★高台移転 集落守る「命守る知恵」歴史に学ぶ
2013年11月13日
さくら市の鬼怒川流域に、室町・江戸期に洪水対策で集落ごと高台に移転し、数々の水害を乗り越えた
押上(おしあげ)という地区がある。多くの犠牲者が出た伊豆大島(東京都大島町)の土石流で、
大雨に備える大切さが叫ばれる中、同地区の郷土研究家・長島久伸さん(81)は「命を守るための
知恵を語り継いでいきたい」と語る。 (大野暢子)
日光の山に辰巳(たつみ)(南東)の豪雨が三日と三晩吹き込めば、山の鬼ども雷(いかずち)鳴らし
川を荒らす−。押上地区には、水害の怖さを教えるこんな警鐘も伝わっている。長島さんは「幼少期、
祖母からよく聞かせられたものです」と振り返る。
現在の押上地区は、宇都宮市との境にあたる鬼怒川から約八百メートル北にある約二百世帯の集落。
会津藩から宇都宮城下を目指す旅人が歩いたとされる旧道が残る。
故郷の歴史に魅せられた長島さんは八年前から、古文書を読み解く傍ら、鬼怒川の環境保全に取り組む
住民団体「押上水神会(すいじんかい)」の世話人を務めている。
江戸時代に書かれたとされる古文書によると、集落は室町時代までは鬼怒川のほとりにあり、毎年洪水に
見舞われた。住民は被害を避けようと、室町時代の天文十七(一五四八)年と、江戸時代の寛文十
(一六七〇)年の計二回移転。現在の場所に落ち着いた。
享保八(一七二三)年、大雨で上流の五十里(いかり)湖(日光市)が決壊する「五十里洪水」が発生。
押上の堤防も濁流で壊れた。集落の多くの家は浸水したが、押し流されたりするようなことはなかった。
住民らは前もって家財を天井裏に入れ、馬を引いて高台に逃れていたこともあり、犠牲者は少なかったと
伝えられている。
明治や大正時代にも堤防が決壊したが、高台にあったことや、避難の早さが功を奏し、周辺地区より
被害が少なかったとされる。(以下略)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20131113/CK2013111302000156.html >>4 江戸時代に土砂崩れがあって、一旦堰止湖ができたんですよ。
その名前が五十里湖。
10年ほどでその土砂が崩壊して、土石流が流域を襲ったわけです。
現在似たような場所にダム湖を作ったので、五十里湖と再度命名したわけ。