【奈良】卑弥呼の後継者、台与の墓説がある西殿塚古墳に巨大な石積み方形壇 天理市 ★2

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952名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:21:41.86 ID:zhvqDDAB0
煬帝が怒ったのは、二重国家だから。
そんなケッタイな国家運営があるかバーカと怒ったんだよ。

隋書の最後の
裴世清が答えて曰く「皇帝のコは併せて二儀、恩恵は四海に流れ、
王を慕うを以て化し、故に使者を来たらしめ、ここに諭を宣す」。
これなんかもそう。
早く二重国家状態を解消し、倭国の正当な王朝である九州王朝がちゃんと
一元化して倭国全体を治めなさい、という説教をしたわけな。
皇帝の徳はお前(九州の倭国王)を仲介して四海に流れるんだから、
お前がシャンとしとらんと、皇帝の徳が流れていかんだろが、という意味。

 
953名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:21:55.34 ID:aQJNlYpf0
いやもう『記・紀』の編纂者があまりにも壮大に無茶やっちゃってくれたおかげで
未だに邪馬台国にしろ日本の古代の詳細が闇のままだもんな

先月末に話題になった親拝にしても、そもそも周囲の反対押し切って強行した
伊勢神宮完成記念みたいだった持統天皇の親拝以降は明治まで1200年間も天皇の
御親拝無しだって、これどうなってんだ?

おまけに天孫族のプライドも無いのかその祭祀の仕方も倭人の海人族の剽窃とかさ
日本國の最秘の祭祀が大和の海人族のコピペとかもう日本國張りぼて過ぎだろ
954名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:23:18.58 ID:VjQ+p8Mh0
>>915
福岡の高良山のふもとにも御井があるんだわ
http://ja.wikipedia.org/wiki/御井町
955名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:29:26.76 ID:1M3mA8OL0
>>951
阿波の場合、古代は海の地域が平野部の結構な部分占めてるから、
わりと内陸までいくような気がするね
956名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:29:56.96 ID:S/T4tQUf0
>>868
ない。採石場が分かってるから。
>>917
つまらん。
957名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:31:36.02 ID:tTf8kOR30
>>953
アマテラスは古来から土着日本人の間で広く信仰された太陽神で名をアマテラスと言ったかは不明
いずれにせよそれと天皇をくっ付ける必要があった
それが祟るとか超長期にわたって伊勢に行かないとか推して知れるものもあるかもな
三重は縄文的要素と渡来的要素の双方が強いところで良く分からないところ
958名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:33:26.55 ID:5rIACUwo0
>>955
そうなんだよね
しかも天然の要塞みたいな地形だしね
959名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:36:40.92 ID:iugIZUwI0
http://ja.wikipedia.org/wiki/神籠石

神籠石(こうごいし)について、御意見おもちの方はいますか?
これも九州北部に分布していて邪馬台国と関連があるのかどうか
960名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:40:16.86 ID:9a1JAcCpO
トヨ系が蘇我だからだろうな
961名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:40:33.68 ID:HUULOWTv0
どうも九州説が有力なようだ
962名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:42:22.34 ID:qMEO+L+k0
>>951
四国山脈が馬の背なんだろうとは思うけど
ドコなんだろね(´・ω・`)
963名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:43:27.06 ID:bdCdTr2J0
やはり奈良だったか
964名無しさん@13周年@転載禁止@転載禁止:2014/04/13(日) 01:43:53.59 ID:LN8B3/XZ0
卑弥呼の居た当時はすでに稲作も始まっていたので邪馬台国は平野部に
あったのは間違いない。かなり広い平野部だったはず、だから徳島などは
ありえない。魏志倭人伝の国名も福岡市近郊の地名は一致しているが
その先の国名はどこにあるのか解明出来ていないので恐らく九州の平野部
だろう。とすると久留米市、もしくは宇佐近辺かも知れない。
965名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:45:31.66 ID:HUULOWTv0
久留米から鳥栖・佐賀へ向けてのだだっ広い平野を見ていると邪馬台国があったように思える。
966名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:45:47.20 ID:5rIACUwo0
>>962
えーそんなぁ(´・ω・`)
967名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:48:46.36 ID:iugIZUwI0
>>964
筑後平野とする見方も可能ですね。福岡県最大の平野で
対蘇国(とす、佐賀県鳥栖市)と筑後川を隔てて隣り合っているというのも、一致します

すると、高良山に目が移って、高良山神籠石のような大規模な遺跡は一体なんだろうと思うわけです
968空山車の鵜 ◆j/LLggzims @転載禁止:2014/04/13(日) 01:49:41.20 ID:zhvqDDAB0
天照大御神=卑弥呼+トヨ=鏡(太陽光を反射させて天を照らした)=邪馬台国(御井)
月読命=勾玉(これは月を模したもの)=奴国(博多)(博多は翡翠がとれた)

素戔嗚尊=剣=出雲


日本書紀で伊弉諾尊の左目から天照大御神が生まれ、右目から月読が生まれ、鼻から素戔嗚尊が
生まれたというのは、これは邪馬台国(御井)、奴国(博多)、出雲の地理的位置関係
と中国の盤古伝「盤古が死してその左眼が太陽に、右目が月になった」から作られた。

ただし、これだと「うつ伏せ」になってしまう。だから古事記では左目と右目が逆に
なって「仰向け」になっている。

月読命は「夜の食国を知らせ」と命ぜられるが、これがつまり、隋書の

倭王は・・・、天が未だ明けない時、出でて聴政し、
結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、

に対応する。

月読命はなぜ三貴子とされながら、天照大御神や素戔嗚尊みたいに事蹟に乏しいかと
いうと、これも簡単で、神武が近畿に乞われて雇われ店長で近畿に行って、その
ときにこれらの神話も持ち込んだわけだが、神武が近畿へ行ったころはまだ
奴国は邪馬台国に監視されている状態で、ある種奴隷身分だから、まだ十分
活躍できていなかった、奴国の王が倭国王として活躍するのは、神武が近畿へ
行った後だったからだ、ということ。


 
969名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:51:14.12 ID:HUULOWTv0
高良山にある古墳は卑弥呼の墓というのは本当でしょうか?
970名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:51:52.51 ID:qMEO+L+k0
>>966
どの説でも矛盾が出る
そして阿波忌部氏の存在がネックになる

一番矛盾が出ないのが
四国阿波説だっただけだもん(´・ω・`)
971空山車の鵜 ◆j/LLggzims @転載禁止:2014/04/13(日) 01:51:56.40 ID:zhvqDDAB0
ね、古代史の謎がほぼ解けたでしょ?


 
972名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:52:19.37 ID:iugIZUwI0
>>968
御井に限定する理由をお聞かせください。なぜ、御井なんですか?
久留米方面だとするのは構いません、その中でなぜ御井に限定するのか。
973名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 01:55:40.41 ID:5rIACUwo0
>>970
なるほど。矛盾潰しかー。ありがとう
974名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 02:00:25.48 ID:CvBdO2gE0
>>964
帯方郡の使者は伊都国に駐在して、その近郊の情報はまあ正確だったが、それより遠く、
投馬国、邪馬台国、狗奴国については現地人からの聞き取りだったためあいまいで、
距離も里ではなく日数になっているという話。
975名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 02:09:12.60 ID:zhvqDDAB0
ひとまず、これで最後ね。

隋書
>翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。
>百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、
>遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、
>また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。
>疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。
>竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。

これ。秦王国とは何か?実は、これが近畿ヤマト政権のこと。
秦王とは秦河勝(はたのかわかつ)のこと。

>秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。
とは、これは倭国の人間が言ったことで、近畿のヤマト政権があるけど
あれは田舎モノの作った国だ(以て夷洲となす)、と、この時すでに落ちぶれ
貴族に堕してしまっていた九州王朝の人間が、精一杯背伸びして言ったわけね。
あんなものはなんの正当性も無い、田舎者の国だ。秦河勝(秦王)の国だ。
という意味。ところが実際はとても大都会だった(そこの人は華夏(中華)と同じ)
だから、裴世清には意味が分からず、「疑わしいが解明は不能である。」と
書いたわけね。

参考
『新撰姓氏録』は弓月王やその子孫を「秦王(しんのきみ)」と記している。
たとえば、仁徳天皇の時に織物などを献上した秦氏にたいして、
天皇は「秦王の献れる糸、綿、絹帛は、朕服用(き)るに、柔軟にして、
温煖(あたたか)きこと肌膚(はだ)の如しとのたまふ。」と記す。
秦河勝は、聖徳太子のブレーンとして活躍し、
また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、
その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったという説もある。
村上天皇の日記には「大内裏は秦河勝の宅地跡に建っている」と記されている。
976名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 02:11:46.24 ID:zhvqDDAB0
>>972
あのね、読んでよ。せっかく一生懸命書いているのに。
他に無いからだよ。
卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳以外考えられないの。

 
977名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 02:12:04.41 ID:BFWztBqx0
一番矛盾がないのが邪馬台国が半島にあった説
感情論抜きにして、一度読んで見るのも面白い
978名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 02:21:00.31 ID:zhvqDDAB0
もう大体分かったでしょ?

自分を偽るのはやめようね、みんな。

もうそんな時代じゃ無いよ。

 
979名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 02:24:01.15 ID:8knFb+840
>>976
卑弥呼の墓が御井だろうと決めるのは結構ですが、邪馬台国=御井という書き方はおかしい
もっと広い範囲が邪馬台国でしょう

>邪馬台国(御井)
こういう書き方は変だというわけです
980名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 02:26:52.50 ID:zhvqDDAB0
あと、ここに書いたことは正しいはずね。
全部上げるから、だれか論文に書いてちょ。
私は何の権利も主張する気はないことを、ここに明確に宣言します。

私は、真実に興味があります。真実が広まることが私の利益です。

小保方さんを信じるよとか、そんなのどうでもいいです。
時代遅れね。アホくさ。バカちゃうか。
 
981名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 02:29:02.16 ID:zhvqDDAB0
>>979
どうでもいいですそんなことw

 
982名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 02:29:38.29 ID:qMEO+L+k0
邪馬台国から千余里で倭種の国
冬も温暖、丹の山、海人も多い
帯方郡から距離12000里

どれも当てはまりませんが(´・ω・`)
983名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 02:32:22.44 ID:Jop3lSUI0
邪馬台国をクシャン朝並みの大国に仕立て上げんとならんかった
理由があったわけだよ。それが司馬を立てんとならんかったことだよ。

しかし昔からわりと日本は人口多かったとおもうで。
984名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 02:33:43.62 ID:r7RSidre0
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
卑弥呼の冢補論−祇園山古墳とその周辺

1980年辺りから説はあるようだ
985名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 02:35:34.65 ID:LMYLRtC90
おそらく、卑弥呼の時代で、500万人はいただろうな。
986名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 02:39:25.56 ID:p+r7/P7E0
卑弥呼ならさっき円環のおことわりしてたよ
987名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 03:10:50.75 ID:XPMlGw4U0
ここ見りゃよくわかるけど
九州説唱えてるのあhもはやバカしか残ってない
988空山車の鵜 ◆j/LLggzims @転載禁止:2014/04/13(日) 03:18:20.57 ID:zhvqDDAB0
ちょっと思い出したんでもう一つだけ。
まだまだ言い足りないことがあるから、これで全部じゃないんだけど、一つだけ大事なこと。

神武東征は、もはや学会的には記紀の作り話ということで定説
になっているし、それで正しいわけだが、一つだけ気になることがある。
それは銅鐸の破壊の問題だ。

纒向などの遺跡を見る限り、九州地方の影響は殆ど見られない。
他の地域と同程度かそれよりマイナーなレベルでの影響しかなく、
これは「征服者としての神武」が作り話であることを強力に示してしている。
しかし一方で、銅鐸に関してだけは、これらが各地で破壊されていき、
葬り去られて行ったという事実がある。銅鐸は近畿文化の象徴の一つである。
これは一体なぜか?何を意味しているのか?

これも、非常な謎で、上手く説明する方法が無い。
ところが神武雇われ店長説でキレイに説明できる。と同時に、それ
以外では事実上説明が不可能だ。

銅鐸は、つまり近畿側(受け入れる側)が、自ら積極的に破壊
したのである。神武を受け入れるために。
「軽薄への情熱」というのがある。あれだ。

なぜかと言うと、もし神武側が武力でむりやり銅鐸を破壊したの
なら、それは日本各地で起こったことなのだから、強烈な恨みと
なって残った筈だ。ところが、その形跡が全く見られない。
銅鐸の存在はキレイサッパリと忘れ去られ、たまたま掘り出された
ものを人々が見ても、何に使うのか全く分からなくなってしまっていた。
これは、もし征服者によって無理やり破壊されたのなら、あり得ない現象である。
しかし、神武という冠を迎え入れるために、近畿側が自分で積極的に
破壊して行ったのだと考えれば、なんの不思議も無くなる。
989名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 03:20:40.62 ID:zhvqDDAB0
>>987
いやバカはお前だから安心していいよwwwww
 
990名無しさん@13周年@転載禁止@転載禁止:2014/04/13(日) 03:32:13.59 ID:LN8B3/XZ0
稲作文化が始まったら国力は米の収穫量に比例するので当然広大な平野部
がある地域が人口も多いので国力がある。しかも邪馬台国は南の狗奴国と
は敵対していたんだから日本全体を治めていた訳では無い、単に魏国と
交流があったというだけだから中国に最も近い九州にあったと考えるのが
自然だろう。
991名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 03:33:39.56 ID:zhvqDDAB0
自分を偽らないようにね。
学者が自分を偽ったら、学問は死に絶えまっせ。


 
992名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 03:46:50.50 ID:qMEO+L+k0
>>987
九州説も宮崎、大分辺りなら
可能性としてないワケではないんだけどね

ただモノがないのよね(´・ω・`)
993名無しさん@13周年@転載禁止@転載禁止:2014/04/13(日) 03:53:24.36 ID:LN8B3/XZ0
宮崎も有望なんだが、金印が発見された北部九州のほうが有望だと
思う。
994名無しさん@13周年@転載禁止@転載禁止:2014/04/13(日) 04:02:09.60 ID:LN8B3/XZ0
993を書いた者だが金印は漢の国から奴国が授かった物だった。
魏国と勘違いしていた
995名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 04:04:23.88 ID:CraMJn910
もしかして九州説だと
卑弥呼は魏を後ろ盾にして
大和の天皇家に対抗した反逆者ってことになっちゃうの?
996名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 04:15:57.10 ID:qMEO+L+k0
えぇぃ 頭が高い 控え控えおろう
この箸墓古墳が目に入らぬか!

まぁ時代が全て微妙だし距離は合わないけど
しかしモノはあるから畿内説はつよいよね(´・ω・`)
997名無しさん@13周年@転載禁止@転載禁止:2014/04/13(日) 04:23:59.73 ID:LN8B3/XZ0
>>996
やはり言い伝え通り九州の強国が西方の小さな国を服従させて飛鳥に入り
最終的には大和朝廷になったんだと思うが邪馬台国は飛鳥以前の事じゃないか
998名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 04:27:27.59 ID:CraMJn910
すみません995ですがスレが終わりそうなのに
素人が荒れそうなことを書き込んでしまいました
近畿説でも中国の皇帝>>日本の天皇(王は皇帝の下)
という嫌な事実が残っちゃいますよね
999名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 04:33:09.22 ID:qMEO+L+k0
まぁ九州説、近畿説どっちにしても
邪馬台国は阿波で最終決着したけどね(´・ω・`)
1000名無しさん@13周年@転載禁止:2014/04/13(日) 04:38:02.38 ID:jKLhqQPw0
>>876
イワレヒコのイワレは、奈良県桜井市磐余(いわれ)
じゃないの 入り婿後、その辺りに住まれたんでしょ 
三輪にも近いし

三輪山頂の日向神社の祭神は、そのまま日向御子とあるよ
宮崎の日向あたりから出発されたんでしょ
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