【軍事】中国空軍、尖閣上空を含む「新しい防空識別圏」の哨戒任務を実施[11/24]

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363名無しさん@13周年
アジア世界で交易活動をしていた琉球王国の船は、「ジャンク船」と呼ばれる中国式の船でした。
琉球王国が貿易でもっとも繁栄していた時代(14~15世紀頃)、その活動をになった主力の船は、実は中国から払い下げられた中古の軍艦でした。
船は全長30~40メートルにも及ぶ頑丈なつくりの大型船で、火砲24門、火箭・神機箭28門の強力な装備を持っていました。
明朝は、このような軍艦を30隻も琉球王国に無償で提供したのです。 当時の中国の造船技術は世界一。
この頃には鄭和が200隻の大艦隊を率いてインド・アフリカまで遠征しています(鄭和の旗艦は当時世界最大の船。コロンブスの船の5倍の大きさ)。
琉球は世界最高の技術で造られた中国式の船を活用することで、アジア各地への長距離航海を可能にしたわけです。
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もともと、琉球は日本に組み込まれるまでは独立国で、中国の皇帝から柵封という俸禄をもらい、いわば臣下の礼を尽くして帰りには沢山のお土産をもらう、柵封国家でもありました。
しかし、1609年、徳川家康から琉球征伐の許可をもらった薩摩藩の島津家久が、3000余の兵と100余隻の船という大軍をもって琉球王国を侵略し、尚寧王を捕虜にして薩摩に連行しました(第1次琉球処分)。
それから1868年に明治政府が成立し、琉球を日本防衛上の要衝として確保するため、明治政府は1872年に琉球を鹿児島県の管轄からはずして琉球藩とし
1879年には内務郷・伊藤博文の差金で軍隊を派遣して首里城を占領、薩摩と清国への両属関係を清算して日本の版図に組み込んで琉球処分を断行し琉球藩を沖縄県と改名したのです(第2次琉球処分)。
沖縄に対する差別扱いが言語に限らず、姓名の呼び方や沖縄芝居や舞踏の制限など、日常生活のさざまな分野と風習に及んでいたことも、忘れてはなりません。
1952年に発効した対日平和条約で琉球の行政・立法・司法権はアメリカ政府に委ねられました。沖縄は本土から分断されて切り捨てられたわけです(第3次琉球処分)。
1960年代末~70年代初頭の沖縄の民衆の願いを込めた復帰運動は裏切られ、米軍が居座ったまま基地が維持どころか強化されることになったという意味で、またしても沖縄は本土から見捨てられました(第4次琉球処分)
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