには家康を殺すように厳命出てたんでしょ。(´・ω・`)
だから接待役になってたんだわん。

でも光秀ちゃんは惜しいからお話したんだね。
「結局逃れてもいずれ殺されるなら・・・」ってことでもう家康の信長への忠誠はなかったと思うな。

光秀ちゃん優秀だからね。うらみだけで信長は殺さないよ。
ただ家康なら出来るかもと先見の明あったんだと思う。予定外は秀吉の行動のみ。
光秀ちゃんも惜しかったなぁ。
ちなみに信長の首はちゃんと三河まで届けたらしいよん。
それを持って家康挙兵までいっていれば・・・徳川の時代はもっと早かったのになぁ。

264名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:55:11.79 ID:7NwU2ixw0
>>259
三河では国を2分して争ったり
父と祖父を家臣に殺害されたからあまり楽しい思い出もないんじゃね?
ついでに面倒くさい正妻や
家督争いしそうになった嫡男殺してるから辛いんだろ
265名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:55:26.77 ID:/0gSZMRe0
信長の忍びよりも信長ちゃん公記の方が好きかな
266名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:55:40.47 ID:3vjqJYsM0
>>260
それは支配者の視線だな。
支配されている側の目線でも、支配からフリーな人々の目線でもない。
267名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:57:12.36 ID:kaF1KttL0
>>242
逆に信長が家康を消そうとしてたのかも。
観光していけよと半ば強制的な感じで堺にいかせてるのを見ると

>>253
政府の政策じゃなかった東京に集合ってのは。
268名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:58:00.82 ID:gpCC3c0M0
>>266 僧兵にさらわれた女とかが、支配されてる側だろう。
269名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 18:58:28.45 ID:1lXa7WeY0
>>264
信長の居城は名古屋からどんどん西に行ってるが、
家康の居城は岡崎からどんどん西に行ってるんだがよなw
唯一の例外が江戸から駿府へと戻ったこと。
よほど駿府時代が楽しかったと見える。
270名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:00:52.51 ID:kaF1KttL0
>>264
家康は死ぬまで「信康〜」とグチりまくったからな

>>269
一富士二鷹三茄子

だからな。富士山見て温泉入りつつ、好きな鷹狩りし放題でナスも食べ放題
なんだからいい生活だったんだろう。
271名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:01:00.02 ID:gpCC3c0M0
比叡山焼き討ち

足利義教が行った比叡山攻撃と、根本中堂自焼 (1435年
細川政元が行った比叡山焼き討ち (1499年
織田信長が行った比叡山焼き討ち (1571年

信長でようやく抑えこみできた。
2回目が徹底して焼いたので、3回目は建物が少なかった。

オウム真理教みたいな存在。
272名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:01:16.90 ID:7NwU2ixw0
信長が家康殺すなら
信康が自害させられる前に肩入れして信康当主にしてるだろ
なんの為に娘を嫁にやったと思ってんの?
273名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:01:18.42 ID:GobKqIxd0
松平清康、広忠の当時の居城は安祥城

三河の松平が後の徳川家だけだと思うなよw
274名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:01:34.38 ID:BAplzrWu0
今川家に相当かわいがってもらったんだろう
275名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:02:23.40 ID:zV58b1TN0
>>269
そもそも、岡崎=自殺に追い込んだ信康の恨みが染み込んでそう。浜松=信玄に追われたて漏らした糞の臭いが・・・
だから駿府が一番気後れしないですむからかも
276名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:03:26.49 ID:GyXkIskZ0
>>269
基本的には愛知生まれってだけで
静岡の方が長いからね(´・ω・`)
277名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:03:52.40 ID:3vjqJYsM0
>>261
徳川に虐げれた薩長が徳川を貶め、逆に秀吉、信長を持ち上げたたのは当然。

まぁ、「徳川史観」ってのが何かを決めなきゃ議論できんけど。
信長は絶対中央集権を目指したろうが、徳川は幕藩体制で自治も許してる。
道州制とかは、幕藩体制に近いんじゃない? 

ちなみに、鎖国っていうのは集団的自衛権とかとは真逆だけどね。
278名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:04:43.93 ID:IS1/aKSE0
>>267

信長が家康消そうとしてたのは確かだと思うよん。(´・ω・`)

堅い絆とか言ってるけど、こういう新証拠を見る度にどんどん 家康黒幕説 ってのは強くなってる。
そもそも 光秀単独 とか 信長の首が見つからない なんてことあるわけもなく。

しかもそれは 光秀 しか知りえないからねー。実に惜しいところ。
秀吉に官兵衛なんていなけりゃ絶対に家康の時代だったのになぁ。

そうすると家康の側近として同時期に 南光坊天海 が現れたのも辻褄があう。(出家した光秀)
ちゃんと保護して重宝したんだね。

家康はあなどれない。まあタヌキだから化かし合いには強いでしょw
279名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:04:49.38 ID:IB4HNm1pO
>>725

焼き味噌臭w
280名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:05:10.08 ID:YpoEg1wT0
>>271
宗教が利権化して今でいうゴロツキ893みたいな存在だったのかもね

一向宗を真面目に信心してる農民を利用して利益を得ようとしていた?
281名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:05:38.53 ID:GyXkIskZ0
>>277
鎖国とは言っても貿易はしてたから
そう真逆でもない(´・ω・`)
282名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:07:05.07 ID:3vjqJYsM0
>>281
175度ぐらいか?
283名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:07:44.60 ID:kaF1KttL0
>>275
家康は死ぬまでうんこもらしたときの肖像画を気に入って大事にしてたのだと
284名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:08:30.43 ID:7NwU2ixw0
>>280
本願寺も死ねば極楽、逃げれば地獄とか言って
信者を大量に死なせたのに
当主は最終的に和睦して逃げたからな
倅は城を燃やした後退去というオマケ付きで
285名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:09:17.74 ID:kdV+B6fb0
>>266
被支配者側視線が常に正しいってこともないしね
比叡山は被支配者というより武家勢力の対抗勢力って感じだし
286名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:09:58.35 ID:Y0e+BeYT0
比叡山焼き討ちと東本願寺成立と鎖国は武家から見ると一貫した政策な気がする。
287名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:12:17.15 ID:SrjlfIaZ0
>>278
いや、いや、秀吉がいたから
天下統一できたんでしょ

あの時では
家康では北条、毛利、長宗我部、島津は抜けないっしょ
288名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:12:29.12 ID:1lXa7WeY0
>>280
宗教と信仰は違います。
宗教って信仰を売り物にした商売です。
中世じゃ商売人も武装するから当然宗教団体も武装するわけですな。
今なら草加とか層化とか喪家とかwww
289名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:12:33.76 ID:GyXkIskZ0
>>282
徳川の鎖国は他国に領土を拡大しません宣言に近い
国内に対しても他国にチョッカイ出して戦国時代に戻すなと

だから90度ぐらいじゃね(´・ω・`)
290名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:12:52.66 ID:3vjqJYsM0
>>285
政治的な対抗勢力だったろうけど、その巻き添えで真の知識人も掃討されちゃった。
知的な意味で日本を変える人が居たかも知れん。戦争の巻き添えになったピタゴラス
みたいな人。
291名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:13:03.59 ID:s2DirVWQ0
>>248
だよなー。2chとかなぜか、徳川史観を否定したマルクス!みたいな
ニュアンスで語るけど、むしろ徳川史観っていうのはそれ以前と比べて
マルクス的
292名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:13:55.57 ID:gpCC3c0M0
>>284 トップが世襲制だし、もう寺じゃない。

ただのオカルト宗教団体。
293名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:14:03.81 ID:ZRb7mPDJ0
>>278
事情を知らない明智の足軽は
本能寺で信長じゃなくて家康を消すと思ってたらしいね。
294名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:15:16.52 ID:/X1hPa9U0
>>12
大久保忠世「くっそワロタwww味噌ですね信じますwwww」
295名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:15:42.85 ID:V7qfVZob0
>>240
天台宗の高僧今東光があえて身内を指弾したところが面白かった
信長の比叡山焼き討ち計画を部下(光秀だったか?)が諫めるんだが、
信長は理路整然と反論する。その反論があまりに見事で、部下は納得した。
延暦寺には何度も条理を尽くした交渉をしてたのにm、延暦寺は平然と信長を裏切るわけ、それも何度も
あれだけ信長を舐めて不信義を繰り返したら、そりゃ焼き討ちされる方が悪い、というのが今の意見。正論でしょ


>>242
信長暗殺に関しては「へうげもの」の利休・秀吉黒幕説が一番面白かったな
命がけのギリギリ勝負の微妙な心のあやみたいなものが、利休、秀吉、光秀、家康、細川親子を通して
かなり面白く書けてた
296名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:19:02.51 ID:V7qfVZob0
>>255
小泉とかね
岸系の一番ダーティーな利権保守政治屋のくせにな
297名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:19:21.36 ID:1lXa7WeY0
>>295
信長の特色は非常に世論を気にすると同時に理屈っぽいところ。
佐久間信盛の追放は言い掛かりと思うが、言い掛かりだからこそあんな長い折檻状を公開して世論の指弾を受けないようにしてる。
298名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:20:14.24 ID:IoWHzpOU0
名前もでない信広お・に・い・ちゃん☆
299名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:21:03.98 ID:gpCC3c0M0
比叡山焼き討ち

足利義教が行った比叡山攻撃と、根本中堂自焼 (1435年
細川政元が行った比叡山焼き討ち (1499年
織田信長が行った比叡山焼き討ち (1571年

2回目が徹底して焼いたので、3回目は建物が少なかった。
信長でようやく抑えこみできた。 徹底して追った結果だろう。

3度も焼かれて、織田信長だけが悪いとか、オカシイよね?
オカルト宗教信者に悪魔と言われても、何も感じないでしょ。
いまも信者さんが居るようだけど。
300名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:21:07.19 ID:3vjqJYsM0
>>295
焼き討ちはともかく、クソミソ一緒に皆殺しってのはヤバイんでないの? 
信長の武力なら他にいくらでもやりようがあった。
301名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:21:23.24 ID:/X1hPa9U0
>>28
清康はあと5年生きてたら天下撮れたかって言うと無理だよね
302名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:23:05.77 ID:Uxy8vYI80
信長は要するにイエズス会に利用された完全な小物でしょ。
303名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:23:08.49 ID:ihLQvxva0
>>301
三河半国から5年じゃどんな奴でも無理だろ
304名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:23:20.18 ID:gpCC3c0M0
>>300 ・・・中島知子を見ろよ。
305名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:24:01.59 ID:s2DirVWQ0
尾張は親戚とか上司とか柵があって難易度が高いから、
百姓しかいなくて、難易度が低そうな三河を狙ったのだろうな。
306名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:25:00.07 ID:9U3hVsJqI
信長の親父さんと家康の親父さんは仲良しではなかったとのお話ですか?
307名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:25:52.90 ID:X2qjPZnJ0
本願寺を統一してくれよ(´・ω・`)
308名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:26:03.02 ID:mifuyX170
>>9
これの事実がどうかはさておき。

家康は今川家に人質交換で入ってから、めっちゃくちゃ厚遇されたみたいじゃん。
309名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:26:07.24 ID:2+xHuxtd0
ID:DvZfh1rP0
頭がアレな人だから無視しましょう
310名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:26:25.11 ID:Uxy8vYI80
そもそも京都に立地が近いという理由で信長の優位が決定した程度だろ。
あの時代にイエズス会がその流通のほぼ全てを握っていたであろう鉄砲をもてば
優位に立つのは分かっているわけで、その通りに信長が優位に立った。
そしてイエズス会の言う通りに経済政策を行えばうまくいくが、自ら神になろうとするバカでは
もちろんイエズス会に取り除かれる。
311名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:27:38.49 ID:s2DirVWQ0
信長はよく比叡山焼き討ちを叩かれるが、

伊勢長島一向一揆とかの農民3万人を飢えさせてから逃げられないように
中洲に閉じ込め虐殺とかのほうが酷いよなァ

直接手を下してはないが命令した北陸農民の根切りとかも10万人以上
殺したんだろ。
312名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:29:16.85 ID:1lXa7WeY0
>>308
雪斎に教育してもらって、元服の時は義元が烏帽子親で元の字をもらい、
さらに今川一門の姫を嫁にもらってんだぞ。
豪族の子弟としては最上級の扱いで、将来は一門格の部将として三河を任せる気だったんだろ。
313名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:29:17.57 ID:Uxy8vYI80
比叡山焼き討ちももちろんイエズス会の事を考えれば当たり前だろ。
フロイスの言うとおり信長自体にそれほどの深い思慮は無いんだろ。
314名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:30:37.45 ID:vjITZPrs0
>>36
平清盛はかなり時代考証されてただろ
おはぐろとかまゆなしとかやってたじゃねーか

他のドラマだってほとんどメチャクチャなのに
現実を寸分たがわず再現したドラマなんてこの世にあるか
315名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:30:38.53 ID:gpCC3c0M0
>>311 それも本願寺門徒なのに、何言ってるの?
316名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:31:19.87 ID:Uxy8vYI80
信長待望論は簡単に言えば外国勢力に簡単に操られる利用しやすい人物ってことだわな。
まあ日本史の戦国時代の話はほぼそういう話に尽きる。
317名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:31:33.91 ID:N8sSifF30
>>312
逆に言えば、あらゆる手を尽くして
完全に子飼いにするつもりだったわけでしょ
318名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:31:38.87 ID:s2DirVWQ0
>>315
普通の農民も区別せず「根切り」をやった。
319名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:34:04.68 ID:Uxy8vYI80
そういうかわいそうな信長の例を考慮してその後の秀吉、家康、家光でキリシタン弾圧、
鎖国体制が完成していく。
そういうのが日本の歴史だろ。
まあ結局信長はキリスト教を理解できないし、それを越えることもできない人物であった事は確かで、
その結果が本能寺の変という事だろうね。
320名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:34:23.05 ID:s2DirVWQ0
>>310
何いってんの。
当時のキリシタンにはそんな力はない。
信長は銃の主要生産地の堺を抑えたのが大きい。
堺ではキリシタンはあまり不況に成功していなかった。
ただ迫害もされなかったし、戦乱も避けられたので、堺にキリシタンは
いることが多かったけど。
321名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:36:24.65 ID:gpCC3c0M0
>>318 戦に加わった農民は狂徒だろw

捕虜にして、ひとりひとりマインドコントロールを解けとでもいうの?
322名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:36:27.69 ID:Uxy8vYI80
当時の最も信頼される史料がイエズス会のものでしか無いのに、
当時にそれ以上の情報をもっていた組織が無いことが明らかなのに、
信長がイエズス会以上の力をもっていたとか情報を理解していない。
323名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:37:13.71 ID:1ATWXOjI0
本郷和人・東大史料編纂所教授(日本中世史)といえばAKBヲタで有名なあの!


「ええ、あとづけの空論なのは承知ですが、それでも、AKBのことを話したいんです」
本郷和人 × 堀田純司
http://4re.org/airtwo/akb.pdf
324名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:37:35.85 ID:VIz3WQql0
よくわからん。

徳川正史
 1) 家康パパ、今川の援助が欲しく、家康を今川の人質に
 2) 身内が裏切って、家康は信長の人質に
 3) なんで裏切ったかは謎

実際
 1) 家康パパ、信長パパに降伏し、家康を織田の人質に
 2) 家康天下を取る
 3) 親父がヘタレだと思われないよう、正史を捏造

こういうこと?
325名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:37:37.83 ID:Lhm03Xhv0
戸田康光が織田に売ったというのは以前から嘘なんじゃないかって言われてる
なぜならその後戸田家は江戸時代に複数の大名家になってるから
家康は利害に敏いから戸田家の悪行に目を瞑ることはあり得るけど
同時に執念深さも人一倍なのでどっかで必ず復習してるはずなんだよ
でも戸田家にはなんのお咎めも無い
つまり嘘だったということになる
326名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:37:56.33 ID:1lXa7WeY0
なんか変なのがいるな。
信長はイエズス会が信長の言う事聞いたから保護してただけだろ。
信長の言う事、それは宗教団体は政治に口出しするなってことだ。
九州でやってたような事知ったら秀吉、家康と同じことしたよ。
つうか、秀吉、家康の宗教政策って信長の継承だからね。
327名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:38:07.63 ID:s2DirVWQ0
>>321
おまえ、根切りの意味わかってる?
328名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:38:30.10 ID:bM70gw1si
>>310
何のラノベ読んだの?
329名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:39:29.24 ID:hixyEaf+0
比叡山も昔から朝廷にすら圧力かける支配者だったんですが
330名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:39:40.93 ID:Uxy8vYI80
情報をもつものが権力を握るんだよ。
何も情報を持たない主君は傀儡でしか無いんだよ。
それが本能寺の変に全て現れてるだろ。
信長の最後を目撃して記したのはイエズス会しかいないのだ。
331名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:40:01.06 ID:bM70gw1si
>>320
堺はむしろ火薬の原料の輸入地
332名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:41:18.05 ID:bM70gw1si
>>330
アタマ悪いってまわりから言われてない?
333名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:41:38.49 ID:czqd+R9o0
本能寺の少し前に信長は自分が神様の神社作って他の宗教はダメって言ってたんだっけ。
光秀はこの人頭おかしいわ。と思って京に来た家康に信長討つことを教えちゃう。
話を聞いた家康は頭の中一杯一杯になって信長との宴会も乗り気になれない。
家康が喜ばないのは貴様のせいだー!と信長は光秀を殴る。
光秀はやっぱりこの人おかしいと確信した。

こんな感じ?
334名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:41:59.49 ID:gpCC3c0M0
>>329 そう。

あまりに極悪非道で、3度も焼き討ちにあってる。

攻撃する側も随分死んだ。 
335名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:44:14.97 ID:GNzAFM1H0
まだまだ出てくるもんだね
空襲で殆ど焼けたかと思った
336名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:44:43.73 ID:Uxy8vYI80
>>333
信長の一神教の理解がその位だったんだろうね。
キリスト教的にはファラオの位置に近いが、そもそもそれを伝道したイエズス会がどういう存在かを理解していなかった。
それを理解した秀吉、家康がキリシタンを弾圧して鎖国したのは必然だろ。
もちろんイエズスの名を冠した家康が1616年6月1日に亡くなったのは本人はわからんだろうが。
337名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:44:48.63 ID:2ziopfSS0
>>311
その長島の農民どもが先に手を出してきて、
信長の弟の篭っていた城落として殺してんだが。
カルトの教祖様の命令で、隣国の領主の城襲うって、
オウム真理教より凶暴。
根絶やしされて当たり前。
338名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:46:07.57 ID:XEfgF3Xb0
>>4 徳姫の子孫が小笠原家と小笠原家→黒田家経由で酒井家の嫡流に大勢いる。
339名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:46:07.41 ID:cYUxqHCS0
守護の下の守護代の家臣の家臣の家柄
340名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:46:56.26 ID:R9Ev92Lp0
本願寺、比叡山、法華宗とあの当時の仏教勢力は本当に酷かったからな
341名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:47:08.58 ID:6N0KNukG0
お咎めどころか戸田家って滅茶苦茶繁栄したな
342名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:47:48.07 ID:Uxy8vYI80
ちなみに秀吉の唯一の後継者の秀頼を産んだ淀君の名前のよどはYodで一神教のYHWHの
ヘブライ語の頭文字の音と一緒。当時イエズス会の宿敵であったプロテスタントの掲げる神の名なんだな。
343名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:48:04.62 ID:R3jPKeJJ0
この辺の話はセンゴク桶狭間戦記が面白い
344名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:48:22.18 ID:Pg8Oz5Tl0
>>313
比叡山の焼き討ちは嘘だぞ。
実際は麓に飼ってた僧兵、浪人を駆逐しただけ。

焼き討ちは比叡山が他宗派にやってたけどな。
問答に負けた腹いせとかで。
345名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:49:01.38 ID:s2DirVWQ0
信長は上京も尼崎の町も信長に従順じゃないって理由で全部焼いてるからなー。

反抗するところは焼き払うのがデフォルト。あれでずいぶん史料が失われたね。
当時の史料は京都に集中してるから。

上京や尼崎では住人を惨殺してたわけじゃないが
巻き込まれて死んだ人も当然いるだろうな。

>>337
浄土真宗ってカルトだったんだ。いまでも日本人の6割は浄土真宗じゃないの?w
カルト宗教の信者w
346名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:50:20.28 ID:Lhm03Xhv0
大久保彦左衛門の私怨
347名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:50:39.63 ID:cYUxqHCS0
>>345
そんなもん応仁の乱で焼けてますがな
348名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:53:07.05 ID:gpCC3c0M0
寺と言えば聞こえはいいが、
武田から嫁もらって子供作って、バリバリ世襲してた。
完全に君主制。 寺同士で戦争したり。

>>340 
寺を焼打ちすることは珍しくなかったが、信長が終止符を打ったので
「焼打ちしたのは信長だけ」と思われている。
349名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:53:34.61 ID:Uxy8vYI80
家康対淀君の戦いはイエズス対YHWHの代理戦争のようなもので、それこそ三位一体で言うと父と子か。
家康対石田三成なんかはイエズス会対フリーメイスンリーという見立てになる。
まあそんなんが戦国の歴史
350名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:53:41.04 ID:s2DirVWQ0
>>347
応仁の乱から数十年以上たってるので復興している。
351名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:55:09.46 ID:PfLj9Dp80
政教分離は政治の鉄則。
口出しするカルト宗教などは焼き討ちにあって当然。
352名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:56:17.37 ID:Pg8Oz5Tl0
>>345
浄土真宗の中で一向宗がカルト化したってのが正解では。
途中から蓮如のコントロールも効かなくなって、武装して上洛とかやりだしたからな。
日蓮宗はじめ在京宗派に、本願寺ごと焼かれて追い返されたけど。
353名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:56:46.50 ID:1ATWXOjI0
>>348
松永弾正も奈良で東大寺含めて焼きまくったからな
354名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:58:09.26 ID:mA/CLR7KO
【話題】関ヶ原の戦いの影の立役者、佐村河内守(さむらかわちのかみ)について語る
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/curry/1403604118/
355名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 19:58:19.93 ID:8jHduE3W0
ID:Uxy8vYI80のソースなし電波っぷりがものすごい気持ち悪い
なんだこいつ
356名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:00:02.26 ID:/AFshZuP0
比叡山は正親町天皇の弟が座主やってる塔もあったんだよな。弟が強訴なんてしてきたらキレるわな
357名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:03:20.11 ID:cYUxqHCS0
>>350
応仁の乱で焼けた時に史料とやらも焼失してるでしょ
という意味です
358名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:04:55.23 ID:Uxy8vYI80
今の大河やってる黒田長政もキリシタンで如水の号はそのままジョシュアでイエズスと同じ意味だかんな。
359名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:06:50.25 ID:DvZfh1rP0
>>305
>尾張は親戚とか上司とか柵があって難易度が高いから

何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」 

尾張の歴史

◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。

藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼

◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。

◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。

◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。

◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
360名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:07:16.58 ID:jWhaFDgC0
>>355
それ日本史、大河ドラマ板でめっちゃ嫌われてる菅沼って呼ばれてるキチガイだよ
361名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:07:46.79 ID:1ATWXOjI0
>>352
ん?もしかして浄土真宗の中に一向宗って一派があったとか思ってんのか?
違う違う

一向宗ってのは浄土真宗の存在を容認できなかった浄土宗が
まったく別の宗派である一向俊聖を開祖とする一向宗として扱ったことに由来するもんで、
外部から一向宗呼ばわりされているだけで浄土真宗の連中が教団として一向宗を自称したことはない

一向一揆なんていわれるが、本来の一向宗は無関係
362名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:07:55.85 ID:N8sSifF30
>>348
質が違うんだよね
ヤクザ同士の抗争だったから
信長以外は
363名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:08:23.47 ID:DvZfh1rP0
>>305
>百姓しかいなくて、難易度が低そうな三河

日本の歴史(中世〜近世)

◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝

◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数

◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている

◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ

◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
364名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:10:10.02 ID:Uxy8vYI80
まあそもそも世界全体を大航海時代で知っていたイエズス会が、ただで鉄砲の技術を教えるわけが無いわけで。
それを生産できるようになって勝ち残ったのが信長って、教えた人がいるわけで。
親切で教えるわけねーだろって話。
365名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:10:39.51 ID:jWhaFDgC0
NG推奨

ID:DvZfh1rP0

日本史、大河板で嫌われてる通称「長文くん」「菅沼」って呼ばれ嫌われてるキチガイです。NGにぶちこめばスッキリしますよ。
366名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:11:22.35 ID:DvZfh1rP0
>百姓しかいなくて、難易度が低そうな三河

足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表

【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
367名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:13:25.84 ID:DvZfh1rP0
>>366
続き

【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀(愛知県岡崎市)の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
368名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:13:44.54 ID:sDMkIJtF0
家康絡みと言えば、姉川の合戦の徳川軍のお陰で逆転のくだり
あのあたりも怪しいと思ってる
369名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:13:57.22 ID:CN8I4GdU0
>>359
少なくともトヨタについては大嘘。

豊田佐吉は遠江出身。

第二世代(喜一郎や英二)から章男までは、
名古屋に住んで、名古屋で育ち、名古屋の学校に通っている。

三河には単に会社の建物と工場があるだけ。
370名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:14:22.70 ID:of0OR4AU0
当時人口1000万人のうちの1パーセントの10万人を焼き殺した天魔信長が居たら大変だった輪な
371名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:14:46.56 ID:Fo6Dqt8C0
新潟の三条の坊主の伝聞って
他の史料をひっくり返すほどの信憑性があるものなのか?
この僧に尾張の事情を正確な報告をする義務がある人間はいないだろうから
おそらくは旅人から聞いた情報だと思うんだが
交易圏が直接繋がってないから伝言ゲームみたいな又聞きの繰り返しだろうし
372名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:15:08.89 ID:Pg8Oz5Tl0
>>361
一向一揆を起こした集団は"一向宗"を自称してたよ。
真宗が認めなかっただけで。

浄土宗発祥の一向宗には迷惑な話だけど。
373名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:15:15.64 ID:KLkAeNBe0
尾張の支配者変遷
尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び
南北朝以降は土岐、足利、今川、一色・・・と移り変わり、織田氏の登場を待つ。

長秀の剣法中条流は、中条氏の祖小野氏時代より刺撃の術を伝え、中条頼平に至り特に精妙となり。
これを平法とも中条流ともいった。これが長秀に伝わり、長秀が念流系の中条流の中興の祖といわれた。
(『豊田市史』より抜粋、『大日本剣道史』)
374ぴーす ◆u0zbHIV8zs @転載は禁止:2014/06/29(日) 20:15:34.13 ID:O7CeXCs2O
股間を切られて死んだという広忠公、真相やいかに
375名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:16:18.29 ID:DvZfh1rP0
>百姓しかいなくて、難易度が低そうな三河


高師直 http://sengoku-neta.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_ac8/sengoku-neta/E3819FE3818BE38186E38198.jpg?c=a0


武庫川 高師直
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%AD%A6%E5%BA%AB%E5%B7%9D&ie=utf-8&oe=utf-8&aq=t&rls=org.mozilla:ja:official&hl=ja&client=firefox-a#hl=
ja&q=%E6%AD%A6%E5%BA%AB%E5%B7%9D%E3%80%80%E9%AB%98%E5%B8%AB%E7%9B%B4&rls=org.mozilla:ja:official&safe=off


明阿
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E9%98%BF
明阿(みょうあ、生没年不詳)は南北朝時代の女性、尼僧。実名は不明。足利氏の執事を務める高氏の出身で、観応の擾乱で一族の大半が滅ぶと、その菩提を弔うため、総持寺(愛知県岡崎市)建立に奔走しその開基となった。
376名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:16:44.85 ID:KLkAeNBe0
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』)
377名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:18:03.85 ID:DvZfh1rP0
>>375
続き

高氏所領
・三河国額田郡菅生郷、三河国額田郡比志賀郷、三河国額田郡政所、三河国額田郡矢作東宿、三河国下村中山郷雑役免(進退分十家名)


■高師氏
・父は高重氏
・右衛門尉、法名心仏
・三河国額田郡菅生郷・比志賀郷(愛知県岡崎市)地頭
・永仁4年(1296)3月1日、他家に嫁していた娘の稲荷女房(法名心妙)に三河国額田郡比志賀郷を譲る(総持寺文書)
・正安3年(1301)2月15日に満性寺(愛知県岡崎市)に菅生郷の土地を寄進する

■高師重
・父は高師氏
・三河国額田郡菅生郷地頭
・暦応2年(1339)に足利尊氏の命令で、三河国額田郡比志賀郷(愛知県岡崎市)に八幡社とともに深恩院総持寺(現在は広祥院)建立する

■高師兼(室町幕府最初の三河守護)
・五郎左衛門尉、尾張守、刑部大輔
・父は高師春、母は高師直の妹。高師直の猶子
・高師直より、藤原冬房領三河国碧海荘三木今一色の知行保持を命じられる(建武4年(1337)5月13日付高師直奉書)

■貞円
・父は高師重、高師直・高師泰の弟
・滝山寺(愛知県岡崎市)大勧進

■三郎
・父は高師秋
・滝山寺(愛知県岡崎市)僧

■明阿
・父は高師泰、夫は高師冬(高師直の
養子)
・観応の擾乱で一族の大半が滅ぶと、その菩提を弔うため、三河国菅生郷(愛知県岡崎市)に総持寺を建立する、
・三河国菅生郷(愛知県岡崎市)の旧領は、一旦足利将軍家領となり、将軍家より総持寺に寄進された

■いち
・父は高師世(高師泰の息、明阿の兄)
・明阿が三河国菅生郷(愛知県岡崎市)に建立した総持寺の初代住持
378名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:18:24.55 ID:eROPMjiq0
>>364
それで思い出したが鉄砲伝来論争はどうなったんだろうね。
1543年の根拠ってのは種子島家が江戸時代になってから書いた鉄炮記なわけで
そりゃ実際はどうだったか怪しいもんだよね。

まあどうせ実際には中国人あたりが持ってきたのをなし崩しに使うようになったとか
そういうまあ面白くない結論になるんだろうけどね。
379名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:21:49.53 ID:DvZfh1rP0
>>369
豊田佐吉は、1867年、三河吉田藩山口村生まれ
豊田家は遺伝子レベルで名古屋とは無関係


豊田佐吉
・1867年、三河吉田藩山口村生まれ
・父は佐原伊吉


http://shizufan.jp/netamap/seibu/20163/
>豊田家は1775年に一度途絶え、現在の豊田家は佐原伊吉(佐吉の父)が継承することになった

http://shizufan.jp/netamap/seibu/20163/
>豊田家の先祖代々の墓は妙立寺にあり、大正14年に佐吉が再建した

妙立寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E7%AB%8B%E5%AF%BA_%28%E6%B9%96%E8%A5%BF%E5%B8%82%29
>至徳3年(1386年)−佐原常慶と内藤金平が日什(1314年 - 1392年)を古見の地に招き開山。


この佐原常慶と関係あるんだろうか?
まあいい、三浦一族と三河は縁が深くてな


三浦義明→佐原義連→佐原盛連
三浦義明→多々良義春→佐久間家村(初代佐久間氏、三河重原に逃げてくる)→三浦義行→→→→→→三浦正次(下総矢作藩主→下野壬生藩主)
三浦義明→多々良義春→佐久間家村(初代佐久間氏、三河重原に逃げてくる)→佐久間朝盛(養子、和田義盛の孫、パゴヤの御器所に移住)→→→→→佐久間象山?
三浦義明→杉本義宗→和田義盛→和田常盛→和田朝盛(佐久間家村に養子入り)
三浦義明→杉本義宗→和田義盛→杉浦義国(初代杉浦氏)


三河・重原
http://ameblo.jp/9zaemonn/entry-10972904458.html

杉浦つーのもよくきくわな
380名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:25:32.03 ID:6Rtr17D90
>>378

1543年説ならば、アユタヤを出港した倭寇のボス王直のジャンクが種子島に漂流し、
それにポルトガル人が同船していたという説が案外有力なのかなと思いますね。
381名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:25:49.15 ID:CN8I4GdU0
>>368
>>27ですでに触れましたが、あれは怪しいですよ。 てかほぼ間違いなくクロ。

浅井長政は、徳川秀忠の義父、徳川家光・忠長の祖父にあたるので、

「それほど織田家を追い詰めた強い浅井家を、徳川家が討ち破った、織田家を救った」

という、徳川家と浅井家に対する曲筆、顕彰記事ですね。


> この時、一説には「浅井側先鋒磯野員昌率いる浅井家精鋭部隊が織田方先鋒坂井政尚、
> 続いて池田恒興、木下秀吉(豊臣秀吉)、柴田勝家の陣を次々に突破し13段の備のうち実に
> 11段までを打ち破る猛攻を見せた」というが、このエピソードは元禄時代の浅井三代記が初出で、
> 信長公記・三河物語・当代記などには、記述が見えないため、疑問視する声もある。
382名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:25:55.75 ID:DvZfh1rP0
>豊田家は遺伝子レベルで名古屋とは無関係


トヨタ本体からメッセージが出ているだろw


http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12125423152


>何故東京の人達はトヨタ自動車というと三河にこじつけるのでしょうか?
>どうして東海銀行(三井銀行と同様にトヨタ自動車へ融資をしている)を三河銀行などとしたのか?
>またドラマの冒頭で佐藤浩市が乗っていた船の名前も「三河丸」という名前になっており、どうしてここまで三河にこだわるのかわかりません。



75周年事業の一環なんだから、台本をチェックしたトヨタの意向に決まってるだろw
間抜けw
383名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:30:02.78 ID:CN8I4GdU0
>>379
お前はアホかw

そんなこと言い出したら、足利一族という意味では下野国足利荘、
河内源氏という意味なら河内国壷井、清和源氏という意味では京都が出身地になるじゃねえか。
384名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:31:20.95 ID:V7qfVZob0
>>300
今現在の穏やかな宗教というイメージで考えるべきじゃないでしょ
当時の寺社勢力って、完全武装で、生産流通運輸などのあらゆる経済利権を貪ってた軍団だよ
信徒の農民も兵力として動員できた恐るべき宗教ヤクザ
それから荒々しい戦国の世では、農民もおとなしい「民間人」じゃないからね
戦の後は落ち武者狩りをサイドビジネスにしてた武装の民ですよ
「根切り」ってはどんなに残酷無惨でも、一番効率的な対処方法だったっんだろね
戦国の荒々しさの所行を、今現在の価値観で球団してもあまり意味ないと思うがね

ただし、「根切り」は徳川の世になっても三代家光の頃にも行われてたはず
百姓たちが年貢の重さに耐えかね穏やかに訴えると、それなら「根切り」しちゃうかって一村皆殺しにしたり。
そこまでいくと為政者として失格って話になる
385名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:32:02.28 ID:EXJurhM30
信長の野望17カ国版でやたら尾張の国力が高いのは
チートでもなんでもなく史実だったということだな。
386名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:35:32.86 ID:V0upoMRi0
>>本郷和人・東大史料編纂所教授(日本中世史)の話
「織田がこの時に家康を人質に取った可能性が出てきた非常に重要な発見だ

おい。この時に、織田が家康を人質にとっていたことは、常識だろ。

活字版干城録の第九巻、p75
「(大河内源三郎)政局、天文十六年、東照宮(家康)質として今川家に赴かせ給ふとき、
途より織田信秀のために尾張国に誘われ給ひ、(尾張)名古屋の万松寺天王坊に移らせ給ふ。
此とき、政局(まさちか)その坊に参り給仕したてまつらんことを請ふ。政局の伯母
華陽院方(清康室、大河内氏)は、伝通院殿(家康生母、水野氏)の御母堂なれば、
織田信秀其の由緒を知り。これを許す。これより政局、河野藤蔵と共に御傍に近侍し、
昼夜勤仕し奉る(貞享鯰江正休書上・大三川志)」

ちゃんとかいてあるじゃん。
387名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:36:15.50 ID:CN8I4GdU0
>>382
それはね、トヨタが新参の成り上がりものとして、
名古屋財界から不当な封建的な差別を受けてきた、
トヨタ自身も名古屋財界とは一線を画してきた、からだよ。

トヨタが歴史的に、地元のソニー(盛田)ではなく、
パナソニック(松下)と親密なのもそのあたりに一因がある。
388名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:37:04.71 ID:ghOrBV6Y0
で、織田信成は?
389名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:37:49.93 ID:DvZfh1rP0
>河内源氏という意味なら河内国壷井
そうですけど、大阪には親しみを感じますが?


■三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)

藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼→足利義氏(三河守護)


11世紀
・1044年、藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が、私領を三河国碧海郡志貴荘として立券する、知行は保相→資良(保相の息)→惟信(資良の息)→惟信の娘(平信範の母)が伝領した
・1062年、藤原実範(三河守、藤原季兼(三河四郎大夫)の父)が死去する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・1076年、藤原季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)が三河守になる
・同時期、季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(後に
鳥羽殿)
・季範(三河四郎大夫)は、藤原資良(父は藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が尾張守になり、尾張目代を務める(死ぬまで、息子と共に三河に住みながら尾張目代を務めた)
・1084年、藤原顕季が尾張守になる
・季兼(三河四郎大夫)は、松御前(尾張員職の娘)と結婚し、1090年、藤原季範(額田冠者)が生まれる
・1099年、藤原長実(美福門院父)が尾張守になる
390ぴーす ◆u0zbHIV8zs @転載は禁止:2014/06/29(日) 20:38:48.91 ID:O7CeXCs2O
鉄砲伝来が1543年になったのは新井白石が
その資料を採用したからだね
391名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:39:13.78 ID:DvZfh1rP0
>>389
続き

12世紀
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が三河守になる
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)            ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・1130年、季兼(三河四郎大夫)室の松御前(尾張員職の娘)が、三河国設楽郡(愛知県新城市稲木)で死去する(城ヶ峰(愛知県新城市)の山頂に墓あり)
・1136年、藤原顕長(父は藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が 三河守になる
・1137年、季範(額田冠者)は、神のお告げで大宮司職を五男範雅に譲る
・1137年、鳥羽院が、鳥羽殿内に安楽寿院を創建する
・1140年、季範(額田冠者)が、滝山寺内(三河国額田郡)に、夫婦で蓮華寺造営、仏性灯油料として三河国額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進する
・1142年、源義国が、足利荘を安楽寿院に寄進する
・季範(額田冠者)の娘(由良御前)が源義朝の正室になり、1147年、源頼朝が生まれる
・季範(額田冠者)の娘(養女(実父は季範長男))が源義康の正室になり、1154年、足利義兼が生まれる
・1155年、季範(額田冠者)、源義国が死去する
・1157年、源義康が死去する
・1159年、由良御前が死去する
・1160年、源義朝が謀殺される
・1168年頃、三河国碧海郡碧海荘が立券され、鳥羽院に寄進される(寄進者は藤原範忠か?)
・1185年、源頼朝が幕府を開く
・1199年、源頼朝、足利義兼が死去する

13世紀
・1219年、源実朝が暗殺され、1221年、承久の乱で三河の藤姓熱田大宮司家の所領が没収されると、足利義氏が縁故者として三河の権益を継承する   ←足利王国の誕生
392名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:40:27.25 ID:DvZfh1rP0
>>391
続き

金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)

・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める


・源実朝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝

・公暁
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源頼家→公暁(母親は足助重長(三河国加茂郡足助)の娘)

・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)

・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)

・足利義氏
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
393名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:41:35.85 ID:DvZfh1rP0
>>392
続き

・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)


葛山氏

大森葛山系図は内大臣藤原伊周の後裔としているが真偽のほどは不明。
大森葛山氏の祖惟康は三河高橋の領主で甲斐・駿河両国の守となり,以後大森氏は親康,親家と続いて鎌倉御家人を輩出した。
葛山氏は親康の弟惟兼の流れをくむもので,惟兼の子惟忠を経てやはり鎌倉御家人を多く出している。


大森葛山の祖・高橋惟康
「伊勢新二郎大夫、成高橋殿、三河国高橋庄領主故号、母実範三位女、外戚伯父伊勢権守令養育之」


寺部八幡宮(愛知県豊田市社町1)

寺部八幡宮は、平安時代に高橋荘の領主高橋惟康が、不動堂村の館内に、石清水八幡宮を勧請し祀ったことがおこりです。
その後、惟康の子孫高橋氏が、長承2(1133)年3月15日再勧請造営したのが始まりです。
往事は数多い神宮寺を有していたと伝えられていますが、現在わずかに悟楽寺、儀隣寺の二ヶ寺の寺名のみ伝えています。


不動堂館(愛知県豊田市上野町1丁目)

平安時代(794〜1185/1192年頃)、藤原北家の流れを汲む高橋惟康は伊勢国に生まれ、伊勢新二郎大夫と称した。
母三位女の所領三河国加茂郡高橋荘を相続し、荘内の高橋郷〔上野町1丁目〕に在住して高橋殿と称され、三河国高橋氏の祖になった。
1060年惟康は駿河国へ移住。惟康の遺蹟として社町八幡社〔豊田市社町〕、神明神社〔豊田市上野町7丁目〕、香良須神社〔豊田市市木町谷耳太〕などが考えられる。
場所は上野町1丁目とされ、現在は畑地、住宅となり、遺構は無い。
394名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:41:36.52 ID:1ATWXOjI0
>>372
真宗の門徒が一向宗を自称することは蓮如の時代に禁じられ破門するとまで戒められている

信長や家康が苦しめられてた時代の一向宗はあくまで他称
395名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:43:00.59 ID:DvZfh1rP0
>>393
続き

■金剛三昧院(和歌山県伊都郡高野山425番地)
愛染明王
http://www.kongosanmaiin.or.jp/attractive/aizen_myouou/index.html
当院の本尊、愛染明王(あいぜんみょうおう)像は、鎌倉幕府を開いた源頼朝公が亡くなった際、正室の北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し
、頼朝公の等身大の坐像念持仏(ざぞうねんじぶつ・今日の愛染明王像)として作成された、当院建立の原点となるものです。

■滝山寺(愛知県岡崎市滝町山籠107)
聖観音菩薩立像
http://takisanji.net/jihou_hou_seikan.html
熱田官司藤原範忠の子、寛伝が従兄弟にあたる源頼朝の菩提を弔うために正治三年(1201年)建立した惣持禅院に安置したもの。
仏師は運慶とその長男湛慶で、頼朝の等身大で顎髭(又は鬢の落毛)と歯を胎内に納めたという。

・寛伝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→藤原範忠→寛伝

法華堂阿弥陀仏(消失)
建長7年(1255年)、滝山寺で足利義氏の一周忌法要が営まれた際、、法華堂が新たに建てられ、出家し尊観と名乗っていた足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))が
、その本尊である阿弥陀仏を高野山より迎え、義氏の遺骨を胎内に納める

・足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→娘(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)→足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))

関連事項
■専長寺(愛知県西尾市吉良町吉田斉藤久100)
阿弥陀如来坐像(本尊)
http://www.city.nishio.aichi.jp/index.cfm/8,14707,91,408,html
鎌倉幕府3代将軍源実朝の菩提を弔うために夫人の本覚尼(ほんがくに)が京都に建立した遍照心院大通寺の本尊であった。寛喜3年(1231)に落慶供養会が行われた(『名月記』)。
明治初年の廃仏毀釈で編照心院が維持困難になったため、浄土宗西山深草派の本山誓願寺に移され、明治17年に同派の専長寺に本尊として安置された
396名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:45:10.09 ID:0dNfps0Q0
だがその通説には疑問が残る
397名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:45:57.07 ID:DvZfh1rP0
>>387
名古屋の田舎者、が勝手に名古屋企業にしたはいいが
元々名古屋企業じゃねーしと切り捨てられているだろw




名商会会頭を固辞
http://chubu.yomiuri.co.jp/news_k/danmen/danmen100326_1.htm
トヨタ副会長だった磯村巌氏が00年〜04年に会頭に就いたことはあるが、当時はトヨタが愛・地球博(愛知万博)の成功に向けて、地元財界活動に力を注いだ特殊事情があった。
愛知県豊田市に本社を置くトヨタは、「地元財界トップは名古屋に基盤を置く企業から選んでもらうのが良い」(関係者)とのスタンスだ。




トヨタ、名証“飛ばし” 決算会見を東京へ一本化
http://www.sankeibiz.jp/business/news/120417/bsa1204172021005-n1.htm

 

名古屋飛ばしが加速中w
398名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:46:09.07 ID:VIz3WQql0
敗北者に歴史は作れねぇ!
399名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:49:57.56 ID:DvZfh1rP0
>名古屋財界
出来の悪いどん百姓の農協みたいなもんだろw


名古屋、やたらショボイんですが?w
万年不況、貧乏臭い田舎部落の認識でよろしかったでしょうか?w


愛知県の市町村民所得(平成22年度) | 愛知県
http://www.pref.aichi.jp/0000058054.html


名古屋市の総生産(名目)
人口は毎年10月1日現在

1996年度【総生産】13兆8475億(***.*%)【人口】2,151,084人(▼*1100人)
1997年度【総生産】13兆8640億(△*0.1%)【人口】2,154,376人(△*3292人)
1998年度【総生産】13兆7334億(▼*1.0%)【人口】2,161,680人(△*7304人)
1999年度【総生産】13兆5899億(▼*1.0%)【人口】2,167,327人(△*6647人)
2000年度【総生産】13兆4550億(▼*1.0%)【人口】2,171,557人(△*4230人)
2001年度【総生産】12兆8667億(▼*4.4%)【人口】2,177,451人(△*5894人)
2002年度【総生産】12兆1461億(▼*5.6%)【人口】2,186,075人(△*8624人)
2003年度【総生産】12兆3776億(△*1.9%)【人口】2,193,376人(△*7301人)
2004年度【総生産】12兆8037億(△*3.4%)【人口】2,202,111人(△*8735人)
2005年度【総生産】13兆3815億(△*4.5%)【人口】2,215,062人(△12951人)←好景気だった数字的裏付け無しw
2006年度【総生産】13兆4833億(△*0.8%)【人口】2,223,148人(△*8086人)
2007年度【総生産】13兆5940億(△*0.8%)【人口】2,236,561人(△13413人)
2008年度【総生産】12兆8718億(▼*5.3%)【人口】2,247,752人(△11191人)
2009年度【総生産】11兆6670億(▼*9.4%)【人口】2,257,888人(△10136人)
2010年度【総生産】11兆5715億(▼*0.4%)【人口】2,263,894人(△*9006人)←過去25年で最悪w
400名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:51:42.42 ID:CN8I4GdU0
>>389
> そうですけど、大阪には親しみを感じますが?

お前が親しみを感じようが、感じまいが、そんなことはどうでもいい、何の関係もない。

大事なのは、一般的に三河国は「東日本」として扱われるということだ。

ところで下野国足利荘には親しみは感じないのか?

足利一族を否定してしまったら、三河を持ち上げられなくなるぞ?

関西人による尾張・三河分断工作だな。
401名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:53:37.98 ID:6Rtr17D90
>>353

確かに久秀らはしきりに火を放ったようですが、大仏を盾に?東大寺に陣を据えたのは
三好三人衆ら阿波衆で、そこに久秀らが夜襲をかけたものだから、
失火したようですね。すなわち火を放ったのは久秀ではなく、阿波衆の失態なわけですが、
久秀が攻撃しなければ、そんなことにならなかったという理屈だそうですね。
久秀は串柿の串を貯めて壁の木舞にしたという伝説があるほど、エゴというか
エコ・省エネの人と言われているようですから、無暗に放火するようなことは
なかったとも考えられます。
402名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:54:06.70 ID:DvZfh1rP0
>>383
>足利一族という意味では下野国足利荘


足利尊氏

梅松論
領地を寄進しようと、御文章の参考のために社家の古文書を召し出された中に、昔、鎮西八郎為朝の寄付の文書があったのを御覧になり、
「当家の祖神」とまことに有り難く思し召して、御社頭に向かって合掌され、御敬神浅からず見えた。

今川了俊

難太平記
義包(足利義兼)は長け八尺あまりで、力人に勝れた人であった。
ほんとうは為朝の子というが、赤子の時から義康が養った。
世にはばかって人に言わなかったので、それを知っている人はいない。



同族どころか、本当は足利ではないと言っているようですがw
403名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:55:56.21 ID:vUysj0WT0
でも、関ヶ原以降の家康が影武者だったというのは本当でしょ。
404名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:56:09.49 ID:DvZfh1rP0
>>383
>足利一族(関西人)という意味では下野国足利荘

関係者は三河ばっか何ですけどw

■1234年、鑁阿寺大御堂を建立

(大檀那)足利義氏(三代目足利氏当主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→娘→足利義兼→足利義氏

(大行事権律師)藤原重弘(鑁阿寺第四世寺務学頭、野田朝氏と兄弟)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→野田朝季→藤原重弘

(大勧進)阿闍梨了心

(雑掌・奉公人)藤原朝氏(野田朝氏、野田大宮司、嫁は足利義氏の姉)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→野田朝季→野田朝氏
(雑掌・奉公人)源季能
(雑掌・奉公人)小俣禅阿(鶏足寺の別当)
(雑掌・奉公人)大平惟行
・高階惟章→惟頼→惟真→惟範→惟長(三河国額田郡菅生郷郷司)→瀧口惟忠→大平惟行(三河国額田郡大平か?)
(雑掌・奉公人)高階義定
・高階惟章→惟頼→惟真→惟範→惟長(三河国額田郡菅生郷郷司)→惟重→義定
(雑掌・奉公人)大進円憲
(雑掌・奉公人)佐野範綱
(雑掌・奉公人)真下広経
(雑掌・奉公人)小野有家
(雑掌・奉公人)藤原兼資

■鑁阿寺 旧多宝塔跡
藤原重弘(鑁阿寺第四世寺務学頭、野田朝氏と兄弟)が、父である野田朝季の供養のために造立した供養塔、多宝塔供養導師は、足利義氏の息子、最信

野田朝季(野田大宮司、朝比奈義秀と戦い戦死)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→野田朝季

最信(勝長寿院別当)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼→足利義氏→最信
405名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:56:58.88 ID:8N/9ApBk0
ヨーロッパは日本の金銀が欲しくて、武器を売りつけて日本に内乱を
激化させて武器を双方に売って設けるつもりだったが、国産で銃を
作られるなどしたために、当てが外れたということだ。
406名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:57:20.03 ID:IYcrywyp0
岡崎市が岡崎城の先代の城の発掘調査を始めるから、何か新しい事が
さらに分かるかもな、たしか今の岡崎城の乙川の対面の明大寺町にあった城らしいがな
407名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:59:03.14 ID:KLkAeNBe0
今川貞世(了俊)
出生地は相模国鎌倉。幼少〜少年期を鎌倉、次いで東海地方で過ごす。
46歳のとき九州探題に任命され、以降25年に渡り九州の地で活躍した。
南北朝時代を代表する知勇兼備の名将。
408名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 20:59:14.38 ID:DvZfh1rP0
>下野国足利荘には親しみは感じないのか?

一切感じないw


日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた


源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝


母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝


寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(愛知県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(愛知県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(愛知県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する
409名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:00:42.03 ID:kaF1KttL0
>>284
さすがにその死ねば天国逃げたら地獄なんていうのは
親鸞も言ってないから浄土真宗の他宗派からも非難ごうごうだった当時も。
410名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:01:00.41 ID:E4uBYK5p0
>>1
信長にお前の祖先の李氏朝鮮人を絶滅させてほしかったわw

★ キ チ ガ イ 反 日 極 左 犯 罪 民 族 朝 鮮 人 工 作 員 記 者 一覧
・幽斎=プーライ=ゆでたてのたまご(?)=擬古牛(sc): 正体は「丑田滋」(元朝日新聞記者)。「うっしぃ(うし)」から改名。複数のキャップを取得して工作している。参考URL:ttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1354715847/
・Hi everyone!: 正体は「安田浩一」(キチガイ極左ジャーナリストの通名。本名は「アンホイル」)。「諸君(もろきみ)」から改名。参考URL:ttp://anago.2ch.net/test/read.cgi/tubo/1400195869/ttp://www1.axfc.net/u/3219467
・ニャー雄一、海亀さん、Twilight Sparkle、theMiddleAges:上記二匹と同類のキチガイ極左。嫌儲出身。
411名無しさん@13周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:03:40.42 ID:lSeqOg1l0
この手の改編って普通だろう。

徳川家康は関が原で討たれていた。と言う説もあって
本当の墓は大阪の南宗寺にある。
412名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:05:10.10 ID:CN8I4GdU0
>>402
> 同族どころか、本当は足利ではないと言っているようですがw

ほうほう。 よほど大阪、関西、西日本が大好きなようだが、
こんなとこで工作するより、なぜ歴史学界がまったく相手にしないのかを考えた方がいいと思うよ。

それにお前の大好きな細川氏や仁木氏は、足利義兼ではなく、
義兼の庶兄の矢田判官代、源義清の子孫じゃないか。


>>404
> 関係者は三河ばっか何ですけどw

わからん奴だなあ。 自分の書いていることの矛盾にも気付かないのか。

その理屈なら、トヨタ関係者は名古屋ばかりなんだよ(>>369)。
413名無しさん@13周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:07:19.13 ID:lSeqOg1l0
>>403
関が原ではなく、大坂夏の陣。
414名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:07:48.99 ID:g7/Yfad+O
信長「唐入り?しねえよそんなもん?」

イエズス会「そ、そんな?今まで貴方にどんだけ投資したと思ってるですか!」

信長「知るかよ、人間50年でやれることは限られてるの!」

イエズス会「コノウラミ、ハラサデオクベキカ 」
415名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:09:20.09 ID:5zP8hCsv0
新説: 家康は今川家で下剋上した
416名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:09:25.15 ID:DvZfh1rP0
>>383
>足利一族(関西人)という意味では下野国足利荘


樺崎八幡宮(元は法界寺)
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/023/935/11/N000/000/011/138960094181861421228_s-CIMG3574.jpg

>生母菩提の為


生母

三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)

家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→→藤原範忠→女子→足利義兼



三河関係者ばっかなんですけどw
417名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:09:31.26 ID:CN8I4GdU0
>>365
> NG推奨
>
> ID:DvZfh1rP0
>
> 日本史、大河板で嫌われてる通称「長文くん」「菅沼」って呼ばれ嫌われてるキチガイです。
> NGにぶちこめばスッキリしますよ。

ここまでの書き込み、やり取りでほぼ正体が明らかになりましたが、

ID:DvZfh1rP0は、三河人でもなんでもなく、

大阪人、関西人、西日本人の尾張・三河分断工作員ですね。

前からそうではないかと見当はついてたんですが、自分からカミングアウトしてくれて助かりました。
418名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:11:52.52 ID:B0TvUbMg0
>>413
戦没でも食当たりでもどっちでもいいよ
時期は誤差の範囲
419名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:14:05.61 ID:HlprIDXlO
尾張と三河の国境なんて田圃の中に小さな川が流れてるだけだわ
あの時代尾張と三河はお互いに侵食しあって相手の国に拠点作ってゴチャゴチャしてたのは常識
420名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:14:42.52 ID:xq1SVSwG0
水野さんもいるしね。
421名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:15:53.13 ID:DvZfh1rP0
>>369
>トヨタ関係者は名古屋
尾張は全く関係なし


豊田佐吉
・1867年、三河吉田藩山口村生まれ
・父は佐原伊吉


http://shizufan.jp/netamap/seibu/20163/
>豊田家は1775年に一度途絶え、現在の豊田家は佐原伊吉(佐吉の父)が継承することになった

http://shizufan.jp/netamap/seibu/20163/
>豊田家の先祖代々の墓は妙立寺にあり、大正14年に佐吉が再建した

妙立寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E7%AB%8B%E5%AF%BA_%28%E6%B9%96%E8%A5%BF%E5%B8%82%29
>至徳3年(1386年)−佐原常慶と内藤金平が日什(1314年 - 1392年)を古見の地に招き開山。


この佐原常慶と関係あるんだろうか?
まあいい、三浦一族と三河は縁が深くてな


三浦義明→佐原義連→佐原盛連
三浦義明→多々良義春→佐久間家村(初代佐久間氏、三河重原に逃げてくる)→三浦義行→→→→→→三浦正次(下総矢作藩主→下野壬生藩主)
三浦義明→多々良義春→佐久間家村(初代佐久間氏、三河重原に逃げてくる)→佐久間朝盛(養子、和田義盛の孫、パゴヤの御器所に移住)→→→→→佐久間象山?
三浦義明→杉本義宗→和田義盛→和田常盛→和田朝盛(佐久間家村に養子入り)
三浦義明→杉本義宗→和田義盛→杉浦義国(初代杉浦氏)


三河・重原
http://ameblo.jp/9zaemonn/entry-10972904458.html

杉浦つーのもよくきくわな
422名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:16:24.10 ID:tOZ+AV4Y0
>>371
三条のとのさまは信長の元側近です
423名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:16:46.60 ID:g7/Yfad+O
信長も義元も家康が可哀想な子として優しくしてたんだろ

だから優しい嘘を付いたと
424名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:19:05.32 ID:i8aN9guc0
勝者が自分たちに都合の良い嘘で歴史を書き換えるの見本だったのか

どうりで、家康をはじめ徳川勢力が徳のある人間のようにイメージされてきたわけか
汚い人間ほど、、、 だなぁ
425名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:20:21.90 ID:DvZfh1rP0
>>387
>トヨタ自身も名古屋財界とは一線を画してきた

勝手に名古屋企業にされて、番長風吹かされてうんざりしたんだろw


名商会会頭を固辞
http://chubu.yomiuri.co.jp/news_k/danmen/danmen100326_1.htm
トヨタ副会長だった磯村巌氏が00年〜04年に会頭に就いたことはあるが、当時はトヨタが愛・地球博(愛知万博)の成功に向けて、地元財界活動に力を注いだ特殊事情があった。
愛知県豊田市に本社を置くトヨタは、「地元財界トップは名古屋に基盤を置く企業から選んでもらうのが良い」(関係者)とのスタンスだ。




トヨタ、名証“飛ばし” 決算会見を東京へ一本化
http://www.sankeibiz.jp/business/news/120417/bsa1204172021005-n1.htm

 

名古屋飛ばしが加速中w
426名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:22:05.56 ID:puIZJKIT0
NHK「やべー大河の脚本書き直させなくちゃ…」
427名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:23:59.03 ID:DvZfh1rP0
>>419
>あの時代尾張と三河はお互いに侵食しあって相手の国に拠点作ってゴチャゴチャしてたのは常識

そんなの短期間だからw所詮は尾張どん百姓、万年パシリよw

何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」 

尾張の歴史

◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。

藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼

◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。

◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。

◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。

◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
428名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:24:09.45 ID:CrXFoXe60
>>36 あれは、ひどかったな、脚本もひどかった。
内裏かどっかで故意に血しぶきあげさてたっけ。清盛の母親のね。
429名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:25:45.12 ID:f3+eE4vQ0
なかなか面白いスレやね。基地外が2,3人いるが。

慶安のお触書のこと知らなかったよ。いや参った。
色々と変わるもんだ。
430名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:26:37.89 ID:CN8I4GdU0
>>419
その通りです。 水野氏や戸田氏がまさに典型ですね。
431名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:27:04.87 ID:DvZfh1rP0
尾張どん百姓が上に立てるわけない、上に立てる器でもないw
何故ならどん百姓だからw


http://news24.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1211890289/l50

>リポートによると、「一人あたり域内総生産」について、愛知県平均を100とした場合、
1996年度は西三河が112、名古屋を含む尾張は96(笑)で、16ポイント差だった。


>一方の尾張は下降線をたどり、2005年度には西三河が125、尾張は93で、
32ポイント差に拡大した。(笑) 


>さらに、住民の所得水準については、1970年に尾張が西三河を1割程度上回っていたが、
90年以降は西三河が逆転している。
432名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:28:10.53 ID:g37y/8ji0



まあとりあえず光秀を唆したのは家康でまず間違いないね。(´・ω・`)

もともと家康は暗殺されるはずだったからね。
だからずっと三河に帰れずに接待漬けだったんだよね。

是非に及ばず ってのはいろいろと諸説あるけど、
自分は 「家康にしてやられたか・・・」 って意味だと思うね。

光秀ちゃんには家康暗殺の命が下されてたはずだから、信長にはなぜ光秀が反旗したのか
すぐにその理由は分かったはずだからね。
じゃないと 是非に及ばず なんて言うわけもなく。
信長は家康のことは認めていた故に「後々には大きな敵になる」と見抜いていたんだと思う。
信長だからこそ人物の読みは鋭かったはず。

項羽と劉邦 みたいなもんだねー。家康は韓信みたいなもんで味方のうちはいいけどもって感じ。
もう信長に逆らえるのって本能寺の変のときはだれもいないよ。「家康」を除いてはね。
433名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:30:37.33 ID:DvZfh1rP0
>>369
ついでにご自慢の鳥山明も関係なし
遺伝子レベルで尾張どん百姓とは無関係
所詮は尾張どん百姓w


http://d.hatena.ne.jp/soorce/20081109/p1

高:では、そのアウトラインから。鳥山明と言うのは本名ですか?
鳥:本名です。
高:珍しい名前ですけど多いんですか?
鳥:祖母のところでは多いですよ。三河(愛知県)の幡豆はずという所ですけど。


精明山宝泉寺 祖父母の菩提寺
http://d.hatena.ne.jp/denbei9th/20120815
>鳥山精明(牛之助)が1545年に建立



鳥山精明(牛之助)

江戸中期の三河代官。鳥山家は4代にわたり三河代官を勤めた家柄である。3代の精元は,三州小牧邑(幡豆郡吉良町)に生まれ,1666年(寛文6),父を継いで三河代官となった。
1673年(延宝元),矢作川の治水のため,挙母神社の東側の曲尺手(かねのて)に堤防を築き,遊水池を作って,堤防決壊と浄化入水を防いだ。領民は,この堤を「精元堤」と呼び,徳をたたえた。
また,精元は堤防に桑樹を植えさせ,養蚕を奨励し,農村経済の一端を支え,現在まで続いた挙母養蚕の祖とあがめられた。
この他,上・下庄司ケ池の治水を行い,農地干ばつの不安を取り除き,道幅三間半(6.3m)の街道を作り,これに沿って挙母の街並みを整備した,
水害から神社を守るための移転用地を下げ渡し除地(検地から除き無課税とすること)とするなど,当時の人々の農業生産や日常をめぐる諸問題に積極的にかかわった。
434名無しさん@13周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:31:37.56 ID:lSeqOg1l0
>>418
夏の陣で討ち死にしてるのと、その1年後に
天ぷらに当たって死んだのでは意味が大きく違う。

だから、権力者の都合のいいように改竄されていれば正しく修正する。
435名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:35:29.12 ID:DvZfh1rP0
学校の歴史で習う尾張どん百姓(笑)の歴史


尾張国郡司百姓等解文(笑)

尾張国8郡の郡司,百姓らが一致して,国司藤原元命の3ヵ年にわたる暴政を,31ヵ条にまとめて朝廷に訴え,彼の罷免を要請した文書。
強制的に正税出挙を行い,定額以上貸付けては利息を取り,租・庸・調のほかに 20種以上の賦課を課するなど,悪政の限りを尽したことを示すもので,地方政治研究の重要な史料。




尾張どん百姓(笑)
436名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:35:57.84 ID:TjJJcwDe0
きっと家康は光秀ちゃんには 

「私が死んだらきっと次に殺されるのは功績の大きいあなたの番ですぞ・・・」

という風にでも言ったんだと思うね。(´・ω・`)
なんといっても光秀は信長の次に大きな権力持ってたからね当時。
もはや外に敵なしとなれば次は内しか大きな敵はいない。

信長も魅力的だったけど光秀ちゃんに殺されるとは思ってなかったでしょ。
殺すはずが殺されるんだもの。「家康にしてやられた・・・」ただそれだけだね。
光秀ちゃんにはきっと恨みもなにもないだろう。
437名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:37:07.67 ID:CN8I4GdU0
>>434
最近は、食当たり、食中毒ではなく、胃がん説だけどね。

(仮に家康本人は大阪夏の陣で戦死していたとしたら、)
影武者が食あたりで死のうが、胃がんで死のうが、どうでもいいんだろうけどさ。
438名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:40:11.33 ID:DvZfh1rP0
現代に蘇る尾張国郡司百姓等解文(笑)


希望見えぬ「世界一」 トヨタの足元<1>
www.chunichi.co.jp
>名古屋市近郊にある古びた工場
「身の丈見失うな」 トヨタの足元<2>
www.chunichi.co.jp
>自動車部品の梱包(こんぽう)用段ボールなどをつくる「中央紙器工業」(愛知県春日町)の本社応接室
誰のための削減か トヨタの足元<3>
www.chunichi.co.jp
>社長は創業以来の機械を今も操る=愛知県尾張地方で
町工場の事情がある トヨタの足元<4>
www.chunichi.co.jp
>愛知県尾張地方の工場。トヨタの仕入れ担当者がストップウオッチ片手に乗り込んできた。
努力だけじゃ勝てぬ トヨタの足元<5>
www.chunichi.co.jp
>部品メーカー「エイベックス」(名古屋市)社長の加藤明彦(61)
「つぶれても仕方ない」 トヨタの足元<6>
www.chunichi.co.jp
>新川(右)の堤防が決壊し、水浸しになった住宅や工場 名古屋市西区



尾張どん百姓(笑)
439名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:40:33.97 ID:QSoybEow0
>>259
いや駿府でも肩身の狭い思いはしてたみたいだよ。何かの集まりの時に皆で小便を我慢していて重要な集まりだから皆と一緒に家康も我慢してたが
あれはどこのガキだと陰口を叩かれ頭にきて皆の見てる前で縁側から思いっきり放尿したなんて話も残されてるみたい。

ありきたりだけど家康の句の「 人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず 」
とにかく忍耐だとこれに集約されてんじゃないかなあ
440名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:41:17.34 ID:g7/Yfad+O
天ぷらの食い過ぎで死亡とか好感度上げポイントだったけど

これも徳川史観の罠だったのか
441名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:52:05.89 ID:Uxy8vYI80
天ぷらの起源はポルトガル語のテンペーラから。
つまりイエズス会士が教えた食事が当時もっともおいしかったという事。
胃癌の原因はもちろんピロリ菌。
当時よりイエズス会がピロリ菌による胃癌を知っていたとは思えないが、
何らかの毒物を混入して家康を暗殺した事は間違いない。
442名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 21:56:43.81 ID:+IuX4lzc0
>>246
まず
斯波氏を手中に収めてる尾張下四郡守護代清須織田氏織田信友と
嫡流の尾張上四郡守護代岩倉織田氏織田信安
で主君尾張守護斯波氏を傀儡として尾張を分割統治していて
清須織田氏の重臣に一族の三奉行が居てその奉行の一つが信秀の家で
家臣ではあるけど信秀の父の代から津島港でボロ儲けして
織田氏一番の勢力になってたけど主家と争うようになるのは信長が継いでから
主家の信友は同じ三奉行の一つから養子に入ってる
もう一つの奉行の家は信秀に協力
443名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 22:00:34.58 ID:V7qfVZob0
>>439
家康本人はそれなりに大事にされただろうけど、
三河武士団は冷遇されてたわけで
居心地は悪かったに決まってるよな
444名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 22:03:37.18 ID:QSoybEow0
>>278
本能寺の変、家康黒幕説は根強いな。
家康の正室と子供は信長に殺されたも同然で恨んでいた。
光秀の一族は伊賀出身で家康の伊賀越えは光秀ゆかりの伊賀忍者の助けを借りて三河に戻ったのは不自然だ。
光秀の死体ははっきりと確認されておらず
その何十年後に比叡山や大阪の寺で光秀寄贈と書かれたものが見つかってたり、江戸時代に光秀ゆかりの土岐氏のお家が存続されてたりと何かとおかしいんだよ。
445名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 22:09:40.43 ID:JmZvdn2e0
イエズス会とか言ってる奴は
近代の国民国家の帝国主義みたいなイメージと
勘違いしてんじゃね。
446名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 22:09:52.25 ID:g7/Yfad+O
最近流行りの、光秀が信長を愛し過ぎた故の説は、もう終焉なのか
447名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 22:13:45.04 ID:QSoybEow0
>>443
だから常に家康は家臣団を気にかけていて三河武士の強さは結束の固さにあったみたい。
一説に家康の辞世の句は三河武士に後追いしないようにの意味があったと言われてるみたいだな
448名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 22:17:10.82 ID:U8WNFk5M0
>>403
世良田乙
449名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 22:37:35.44 ID:1lXa7WeY0
家康黒幕とか、当時の家康の立場わかってるのか?w

なにが悲しくて織田家中トップの実力者の光秀が、田舎の外様大名の家康の言う事なんて聞かなくちゃならねえんだよwww
450名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 22:39:28.05 ID:pvfC7qFD0
キチガイが来そうなスレだと思ったらもう暴れてた
451名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 22:43:18.22 ID:5wFs34Ut0
この説初めて聞いたけど辻褄合うじゃん。今まで出なかったってことは二次史料すらなかったってことか
にしても織田側の史料に無いってのは不思議だけど
452名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 22:53:08.23 ID:QSoybEow0
>>449だけどさ。家康慰労会の時に幹事の光秀が食事で失態して信長が光秀をしかりつけてんじゃん。
部下トップにそんな恥かかせる?
家康も最初は信頼関係があったが時が経つにつれいいように使われて恨みがあった。根に持ちそうだからな。
両者とも利害が一致するっちゃあ一致する。

秀吉は下層民からの出世だから信長に恨みはない。
453名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 22:58:57.41 ID:ZznGwxww0
家康は関係ないなw
454名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 23:10:39.71 ID:Gk5EFZ/C0
信秀って どう考えても尾張一国の戦国大名とみなせるんだけど
信長の評価を高めるために 今ひとつの扱いされてんのかなとは思うけど
455名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 23:12:55.81 ID:DvZfh1rP0
いい加減くだらないセンゴク(笑)の話はやめよ
中世近世は、三河の源頼朝が搗き、三河の足利尊氏が捏ねし、天下餅、座ったままで食うは三河の徳川家康で完結している


日本の歴史(中世〜近世)

◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝

◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数

◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている

◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ

◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
456名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 23:14:31.50 ID:hcafhtZM0
>>454
桶狭間あたりでも信長は尾張の3分の1程度しか支配できてないのに?
たしかに信秀の代で急激に勢力を拡大するのは事実だけど、
尾張一国は無理だろう。
457名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 23:18:54.62 ID:xq1SVSwG0
>>454
信秀は尾張守護である斯波氏や他の有力織田氏を家臣として抱え込めたわけじゃない。
第二次(仮に第一次があったとしてね)小豆坂で今川に敗れ、道三にも苦杯をなめさせられた後は求心力もかなり低下したりしてる。
458名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 23:19:22.24 ID:Gk5EFZ/C0
>>456
でも 信秀は今川家や斉藤家と戦ったり、単独で将軍に謁見したり、朝廷から官位もらったり
実質的には 尾張を掌握してたんじゃないかと
実際 三河の支配を今川家と争ってるとこみると
459名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 23:19:22.93 ID:SRHYHrO9I
信長、秀吉、家康 なら
ピンクの観覧車に
三大武将が一緒に乗って
家康がホトトギス鳴かせてたな

トヨタのCMで見た
460名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 23:22:31.11 ID:DvZfh1rP0
いい加減くだらない三英傑(笑)はやめよ
パゴヤがオナニーばっかするだろw
しかも日本統治にパゴヤ関係ねーしw


日本の歴史(中世〜近世)

◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝

◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数

◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている

◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ

◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
461名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 23:28:46.65 ID:hfYmiZrG0
時代が戦国の終わりに近づいて来て、戦国で一度バラけた大名の集約が始まった時代だからね。
信長だけは時代をちゃんと見据えていたけど、近隣の大名はそれが出来なかった。
尾張から近畿だけなら、全国で地域に覇を唱えた大大名と対して違いはないし。

例えば、中国統一した毛利とか、もう少しで九州統一した島津とか、関東統一した後北条とか、ほとんど東北統一しかけていた伊達とか。
でも彼らは地域大名なんだよね。

「天下布武」というスローガンはやっぱり信長じゃないと打ち出せないものだったわけで。
462名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 23:31:23.65 ID:809oIUKr0
>>454
ないない
尾張のせいぜい1/3
463名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 23:33:43.18 ID:DvZfh1rP0
ホモりあって丸焦げの炭になった間抜け、織田信吉とかいう奴の話はもういいw
464名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 23:35:39.40 ID:SjQDlvQi0
>>371
「法華宗 日覚」でググると
天文年間の法華一揆で壊滅した京都の法華宗のお寺を再建した人らしい
法華宗の京都帰還が許されたのが1542年で
信秀が今川を破った第一次小豆坂の戦いと同年
なので日覚が寺を再建しに上洛したときに信秀の噂話を聞いて書き留めたのかもしれない
あくまで推測だが
465名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 23:35:45.31 ID:Gk5EFZ/C0
>>462
それだと いくら経済力があったとしても
ちと辻褄があわんな〜と思ってんだけど
466名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 23:35:48.46 ID:hfYmiZrG0
畿内を抑えただけなら、信長のレベルは三好一族と一緒なわけだけど、三好一族と信長は明らかに違うわけで。特に人物の大きさが。
467名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 23:37:52.72 ID:3lJ/+A5a0
>>458
信長公記には国中をたのみ勢なされって文があるから第一人者ではあったかもしれないけど
斉藤家と争ってるときに清洲の坂井に襲われたりしてる
掌握ってのにはまだまだなんじゃないかと
468名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 23:41:27.11 ID:LslVMSFU0
>>465

信秀じたいの評価は別に低くないだろ
ただ大名かつーと違うだろって話
469名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 23:45:22.86 ID:1l5Xb1qX0
家康が今川に人質に取られるときに、織田のスパイがいて、
現在の蒲郡競艇のあたりで織田側に捕まったんだろ。
だからあのあたりを織田が支配していたとしても不思議じゃない。

家康はその後捕虜交換で今川に引き渡された。
470名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/29(日) 23:45:38.68 ID:VnljW9n70
>徳川家康が幼少期に「誘拐」されて
>織田家の人質となったとの通説も誤りの可能性が高いという。

そんな通説あるのか。知らなかった。
471名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 00:25:37.41 ID:93oGJTQN0
>>460
うーん、得川の清和源氏って、
いつみても違和感ありありだよなあww
472名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 00:30:44.33 ID:MeuLtQHk0
信秀は直轄領が3分の1ぐらいで全盛期は織田一族の兵を任せられるほどであったって感じかな
所詮家臣の域は出てない
473名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 00:36:22.31 ID:CnlbnUvj0
>いつみても違和感ありありだよなあww

それはお前が先祖代々どん百姓だからだろ


松平信光(第3代当主)
正室:一色氏の娘

足利一族の遺伝子イン


松平親忠(第4代当主)
正室:母親は鈴木重勝の娘

・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→重員(母親は楠木正成の娘)→重勝


源為朝、安達盛長、足助重範、楠木正成の遺伝子イン



普通、ただの土豪に一色氏の娘が嫁にこないからな
何らかの裏が取れたんだろう
474こんにちはネトウヨです@転載は禁止:2014/06/30(月) 00:36:23.14 ID:OCBYKMLi0
>>460
また三河の残りカスが吠えとるのか。
475名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 00:41:34.11 ID:Gln9HY250
>>467
まあ 完全に尾張諸勢力を臣下におさめたのは信長だけど
それまでは 結構 流動的だったんでしょうな 強いほうにつく的な
>>468
低くもないけど高くもない あの信長の親父なのに
尾張完全に掌握してなくても 戦国大名とみなしてもいい思うよ
やってることが 実際 戦国大名だもん
476名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 00:43:07.15 ID:wwkV3rTf0
ネトウヨは当然、織田を嫌いだよね?
477名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 00:49:42.12 ID:f0d6dtsV0
信秀の頃は各国単位の一円支配に移行する過程の時代だからね。
越後の長尾、美濃の齋藤、備前の浦上等々、
守護の力が早い段階で失われてる国では守護代の一族が中心になって国単位の一円支配を目指して争っていた。
尾張守護代一族の織田もその1つで、信秀は織田一族の傍流ながら最も勢いがあって旗頭的存在になってた。
478名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 00:52:16.16 ID:CnlbnUvj0
>織田家中トップの実力者の光秀が、田舎の外様大名の家康の言う事なんて聞かなくちゃならねえんだ

明智光秀は流浪中に三河牛窪の牧野右近大夫(三河牧野氏)に仕えた事があった(名将言行録)


センゴク(笑)など大して興味もないが
家康どころか、もっと下のぺーぺーだったようですがw


長福寺
http://www.hokkeshu.com/old_hokkeshu/kakujiin/tyubu/500.htm
中興開基:随立院日道(土佐伊予守頼直)

↑土岐頼遠(美濃守護)の兄貴(長男)


島田氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E9%87%8D%E6%AC%A1

↑もともとは島田氏は斯波氏家臣


植村氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/uemura_k.html

↑土岐氏の後裔と称する


土居氏
http://roadsite.road.jp/history/daimyo/doi/doi.html

↑土岐氏の後裔と称する


三河と美濃源氏はズブズブだったようですな、家来としてw
479名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 00:57:55.96 ID:CnlbnUvj0
つーか美濃源氏ごときが、三河の上に立てると思っているのか?土岐氏など五職だ

室町幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)

■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、愛知県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)

【八代将軍足利義政時代】
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、愛知県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、愛知県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)

■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)
・高氏(三河国額田郡菅生、愛知県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、愛知県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)

管領
・細川氏(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、愛知県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ

■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、愛知県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(愛知県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、愛知県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(愛知県岡崎市・豊田市)で活動
480名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:00:02.56 ID:93oGJTQN0
>>475
信秀が戦国大名化の過程にあったことは確かなんだが、
尾張一国は支配下に置いてないし、
一歩手前レベルだと思うぞ。
どういう条件で戦国大名と呼ぶかは、人それぞれだけど。
481名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:00:17.39 ID:yOch5B2A0
この三河基地外っていつもこうなの?
482こんにちはネトウヨです@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:03:10.84 ID:OCBYKMLi0
いつもこうなの。
483名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:04:53.81 ID:f0d6dtsV0
>>480
まだ戦国大名じゃないだろうね。
さっきの守護代レベルの一族の中でもっとも最初に一国を支配したのは齋藤。
浦上、長尾もその一歩手前。
それに比べると織田は一歩手前とも言えないレベルだからqね。
484名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:09:38.40 ID:i4+c1r0o0
国の歴史が残ってるのが当然だと思ってた俺はアラフィフだ
どの国だって歴史には真摯に向き合い、史実を知るために丁寧な作業を繰り返してると思ってたよ
いろんな解釈が成り立つ事柄は、結論は出さずに後世に委ねる姿勢は当然だと思ってたな

まさか自分の都合のいいように歴史を解釈したり、ねつ造したりする民族がいるとは全く思わなかった
485名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:13:29.61 ID:CnlbnUvj0
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京之地也」


「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした


永源寺

中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。


島田兼将
南北朝期の東寺領山中郷代官。康暦2年(1380)に幕府から東寺に西院造営料所として寄進された山中郷の代官は、至徳元年(1384)まで彦部氏であったが、
同2年から明徳2年(1391)までの7年間は島田兼将が代官であった。兼将は斯波氏被官で碧海荘の地頭代をつとめていた島田氏の一族であろう。
486名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:18:04.98 ID:dfwoJrZ/0
前からいまいち疑問だったのは松平清康が三河統一して
三河軍団一万余りで尾張に侵攻しようとして家臣にぬっころされる
その後わりとすぐに織田信秀が8千くらい率いて岡崎に攻め寄せる
迎撃する松平軍は7〜800? じゃあ一万の三河軍団ってどこいったんだ?
って思うと、たぶん何千かは織田に付いたんだろうね

つまり織田信秀は松平清康死後の西三河に対してかなりの影響力=支配力行使してたってことじゃね
487名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:20:49.62 ID:qFrhxniK0
信長も後見してくれる父が死んだら家臣団が速攻で謀反
弟まで斬り捨ててやっと家中統一したと思えば
今度は東から今川の大軍襲来で今度は一国存亡の危機と

まぁ修羅場という修羅場くぐってるからな
人質生活で悠々自適の家康とは比べもんにならん
488名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:28:45.88 ID:FEDYohGVO
つかさ桶狭間の合戦で信長に内通して義元の場所を教えたのは家康だったりして
489名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:30:53.01 ID:f0d6dtsV0
信長は義元が居ると思って攻めたんじゃないんで陰謀説成り立たんからw
ほんと陰謀厨が多いなw
490名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:34:46.55 ID:rJw9mB080
>>461
というより歴代中央エリートのトップの一角だった斯波氏の陪臣弾正忠家は
これまた代々真近で中世権力のありようをよく見ていた家柄だから地方の田舎大名ほど中世権力に対してオカルト的恐れは少なかっただろうな
まぁ天下人って発想は信長のパーソナリティー的なものもあるが家柄ってのも大きいと思う
491名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:34:48.47 ID:rI7iM9HK0
信秀はワシが育てた
492名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:36:21.07 ID:Kqq54Pp00
日本は狭い国土に単一民族
おまけに天皇はずっと存続しているんだから
もっと記録が残っていいのだが残っていない

穀潰しの公家あたりが歴史書でも書いていれば
何の役に立たずに蹴鞠して終わりのクズっぷり
493名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:37:46.39 ID:RDLZgoo50
戦国時代の話は、嘘偽りが多すぎて何が何やらって感じ。
494名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:41:14.07 ID:TJETfUmA0
政権の正当性は征夷大将軍の任命で十分確保されているから、わざわざ正史を編纂して正当性を主張するまでもなかったしね。
495名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:43:33.86 ID:FEDYohGVO
え?義元が居ないと思って戦ってたってほうが無理ないか?

だいたい戦国時代から陰謀を取ったら何が残るんだよ
496名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:45:15.45 ID:wWdPFbjD0
>>1
>本郷和人・東大史料編纂所教授

この名前を見ると条件反射で「王家の犬っ!」というフレーズを思い出してしまう罠
497名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:48:32.97 ID:eF2ssSea0
長文はキチガイつうのは分かった
498名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:53:25.91 ID:R/YwoDOo0
そもそも信秀って大名ですらないよな・・・
499名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 01:56:13.56 ID:IOngUWNh0
>>492
さんざん書き残してるだろ
畿内だけで色々ありすぎて地方の戦乱まで追い切れなかっただけ
500名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 02:01:32.38 ID:rJw9mB080
>>498
ただ尾張は守護守護代ともに在京だったから
実質の在地領主の一角である弾正忠家はそれなりの権勢はあったんじゃね
501名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 02:02:57.26 ID:7IJ9EtPE0
>>492
どっちかっつーと、天皇がなまじ続いて常に現在進行形の禁忌なもんだから

過去の公家や宮家の暗躍とか政治の舞台裏は葬られてしまったって感じがするけどな
502名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 02:03:06.57 ID:qv0Iplz90
誰か言ってやれよ。
『見たのかよ!』って。w
503名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 02:03:33.10 ID:vOB5GH1A0
もう家康が「信長の家臣だった」でいいよ。
松永久秀や荒木村重と変わらんのでしょ。
300年間の江戸時代に御用学者が神になった家康のために散々改ざんしてるんだろうから。
504名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 02:08:12.92 ID:f0d6dtsV0
>>495
信長公記にはっきり書いてあんだよ。
信長が、「あそこにいるのは兵糧を運んで帰ってきたばかりの部隊で疲れてるからやっちまえ」と命令したら
それが義元の旗本だったんだよ。
505名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 02:11:05.33 ID:FEDYohGVO
そういや家康と微妙な付き合いしてる人って居場所が知られて襲われるパターン多いな

その点、石田光成が敢えて家康の居る所に避難するって考えたよなぁ
負けちゃったけど度胸が座ってるわ
506名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 02:13:58.65 ID:FEDYohGVO
>>504

義元を探してる途中で行き掛けの駄賃とばかりに襲ったのがドンピシャだったと
507名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 02:16:13.35 ID:5cXx9NfZ0
>>504
じゃ、なんで梁田政綱が武功第一等で加増を受けたの?
508名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 02:16:54.01 ID:CnlbnUvj0
清洲城
応永12年(1405年)、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。


斯波義重
父:斯波義将
母:吉良満貞(西条吉良氏、三河西条城主)の娘


空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京之地也」


「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした


永源寺

中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。



パゴヤ城と同じw
尾張どん百姓の無能性を証明してまつねw
何一つ独力でやったことがないw
509名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 02:24:42.55 ID:f0d6dtsV0
>>507
簗田が武功第一とされた理由は不明だよ。
510名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 02:27:54.42 ID:L8YTsuNL0
>>299
考えてみるとこの3人は全員暗殺されてるね・・・
511名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 02:29:37.94 ID:D7Nq3Qc20
まーた長文貼り付けまくって菅沼が暴れてるのか
512名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 02:29:38.65 ID:5cXx9NfZ0
>>509
じゃちゃんと辻褄あうんじゃん
513名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 02:56:10.56 ID:JIaGBkrq0
信秀は斉藤家や今川家と度々抗争しているけど、単独でそうする力を持っていたわけではなくて、主家や親戚筋をはじめとした尾張の諸家を束ねた連合軍の盟主的な立ち位置だったはず
それを支えた財力の源泉は港湾収入だから、尾張や三河の土地のどのくらいを実効支配できていたかはあまり関係ないと思う
この元記事も信秀が岡崎を支配していた時期があると読まずに、岡崎(三河)の領主を自分のグループに取り込んだだけと考えれば特段の疑念も生じない
514名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 03:00:50.80 ID:ydyiodOs0
岡崎支配したのは信長になってからだな
信秀の頃から松平家とは縄張り争いやってるわけで・・・
515名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 03:22:17.52 ID:rJw9mB080
>>513
だよな
上では守護守護代共に在京と書いたがこの時代はにはすでに都落ちしていて
実質は守護斯波義統を傀儡としていた守護代大和守家が尾張で一歩リード
斯波氏の陪臣でしかない弾正忠家は尾張統一する名目が見つからず主家とは関係ない弾正忠家独自で三河にちょっかい出したんじゃね

だから>>1にある「岡崎は弾正忠へ降参し、命からがらの様子」「弾正忠は三河を平定し、翌日、京都に上った」なんてのは大袈裟で嘘くさいんだよね
516名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 03:26:00.64 ID:61zawyKt0
信長の野望で天下人徳川家康の父親なのにゴミみたいな能力値だからな広忠
517名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 04:16:50.05 ID:7YVfamOFO
毛利元就ってニューゲーム開始時点は織田信長と同じような条件でのスタートなのに
何で信長とこんなに差がついたの?
518名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 04:21:33.20 ID:yoXw8qrX0
家康も戦国武将だったってことだよな。

地味な律義者どころか秀吉と同じく隙あらば主筋でも蹴落とすし、
リアルな打算と利益で裏切ると。
つーか元から歴史書よく読むと統一の功臣レベルでも最初は裏切ってるし、
一向一揆とか入ってるのもあるだろうが、忠義な三河衆とかも江戸のプロパガンダだよな。
親兄弟とも骨肉の争いになってたのを、儒教を体系的に導入した結果
落ち着いて近代に突入したと。
519名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 04:25:45.03 ID:bLVth8Wo0
尾張の豊かさは反則
520名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 04:32:50.72 ID:lkyGklW80
領主商人〜酒魚持参して酒宴って、実はその中に蜂須賀小六一味が居たと言う話あるね
鷲頭、丸根、中島陥落〜降伏の使い送り油断させて、一気にと言う御仁も居たね

                ↑
      信長のはだまし討ち名人らしいあり得ると思う
521名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 05:37:17.44 ID:xffjfNLq0
元々から松平元康で、一字拝領してた今川家の重臣だものな
そら一国掠め取れるわと
522名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 07:59:55.19 ID:8gje1Q2w0
>>517
だよな

毛利家は嫡流が生き残って明治の御一新で天下を取り
現在の政財界にも影響を及ぼしているのに
織田家は滅亡したもんな
523名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 08:08:51.00 ID:7YVfamOFO
>>522
織田信長は尾張すら抑えていないところから上洛して畿内や東海抑えて日本一の大勢力になったのに
毛利元就も同じ国人衆からスタートなのに拡大したの尼子大内の旧領止まりやん
毛利元就の方が遥かに謀略にたけてるのに何やってさぼってたの?
524名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 08:14:50.10 ID:8gje1Q2w0
>>523
お金がかかってしょうがないから
バカは放置しといただけ

天下なんかとったらどんだけお金がかかるか
ローマ帝国はなぜ滅亡したのか

元就はさすがに謀略に長けているからね
ちゃんと歴史を知っていたのさ

ボンボンの信長くんは強引な拡張戦略に走って会社を潰したバカ息子
525名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 08:31:52.31 ID:UoVKZn+u0
>>4
> 信長子孫と言われても信雄子孫だと言われるとがっかりする

鬼やなあw
実在するのにw
526名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 08:56:21.18 ID:JXaCIuXJ0
>>4
> 信雄子孫だと
信雄子孫=信秀子孫じゃないの?
527名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 09:14:55.35 ID:QWIdUeCq0
>>523
織田は国人じゃないだろ

信長は大国尾張の旗頭であり西美濃や西三河にも影響力を持った人物の息子として生まれ、
戦った自身よりも強大な敵は今川義元ただ一人
桶狭間で勝利した20台半ばからは周りをなぶり殺しにするだけ

元就は小国安芸の一国人の庶家から始まって、主家の大内や尼子との実力差が大きすぎ
信長における桶狭間の戦いと同様の厳島の合戦時すでに60近く

始まりが違いすぎる
528名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 09:33:46.18 ID:212MPy9G0
織田信秀が「戦国大名」か否かは、「戦国大名」の定義による。

浅井久政が戦国大名なら、信秀も戦国大名だろうとは思う。
529名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 10:32:19.60 ID:yOch5B2A0
そう考えると早雲寺殿すげえよな
伊豆平定が66歳で相模平定は85歳

最近は享年64歳説とかあるらしいが
530名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 11:20:15.23 ID:I/KCuefl0
織田の隣に武田家と上杉家があったら面白いのに
531名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 11:47:12.03 ID:0yGOkX6u0
イヤッホウ!岡崎最高!
532名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 11:52:19.68 ID:sRVY3zCK0
正直、岡崎って言われてもピンと来ないよな地元でもない限り
漠然と愛知県の東の方なんだろうなってのはあるけど
静岡県には三河は無いんだろ?
愛知県=尾張+三河で
名古屋は尾張
533名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 11:58:46.88 ID:qSQ9vKy80
>>527
なんか信長って小国のアホ息子が実はものすごい戦の天才で天下統一を果たしかけたイメージだよね
534名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 11:59:01.33 ID:PzZzerGN0
>>532
地図みたら、思いっきり勘違いしてた。
海に面してると思ってたけど、かなり内陸なんだな。
新幹線の駅もあると思ってた
535名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 12:07:59.58 ID:CnlbnUvj0
>正直、岡崎って言われてもピンと来ないよな

それは、お前が先祖代々どん百姓の被支配層だからだろ


■元弘の変(1331〜1333年)当時の後に室町幕府の支配層(西三河武士団)■

【岡崎市】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)の城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)の3つの城(細川御前田城、細川城山城、細川権水城)
・粟生氏(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と2つの屋敷(梅藪屋敷、西熊屋敷)
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
・上地氏(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)の屋敷

【豊田市】
・上野氏(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)の城(金谷城)

【西尾市】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城)
536名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 12:21:14.65 ID:adeVxO6M0
>534 江戸時代以降に相当埋め立てて海が遠ざかってんじゃないっけ
違ったらごめん
537名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 12:25:40.04 ID:OqtORmn10
信長は、「みんなには結構甘く接してたのになんか毎回裏切られたでござる」てところが哀れだw

凄いところは裏切られてピンチになっても何故か勝ってきたところだよな
本能寺ではできなかっただけで本能寺レベルのピンチはやまほどあった
538名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 12:36:50.78 ID:NjRjGRwo0
>>529 
伊勢氏、これか?


伊勢氏(初代・藤原俊継→伊勢俊継(天照大神のお告げで姓を伊勢に変える)) 滝山寺縁起(愛知県岡崎市)

■藤原俊経(****〜1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は滝山寺僧侶
・滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去

■藤原俊継(1217〜1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去

■円辰(****〜****):初代伊勢氏・藤原俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・相模法橋

■増恵(1209〜1283):初代伊勢氏・藤原俊継の従兄弟
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去
539名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 12:53:50.82 ID:ptmCrnQ6O
予想通り三河キチガイが暴れるスレ
540名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 13:04:18.87 ID:ib+8Vyu70
>>530
これか?


■上杉氏

上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か



■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷、愛知県岡崎市)

鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
541名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 14:12:52.71 ID:PzZzerGN0
>>523
信長、信玄、独眼竜あたりと、元就、長宗我部あたりは
出発地点が全然違うけど、勘違いしてる人が多い。前者がはるかに恵まれてる

>>527
スーパー信長になったのは、美濃を攻略してからじゃね?
桶狭間かれ美濃攻略まで5年以上かかってる
542名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 15:21:11.42 ID:sRVY3zCK0
>>541
美濃も大国だからじゃね?
尾張だけでもチートなのに美濃まで取ったら国力的には相当
それ故の包囲網だったのかもしれんが
543名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 15:38:16.55 ID:Qyw/rPaAO
>>92
それだけなんだよな、家康の残虐エピソードって
544名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 15:44:03.06 ID:WjNpdfhG0
思われてるほど、織田家はしょぼくなかったってことだな
545名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 16:12:32.49 ID:aBFPTeS90
>>541
最近は毛利元就も相当有力だったんじゃないかって言われてたはず
広島平野みたいな良いところ近隣に無いしね
546名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 16:30:38.42 ID:212MPy9G0
>>543
大賀弥四郎のノコギリ引きもあるよ。 まあ謀反人だから何してもいいっちゃいいんだけどさ。

> 大賀は馬に乗せられて浜松城下を引き回され、妻子五人がはりつけにされたのを見せられた後、
> 岡崎で土に埋められ首を通行人に竹鋸で引かれ、七日後に死亡した。
547名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 16:46:33.48 ID:ib+8Vyu70
>毛利元就
これか?


鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)

■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、愛知県知立市)


三河 萩 南朝でググルと結構面白い
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%89%E6%B2%B3%E3%80%80%E8%90%A9%E3%80%80%E5%8D%97%E6%9C%9D&amp;ie=utf-8&amp;oe=utf-8&amp;aq=t&amp;rls=org.mozilla:ja:official&amp;hl=ja&amp;client=firefox-a


・南朝一派が大江氏ゆかりの三河国宝飯郡萩に逃げてくる

・大江氏庶流の毛利氏を頼り長門国に移り住む

・三河の萩を忘れないように地名を萩とする

・大政奉還、明治政府成立

・江戸城無血開城



これによると明治政府は、三河国宝飯郡萩に逃げてきた南朝の政権と言えるらしいw
548名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 16:46:53.28 ID:tCF8oP5F0
どっちにしても桶狭間の時点では内乱状態だかで求心力が落ちてて
今川の半分以下しか動員出来なかったのはほぼ間違い無いんじゃね?
549名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 17:14:06.58 ID:Yenh8k2d0
出鱈目な創作だな。こういうことやってるから歴史学は馬鹿にされる。
550名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 17:27:19.96 ID:JIaGBkrq0
>>549
次の年に小豆坂の合戦があって、その結果三河が今川の勢力下に戻ったわけだから、三河(岡崎)が尾張側(信秀とは言わない)につくことになる原因がその前にあったことには一定以上の説得力があると思うよ
信秀が力で平定したとかではなくて、脅しをかけたら松平家が屈服して家康を人質に差し出したとしても何の不思議もない
551名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 17:35:28.40 ID:WdFXJl260
林 隆三の信秀は良かった
552名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 17:45:21.28 ID:KCOTxpbD0
結局こういうのって
一つの資料だけじゃなんともいえんからなぁ

伝聞や噂話だと、一部が違ってたり、全くのガセだったり
人名・肩書きが当てはまりそうなのが数人いて、誰を指すのか断定できなかったり
手紙なんかだと宣伝やハッタリで嘘八百並べてたり
単なる勘違いや書き間違いなんかもあったり

複数の信頼できるソースが必要なのは何事においても同じ
553名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 18:15:46.50 ID:212MPy9G0
>>549
>>550の言う通り、時系列・因果関係としては一応矛盾はない。
554名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 18:50:06.29 ID:POKJrM2E0
戦国時代って、教科書に書いてあってもウソのことが多いよな。誰もまともに研究してないんだろうか。
555名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 19:15:45.00 ID:f0d6dtsV0
尾張美濃もいいけど近江をとったのが決定的。
78万石もあり、水運に基づく商工業のコア地域だからな。
今なら京浜京葉地区押さえたようなもんだ。
400年後に滋賀県がこんなに落ちぶれるとは当時の人は夢にもおもわなかったろうなw
556名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 19:17:51.47 ID:VfwCcy540
んまぁ、当時の三河地方の状況から考えると当然ありえることで
要するに、愛知県三河地方、静岡県駿東地方、山梨県郡内地方は戦国時代の草刈場だったってことですよね
557名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 19:20:19.77 ID:idTdRBrU0
珍しく村岡スレにならない専門性だね
558名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 19:24:21.74 ID:NbxDhKmu0
>>544
織田は伊勢湾の交易を支配してて経済力があったのは確定してるよ
その経済力を奪おうとしたのが今川義元だったが、桶狭間で討ち死にした
家康は織田にいたら一介の武将で終わるところだったが
今川で英才教育受けていたので独立後に生き抜くことができた
559名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 19:33:14.86 ID:ib+8Vyu70
いい加減くだらないセンゴク(笑)の話はやめよ
中世近世は、三河の源頼朝が搗き、三河の足利尊氏が捏ねし、天下餅、座ったままで食うは三河の徳川家康で完結している
三河以外が日本を統治するのは無理w

日本の歴史(中世〜近世)

◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝

◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数

◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている

◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ

◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
560名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 19:34:40.81 ID:212MPy9G0
>>555

六角「( ^ω^)・・・」

京極「( ^ω^)・・・」

浅井「( ^ω^)・・・」
561名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 19:36:20.00 ID:sRVY3zCK0
>>558
一介の武将ではないと思うよ
信長と仲良いし
秀吉との戦いは、織田家内になってもっと激烈になった可能性はあるけど
562名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 19:38:52.37 ID:an8jrQDM0
このスレは勉強になるねぇ
つか、おまえらの知識がすごいわ
563名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 19:39:22.52 ID:I/KCuefl0
三好は凄く良いとこに領土あったけど、なんも抵抗出来なかったね
564名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 19:49:30.30 ID:cQKGGZEs0
>>563
細川京兆家と三好は内部抗争の泥沼に嵌りすぎてほぼ自滅でしょ。
三好阿波屋形なんて、ドラマにもできないぐらいドロドロですw
そのタイミングでうまく信長が進出してきた、幸運に恵まれた部分も有るよ。
565名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 19:51:39.40 ID:ib+8Vyu70
英才教育とかw文化程度の低い尾張ドン百姓じゃあるまいしw
今川も関口(但し瀬名氏からの養子)も三河出自の武士だろうが

関口氏(三河国宝飯郡長沢村関口)

関口一族の墓(慶忠院跡)
http://www.net-plaza.org/KANKO/toyokawa/haka/sekiguchi-haka/index.html


松平は唯の土豪ではなく、完全に足利一門の由緒家だからw


・松平信光の室:一色氏(真浄院殿)(松平親忠の母)
・松平信光の娘は、戸田宗光室(宗光は、守護代一色政照の養子。)
(松平長親の娘は、富永忠安室(富永氏は東条吉良氏家老。足利血縁ではない。))
・松平長親の子、松平義春が、東条吉良義藤の後に吉良持清幼少のため、跡目を嗣ぐ?または後見人との説あり。)
・松平信忠の娘は、東条吉良持広室
・松平清康の娘は、吉良義安室(西条・東条の双方の吉良家を統一)
・松平広忠の娘市場殿は、荒川義広(東条吉良氏分家)室
・松平広忠の継室:戸田氏(一色氏養子の子孫)
・松平元康の室:関口氏(今川氏分家)
566名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 19:53:34.30 ID:aR+mkv1F0
許した
567名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 19:53:37.52 ID:yQB7LWuP0
信長も上洛したての頃は、
尾張から京まで、細長い補給線
の維持に苦労したと思うよ。
568名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 19:58:39.70 ID:f0d6dtsV0
>>563
畿内は難しい土地でね。
国人たちは時の権力者にすぐ従うんだけど、
ちょっとでも旗色が悪くなるとすぐに乗り換える。
節操ゼロ。
まあ戦国時代が基本そういう時代だけど、畿内の国人の節操のなさは飛びぬけてる。
そんななんで、畿内を一円支配するのは困難なんだよ。
宗教勢力も絡んでるから利害関係は複雑の極みだからね。
結局信長が畿内を強烈に支配して、法華宗、一向宗あたりを徹底的に大人しくさせることでようやく一円支配が可能になった。
569名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 20:03:52.66 ID:pj6JFgW20
氏真さんは、超勝ち組 ニート王

家康んちに、気楽に遊びに行ける仲。
570名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 20:05:27.09 ID:f0d6dtsV0
>>569
家康は天下人として忙しいのに、暇人の氏真はのこのこ遊びに来るもんだから家康は物凄く迷惑したみたいだぞw
571名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 20:08:28.15 ID:aVrugDhv0
昨日見たけど陛下の先生殺しちゃうとかありえないわ
光秀こそ国士
572名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 20:09:15.69 ID:sEJAdgGD0
>>72
>信長のスタートラインというのは、まったく不利なものではない。

素行が悪いのと道三の娘を嫁に貰ったせいで、地盤財産人脈全て、同母弟に盗られそうになったけどねw
573名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 20:10:42.78 ID:f0d6dtsV0
>>571
追捕人をかくまったんだから仕方あるまい。
574名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 20:13:09.45 ID:QkYhi6CQ0
信長のスタートラインって重臣の柴田とか敵状態で織田家の
統一すらできてなかったんだろ
575名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 20:17:17.79 ID:sRVY3zCK0
柴田って一説には滝川同様信長から仕えたって話もあるけどどうなんだろ?
林は確かに重きを成してたし、一時敵対もしたけど
576名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 20:19:01.00 ID:Pu4DZBLx0
>522
信雄系とか有楽系は無視かよ
577名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 20:21:42.08 ID:sEJAdgGD0
>>109
信州長野は今でも帰属意識がバラバラみたいだからなぁ
木曽や伊那の人は『長野県の人』と言われるのを嫌がるとか
『信州の人』なら呼んで良い、らしい
578名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 20:27:32.26 ID:QkYhi6CQ0
>>575
柴田が信長から仕えたって話 初耳だ
ぐぐってもそんな話は出てこないけどな
579名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 20:28:37.43 ID:7w15lChi0
>>577
そういえば長野でも名古屋に憧れてる地域があるそうで
びっくりした
580名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 20:29:55.32 ID:QkYhi6CQ0
なにげに長野は愛知の隣県だからな
581名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 20:47:48.97 ID:sEJAdgGD0
>>135
>尊王攘夷
>王政復古の大号令

どっちも幕末だな
尊王攘夷に関しては、語源が儒学にあるから“王”と書いていて、『尊皇と書くべきだ』という意見もあったらしいよ
『勤皇の志士』とか書くし、ね
王政復古も語源は儒学

>天皇陛下を指す言葉に王と言う字を使って

今上とか帝とか、他にも呼び方あるよね
先帝とか上皇という言葉もあるし、“王”というと、むしろ日本語だと親王とか厩戸王とか天皇以外を連想するけどな
582名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 20:55:18.97 ID:KM6rjVvT0
三河の岡崎辺りなんて南北朝の時代までは信濃や飛騨よりも僻地ってイメージなんだろう
京の争いで敗れた側の人間がたくさん落ち延びてた土地だし
織田信長が京に上らなければ、それ以後も僻地だったと思う
583名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 21:00:43.62 ID:qHftlYib0
>>556
松平氏にしたって、山奥から出て来てそんなに長い歴史が有った訳でも無く、
長年、西三河のマイナーな豪族たちと獲って獲られてのセコい争いを繰り返して、
家康の祖父の清康がほんの一瞬三河の主要部を支配したってくらいで、
三河の盟主と呼べるような存在とは程遠い存在だからな。

家康の父親の広忠に至っては、親族から三河を追放されていた時期もあって、
通説でも岡崎城に戻ってせいぜい10年って段階。
この地域の支配権なんて、それくらい流動的。
584名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 21:12:06.36 ID:ib+8Vyu70
>>582
右大将殿の従兄弟がいっぱいいましたけど、何か?

源頼朝 従兄弟

■藤原忠季:源実朝近習
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→藤原忠季

■寛伝:日光山満願寺19世座主、滝山寺僧侶、滝山寺に惣持禅院建立、本尊に頼朝の歯と顎鬚が埋めこまれた聖観音像
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→藤原忠季

■野田清季:野田城主(三河国設楽郡野田)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季

■娘:足利義康の正室
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範忠→娘→足利義兼

■藤原範清: 右大将拝賀の先駆
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範信→藤原範清

■藤原憲朝:駿河守、尾張国海東郡地頭
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→藤原範信→藤原憲朝

■仁憲:滝山寺僧侶
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→三河祐範→仁憲

■源為朝の娘:足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助)の正室、娘が源頼家の室(公暁の母)
・源義親→源為義→源為朝→娘→娘→公暁

■行快:鳥居禅尼の息、22代熊野別当、三河国蒲形荘、竹谷荘地頭
・源義親→源為義→鳥居禅尼→行快

■鳥居忠氏:鳥居禅尼の息、鳥居氏の祖、承久の変後、三河国額田郡渡に移り住む
・源義親→源為義→鳥居禅尼→鳥居忠氏
585名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 21:12:31.21 ID:rY0LC+SF0
どーでもいいですよー
586名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 21:14:19.92 ID:ib+8Vyu70
>>584
関連事項


日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた


源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝


母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝


寛伝年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(愛知県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(愛知県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(愛知県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する
587名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 21:22:23.23 ID:sEJAdgGD0
>>160
親父と血みどろの争いをした道三とだって、同盟してたんだぞ
浅井長政には妹を嫁がせて同盟したんだぞ

それに三河って、義元が10年かけて反乱を虱潰しにしなきゃいけないほど土豪の独立心が強い
松平諸氏を服従させて三河を統一しても、今度は今川や、奥三河で武田と国境を接してしまう
万が一氏真がやる気出してたら、今川武田連合軍と真っ向勝負するはめになる
それなら家康に三河独立を煽って、今川武田への防波堤にしたほうがマシ

北の斉藤(一色)義龍とか西の長島とか、軍を振り向けなきゃいけない方面は多かった
家康が粘ってるうちに、岩倉を援助してた義龍の排除が最優先だったんじゃないかな
588名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 22:52:38.40 ID:5Y+0KshS0
>>570
人に昔話をするのは好きだがされるのは苦手だったらしいw
589こんにちはネトウヨです@転載は禁止:2014/06/30(月) 23:05:21.45 ID:9hdnfJhI0
>>588
つまり氏真と家康はそれなりに仲が良かったわけだ。
590名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 23:14:47.70 ID:M67GbTyw0
氏真こそが本物の侍ジャパン
591名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 23:16:03.00 ID:f0d6dtsV0
>>589
年が近いし、まあ幼馴染みたいなもんだからな。
592名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 23:18:12.15 ID:TVO3d1Jr0
>>4
金子信雄子孫?
593名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 23:19:02.95 ID:5Y+0KshS0
>>590
世が世なら日本代表のFWだからなw

信長の前で蹴鞠披露できる度胸
一説には塚原卜伝に皆伝もらったりしているから身体能力も抜群
嫁と二人で徒歩で旅したりもしているみたいだから多分強かったんだろうし

文化人で剣豪で愛妻家

政治家として以外なら凄い高スペックである…
594名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 23:22:22.89 ID:f0d6dtsV0
>>593
ところが御屋形様に必要なのは政治力だけだからな(毛利元就談)w
いろいろと生まれた場所を間違えた御仁だw
595こんにちはネトウヨです@転載は禁止:2014/06/30(月) 23:26:28.82 ID:9hdnfJhI0
子孫も貴族のように遺した(現代までは繋がらなかったが)氏真は、戦国大名のひとつの鑑やって。
596名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 23:32:32.62 ID:1MllwRPl0
>>593
単にいいトコの子で一通り英才教育を受けられたってだけだろ
技芸としての武術が出来ても戦争は出来ないからね
597名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 23:35:13.34 ID:iBh1TZ8c0
もう何でもありだなw
注目集めたもん勝ち
598名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 23:41:20.66 ID:hOHapLQH0
数百年濡れ衣の戸田さんカワイソウ
599名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 23:44:43.66 ID:nBxeXNoF0
一時期、岡崎を支配していた程度でこの騒ぎか。
村岡さんは写真1枚で日本いや世界中の男の心とHDDの1部分を永遠に支配したというのに。
600名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 23:45:26.92 ID:5Y+0KshS0
>>594
徽宗&足利義輝「ですよねー」
601名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 23:45:39.45 ID:GUEv6tZj0
>>596
徳川、武田の同時侵攻だったからなあ。
片方だけなら、北条の後ろ盾でなんとかなったところだけど。
602名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 23:45:39.82 ID:1MllwRPl0
>>598
ジゴワットは濡れ衣じゃないだろ
603名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 23:51:42.32 ID:HIcl+O5AO
タイムスリップx戦国x信長の出現率は異常
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org5159026.jpg
604名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 23:53:12.16 ID:ptmCrnQ6O
>>555
新幹線や高速の大動脈通ってても滋賀県を通過していくだけだからな
605名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/30(月) 23:56:57.32 ID:ptmCrnQ6O
>>579
飯田街道で塩を運んだんだよな
606名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 00:24:10.55 ID:FunV5S6y0
家康だって幼少期に今川に人質に取られたお陰で教養が身につき、吾妻鑑とか愛読するようになり政権運営の戦略を練ることができた。
日本の古いことわざ通り、万事塞翁が馬ですわ( ・ω・)y─┛〜〜
607名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 00:26:47.38 ID:0cLW481f0
今川時代は圧倒的にプラス
家康が老後に暮らしたくなるくらい良い環境だった
608名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 00:41:15.45 ID:F+0skhQn0
>>606
家臣が人質差し出すのは当たり前
江戸時代には妻子が人質で大名本人も半分人質
609名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 00:41:58.99 ID:CELmpp3i0
>>606
塞翁が馬
(さいおうがうま)
人生は吉凶・禍福が予測できないことのたとえ。
塞翁失馬。人間万事塞翁が馬。(広辞苑)

用例:「こう悪いこと続きじゃ、やる気もなくなるね」
「人間万事、塞翁が馬だ、腐らずにやってみよう」
(出典) 【淮南子・人間訓】より

故事成語で見る中国史
http://www23.tok2.com/home/rainy/seigo-saiogauma.htm

揚げ足を取るつもりも馬鹿にするつもりも欠片もないし言ってることに同意するけど
塞翁が馬を「日本の古いことわざ」というのは無理があると思う
610名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 00:47:14.93 ID:GaFwcPfG0
江戸時代では江戸育ちの大名の跡取りは江戸がふるさとになる。
家康にとっての駿府はそれと全く同じ。
611名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 00:55:42.90 ID:+ZO5jSi50
>>4
細川護煕は織田信長の子孫
信長−五徳姫(徳川信康妻)−熊姫(本多忠政妻)−本多忠刻−勝子(池田光政妻)−池田綱政−
継政−宗政−相良長寛(相良福将養子)−頼徳−頼之−池田章政(池田茂政養子)−詮政−博子
(細川護立妻)−細川護貞−護熙

まあ糞かもね
612名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 00:59:21.98 ID:GaFwcPfG0
まあ天皇陛下は織田信長と明智光秀と徳川家康の子孫だからw
ついでに蜂須賀小六の子孫でもある。
島津義弘の子孫でもある。
613名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 01:04:00.80 ID:WBn0ot6M0
>>606
アホか?先祖代々ドン百姓め、文化不毛の遠江で身に付くかよ
三河は頼朝だらけなんだから、吾妻鏡に興味持って当たり前だろが

源頼朝関連史跡

■三河七御堂(西尾市、豊橋市、蒲郡市、豊川市、新城市)
源平合戦で死んだ将兵を弔うため発願し、文治〜建久年間に安達藤九郎盛長(三河国小野田荘地頭、のちに三河守護)に命じて造らせた
東三河に集中しているのは、盛長の出自が東三河(現在の豊橋市石巻小野田町)だったからと推測する

一覧
【西尾市】光福寺/現在の金蓮寺、弥陀堂【豊橋市】赤岩寺/弥陀堂・普門寺/観音堂【蒲郡市】長泉寺/弥陀堂、安達藤九郎盛長の墓あり、全福寺/現在は廃寺、丹野御堂【豊川市】財賀寺/観音堂【新城市】鳳来寺/弥陀堂

■滝山寺(岡崎市)
母方の一族である藤姓熱田大宮司家氏寺、伽藍造営
源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた等身大の聖観音像あり
北条政子13回忌に、足利義氏(3代目足利宗家)が源実朝、北条政子の遺骨を分骨

■その他
【岡崎市】
・光明寺/堂宇を再建
・夏山八幡宮/梶原景時を名代にして参拝、社領寄進

【豊田市】
・平勝寺/元の名は大悲密院(南北朝時代に平勝親王が改名)、寺領寄進
・二井寺(普賢院)/寺領寄進
・猿投神社/藤姓熱田大宮司一族氏神、大社に改築

【知立市】
・牛田八幡社/頼朝の目代(大江氏か?)が鶴岡八幡宮を勧請

【西尾市】
・瀬門神社/1195年に源頼朝が社殿を再建

【豊橋市】
・普門寺/堂舎再興、寺領寄進、化積上人(叔父、藤姓熱田大宮司一族か?)が学頭、頼朝等身と伝わる不動王あり
・吉田神社/社殿は安達藤九郎盛長が造営、天王社勧請
・鞍掛神社/愛馬の鞍を奉納

【豊川市】
・財賀寺/本堂・仁王門再建、寺領寄進
・宮道天神社/安達盛長に代参を命じ、京からの帰路、鞍馬装束を奉納
・八幡宮/寺領(1000町歩)寄進

【蒲郡市】
・八劒神社/社殿は建久元年(1190年)、頼朝の命により安達藤九郎盛長(三河国小野田荘地頭、のちに三河守護)が造営

【新城市】
・鳳来寺/再興、三重塔造営、寺領寄進
・今水寺/寺領寄進
614名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 03:14:16.32 ID:STJuGBwi0
>>603
例えば佐久間信盛が現代にタイムスリップしてきて誰が喜ぶと思う?
615名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 05:24:56.39 ID:BviKleGx0
本成寺じゃないよぉ
本城寺だよぉ

地元民の足掻きw
616名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 05:53:07.58 ID:R+jdcromI
>>613
伊勢湾岸地域は機内大和の最大のライバルだし
鎌倉より遥か昔、その800年前の
古代史も同じ様に熱意を持って学んでくれ
617名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 07:05:07.24 ID:UB+mky970
でもまぁ名古屋城自体が家康の建造物だしお互い様だろう
それに名古屋は昔は那古野と言って今の清洲や一宮周辺を指してた
果てが千種の今池辺りでまでで
尾張と三河の線引きなんてそもそも曖昧なんだよ
618名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 07:07:24.40 ID:2k3vyidl0
もう許してやれよ
619名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 07:14:12.98 ID:QDAh5P5x0
中京大ってなに?
中くらいの京大?
何処にあるの?
620名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 07:58:06.10 ID:QWk/kRn40
>>619
本家の京大と、東の京大との中間にあります。
621名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 08:07:38.28 ID:8iyR1Im90
今川氏真が日本にサッカーを広めた
自身もサッカーの達人
622名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 08:09:11.77 ID:MyXQZGEu0
>>621
藤原鎌足は?
623名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 08:21:32.63 ID:pIsWfCcBO
織田信長も武田信玄も上杉謙信も斉藤道三も、みんな親父が路線を敷いて初めて強大化できた。
皆一代で成り上がったかのような日本史の英雄史観は改められるべき。
624名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 08:22:08.28 ID:kH8K/MTr0
信長が相撲でなく蹴鞠を奨励してたら
今頃W杯で何度か優勝してたかもしれんな
625名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 08:26:00.52 ID:wM2Yp7isO
>>614
役に立たないからって信長にクビにされたオッサンだよね
626名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 08:27:32.71 ID:0cLW481f0
金と土地があるから奪われたオッサンだよ
627名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 08:28:59.15 ID:zUj50caw0
>>623
斉藤道三の親父って誰?
628名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 08:31:26.75 ID:kH8K/MTr0
>>625
領地の広さ、官位が家臣団No1だったらしい
まぁ邪魔だったんだろうな
でも、排除したら京の守りが抜けて、明智に襲われた
林はともかく佐久間の処分を先に延ばせば歴史は変ったかもしれん
629名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 08:37:27.28 ID:zUj50caw0
>>625 >>626 >>628

信長に讒言をして、佐久間信盛を追放させたのは、明智光秀自身ですよ。
(『佐久間軍記』、『寛政重修諸家譜』) 『信長公記』も佐久間には同情的。

佐久間が居なくなった後の、畿内の軍事的空白を埋めたのも明智光秀。
630名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 08:47:27.54 ID:yiTgvnmv0
村岡さん話を蒸し返すのはやめろ
631名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 08:49:18.82 ID:zUj50caw0
>>628
> まぁ邪魔だったんだろうな

ノンノン。 林佐渡は問答無用の追放ですが、

佐久間には発奮して功績をあげることで会稽の恥をすすぐか、
追放に応じて高野山へ行くかの2択を選ばせているので、そう単純な話ではない。
632名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 09:30:08.75 ID:GFpSqnaC0
>>627
長井新左衛門
昔は油売りが一代で成り上がったと思われてたけど
数十年前に発見された手紙で親子2代説が有力になった
633名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 09:39:30.73 ID:GaFwcPfG0
毛利元就は一代にしてあの巨大帝国を作り上げたからな。
毛利は由緒ある国人には違いないが、元就の前まではどこにでもいる普通の国人にすぎなかった。
634名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 09:47:39.16 ID:6OinlzJJ0
>>554
嘘っていうか
資料に基づく検証がされてない通説を
覆しまくったのが戦後日本歴史学の歩み
635名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 10:29:33.48 ID:57UXRkKh0
>>629
なにか勘違いしてるようだが、佐久間は対本願寺で出張っていただけで畿内を治めていたわけではない。
その後を光秀が襲ったわけでもない。

っていうか軍事的空白って何よ?
畿内に何か目的を持って大軍を置くってことがそれを指すのなら、畿内に軍事的空白ができたのは本願寺と和睦がなったからという他ない。
636名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 10:59:52.29 ID:zUj50caw0
>>635
方面軍の軍団長として佐久間は近畿地方が担当だったので、
近畿の大名・武将が与力に付けられている。

紀伊征伐、大和信貴山攻めにも参加している。

大和の筒井順慶が織田氏に臣従したのも佐久間と明智の口利きだった。

佐久間が居なくなれば、近畿地方の大名・武将は動員されるときも
光秀に一本化されるし、事実一本化された。
637名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 11:05:21.12 ID:GaFwcPfG0
佐久間は織田譜代の最有力者だったから尾張、三河、美濃に多くの領地と与力を抱えていた。
粛清されたのはそいつらを信長・信忠の直轄に編成し直すためだろう。
畿内を任せるに相応しい光秀という人材もいるし、

信長の考えはそんなとこだろう。
638名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 11:11:51.54 ID:Smcf1xw60
>>611
わざわざ織田家を持ち出さなくても、肥後細川家の直系子孫と言うだけで相当な血筋だろ。
そもそも母方の話を持ち出したら、皇族の血が入ってるからな護煕は。
639名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 11:17:55.37 ID:6ka1RzcI0
母方でいいなら大友宗麟の子孫でもあるけど話題になってるのをあまり見た事が無いな
640名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 13:01:49.97 ID:a/750gJX0
トップページ > AV女優リスト > 有村千佳

有村千佳
641名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 13:04:13.14 ID:E9h/NVOn0
母方持ち出さなくても細川は皇室の血を引いているわけだがな
642名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 13:29:06.33 ID:WBn0ot6M0
>>617
曖昧って?w武士とドン百姓、支配者と被支配者、明確に違うだろ

>天下を取った

日本の歴史(中世〜近世)

◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝

◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国碧海郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数

◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている

◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ

◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平

◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
643名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 13:48:42.94 ID:TrU3zT490
>>642
話が噛み合って無いよ、
617は尾張と三河の境界が曖昧と書いてあって、身分の話はしてないようだが・・・。
644名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 14:00:50.80 ID:7GrzlXcN0
三河武士はコンプレックスの塊
最初は尾張、次に駿河、最後に甲斐の武田にボコボコにされる
復讐出来たのは、当主が替わってから
645名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 14:16:19.96 ID:WBn0ot6M0
>>643
三河に尾張ゆかりの物は一切ない
曖昧どころか交流が一切ないのだよ
尾張ドン百姓は、1400年尾張に引きこもりの田吾作だからなw


文句があるなら、何か一つでも上げてみろ
646名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 14:18:41.03 ID:Uc6fEqeu0
そもそも守山崩れが嘘だしな
647名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 14:30:27.51 ID:WBn0ot6M0
織田信吉とか肥後細川家とかw
パゴヤのドン百姓が細川家を語るとはw



細川護熙氏墓参記念碑(平成7年(1995)10月28日)
http://sakuraoffice.com/hosokawamorihiro.html



一番尊敬しているのは細川頼之(但し護熙は頼之弟の頼有の系統)だったかな
本人の考えが明確ではないか


パゴヤや熊本がしゃしゃり出てくるんじゃない
648名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 14:33:30.56 ID:wM2Yp7isO
三河兵は尾張兵より強かったんじゃなかった?
後世の我々は大久保彦左にたばかられてるのか?
649名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 14:36:46.80 ID:+MgqpGcri
尾張は先進地域だから最弱の部類だろ
650名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 14:37:47.83 ID:WBn0ot6M0
部外者たるパゴヤのドン百姓が細川家を語るなよw


日本の由緒正しい支配層(金では買えないステイタス)

公家(No.1、No.2)
・近衛家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)からの養子
・鷹司家←現当主(伊勢神宮大宮司)は大給松平家(三河国加茂郡大給、愛知県豊田市)からの養子


武家(No.1、No.2)
・喜連川家←現当主は細川家(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)からの養子
・細川家(三河国額田郡細川、愛知県岡崎市)



細川家菩提寺
・隣松寺(愛知県豊田市幸町隣松寺126)
・蓮性院(愛知県岡崎市細川町字権水56)

細川家氏神
・村積神社(愛知県岡崎市奥山田町字山田46)


大給松平家菩提寺
・松明院(愛知県岡崎市細川町字根古屋123)

大給松平家菩提寺
・村積神社(愛知県岡崎市奥山田町字山田46)
651名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 14:40:25.97 ID:TrU3zT490
うちの苗字、岡崎にゆかりのある苗字なんで、一度ゆかりの地を訪ねて見たいと思っていたが・・・。
やめとこうかな、なんか怖い。
652名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 14:43:41.47 ID:rdC9wIGQ0
>>1
知らんかったの?
653名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 14:46:55.80 ID:J2+yyE4L0
つまり清洲同盟は信秀の代からすでに雛形があったってことか?
じゃあ桶狭間で松平元康が先陣を切ったってことは
信長の情報源は・・・
654名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 14:53:30.82 ID:1rx1BVcY0
『信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名・斯波氏の被官で下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行・古渡城主という家柄であった。』

分家の中でも一番下っ端だったのにあれだけやれたのは、自身の才以上に父親が津島を支配して富を築いていたからだよな
655名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 14:56:57.03 ID:HhaPTLmK0
三河兵が強いとか徳川による創作が入りすぎてて半ば誇大広告だと思った方が無難
まあ天下取ったくらいだから軟弱ではなかっただろう、三河も尾張も
656名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 15:00:23.96 ID:kfU8H/J/0
>>606
そのことわざは日本でなくて中国だよ
きみ馬鹿?
657名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 15:04:20.79 ID:WBn0ot6M0
パゴヤは血筋を語るんじゃない、尾張ドン百姓は血筋とは無関係だろうがw



崇仁親王妃百合子
・旧名、高木百合子
・高木家は河内国丹南藩1万石の大名
・母・邦子は入江為守子爵の娘


寛仁親王 http://blog-imgs-53.fc2.com/t/o/r/toriton/koushitu892b6.jpg
高円宮憲仁親王 http://livedoor.blogimg.jp/yamato26840/imgs/e/3/e352c4c5.jpg


高木氏発祥の地
http://kikakubito.cms.am/modules/gnavi/index.php?lid=60
高木氏は安城市高木町の出身で、三河一向一揆で家康に味方し戦功がありました。天正18(1590)年家康の関東移封の際、相模国に5千石の領地をもらい、
その後加増を経て河内国丹南1万1千石の大名となりました。
三笠宮崇仁王に嫁がれ、ヒゲの殿下・三笠宮寛仁親王の母上である百合子妃はその子孫です。


三河高木氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_takagi.html


高木氏菩提寺
栖岸院(東京都杉並区永福1丁目6−12)
http://www.tesshow.jp/suginami/temple_eifuku_seigan.html
栖岸院はもと三河国村高庄(現愛知県安城市)にあった長福寺という浄土真宗の寺で、天正19年(1591)麹町八丁目に寺領を拝領して江戸に移り、
寛永16年(1639)に安藤重信の子重長が中興開基となって、父重信を開基、妙誉秀慧を開山に招聘、浄土宗の寺として改めて開創、大正9年に当地へ移転しました。
658名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 15:05:10.48 ID:Jdp/u6/qO
信秀って結構凄いよね
強烈な息子の影に隠れがちだけど
659名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 15:13:14.73 ID:Py6JBBm80
>>658
実質的には尾張の盟主だったんでしょうな
ただ、守護代家等を完全に押さえ込むまではいってないにしても
もうちょい長生きしてれば 信秀の代で尾張統一はできていたでしょう
660名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 15:33:45.34 ID:zUj50caw0
>>659
そう思う?

俺は(朝倉氏のように)三河守護を手に入れて、
主人の主人の斯波家と形式的に「対等」、主人の清須織田家を凌駕してから、
あらためて尾張を統一するのが信秀のプランだったと思う。

三河守にわざわざ正式に任官しているのもそのあらわれ。
661名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 15:39:19.25 ID:zUj50caw0
もちろん三河守護職を手に入れるのに全三河を平定する必要はない。
西三河を平定すればそれで十分。

東三河とか奥三河は従属してくれるか、
従属せずとも静かにしていてくれればそれでいいわけ。

あくあでも三河守護職という大義名分を手に入れるのが目的だからね。
662名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 15:53:35.70 ID:WBn0ot6M0
>>655
誇大広告ってw思い切り君臨しとるがな
パゴヤは論外、ただのドン百姓だからなw


室町幕府樹立後(開府〜観応の擾乱) 西三河の日本支配構造

【東海道】
・伊賀国守護:仁木義直、細川清氏、仁木義長、高師冬
・伊勢国守護:高師秋、仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・志摩国守護:高師秋、仁木義長、石堂頼房、細川清氏、細川頼之
・尾張国守護:中条秀長、高師泰
・三河国守護:高師兼、仁木頼章
・伊豆国守護:石堂義房、上杉重能
・遠江国守護:今川範国、仁木義長、今川範氏
・駿河国守護:石堂義房、今川範国、今川範氏
・武蔵国守護:高重茂、高師冬、高師直、上杉憲顕、仁木義章
・安房国守護:斯波家長
・上総国守護:高師直

【畿内】
・摂津国守護:仁木頼有、細川繁氏
・和泉国守護:畠山国清、高師泰、細川顕氏
・河内国守護:細川顕氏、高師泰、畠山国清

【北陸道】
・若狭国守護:斯波(大崎)家兼、斯波高経、斯波氏頼、細川清氏、石橋和義
・越前国守護:斯波高経、細川頼春、斯波氏経
・越中国守護:吉見頼隆、細川頼和、斯波高経

【東山道】
・奥州探題:斯波(大崎)家兼
・羽州探題:斯波(最上)兼頼
・上野国守護:上杉憲房、上杉憲顕
・下野国守護:高師直、仁木頼兼
663名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 15:55:09.72 ID:WBn0ot6M0
>>662
続き


室町幕府樹立後(開府〜観応の擾乱) 西三河の日本支配構造

【山陰道】
・丹波国守護:仁木頼章、高師詮
・丹後国守護:今川頼貞、荒川詮頼、上杉朝定、上野頼兼、仁木頼章
・但馬国守護:今川頼貞、吉良貞家
・伯耆国守護:石橋義和
・石見国守護:上野頼兼、高師泰、荒川詮頼
・因幡国守護:吉良貞家、今川頼貞
・伯耆国守護:石橋和義

【山陽道】
・備中国守護:細川頼之
・備後国守護:仁木義長、石橋和義、細川頼春

【南海道】
・紀伊国守護:畠山国清、
・淡路国守護:細川師氏、細川師春
・阿波国守護:細川和氏、細川頼春、細川頼之
・讃岐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之
・伊予国守護:細川頼春、細川頼之
・土佐国守護:細川顕氏、細川繁氏、細川頼之

【西海道】
・九州探題:一色範氏、一色直氏、細川繁氏、斯波氏経
・筑前国守護:一色直氏
・肥前国守護:一色直氏、一色範光
・肥後国守護:一色直氏
・日向国守護:細川頼春、一色直氏
664名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 15:59:01.29 ID:LNWHNgdQ0
>>660
隣が今川なので、あまり良いプラントはいえないぞ、それ。
665名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 16:01:24.46 ID:OntmeFaJ0
最近、織田信成がバラエティに出まくってるけど
平気で織田信長の末裔売りしてるよね
情弱騙してよく出れるね
666名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 16:15:50.68 ID:zUj50caw0
>>664
でも実際、信秀はそのように行動している、今川氏豊から那古屋城を奪取したときから、
首尾一貫して今川と衝突してるでしょう?

今川が遠江を勢力下におさめたのも、今川義元の父の代、
そう昔の話ではない(1510年代)、遠江は斯波氏が守護だった時代もありますから、
そう安定しているわけでもないのですよ。
667名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 16:27:43.61 ID:LNWHNgdQ0
>>666
三河守護を名目上手に入れても、
実力がなけりゃ、自称レベルと変わりがないわけで。
実際、今川が強勢になる状態で、
うかつに2正面になる方策を採るかね?

事実、その後、今川が三河支配してるし、
尾張東部まで進出して、地盤を確固たる物にするべくの桶狭間だったわけだし、
668名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 16:33:51.33 ID:zUj50caw0
>>667
実力はあるし、最終的に美濃の斉藤道三と婚姻関係を結んで、後顧の憂いを断った、
二正面を回避して、三河へ全力を注ぐ姿勢を示していたじゃないですか。

そのしばらく後に、すぐ死んじゃったわけですけどね。

斉藤道三と縁組以前に、今川の捕虜になった庶長子の信広も、
「最前線」の安祥城へわざわざ入れてましたし。
669名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 16:36:34.18 ID:wxnsu9Qe0
>>611
バカ殿が信長の末裔だったのか
スケート選手よりもこっちを取り上げろよ
670名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 16:39:07.55 ID:zUj50caw0
つーか、そもそもこのスレがどういうスレか、>>1に何が書いてあるかわかってます?

織田信秀の勢力が一時的にせよ岡崎にまで到達していた、って話ですよ。

それに信秀がどのように考えていたか、実際にどう行動したかと、
それが妥当であるか、賢明であるかどうかはまた別問題ですし。

私は十分成算のあるプランだった、悪くないプランだったとは思いますけどね。

遠江を斯波家から奪った今川家を討つことは、
斯波家中、織田家中で大義名分としては十分、誰も正面切って反対できないもので、
なかなか邪魔をしにくいですから。
671名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 16:54:29.60 ID:TrU3zT490
>>669
細川家の末裔という時点で十分凄いですからね、なにせ鎌倉時代までは確実に遡れる家系です。
672名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 17:05:14.83 ID:+MgqpGcri
細川なんて、すくなくとも室町時代からは日本の中枢に居た勢力じゃん。
673名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 17:57:27.08 ID:Oc2E0iwY0
>>672
我が家の財産は応仁の乱で燃えちゃった、と語ったぐらいだからな。
674名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 18:01:51.56 ID:zUj50caw0
>>673
まああれはハッタリなんだけどねw

なぜなら護煕は(京屋敷はあったにせよ)和泉上守護家の血筋であって、
宗家の細川京兆家の家系ではないから。
675名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 18:03:39.23 ID:WBn0ot6M0
織田信吉の話はいいからw
ゴミ遺伝子など何とも思っていないw




細川護熙氏墓参記念碑(平成7年(1995)10月28日)
http://sakuraoffice.com/hosokawamorihiro.html



細川護煕 地蔵院 細川頼
https://www.google.co.jp/search?q=%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E8%AD%B7%E7%85%95+%E5%9C%B0%E8%94%B5%E9%99%A2+%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E4%B9%8B&oq=
%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E8%AD%B7%E7%85%95+%E5%9C%B0%E8%94%B5%E9%99%A2+%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E4%B9%8B&aqs=chrome..69i57.26496j0j4&client=tablet-android-lenovo&sourceid=chrome-mobile&espv=1&ie=UTF-8




一番尊敬しているのは細川頼之(但し護熙は頼之弟の頼有の系統)だったかな
本人の考えが明確ではないか
676名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 18:04:54.24 ID:+MgqpGcri
総理になるのが決まったとき周囲から記念にと差し出された色紙に「源護煕」と揮毫したとか。
677名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 18:13:31.34 ID:Vri1S8jb0
かっこいいやん
678名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 18:18:43.52 ID:TrU3zT490
>>676
誰も文句のつけようがないものな。
679名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 20:44:12.99 ID:WBn0ot6M0
しかしアレだな、今川に教育されなければ、吾妻鏡を読む事すらなかった、という発想は何処からくるのか?ドン百姓だからか?w
実朝と猶子の公暁、北条政子亡き後、縁者として菩提したのは、三河の頼朝関係者ではないか


金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)

・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める


・源実朝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝

・公暁
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源頼家→公暁(母親は足助重長(三河国加茂郡足助)の娘)

・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)

・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)

・足利義氏
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
680名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 20:49:35.59 ID:WBn0ot6M0
>>679
続き

・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河国司)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)


葛山氏

大森葛山系図は内大臣藤原伊周の後裔としているが真偽のほどは不明。
大森葛山氏の祖惟康は三河高橋の領主で甲斐・駿河両国の守となり,以後大森氏は親康,親家と続いて鎌倉御家人を輩出した。
葛山氏は親康の弟惟兼の流れをくむもので,惟兼の子惟忠を経てやはり鎌倉御家人を多く出している。


大森葛山の祖・高橋惟康
「伊勢新二郎大夫、成高橋殿、三河国高橋庄領主故号、母実範三位女、外戚伯父伊勢権守令養育之」


寺部八幡宮(愛知県豊田市社町1)

寺部八幡宮は、平安時代に高橋荘の領主高橋惟康が、不動堂村の館内に、石清水八幡宮を勧請し祀ったことがおこりです。
その後、惟康の子孫高橋氏が、長承2(1133)年3月15日再勧請造営したのが始まりです。
往事は数多い神宮寺を有していたと伝えられていますが、現在わずかに悟楽寺、儀隣寺の二ヶ寺の寺名のみ伝えています。


不動堂館(愛知県豊田市上野町1丁目)

平安時代(794〜1185/1192年頃)、藤原北家の流れを汲む高橋惟康は伊勢国に生まれ、伊勢新二郎大夫と称した。
母三位女の所領三河国加茂郡高橋荘を相続し、荘内の高橋郷〔上野町1丁目〕に在住して高橋殿と称され、三河国高橋氏の祖になった。
1060年惟康は駿河国へ移住。惟康の遺蹟として社町八幡社〔豊田市社町〕、神明神社〔豊田市上野町7丁目〕、香良須神社〔豊田市市木町谷耳太〕などが考えられる。
場所は上野町1丁目とされ、現在は畑地、住宅となり、遺構は無い。
681名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 20:50:45.27 ID:WBn0ot6M0
>>680
続き

■金剛三昧院(和歌山県伊都郡高野山425番地)
愛染明王
http://www.kongosanmaiin.or.jp/attractive/aizen_myouou/index.html
当院の本尊、愛染明王(あいぜんみょうおう)像は、鎌倉幕府を開いた源頼朝公が亡くなった際、正室の北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し
、頼朝公の等身大の坐像念持仏(ざぞうねんじぶつ・今日の愛染明王像)として作成された、当院建立の原点となるものです。

■滝山寺(愛知県岡崎市滝町山籠107)
聖観音菩薩立像
http://takisanji.net/jihou_hou_seikan.html
熱田官司藤原範忠の子、寛伝が従兄弟にあたる源頼朝の菩提を弔うために正治三年(1201年)建立した惣持禅院に安置したもの。
仏師は運慶とその長男湛慶で、頼朝の等身大で顎髭(又は鬢の落毛)と歯を胎内に納めたという。

・寛伝
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→藤原範忠→寛伝

法華堂阿弥陀仏(消失)
建長7年(1255年)、滝山寺で足利義氏の一周忌法要が営まれた際、、法華堂が新たに建てられ、出家し尊観と名乗っていた足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))が
、その本尊である阿弥陀仏を高野山より迎え、義氏の遺骨を胎内に納める

・足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))
藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→娘(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)→足利義継(長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬))

関連事項
■専長寺(愛知県西尾市吉良町吉田斉藤久100)
阿弥陀如来坐像(本尊)
http://www.city.nishio.aichi.jp/index.cfm/8,14707,91,408,html
鎌倉幕府3代将軍源実朝の菩提を弔うために夫人の本覚尼(ほんがくに)が京都に建立した遍照心院大通寺の本尊であった。寛喜3年(1231)に落慶供養会が行われた(『名月記』)。
明治初年の廃仏毀釈で編照心院が維持困難になったため、浄土宗西山深草派の本山誓願寺に移され、明治17年に同派の専長寺に本尊として安置された
682名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 21:15:57.22 ID:Tv3hCsjp0
>>24
筑前筑後肥前肥後「」
相模武蔵上野下野「」
信濃越後出羽陸奥「」
683名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 21:23:19.29 ID:4Na7pDoS0
>>469
緩衝地帯は場合によってどちらにも味方するのでなんとも言えない
684名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 21:38:05.17 ID:z+6Mwx+n0
ちょっと覗いてみたら意外に盛り上がってて、自分の不勉強さを嘆こうかと思ったら、
同じIDが多くて安心した。

そんな人は私だけではないだろうw
685名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 21:43:23.59 ID:Tv3hCsjp0
>>138
してねーし
尾張統一してたらソコソコ戦えるだろ
686名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 21:49:42.21 ID:MgtoelP90
>>684
歴史好きって数は少ないね
少し興味あるような一般人の9割以上は信長秀吉だけのファン
687こんにちはネトウヨです@転載は禁止:2014/07/01(火) 23:44:13.22 ID:yJZ5tcMW0
三河で松平清康をはじめ、「清」の字を冠する人物が一時期に固まって発生する。
誰の偏諱なんだろう。
688名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 23:45:23.11 ID:fBW+ZWwa0
三河が独特なのはガチだな・・・・
689名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/01(火) 23:48:17.29 ID:fBW+ZWwa0
信長の前で蹴鞠をしてウザがられる
家康の前で講釈をたれてウザがられる
奥さんが実家より大切にする旦那
夫婦円満
蹴鞠のプロ
歌を理解した教養人

一流だな。
690名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 00:26:36.98 ID:/b4+lluB0
出自が悪く、過大評価の織田信吉の話はいいから、元祖バサラ、由緒正しい高階流、高師直の話をしようぜ
織田信吉など高師直のパクリだから


高師直 http://sengoku-neta.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_ac8/sengoku-neta/E3819FE3818BE38186E38198.jpg?c=a0


武庫川 高師直
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%AD%A6%E5%BA%AB%E5%B7%9D&ie=utf-8&oe=utf-8&aq=t&rls=org.mozilla:ja:official&hl=ja&client=firefox-a#hl=
ja&q=%E6%AD%A6%E5%BA%AB%E5%B7%9D%E3%80%80%E9%AB%98%E5%B8%AB%E7%9B%B4&rls=org.mozilla:ja:official&safe=off


明阿
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E9%98%BF
明阿(みょうあ、生没年不詳)は南北朝時代の女性、尼僧。実名は不明。足利氏の執事を務める高氏の出身で、観応の擾乱で一族の大半が滅ぶと、その菩提を弔うため、総持寺(愛知県岡崎市)建立に奔走しその開基となった。
691名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 00:27:42.87 ID:/b4+lluB0
>>690
続き


高氏所領
・三河国額田郡菅生郷、三河国額田郡比志賀郷、三河国額田郡政所、三河国額田郡矢作東宿、三河国下村中山郷雑役免(進退分十家名)


■高師氏
・父は高重氏
・右衛門尉、法名心仏
・三河国額田郡菅生郷・比志賀郷(愛知県岡崎市)地頭
・永仁4年(1296)3月1日、他家に嫁していた娘の稲荷女房(法名心妙)に三河国額田郡比志賀郷を譲る(総持寺文書)
・正安3年(1301)2月15日に満性寺(愛知県岡崎市)に菅生郷の土地を寄進する

■高師重
・父は高師氏
・三河国額田郡菅生郷地頭
・暦応2年(1339)に足利尊氏の命令で、三河国額田郡比志賀郷(愛知県岡崎市)に八幡社とともに深恩院総持寺(現在は広祥院)建立する

■高師兼(室町幕府最初の三河守護)
・五郎左衛門尉、尾張守、刑部大輔
・父は高師春、母は高師直の妹。高師直の猶子
・高師直より、藤原冬房領三河国碧海荘三木今一色の知行保持を命じられる(建武4年(1337)5月13日付高師直奉書)

■貞円
・父は高師重、高師直・高師泰の弟
・滝山寺(愛知県岡崎市)大勧進

■三郎
・父は高師秋
・滝山寺(愛知県岡崎市)僧

■明阿
・父は高師泰、夫は高師冬(高師直の
養子)
・観応の擾乱で一族の大半が滅ぶと、その菩提を弔うため、三河国菅生郷(愛知県岡崎市)に総持寺を建立する、
・三河国菅生郷(愛知県岡崎市)の旧領は、一旦足利将軍家領となり、将軍家より総持寺に寄進された

■いち
・父は高師世(高師泰の息、明阿の兄)
・明阿が三河国菅生郷(愛知県岡崎市)に建立した総持寺の初代住持
692名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 01:08:23.39 ID:BWdVoXzc0
>>645
涙拭けよ、期間工。
693名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 01:45:38.64 ID:n9tmciWF0
三河を尾張と駿河で取り合ってたって事でおk?
694名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 02:01:57.97 ID:kT+CLklh0
>>36
本郷先生は「センゴク」の監修もしてるまともな歴史研究者だよ。

たかが漫画なのに歴史考証がすごいだろ。
695名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 06:51:56.26 ID:QGIB0d7O0
この説が事実だろうがそうで無かろうが結局は清康が強かっただけで
もともとは今川か織田に臣従するしか無い程度の弱小だったってだけの話だろ
696名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 07:22:39.68 ID:BSzeyGy20
>>695
三河は草刈り場。
家康になってようやく岡崎松平の優位が確定した。
これには織田徳川連合が非常に大きく作用した。
それを決断した家康の力量といえる。
697名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 08:51:16.47 ID:jHHn3Jx5O
信秀がなんで竹千代を殺さなかったか腑に落ちた
最初から自分とこに来る予定の人質をいきなり殺すキチガイはいないからな
698名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 12:55:50.47 ID:F0mZT0Ov0
age
699名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 13:49:27.58 ID:F0mZT0Ov0
1551年(織田信秀死亡年)の勢力図
http://www.geocities.jp/seiryokuzu/c1551.jpg

太閤検地時代の各国の石高
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html

織田46万・・・尾張×4/5 57万×4/5=46万
今川(従属松平)70万 ・・・三河・遠江・駿河 29万+26万+15万=70万
斉藤54万・・・美濃 54万
武田44万・・・甲斐・信濃×1/2 23万+41万×1/2=44万
北条155万・・・伊豆・相模・武蔵・下総・上総×1/2 7万+19万+67万+37万+38万×2/3=155万
里見24万・・・上総×1/2・安房 38万×1/2+5万=24万
長尾58万・・・越後・越中×1/2 39万+38万×1/2=58万
朝倉50万・・・越前 50万
浅井20万・・・近江×1/4 78万×1/4=20万
六角59万・・・近江×3/4 78万×3/4=59万
三好97万・・・摂津・和泉・淡路・阿波・讃岐・伊予×0.3=36万+14万+6万+18万+13万+34万×0.3=97万
長宗我部2万・・・土佐×0.2=2万
毛利21万・・・安芸×0.7・備後×0.4=19万×0.7+19万×0.4=21万
尼子106万・・・石見×2/3・隠岐・出雲・備後×0.6+伯耆+因幡×1/2+備中・美作・備前×0.6=
      11万×2/3+4万+19万+19万×0.6+10万+9万×1/2+18万+19万+22万×0.6=106万
陶39万・・・周防・長門・安芸×0.3・石見×1/3・豊前・筑前=17万+13万+19万×0.3+11万×1/3=39万
大友89万・・・豊後・筑後・肥後×0.6=42万+27万+34万×0.6=89万
島津50万・・・薩摩・大隅・日向×0.3=28万+18万+12万×0.3=50万


毛利と長宗我部が凄いなやっぱり
毛利は尼子に手こずったはず


三河が織田領だったら
織田75万・・・尾張×4/5・三河 57万×4/5+29万=75万
今川41万 ・・・遠江・駿河 26万+15万=41万


仮に信秀時代に三河治めてたらもっと全国に名前轟いてたんじゃないの?
700名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 13:59:20.34 ID:CjpKRm9u0
中小 ◆6LxJTC/oRc とかいう朝鮮系の投資顧問グループの工作コテがシャープ板で暴れてる。
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1401940663/

ホンハイとペテン禿の依頼を受けているようで、しつこく「ホンハイはすごい。テリーの出資を受け入れろ」だの
「シャープは液晶部門を切り離してホンハイに譲渡しろ」だの繰り返してる。

朝鮮と仲が良い朝日の関係者の可能性が高いw
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1403696876/382-384n

空気読めないところが日本人離れしてるっつうかルーチンワークの工作レスなんだとわかるけど、
インサイダー情報や儲け話に目がないホンハイとペテン禿がこんだけIGZOに必死だからシャープ買っといたほうがいいかもよw
701名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 14:01:10.29 ID:jNGumeSS0
結局オカザえもんってことか
702名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 14:03:35.09 ID:VDQ4xxCG0
>>699
すげーこんなのあるんだ。
里見が生き残ったのが疑問。北条が全力を挙げれば叩き潰せたはずなのに
703名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 14:10:55.77 ID:F0mZT0Ov0
国力は石高
石高は平野部
いくら土地の面積が広くても平野部抑えてないと弱い
関東が凄いのと、意外なところでは近江や越前が石高高いこと
太閤検地時代では越後もそんなに米どころではないし
武田は軍隊は強いと言われても米が取れないから国力は弱い
その代わり副次収入の金があったみたいだけど
704名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 15:17:21.53 ID:uV3hZjWe0
>>699
> 三河治めてたら

上に立った事がない、無理w

何故名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」 

尾張の歴史

◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。

藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼

◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。

◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国幡豆郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国幡豆郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。

◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。

◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。
705名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 15:19:38.59 ID:UcWY8wVhO
旧説もよくわからんわ
706名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 15:22:37.34 ID:uV3hZjWe0
那古野荘
・開発者:小野法印顕恵(東大寺別当)

藤原顕隆→顕頼→小野法印別当
藤原顕隆→顕頼→女→平滋子(建春門院)
藤原顕隆→顕頼→惟方→為頼→経長

平安時代
・小野法印顕恵が開発
・小野法印顕恵は姪の平滋子に領家職を譲る

鎌倉時代初期〜中期
・領家職は、小野法印顕恵の兄、惟方の孫である経長に移り、女系が伝領する

鎌倉時代末期〜南北朝
・足助氏(三河国賀茂郡足助)が領家職となる

室町時代
・今川那古野氏が領家職となる
初代は、名越高家と今川国氏(三河国碧海郡今川)の娘の子である名越高範か?
・1522年頃、今川氏親(三河国碧海郡今川)が那古野城築城

江戸時代
・徳川家康が名古屋城築城




万年パシリの尾張ドン百姓w
707名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 15:47:20.27 ID:ofmteA7z0
>>702
江戸湾の制海権争いは里見優位だった上に、今の江戸川区・葛飾区エリアは大湿地帯で
大軍を動かすには不向きな土地だった
江戸時代までは利根川の本流は江戸湾に流れてたからね
708名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 16:01:13.40 ID:VDQ4xxCG0
>>707
そっか。大きな山もないし、普通に進軍すれば房総半島から追い落とせると思ってた
709名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 16:09:30.69 ID:yAUimxtU0
>>699
てか、こういうの見ていつも不思議に思うんだが、斎藤がたいてい美濃統一してたことになってる件
実際は西美濃支配して中美濃にクサビ打ち込んでた程度なんだけどね
東美濃なんてほぼ手出ししてない状態
710名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 17:16:56.62 ID:3eC4z9uj0
>>699
石高だけでは単純比較は難しい。

たとえば、織田には交易収入が、今川と武田には鉱山収入があるから。
711名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 17:20:59.34 ID:W8gWBplV0
岡崎とって京都いってるなら守護になれるのになってないので嘘
712名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 17:24:18.91 ID:AbDErRKt0
>>711
松平氏は滅んでいないわけだから、ごく一時的に従属させただけでしょ。
713名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 17:31:41.54 ID:W8gWBplV0
>>712
従属時点で守護になれるから・・・
714名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 17:42:54.87 ID:AbDErRKt0
>>713
守護所を掌握するところまで行かなかったのでは?

朝倉氏の例を見ても、守護の家柄でない家が守護になるのは、
手順を踏む必要がある、そうすぐに決まるものでもないですよ。
715名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 18:02:25.65 ID:W8gWBplV0
>>714
織田家は代々尾張守護だから
716名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 18:04:19.33 ID:AbDErRKt0
>>715
尾張守護は斯波氏だろ。
717名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 18:13:05.65 ID:QGIB0d7O0
実際、地力の問題で武田の外征動員力って全盛期でも15000程度じゃね?
長尾も関東から動員出来なきゃ似たようなもんだろうし
718名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 18:18:11.81 ID:kT+CLklh0
>>699
「信長の野望」じゃないんだから、46万石といっても、
46*300=13800の兵を指示ひとつで将棋の駒のように動かせるわけじゃないよ。

あくまで、表面上は従属を表明している豪族の領地の合計が46万ってことだろ。
大名本人でどの程度の兵を自由に動かせるかは全然違う問題だと思う。

一方、信長みたいに港からの税収で得た現金を傭兵に突っ込めば
特攻でも何でも命令できる兵が出来る。これは石高という評価軸では比べられない大きなメリットだよ。
(一定割合の逃亡兵は想定内)
719名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 19:50:38.25 ID:qLoSNni70
>>689 文化人も追加しておいて

文字の美しさは素晴らしい
720名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 19:52:15.84 ID:20RCfJMv0
ご先祖様を悪く言うのはやめてください
721名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 21:59:50.47 ID:HfjSIRSMO
面白い
722名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/02(水) 22:20:28.43 ID:286lds8A0
>>709
そうそう
遠山家が頑張ってたんだよね
723こんにちはネトウヨです@転載は禁止:2014/07/02(水) 22:28:53.70 ID:S4oJZVX30
郡上も加茂以東も完全従属していたわけでないし。
724名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 11:37:38.45 ID:9FSFHT7D0
>>699
新発田重家の反乱が反映されてないとか不満があるけど、
よくこんなのつくったな。たたき台にして、もっと細かいのつくってほしい
725名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 11:39:48.60 ID:LzVqfuux0
戸田康光に謝れ!
726名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 12:01:22.68 ID:QN7LAM0Y0
新発田重家?
727名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 12:15:12.56 ID:+t7NsIA20
>>724
「1551年(織田信秀死亡年)の勢力図」と言っているのに、新発田重家はないだろw

まだ幼児じゃねえか。
728名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 12:56:17.86 ID:IBrkQ2X6i
石高だけで大名の優劣図るとか
三戦廚だなw
729名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 13:07:41.43 ID:9FSFHT7D0
>>727
リンク先見てみれ。
730名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 13:08:04.19 ID:XTQrAFMd0
何のデータもないよりは参考になるよ
731名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 13:09:56.67 ID:9FSFHT7D0
>>727
直接見てみわからないか。c1551以下を削って
//www.geocities.jp/seiryokuzu/
732名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 13:20:45.76 ID:UwRI2X5hO
>>699
秀吉時代の毛利領は、まともな検知をされていない。だから実際はこんなもんじゃない。
それと陶に筑前・筑後が入っていないのがおかしい。
733名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 13:31:38.03 ID:UwRI2X5hO
>>703
江戸時代に入り、大規模治水・利水工事が出きるようになったから、陸前・庄内・越後・肥後の石高が馬鹿みたいに上昇した訳だが、
この時代は大規模工事なんか不可能な国人がバラバラに喧嘩していた時代だから、
山がちな土地(扇状地)での小規模農業が主力。
太閤検地では畑も無理矢理換算していた旧北条領域、、、武田側から小田原攻撃出来たのは北条領域はそんな太閤検地程は豊かじゃないから。
勿論秀吉それを知っているから家康を関東に飛ばした。
734名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 13:33:36.15 ID:+t7NsIA20
>>729 >>731
日本語でおk >>699に何の関係があるの?
735名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 14:32:41.48 ID:2DVSeYxe0
だいたい源氏の血筋が松平なんて名乗るとか無理ある
736名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 14:58:11.87 ID:INDcdVq50
すきらじ更新まだかな〜
737名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 15:19:59.84 ID:F72fnApH0
真っ黒けの炭になった間抜けな織田信吉の話はいいから、足利義満の話をしようぜ


足利義満(3代目足利将軍、1358〜1404)年表

【1351年】高師泰・高師直他高一族8人が、摂津国武庫川で殺害される
【1351年】仁木義長(兄の仁木頼章は幕府執事(管領の前身))が、三河守護(前任は高師兼(高師直の猶子)になる
【1357年頃】明阿(父:高師泰、夫:高師冬(高師直の養子))が、三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)に、一族を菩提する総持寺を創建する、住持は兄・高師世の娘
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【1358年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)の屋敷で生まれる
【1360年】大島義高(新田氏流)が三河守護になる(新田義重―里見義俊―義成―大島義継―時継―盛義―義員―義昌―義高)
【1367年】足助重宗(足助重範の孫)の子・重政(寛立上人) が、松平郷主・在原信重の支援を得て、三河国加茂郡松平郷に寂静寺(高月院の前身)を開創する
【1368年】管領・細川頼之を烏帽子親として元服する
【1368年】三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)に、天恩寺を創建する、足利尊氏遺言の寺、開創は永源寺2世弥天永釈、4代目将軍足利義持の祈願所
【1369年】三河国宝飯郡御馬郷(愛知県豊川市)に御馬城築城を、管領・細川頼之に命ずる、頼之は弟の頼有に命ずる
【1370年】三河国設楽郡(愛知県新城市)に甘泉寺創建か?、天恩寺と同じ永源寺2世弥天永釈開創、御朱印高48石、山林境内20余町歩を寄進する
【1379年】管領・細川頼之失脚、斯波義将が管領になる(康暦の政変)
【1379年】伊勢貞継(初代伊勢氏・伊勢俊継の孫)を政所執事に任ずる
【1379年】一色範光(侍所頭人、若狭守護、、尾張国知多郡・海東郡の分郡守護)を三河守護に任ずる
【1380年代】管領・斯波義将が、斯波氏先祖代々の墓所がある三河国碧海郡(愛知県岡崎市)に、永源寺の創建を申し出る、これを支持し将軍家安泰を併せて祈願
【1380年代】三河国額田郡(愛知県岡崎市)の滝山寺本堂(4度目)を建替える
【1382年】源信氏(細川一族か?)が義満誕生日祈祷の為、三河国額田郡片寄郷(愛知県岡崎市)など4ヶ所を天恩寺に寄進する
【1387年】三河国額田郡下和田郷(愛知県岡崎市)を、京極高詮に還付する
738名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 15:21:17.50 ID:F72fnApH0
>>737


【1388年】富士山遊覧、三河国額田郡(愛知県岡崎市)の矢作宿に宿泊する
【1388年】一色詮範(侍所頭人、若狭守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1390年】管領・細川頼之が、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市)の屋敷跡に、蓮性院を創建する
【1390年代】足助重宗(足助重範の孫)に、尾張国野間荘を還付する、当時の野間荘は、高師直領を将軍家預かりとなっていた模様
【1391年】伊勢貞行(伊勢貞継の孫)を御料所三河国額田郡山中郷(愛知県岡崎市)の代官に任ずる、山中郷の法蔵寺は6代目将軍足利義教の祈願所
【1392年】細川頼之死去、葬儀は義満が主催して相国寺で行われる
【1394年】出家する
【1397年】三河国碧海郡(愛知県岡崎市)の永源寺(創建:斯波義将)に、後に建仁寺61代住持となる玉岡和尚を住持職に補す
【1397年】三河国渥美郡(愛知県田原市)を京極高詮に還付し、守護使不入の地とする
【1399年】三河国額田郡菅生郷(愛知県岡崎市)の乙川六名堤造営を、管領・畠山基国にを命ずる、下和田郷が水不足に陥り、領主・京極高詮から苦情が入る
【1399年】三河国額田郡比志賀(愛知県岡崎市)の深恩院に、高一族の比志賀郷の旧領を寄進する
【1404年】松平和泉守源信光が誕生する
【1406年】一色満範(義満偏諱、侍所頭人、若狭守護、丹後守護、尾張国海東郡・知多郡分郡守護)を三河守護に任ずる
【1408年】死去する
739名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 15:25:21.25 ID:XN4u3OSp0
誘拐されたとしたら神格化される意味がわからんし
そもそも家康が父を神格化していたか?
740名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 15:48:03.32 ID:YdoNOF2V0
松平家(広忠)が戦うことなく信秀率いる連合軍に降伏しちゃったんだろうね
その歴史だけは葬りたかったということだと思う
戸田康光が裏切って竹千代を信秀に売ったというのは当時から今川家に対しての言い訳として使っていて、事情を見抜いていた義元(雪斎)も翌年三河の支配を回復するにあたってその後の統治を考えて不問にすることを選んだという感じなのかな
741名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 17:02:24.04 ID:AAJ80V5k0
戦国大名ってずいぶんと狭い範囲で領土争いをしていたんだね?
742名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 18:33:55.22 ID:+t7NsIA20
>>741
そらそうよ。 鉄道、自家用車が無かった時代の移動範囲の狭さは想像を絶する。

日本に馬車はなかったし。
743名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 19:19:21.77 ID:9jAxgNPg0
>>742
>日本に馬車はなかったし。

馬の去勢が定着しなかったのは何となく分かるけど
何で軸受けごとき、導入されなかったんだろうね
744名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 19:41:41.90 ID:X2bGZkqr0
補給概念がほとんどなかったからな
中国の三国時代なんかでも食料奪うためにイナゴみたいに移動してるのがほとんど
ひとつの村全部食いつくすとそこの住民も一緒に次の村襲いに行ってその繰り返しで
どんどん大勢力になっていく
745名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 19:48:00.89 ID:j3p1fTiJ0
馬車の考えが入ってきたのは新井白石の頃だが
金が無くて街道整備が出来ないのと諸藩の発展を恐れて却下してたな
746名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 19:50:42.70 ID:j3p1fTiJ0
あ、それ以前にも入ってきてたかもしれんので、>745は却下の一例って事で。
747名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 21:07:35.44 ID:ETU88oJe0
牛車じゃアカンのか…
748名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 21:33:30.69 ID:McEm9QWpO
自衛隊演習場の未舗装道路なんて雨が降るたびにぬかるんだり流れで削れたりする

道路整備の手間>馬車による物流の向上
古代の主要道なんて江戸時代より遥かに広かったらしいからな
とてつもないマンパワーを整備に回す必要があった
749名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 22:02:14.36 ID:K+Y232ir0
馬車による物流の向上>>>(越えられない壁)>>>道路整備の手間

だろ。 ローマ帝国の街道という例もある。

江戸時代なら、お手伝い普請で一発だし。
750名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 22:05:46.05 ID:K+Y232ir0
馬車による物流の向上>>>(越えられない壁)>>>道路整備の手間

だろ。 ローマ街道という例もある。

江戸時代なら、お手伝い普請で一発だし。
751名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 22:35:12.92 ID:9jAxgNPg0
>>747
軸受けがなかったんでスピードを出すと車軸が壊れる

だからスピードの出ない牛車で良いじゃん

という流れらしい
馬借とか、馬に直接背負わせてたんだよね
車輪はあったのに……
752名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 22:43:44.18 ID:a0pzyI2D0
>>741
信長が常設軍を作るまでは兵隊は半農半兵で農繁期の戦はできなかったというし、長期で国を空けられなかった。
753名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 22:53:18.18 ID:XG3zO0DK0
>>749
地中海沿岸みたいな冬の一時期を除けばほとんど雨が降らないような地域と
ただでさえ地形が険しい上に年がら年中雨が降る日本を一緒に考えたらアカン
754名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 22:59:05.13 ID:TevQTNaI0
>>743
城下町とかなら整備をできるかもしれんが
馬車とか道の整備が大変すぎる 
戦でも使い物にならないし
755名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 23:06:23.21 ID:w0fiy0450
>>752
農閑期に関東をアラして回った謙信さんをdisってんお?
756名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 23:11:49.33 ID:m9RG1M840
もうとっくに言われて誰かが答えてるんだろうけど、800レスを読む気力はないw
家康が松平家の意思で織田家に来ていたのなら、なんで人質交換で今川家に引き渡されたんだ?
757名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 23:21:12.01 ID:k3UnhZDI0
江戸幕府は物流を発展させるよりは、むしろ物流、人流を阻害するようにしてたんじゃないか。
舟も大きいのを作れなかったり、竜骨も甲板もなかったり。
758名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 23:21:36.38 ID:K+Y232ir0
>>753
イタリア半島は山だらけでっせ。北部は雨も多い。
759名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 23:28:22.46 ID:j3p1fTiJ0
>757
それにより国中の平和が保たれてたのも事実だが
飢饉対策を考えるともうちょっと陸路は開放されててもよかった気もするけどどうなんだろうなぁ
760名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 23:53:14.27 ID:Jb7E9j7M0
もともと狭くて急な山道ばっかりだし、
大きな平野部も、大規模工事が可能になるまでは、
低湿地帯だからねえ。
日本馬もポニーよりちょい大きいくらい。
馬車とか無理ですから。

可能なら、とっとく中国の戦車とかパクって
実現したはず。
761名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 23:53:27.05 ID:k3UnhZDI0
>>759
基本的に農本主義だからな。
まず、人の移動はアウトだろ。
飢饉のときに人返し令やって、農村の人口を増やして、
コメの生産力を復活させようとかの考えだから。
コメをどれだけ作れるかの経済で、
流通とか、商業とかの発想はないんじゃないかな。
762名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 23:54:24.87 ID:9jAxgNPg0
>>754
>戦でも使い物にならないし

古代戦車戦の文化がない、国土が狭い→馬車なぞ要らん舟で十分、ってとこかね
道の整備はあれだな、地中海文明と日本じゃ、石で何かを造る技術の蓄積に差がありすぎる
ローマ街道にしろピラミッドにしろ

>>756

小豆坂の戦いで織田家が今川に負けた上、安祥城も雪斎に攻め落とされ、庶子長男の信広も捕縛されたから
家康(竹千代)と信広で捕虜交換
将軍・義輝が仲介した、って説もある
763名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/03(木) 23:59:25.47 ID:m9RG1M840
>>762
なるほど、どうもご丁寧に教えてくださってありがとう
764名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/04(金) 00:03:37.61 ID:wzLKj0OE0
>761
人の移動は原則としてアウトなんだけど、江戸初期は農民等が条件の良い大名領を選んでそっちに移動してたそうな
理由なき移動の場合はバレたら連れ戻されるけど、バレなければそのまま居続けてokというのが1700年前まで続いてた
765名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/04(金) 00:16:31.10 ID:bXA+y4xL0
>>761
江戸時代は、米本位経済から、貨幣経済へ変わっていく段階なので、
物流、商業に関心がないわけではないんだけど、
経済自体はそれぞれ諸藩がやるから、バラバラ。
うまく、貨幣経済に対応できた藩が、強くなっていく。
幕府も商業発展させて、そこから税金を取る政策を打ち出すけども、
そのたびにゆり戻しがくるんだよね。
766名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/04(金) 04:31:19.77 ID:F9CBtjmp0
>>742
わかってねえなあw
戦国時代の200年前の南北朝時代、そのさらに100年程前の治承〜承久の戦の移動範囲は全国レベルだぞ。
戦国時代の争いの範囲が狭いのは、国人の領土単位、場合によってはさらに下の土豪の領土単位で全国で争ってたからだよ。
767名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/04(金) 04:56:31.10 ID:aHsV+R0p0
超高速道路の海が両脇にあるからな
明治に無理矢理馬車入れたら道がぐちゃぐちゃになったし
そこら中で川が氾濫しまくる世界で馬車なんて使いどころがない
768名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/04(金) 06:31:44.11 ID:7L3LsKib0
>全国レベル
平安時代最強武者、源三河守範頼か?


源範頼(源頼朝の異母弟、蒲冠者、参州、三河守)の年表


1150年、父:源義朝、母:池田宿の遊女の間に産まれる

・藤姓熱田大宮司一族(三河国額田郡、由良御前(源頼朝の母)か?)が密かに京都で養育
・その後、藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟(勘解由丞季成(藤原季成))が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村、蒲御厨)で養育され、蒲冠者と呼ばれる
・乳母父は当麻貞稔(勘解由丞季成の息)夫妻、息に吾妻鏡に出てくる当麻太郎

1155年、藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)死去
1157年、由良御前(源頼朝の母)死去
1159年、父:源義朝暗殺、異母兄:源頼朝は伊豆に配流
1161年、藤原範忠(藤原季範の長男、由良御前の兄)周防国に配流
1161年頃、藤原範季(藤原季範の従兄弟の孫)が養父になる

・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→源広綱
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→由良御前→源頼朝

1180年、以仁王挙兵、遠江の甲斐源氏と行動を共にする
1183年、野木宮合戦に援軍
1184年、木曽義仲追討軍の大将として、宇治瀬田の戦い、一ノ谷の戦い
1184年、三河守に推挙される、本拠を形原城(三河国宝飯郡形原)に構える
1184年、九州進軍の大将として九州平定
1185〜1187年、安達盛長(三河国小野田荘地頭、後に三河守護)と丹後内侍の娘を室にする
1185〜90年、上地八幡宮(三河国額田郡上地)創建、茂松城(三河国宝飯郡茂松)築城
1193年、伊豆に幽閉、暗殺される
769名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/04(金) 06:43:34.52 ID:Ic/TsuHBO
日本の道路は古代のほうが遥かに広かった部分もある
中国を真似たからな
雨が多い日本では道路整備に労力がかかりすぎた
ちょっと目を離せば路肩崩壊して草がのび放題
江戸時代なんて最も道路が狭く退化した時代だ
770名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/04(金) 07:33:40.52 ID:tEuCUPLV0
>>769
朱雀大路って無駄に広かったから、みんな勝手に家とか建ててたんだっけ。
771名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/04(金) 07:36:08.08 ID:zQ+CFHgNO
弾正忠って、“だんじょうのちゅう”じゃなくて“だんじょうのじょう”だろ
772名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/04(金) 07:41:28.09 ID:F9CBtjmp0
>>769
江戸時代は水運の隆盛期だからな。
土木工事技術の向上で、河川航路が整備され河川水運が大発達した。
今でも地方の中心都市は河口か、内陸部でも大きな河川沿いにあるのはそのため。
現代でも運送手段の王様は船舶なんだから当時の水運の重要性が高いのは当然至極。
歴史の授業で五街道とか教え込むのは誤解の素の気がするわ。
同時に水運の重要性も教えんと。
773名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/04(金) 07:41:49.06 ID:6bs8iQEu0
>>759
日本史で習う「飢饉」って、実は、東北地方の人が飢え死んだだけで、
他の地方の人はあまり死んでないんだよな。

西日本の食糧を東北地方に移動させればよかったんだが、
江戸時代は各藩が独立していて、それが難しかった。
774名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/07/04(金) 09:14:07.49 ID:j7J/kBh90
>>766
当時の「村」(明治時代まで存続)や「郷」のあまりの小ささを見れば、
移動範囲の狭さは明らかだよ。
775Jane Style用@転載は禁止:2014/07/04(金) 09:48:52.68 ID:+1oyd3t90
・対象URL/タイトル
 正規(含む)
 愛知|尾張|三河|名古屋|岡崎|徳川|織田|今川

・NGWord
 正規(含む)
 (.*(?:■|◆|・|【.+】|足利|仁木|細川|高氏|高一族|師重|師直|藤原|大宮司).+[\r\n]+){3,}

・その他
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776名無しさん@0新周年@転載は禁止
家康の苦労人伝説崩壊