【歴史】「官兵衛が合戦の前線にいたことが裏付けられた」…軍師・黒田官兵衛が賤ヶ岳の前線にいた。秀吉サインの指令書発見
羽柴(豊臣)秀吉が柴田勝家と戦った賤ヶ岳合戦(1583年)のさなかに、前線に作戦を指示した
文書が見つかり、長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が10日、発表した。
秀吉の花押かおう(サイン)の字が乱れ、緊迫感が伝わる書面。江戸時代の資料でしか知られていなかった秀吉方軍師・
黒田官兵衛の参戦を裏付ける記述もあり、同館は「ほとんど記録のない合戦の生々しさがうかがえる資料」としている。
京都市の古美術商が保管していた文書(縦30センチ、横45・4センチ)で、同館が昨年5月に鑑定、秀吉直筆の花押を
確認して購入した。
同館によると、文書は、羽柴、柴田両軍が長浜市北部の余呉湖周辺で対峙した頃の天正11年(1583年)
3月30日付。長浜城にいた秀吉が、前線で指揮を執る弟・秀長に宛てて送ったもので、末尾の花押は、走り書きしたように
墨線の一部が欠けていた。
賤ヶ岳近くにあった自陣の砦周辺の小屋(兵士の野営施設)を、官兵衛らに破壊させるよう命じた内容で、
「明日には後方から軍勢を送り込むので、今いる軍隊は前線から撤退することはあってはならない」などと記している。
結局、作戦は実行されなかったが、同館は「秀吉は小屋の破壊後、柴田軍への総攻撃を計画していたのでは」とみている。
これまで官兵衛の参戦については、江戸期以降の文書にしか記録がなかったといい、同館は「官兵衛が合戦の前線にいたことが
明確に裏付けられた」としている。
官兵衛は播磨国(兵庫県)出身で、織田信長の播磨平定に協力。秀吉の軍師となり、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれた際、
備中高松城(岡山市)を攻めていた秀吉に、京都に戻るための「中国大返おおがえし」を進言。秀吉の天下統一に貢献したとされる。
ソース:
http://news.livedoor.com/article/detail/7667411/
2 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:12:39.60 ID:bM1SOh0oT
2
ステマすぎてチャーハン吹いた
発表止めてたんだろうなw
よしっ!今度のドラマじゃ佐久間盛政が大活躍だな!
5 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:18:43.18 ID:7tHFAA8z0
そもそも軍師という考え方自体が間違ってる。
どんな武将も軍人で政治家。そんなの常識。
黒田孝高も竹中重治も石田三成もみんな軍人で政治家。
後方で作戦だけ考えてればいいなんて武将はいない。
6 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:22:57.82 ID:PYDEWhux0
このスレは地味に伸びそうだな
おぬしらの知識をエピソードを俺に教えてくれ
7 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:24:26.44 ID:oIqJXene0
どうでもいいよ、NHK必死杉
クロカン
9 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:24:48.08 ID:1sG8uvqpP
一方山本勘助は架空の人物のままだった
11 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:25:37.55 ID:NDFSp1Eu0
本能寺の変の首謀者は官兵衛だからな。
こやつは秀吉のためなら何でもやる。
そら秀吉も恐れるわ
14 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:28:33.72 ID:xMUJRuOf0
中川瀬兵衛を見殺しにする作戦を考えたのってもしかして、この人なの?
15 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:31:14.95 ID:WoOnAQS30
>秀吉の花押かおう(サイン)の字が乱れ
ニセものとは思わないんだwww
16 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:33:56.39 ID:afBwSOXKO
17 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:34:07.14 ID:OxAPgyboO
あたりまえやんか。
清洲城は徳川家康が町ごと名古屋へ移転したのだ。
残ってる方が変だ。
18 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:36:24.50 ID:rgAFFIbjO
黒田アーサーには何か送ってないの?
20 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:36:57.43 ID:OxAPgyboO
徳島にはニセ城ばかりは山ほどあるが、徳島城跡にはマジ何にもない。
それどころか道路整備のために潰されかかった。
21 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:40:23.46 ID:lW/SoyLX0
>>12 清洲に限った話じゃなく、現在建ってるのは鉄筋の城の方が圧倒的に多い気がするのだが。
23 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:42:33.02 ID:J0e3d2kQ0
で、岡田准一みたいなチビだったの?
25 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:43:02.02 ID:OxAPgyboO
関ヶ原ウォーランドを訪れたことのない戦国ファンはモグリです。
全ての真実は関ヶ原ウォーランドにあります。
あとニンニン城もね。
26 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:48:46.02 ID:gtnNYHYx0
流石天下を取るかもと言われた あのチンバ。
やるなあ。
27 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:54:52.03 ID:8/B/urlT0
>>25 ググった。紅茶返せw
でも、行ってみたいかも。
28 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:55:17.04 ID:ORVjv8980
姫路の誇りやで
29 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:56:11.85 ID:f9clx6JTO
あっかんべー禁止
30 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 16:57:06.60 ID:82WpVYPP0
>>25 ウォーランドって中国のパチモンテーマパークのかほりがするよね
官兵衛を使った秀吉は並みじゃないな。秀吉が家康に江戸を居城に
するように言わなかったら、今の東京もないしな。秀吉が東京を作ったような
もんだ。
いくらちんばだからってついてこれなかったとでも思っていたのか???
障害者協会からクレームがくるぞ!!!
鉄球が武器なんだよな
34 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:01:13.44 ID:uateB9EQO
大河やらないで
35 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:02:24.91 ID:GBt2qZx7P
36 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:03:44.21 ID:SNiX/4yYO
宇宙戦艦官兵衛見よー
韓国に加藤清正や石田三成を討ち取ったって記念碑が有るんだが、これはどうやったら裏付けが取れますか?
38 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:04:45.54 ID:2+UpLoecO
まあ 前線つってもな〜w
39 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:05:47.65 ID:jGNG2Dtn0
>>37 改名してそういう名前になった人が亡くなったんじゃね?
40 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:06:09.65 ID:YF9QAYsD0
でも結局は、人気では半兵衛に敵わないんだろ
42 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:09:59.25 ID:GBt2qZx7P
秀吉は雑民の出だったんじゃないの? どこで読み書きを覚えたんだろ
>>17 名古屋で名古屋3英傑祭やったとき
豊臣秀吉、徳川家康、加藤清正が挙げられて信長がいなかった
本願寺が名古屋にもあるぐらいだからかと思ったよ
44 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:10:29.28 ID:TqidN1vLO
黒田官兵衛って実際どんだけの功績あんの?
何か「軍師」像とエピソードだけが一人歩きしてるみたいでいまいちどういう功績があんのかわからん
45 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:10:53.09 ID:cRD6pOVE0
>>42 自分で書いてるわけじゃないぞ。
書いているのは、花押だけだ。
46 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:12:17.77 ID:w2cwkDdV0
47 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:12:34.47 ID:GBt2qZx7P
48 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:13:31.69 ID:cRD6pOVE0
>>44 秀吉の播磨制圧ではだいぶ動いたようだが。
後は、作戦参謀としての動きがメインかねえ。唐入りでも参戦してたが、
こっちはあまり功績ないな。
具体的な動きなら、息子の方が確実な実績が多いな。
50 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:17:02.17 ID:G5a/NNwD0
『柴田めが、青々といでたるぞ』
53 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:20:57.59 ID:w2cwkDdV0
>>44 大河ドラマでちょくちょく見かけるほどの戦国の名脇役
54 :
ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2013/05/12(日) 17:23:20.85 ID:rUJEPIfbO
福岡黒田家の本国は近江ということになってる。
長政が長浜で元服したからってことだろうか。
三英傑祭りで清正が入っていたとか聞いたことないわ
56 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:26:08.91 ID:SNiX/4yYO
♪宇宙戦艦〜官兵衛〜!
\(^o^)/
57 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:26:46.56 ID:THznYqw00
58 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:26:57.37 ID:Ec3QUQfr0
>>44 秀吉が信長から1軍を任されるようなになってから
黒田は先鋒を務めたり、様々な工作活動の指揮をとってたみたい
四国攻めでも宇喜多と共に大きな功績を挙げ九州征伐で先鋒として
軍を率い島津を打ち破ってる
軍師ってより才に長けた武将だったみたいで文官では決してないぽい
九州征伐の後に豊後で16万石与えられてるし秀吉の最側近として信任厚く
有能な武将だった模様
よくわからないんだが、野営施設を破壊するときって普通は撤退準備するときじゃないのかな。
明日援軍が来るならますます野営施設が足りなくなるだろうし。
60 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:27:46.97 ID:w8ddfXVCO
61 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:28:24.80 ID:BBQUZbmB0
柴田勝家って口ばかり威勢のいい無能な大日本帝国の将校みたいなイメージしかない
62 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:28:32.44 ID:cRD6pOVE0
>>59 予定戦場になる場合、建設物は取り払う。
野戦するつもりだったんだろう。
63 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:29:12.17 ID:lOY+JCGkO
やっぱ前線にいたのは秀長だったのね
説得失敗して大変なことになったというか、よくあれで死なないもんだな
65 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:32:14.48 ID:cRD6pOVE0
>>63 秀長って留守居役ってイメージが強いけど、けっこう前線にいるよな。
>>11 官兵衛が背中を押したというのは間違いないだろうけど、「黒幕」ってのは過大評価だと思うなぁ
織田時代末期の秀吉はつまるところ、勝家への援軍バックレて立場がマズくなってからの
光秀との政争に集約されるわけで、信長の横死は全くの予想外だったにしても
信長が死のうが死ぬまいが秀吉の中で光秀を排除するのは間違いなく規定路線だった
>>65 「あの」戦闘民族島津家をフルボッコにしてるからな
秀長
>>61 口ばかり威勢のいい無能な大日本帝国の将校みたいなのが
ちょろっとつかえねーと思われたら速攻追放手打ち当たり前の信長の元で爺になるまで幹部できるわけねえだろ。
70 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:40:40.81 ID:cRD6pOVE0
>>69 柴田勝家は、秀吉のせいで、さんざん評価落とされてるからなぁ。
実際は、秀吉の織田家簒奪に最後まで抵抗した忠臣だったんだが。
71 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:40:47.27 ID:vbo8eyOgO
72 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:40:49.02 ID:K9eFychw0
黒田官兵衛(CV:石原夏織)
竹中半兵衛(CV:小倉唯)
73 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:42:23.54 ID:Zakx5SJ70
小泉安倍政権の参謀、飯島秘書官のイメージだな
勝家のエピソードって、ほぼ負け戦だからから仕方ね
信勝立てて信長に負けて、謙信に負けて、秀吉に負けた
>>61 大日本帝国の将校って、相当優秀だったと思うけどな。
マレー半島を2ヶ月で落としたり、8ヶ月で大陸を南北に打通し
中国にあった米軍基地を一掃してみたり。
少ない戦力を上手く活用し、何度も敵を撃ち破ってる。
将校よりも一度負けただけで致命傷になる国力の無さが問題だろう。
関ヶ原がもっと長引いていれば、と願った武将シリーズか
78 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:50:42.22 ID:vbo8eyOgO
>>71 関ヶ原が1日で終わったの知って、切り取った土地返却して隠居したとか
徳川方で有能に働いた息子に、「関ヶ原を、なんであっさり終わらせたのか。せっかく天下狙うチャンスだったのに」と怒ったという逸話が
79 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:54:01.03 ID:cRD6pOVE0
>>78 まぁ、息子すら思う通りに動かせないのに天下取ろうなんて、誇大妄想も
いいところだがね。もっとも、嘘っぽい逸話ではあるが。
80 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:55:14.38 ID:4GZr44VD0
福岡で著名な武将に「黒田如水」という人物がいる。徳川家康に勲功として筑前国に封じられた黒
田長政の父である。如水は豊臣秀吉にその才知を高く評価されて側近であった頃の名乗りの黒田
孝高よりも通称の「黒田官兵衛」の方が全国的に有名であろう。「如水」と名乗るのは、父よりも慎重な
行動が評される長男の長政へ家督を譲って隠居の身となり、「如水軒」と称してからである。
改めた名乗りを社会的立場の変遷に応じて称するのはこの時代では一般的なことであり、例えば「竹中重治」といえば
姓が「竹中」の通称「竹中半兵衛」のことである。孝高と並んで秀吉の参謀的側近として二人は「両兵衛」と称され、
大奮闘するものの、重治は若くして隠居する間もなく陣没したため通り名の「竹中半兵衛」が巷間に広まった。「両兵衛」は
月並みな表現でいうと非常に仲が良く、重治は陣没前に幼少の長政の命を救ってもいる。また「如水」については次
の逸話がある。秀吉が孝高の智謀を「己の座をも脅かしかねないもの」と極めて高く評した言を伝え聞いた際、
即座に「我家の禍なり」と剃髪を決意し、如水と号した、という。如水は隠居後も秀吉の側近として仕え、ここぞという
時に重用され、小田原城の無血開城といった功績を残している。朝鮮出兵(文禄の役)では軍監として従軍するも、諸将
の暴走(小西行長等の先陣争い等)があり十分な采配を執れず病を理由に一時帰国。しかし悪化した戦局打開に
死を賭して再び渡鮮。和式城郭の縄張り等に従事するも石田三成等と確執が生じ再帰国し秀吉の不興を蒙る。その後も
刑は免れたものの、黒田家当主である長政が蔚山攻防戦に関して讒言等により秀吉の不興を買い、更に三成との確
執を悪化させる。如水・長政親子は秀吉の死去前後から姻戚である家康に与し、豊臣恩顧の大名の多くを家康方に引き込む
行動を取り、戦場においては関ヶ原本戦だけでなく九州でも武功を挙げる。破れた敵将の三成の哀れな最期と比し、その勲功
を表された長政は筑前37万石(再検地後は52万3,000石)への加増移封となり、また遺訓として「人に媚びず、富貴を
望まず」が知られる如水は別に提示された上方での加増を辞退して、長政に伴い中津城から福岡城へ移り住
む事を選び、静かな隠居生活を送った。その身の処し方は現代においても求められる潔さであろう。
>>78 息子よりも又兵衛のほうを買っていたフシがある>官兵衛
ソリは合わなかったんだろうな息子と
83 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 17:58:56.87 ID:wmQ30NuYO
>>78 有名な「その時右手は何をしていたのか」って台詞を家康暗殺のことだと言う話があるけど、
実際には「黒田家のために行動せずにバカ正直に家康のために働いて一日で終わらせやがって」って意味ってのが正解なんだろうな
長政は唯一の嫡男で、主力部隊も長政と一緒に関ヶ原にいるんだから
長政が家康一人を暗殺したところで嫡男と家臣を殺されて家が断絶して終わり
長政も有能な武将だけど、こういうダークな部分が全然無いんだよな、勉強だけ出来るアホと言うか
84 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:00:00.43 ID:+AbFNY9d0
参謀という明確な職は当時は無かったので
全部普通の前線指揮官
86 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:03:04.25 ID:JYSwMahV0
>>78 勘兵衛は天下を狙ってたが
息子は家康に忠実ですよって表明するためにこの噂を広めたって話もあるな
87 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:03:38.23 ID:7IsElp0L0
半兵衛の2Pカラーじゃなかったの?
88 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:03:38.49 ID:cRD6pOVE0
>>83 いやあ、、積極的に徳川家の覇権確立に貢献して領土を大幅に拡大させたし、
ちゃんと現実をみて行動してたろ。長政。
先の見通しも勝算もはっきりしないのに、まぎれてくれたらいいなぁ程度で乱を
望んでいる親父の方がよっぽど中途半端だよ。
89 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:04:33.58 ID:7tHFAA8z0
戦国時代の軍師とは角隈石宗みたいに天気を見たり占いをしたりして吉凶を占った人のこと。
三国志みたいな軍師なんて戦国時代にはいない。
90 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:04:54.47 ID:syb2wISjO
>>79 あそこら辺の奇行は、
わざと自分が煙たがられるようにして、
長政の人望を相対的に引き上げる策だったという説もあるお
秀吉「あのチンバ(足が不自由)に100万石も与えたら天下を取られてしまうわ」
実際関が原中に兵も無いのに口先だけで九州の一部の城を落としてたからな。
>>44 秀吉が10万石ぐらいしか与えなかったというのだけで実力がわかると思う。
アホに100万石与えても怖くないから。
92 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:07:31.39 ID:36UzR/Fh0
>>44 九州とはいえ10万石以上貰ってるからなあ、平凡ではないわな。
派手な戦働きがないのに、どうやら献策して10万石となれば、
世間では軍師扱いか
>>90 当時はともかく、どう見ても息子の小ささをアピールする逸話になってるけどな
黒田長政も前田利長も偉大な父の前でわざと無能を演じてたって説があるけど
他の資料とか実際の行動を見る限りどう見てもド天然だろこいつら
父親が家康に反抗的だったから後になって「フ、フン!親父の考えなんて分かってたし!」とか言って
95 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:08:09.25 ID:w8ddfXVCO
96 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:08:37.00 ID:cRD6pOVE0
>>93 長政が、自分が小物だってイメージを広めるためにやったのかもしれんな。
97 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:09:11.02 ID:vbo8eyOgO
>>79 たしかにネタくさい話ではあるよな。まあ、本人的には息子を見殺しにするつもりだったらしい
司馬遼太郎の小説によると、空白状態の九州はおさえたらしい。各国の本隊は関ヶ原にいってるから隙だらけ。
そこに黒田それまでにため込んだ金使って、いきなり大軍徴兵(周辺の相手に比べてだが)して、攻めて調略繰り返したとか。
小説の最後あたりなので、だいぶん盛ってる可能性が。
98 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:09:27.47 ID:7tHFAA8z0
99 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:09:54.77 ID:syb2wISjO
>>69 そんな信長に、手紙で唯一誉められてた金柑頭ってやっぱり化け物だよな
100 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:10:07.41 ID:JYSwMahV0
>>93 小さいほうがいいんだよ
もう家康の天下になってたから切れ者が大きい領土持ってたら絶対潰される
101 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:11:14.14 ID:eFXvfTOz0
せめて百日関ヶ原
うっかり歴史に名を残すと女体化させられるぞ!
104 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:13:45.84 ID:ZheyOSUwO
>>102 病弱で弱々しいけど、頭が回ってちょっと小悪魔的な官兵衛たんを希望します!
105 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:14:34.63 ID:cRD6pOVE0
>>103 っていうか、秀吉っていうほど戦争上手くないしな。
106 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:15:15.03 ID:cyc6X+qa0
半兵衛って全兵衛になれないまま死んだの?
107 :
発毛たけし ◆3iIhD.WxqI :2013/05/12(日) 18:16:13.82 ID:G6Px9klR0
>>94 そいつらをイメージするときは
長島一茂をイメージすればよいwwww
>>104 病弱だと色々キャラが被ってると思います!
109 :
発毛たけし ◆3iIhD.WxqI :2013/05/12(日) 18:18:24.59 ID:G6Px9klR0
>>106 豊臣秀吉って
なんでハゲヨシって名前つけられたの?
世間一般では「秀吉が勘兵衛を遠ざけたから“たった”18万石」みたいな言い方をするが、
実はこれは秀吉政権が出来た当時では無名時代からの部下の蜂須賀小六に次ぐナンバーツー
加藤清正とか福島正則の子飼い武将がこれより高くなるのはもっと後の話
むしろ
>>1の資料は不遇どころか逆に評価が高過ぎる位だった黒田官兵衛が、
小六と同じように前線で命を掛けていたから評価されたと言う裏付けにもなる
>>105 基本は、戦わずに勝つ、もしくは、勝てるように準備してから戦う、だよな
竹中半兵衛と黒田官兵衛ってどっちが有能だったの?
113 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:20:40.72 ID:ZheyOSUwO
>>108 じゃあ病弱から体が不自由なせいで包帯巻いてて松葉杖付いてて一見弱々しそうな官兵衛たんにします!
ていうか歴史的にはこっちだよね
>>83 >長政も有能な武将だけど、こういうダークな部分が全然無いんだよな
宇都宮氏粛清とかあるんじゃないか?
>長政は唯一の嫡男で、主力部隊も長政と一緒に関ヶ原にいるんだから
官兵衛は息子嫌ってたからいっそ孫に継がせる気だったのかも
115 :
発毛たけし ◆3iIhD.WxqI :2013/05/12(日) 18:20:45.21 ID:G6Px9klR0
秀吉は指が六本あった 奇形児であった
116 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:22:25.89 ID:MfEiG5h2P
>>77 それって山本勘助っていう使い走りに命令する文書があったってやつじゃないの?逆に軍師山本勘助を完全否定する証拠だったろ
>>113 地下牢に閉じ込められた時に、皮膚病にかかって
頭は禿散らかしてるわ、体中酷いことになったらしいよね
>>30 あの感性は昭和のふるさと創生とかやってた時代のものだろうな
坂口安吾の「二流の人」でおなじみの黒田官兵衛だが
話題としては知らない人が大多数だろう。
秀吉の軍師として超一流で秀吉より切れ者だった感がある。
秀吉は警戒して10万石しか与えなかった。
100万石以上の功があるが、100万石あれば天下を盗られると恐れ嫉視したらしい。
九州での関ヶ原の戦いの最中、九州一円を支配下に置いたという。
この間息子の黒田長政が家康に戦功抜群であったため、あまり見咎められなかった様子。
キリシタン大名としても有名。
>>91 建前は10万石だけど内高は30万石近かった>官兵衛の領土
しかも秀吉は太閤検地をそこだけ免除したりとそれなりに優遇してる。
故にため込んで関ヶ原になって兵隊を大量に雇えたわけで
122 :
発毛たけし ◆3iIhD.WxqI :2013/05/12(日) 18:25:13.35 ID:G6Px9klR0
姫路出身なのか
赤穂浪士だけが有名であんまり知られてないな
124 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:25:50.61 ID:ZheyOSUwO
>>112 竹中半兵衛は戦術に優れていた
黒田官兵衛は調略に優れていた
というのが一般的なイメージ
竹半は朝倉浅野の最前線に秀吉と共に居てその戦術の才を生かしたと言われているし
黒官は播州の豪族をその弁舌で説きつけ、後には後北条氏の説得を行い、開城させたりしてる
荒木村重の時は失敗して、一年間牢獄に閉じこめられて体が不自由になったりしたけど
秀長ってそういやいつ勉強したんだろ
20代以降の仕官で秀吉よりもスタート遅そうだし、やる気そのものも秀吉ほどじゃないだろうし
>>92 あの当時武功が無いと万石大名になれなかったし、世間も
それを認めない風潮があったからそれ相応の働きがあったと思われてる
んじゃない?石田を敵視した清正も官兵衛は特に敵愾心を持ってたわけで
もないし
127 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:27:00.09 ID:cRD6pOVE0
>>123 逆恨みで老人虐殺した犯罪者以下の知名度ってのも、寒い話よの。
>>44 当時の武家社会を影で仕切っていた黒幕
実際には信長も秀吉も家康も官兵衛に顎で使われてた雑魚
官兵衛よりも蜂須賀正勝のドラマでの扱いが不当すぎる。
あれだけ優れた行政官、外交官を槍働きだけのレスラー枠にされてしまって。
秀長、蜂須賀、官兵衛、半兵衛が秀吉四天王だよ。
後半三人は一応信長の部下だけど。
130 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:29:48.03 ID:ZheyOSUwO
>>117 牢獄に生えていた草の花が開くのを待つのが唯一の楽しみだったとか。。それでも裏切らなかった骨の堅い人でもある
色々言われるけど、忠誠心は意外に高い気がするんよな。。
まぁ実際仕切ってた人間は上手なやつほど痕跡を残さないというのは
勝海舟が柳生宗矩を評した言葉だけどね
>>125 秀長以外の秀吉一族の揃いも揃った無能っぷりを見る限り、
秀吉は人心掌握とかカリスマって言う天性のものを出世の中で磨いて行ったってのが分かるけど
何のフォローもないはずの秀長が一族で唯一マトモなのが不思議なんだよなぁ
>>97 雇った兵隊が浪人から農民までと正規軍とは言い難いシロモノだった。
でも武士が多かった大友軍にはその軍勢で勝ってるからその辺は采配は
優秀だったんだろう
>本人的には息子を見殺しにするつもりだったらしい
あの当時家なんてのは血縁が継いで繋いでるから
当人は親族の誰かを養子にするつもりだったんじゃない?
>>99 そのキンカン頭も最後には粛清されそうになって本能寺を起こしてるわけで。
信長軍団の中では柴田勝家さえ抜いて領国・動員兵力は最強だったから信長も
このままでは自分がと危機感持ってたようで
こんなに胡散臭い発見が今までにあっただろうか
ああ、そういえばどこかの国がよくやってますね
脇役が大河になるなら
つぎは島左近だな
137 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:34:52.86 ID:cRD6pOVE0
>>133 秀次もそんなに酷くないと思うんだけどね。
小牧の陣は、秀吉の作戦ミスだし、他の乱行なんて全部作られた内容だろうし。
他は、大過なくつとめてたり、公家との交際もちゃんとやってるし、資金難の諸
大名に金を工面してやったりしているしな。
138 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:35:56.21 ID:lmcS18cW0
だいたい如水は戦場の指揮官としてだけでなく、築城においても才能を発揮した
築城の名人と讃えられた清正は福岡城を見て大砲の攻撃を意識した、実戦を重々に考えられた城だと言った。
福岡城はまさに如水の傑作である。しかし福岡城は九州一の規模を誇る大城郭であることも今となってはあまり知られていない。
現在は城の横に広がる湖の公園が、かつては巨大過ぎる堀であったことなど想像もできない。
それどころか、城の北部に位置する小高い山『西公園』を基点として東へ伸びる浜の一体までもが海と共に2重の堀の役目を果たしていた。
福岡上は、世界の銃の3分の2が日本に集まり、大砲に鉄から刃物から糞まで何でも詰め込んで城に打ち込んだ、まさに重火器+バイオ細菌兵器でカオスと化した戦国後期を
第一線に立って戦いまくった如水の経験の集大成そのものの姿なのだ
劣勢になってきたチョンが「日本史の改ざん」に舵を切ってきたな
と最近思う
ハンセン病の標本とか
美味しい兄弟はたまにはいるもの
武田晴信と信繁とかね
141 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:37:03.24 ID:ZheyOSUwO
柴田と言えば瓶割り柴田。まあ逸話としては猛将のやることなんだけどw
ただ賤ヶ岳では佐久間盛政に、突出するな!と厳命し、それを守らなかった佐久間を見て
俺に腹を切らせる気か!と怒ったんだから、戦術だけじゃなく大局も結構見える人だったんだろう
ただ秀吉が更に上を行っただけで
142 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:38:14.25 ID:64chnc/jO
関ヶ原に戦国のテーマパークでも作れば?
>>10 どっかの元総理大臣がこちらを見ています…
>>68 そりゃ物量作戦だからねぇ。
兵力無限、弾薬兵糧無限、味方減る一方
では島津も勝てるはずが無く。
大軍に戦法なし
無論その大軍を卒なく指揮した能力も重要ではあるが。。。。
>>111 政治外交で攻略してる大名多い
毛利、徳川、上杉と
>>129 それなら前野も扱い酷いな。
豊臣家の唯一の譜代ともいえる存在だったのに
145 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:38:58.28 ID:cRD6pOVE0
>>141 っていうか、賤ヶ岳で柴田勢が負けたのは、前田利家が裏切ったせいだ。
146 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:39:45.59 ID:NDFSp1Eu0
>>70 勝家は信行派。
忠臣なのかな?
信長のスパイで信行の同行を探ってた?
>>133 おねさんの親戚のほうはまだマシな部類が多いのにな。
広島に大名として残ったり 歌人とか出てるのに
たしか明治にも子孫が有名歌人でいたはず
148 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:43:16.00 ID:ZheyOSUwO
>>145 利家が支えていればもう少し保ったかもだけど、大勢は変わらなかったろうな
当時の利家はまだ後の100万石大名じゃなく、柴田の寄騎的存在。そんなに大兵力を持てたわけじゃないし
>>133 秀次は、殺生関白とか後付けで色々悪名背負わされてる感があるけど
秀頼への中継ぎくらいなら勤まったんじゃないかな。
150 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:43:41.20 ID:agtA/h7NO
151 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:46:40.32 ID:cRD6pOVE0
>>148 だって、前線部隊と本軍の中間に位置してた前田勢が勝手に退却したんだもんよ。
おかげで、佐久間隊が孤立してフルボッコにされて、そのままの勢いで敗退。
>>137 荒淫だけは事実な感じが。
最上の駒姫の嫁の話しかり
そこだけは秀吉に似てるな
>>141 行政官としてもそれなりに優れてる>柴田勝家
ただそういう勇名の一方で繊細なところがあって猜疑心
ありまくりだった。
>>145 なぜか軍記物やTV番組でもぼかされてるな。
前田が離反したのがキッカケで柴田軍は崩壊したのに。
でもそれを責めなかった勝家は立派だが、捕まる可能性
があるのに前田の城にわざわざよって「ガンバレよ」と
声をかけていくんだから
153 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:47:00.89 ID:GBswGDhaO
信奈の野望の官兵衛ちゃんで脳内再現された
154 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:49:25.06 ID:cRD6pOVE0
>>152 まぁ、妻妾が20〜30人いた程度じゃ、おおきくとがめるほどの荒淫ってわけでも
ないしな。
他人の妻に手を出したわけじゃなし。
>>149 だから早い段階で秀吉から秀次の娘を秀頼の嫁へという
話があった。秀吉からすれば死んだあと息子の面倒見てくれるのは
この秀次しかいなかったのだから。
こういう場合養子のほうはさっさと身を引くか、三浦同寸みたいに
クーデターで親父を滅ぼすかのいずれかしかないんだよ
秀次は秀頼が登場した時に身を引くべきだった
157 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:50:29.16 ID:lmcS18cW0
清正の作った熊本城も天下の名城である。
何重にも重なる高い高い石垣は、清正の武者返しとしてあまりにも有名だ
この鉄壁の守りを見せ付ける城の本当の魅力
それは、実は熊本城の造りは守り以上に打って出るための造りに力が入れられていることなのである。
思えば清正も数多くの玉砕戦を生き抜いた
朝鮮半島では命を落としていても不思議ではなかった
清正は城の使い方を戦国から朝鮮征伐の長い長い攻城・篭城戦のなかで知り尽くす
そんな清正の目であってこそ、如水の作った城・福岡城を見て、実践的だと感嘆できた。
>>154 たくさん妻妾がいるのに、わざわざ駒姫を所望したんだと>秀次
それで京都まで出てきて婚礼の前に連座して処刑されてしまった。
溺愛してた最上のオッサンが怒り狂って関ヶ原で東軍につくキッカケに
なったんだから
>>156 秀頼にしてもあの年齢じゃ中継ぎが必要だったんじゃね?
どうせ成長したら織田の血を引いてる秀頼の求心力が高くなりそうだし
160 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:52:36.92 ID:mKJRMQiC0
官兵衛といえば斉藤洋介
そして勘兵衛に翻弄されて本当は殺したいのに
手厚くもてなしながら、官兵衛が帰ったあと
「憎い憎い」を連発する西田敏行のことしか思いつかん
>>159 秀次にしたら秀吉死んだあと秀頼はどうにでもできたしな。
サンボウシの例があるんだからサンボウシみたいに適当にどこぞの
大名にしてしまってもOKだった
163 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:55:40.49 ID:ZheyOSUwO
>>151 本来なら共同して敵に当たるべきはずの前線の佐久間が突出して戻ってこないんだから、後は各個撃破を食らうだけ
実際は柴田本隊が佐久間を救おうとして後詰めに入り、激戦している最中に脇を固める前田が抜け、後は他の裏切り、佐久間壊滅→柴田退却だったわけだけど
それを避ける行為がいいのか悪いのかは別ににして、前田が残ろうが逃げようがどっちにしても柴田の負けは確定だろう
細かい策が使えたならともかく、大兵力が真っ向からぶつかったわけだし。そうなると兵数の差はやっぱでかい
>>161 そりゃ東軍で九州制圧してくれたんだから殺せない。
まして官兵衛だから島津や立花、鍋島なんてのと手を組んで
九州で籠城されたら徳川家康でも負けてたかもな
165 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 18:58:59.09 ID:cRD6pOVE0
>>158 女好きってのもあるが、最上を味方にしたかったんじゃね。
あと、駒姫殺したのなんて、完全に不要な行為だしな。
普通に返しときゃいいのに。秀吉って、性格の根本が残虐なんだよな。
166 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:03:12.56 ID:ECScF3Z00
>>44 関ヶ原あたりだと、黒田官兵衛と真田昌幸(幸村のオヤジ)が智謀比肩
関ヶ原のまっ最中
加藤清正・鍋島直茂・立花宗茂ら西国スーパースター軍団を
ろくな戦もしないで、自軍に取り込み、九州を南下
そろそろ島津かな〜?と思ったら
関ヶ原終わって親父の一世一代のギャンブル終了
関ヶ原がもうすこし長引いてたら
家康VS如水になってたカモメ
>>156 なんで身を引かなかったんだろうな。
関白を手放して隠居すれば、家臣もろとも命は救われただろうに。
野心だけが先にたって、家臣が皆殺しにされるまで
その地位に執着した、愚か者だったとしか思えないんだが。
>>155 成り上がりだから仕方ないけど頼りになる一門衆がほとんどいなかったのがな
秀長や利家がが後十数年生き残ってたら歴史は変わったんだろうか
>>168 変わらんだろうな
ただ、秀吉が後十年長生きしていれば確実に変わっただろう
>>27 関ヶ原町民として忠告しておく
ウォーランドへ行くなら夏は止めておけ
マジで蚊がヤヴァイ
あと宿泊施設は旅籠屋しかないぞ
>>167 周りの家臣も次の天下人のつもりで仕えてたんだろうから
そう簡単にはいかんだろうよ
>>165 あの当時でも幼い(15-16歳前後)姫ということで淀殿筆頭に助命嘆願続出だったんだけど
それ無視して秀吉が処刑強行しちゃった
母親はショックで自害、親父も秀吉からそのあとも陰湿なイジメに合ったから
最上が東軍につくのは当たり前の話
174 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:14:29.04 ID:FJsvGpH10
>>80 縦
読
み
光市妻子未成年殺人屍姦死刑判決事件
つーか、伊達はじめあの時秀次派だった大名のほとんどが関ヶ原で東軍になってる
伊達政宗の慌てっぷりにしてもそうだし、秀次に接近していた大名にしてみれば
秀次が粛清される直前まで次の天下人の秀次に取り入るのが最大の出世競争だと捉えていたのは間違いない
もし秀頼に立場を譲らせるにしても、まさかいきなり一族皆殺しにするってのは
当時の関係者からしても異常なまでの行動だったのは間違いない
178 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:17:19.84 ID:e73s/vH9O
>>141 「大局」が何を指すのかによるけれど、一局面だけでなく戦場全体が見えていたかもしれないが、戦場の外までは見えてなかったように思えるけどな
軍団長としては有能でも、それ以上の器ではなかった気がするよ
仮に秀吉との争いに勝っていたとしても、勝家では天下統一は出来なかったんじゃないか?
秀次事件で一番大きいのは、秀次が形成していた譜代の家臣団がほぼ壊滅して、
秀次派だった浅野、藤堂、最上、伊達、細川といった大大名が豊臣政権を見限り始めたことだな
180 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:17:45.99 ID:ZheyOSUwO
秀吉も惚けてたんだろな
老いては駿馬も駑馬に及ばず
>>166 真田の場合、官兵衛と違って小大名だったからな。
官兵衛みたいに30万石(建前は10万石だけど実際は30万石並みの収入あり)
程度の大名だったら関ヶ原も違ってたんでないか?
>>167 引いて済むならいいけど、秀吉が不安になって粛清する可能性を
考えたら秀次もすんなりいかなかったんだろ。だから最後は三浦同寸みたいに
クーデターでケリつけようとしてた感じ。
秀吉って明るいイメージあるけど実際は家康よりもはるかに
陰湿で残虐なんだし。
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>>168 利家が長生きしてたら家康みたいに天下獲ったかもな。
利家はそろばん愛用したりとあの当時としては珍しく経済感覚に鋭かったから
政治面でも江戸時代が変わったものになったはず
>>176 伊達政宗もこの件でお家断絶一歩前までいってるからねぇ。
細川家も借りた金を返すのに家老の松井が家康に頼んで
家康のヘソクリを借りた有名な話がある
>>180 秀吉がボケていたなんて信頼するに足る資料には一切書いていない
185 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:24:30.02 ID:ZheyOSUwO
>>178 柴田がどこまで見えていたかは判らないけど、もしかしたら三法師(秀信)か信孝を立てて、織田家重臣としての職務を全うしたかもしれない(信雄はアホだから無いだろうw)
大局という意味で言えば、織田家重臣としての目線が限度だったかも。本人としては織田家に取って代わるにしては織田家重臣としての意識がかなり強いんではないかと思う
その後は、当時としてはもう高齢だし、結構早く死んでまた織田家中で権力争いが発生したかも。完全に想像だけど
186 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:24:33.13 ID:cRD6pOVE0
>>179 だから、秀次処刑ってのも、かなり急な展開だったんだろう。
普通なら、順々に諭してゆく過程を一気にすっ飛ばして、処刑を決めてしまった。
なんで、時勢をちゃんと見ていた徳川家ですら慌てているし。
秀次側もすぐに殺されると考えてなかったんだろう。身を引くにしても、自分に有利な
ように交渉するとか考えてたのかもしれんが。
>>178 少なくとも勝家一人で天下統一するつもりはなかっただろう
近年の勝家再評価の中で「勝家がどういう政治体系を作ろうとしていたのか」ってのは評価が分かれるところで、
あくまでも織田家をワントップにして足利家や朝廷は利用するだけのつもりだったのか、
それとも織田家独裁は諦めて現実的に朝廷の権威の下に付くつもりだったのか、って言うのはよくわからない
けど少なくとも、これまでの通説だった政治の構想を全く持たない猪武者って言う程度の器ではない
>>177 駒姫の話は有名。
淀殿でさえ必死こいて助命嘆願するほどだから
>>179 まあ、秀勝(お次)がいなくなった時点で後継者問題はほぼ詰んでたもん
於次生きてりゃ秀長のように上手く纏められてた
なんせ虎たちとと一緒に育てられた上に
血統が主筋だから旧臣達も頭上がらん
昔はすること無かったんだろうな
博打はたいしたもんないだろうし、酒と女よの
191 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:28:47.28 ID:1kupixSU0
黒田節のネタ元になった槍の日本丸の現物が福岡で普通に観れる。
歴史を肌で実感できるぞ。
>>179 前野長康という唯一の譜代ともいうべき家臣まで粛清したからな。
>>186 秀吉も自分が死んだあと秀頼が粛清されるのを警戒してたんでないか?
なんせ織田家を陰湿なやりかたで簒奪した過去があるのだから
193 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:30:40.14 ID:CO4XOTaM0
いいけど「花押(かおう)」で充分通じるだろw
それとも、解説つけなきゃならんほど
知的水準が低いのか
>>186 罪状が大逆だから、一族郎党皆殺しは規定といえば規定なんだけどな
195 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:31:01.92 ID:e73s/vH9O
>>181 真田昌之は、目先の小さな領地(沼田)にこだわり過ぎて、せっかくの才能を活かせなかったイメージ
同じく田舎の小領主に過ぎなかった毛利元就が、有力大名を倒して中国地方全域を手に入れたのと比べると、その違いがよく分かる
>>184 とはいえあんなに人を殺すような人間でもなかったはずだよね
家康も島津もそのままだし。荒木も殺されなかったし
197 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:31:41.82 ID:NDFSp1Eu0
>>157 東京へ出兵したかった西郷は熊本城にやられたと言っても過言ではない。
198 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:32:14.90 ID:swbHXNpo0
>>176 そもそも遺言で五大老筆頭家康に天下の仕置きまかせていて豊臣政権の主流派は東軍だったからな
西軍はクーデター派だからな
まあ、家康が豊臣の弱体化を図ったのは事実ではあるけどな
だからこそ立花宗茂は石田光成と昵懇ではないのに秀吉への恩顧から西軍についたわけだしな
陰険なイメージが強い如水だがかなり義理堅いからな
ああみえて主君を裏切ったことはないからな
関ケ原の時代には既に隠居で長政に自由にやらせていたが
長政が仮に西軍についていたらかなり様相はかわったでしょうなぁ
>>187 織田家家臣団による合議で政治するつもりだったんじゃない?
周王朝みたいな感じになったかもだが
>>188 刑場に引き回されていく時、あまりにもかわいそうってんで
民衆達が酒を浴びるように飲ませまくって
泥酔させて前後不覚に陥らせたって話があるくらい
この事件で太閤の人気は地に落ちた
201 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:33:19.44 ID:D+gzv/+K0
なるほど
岡田准一が最前線で仙谷BASARAのように敵をバッサバッサ切り捨てる描写が出てくるんだな
202 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:33:32.81 ID:cRD6pOVE0
>>194 族殺はシナなら普通だが、日本では珍しいぞ。
普通、女は殺さない。
203 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:36:19.03 ID:ZheyOSUwO
>>184 秀吉がお漏らしをしたという記録や、中国からの使者に対し汝を日本国王になす、という文面をにこにこして対応をしていたのが一日経ってうって変わって怒りまくったってのはある
また大地震で倒壊した大仏(有名な方広寺)に、おまえなにやってんだ!と弓矢を射た記録もある。演出とはいえやり過ぎな感がある
こういう度を逸した行動ってのはそれまでにはほとんど無かった。秀次事件あたりかそれの少し前から増えている
それに比して細かい事はよく覚えているようで、朝鮮出陣にあたって槍が何本要るから枯らした木が
大坂にあるので使え、などとえらく細かい指示をしたりしている
だから上のお漏らしや奇矯な行動などはあくまでも傍証にしか過ぎないのは確か
>>196 人を殺したからボケたってのは根拠のない暴論だろ
秀次の一族を皆殺しにしたのは、後の禍根を断つためだろうし
秀頼の事を思えばこその親心でしょ。そんなん珍しい話じゃないさ
>>194 秀頼の娘すら生きてるし
三成に至っては息子も赦免
嫡子、男子はともかく側室、息女、侍女全て族滅はあんまり聞かない
206 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:37:36.68 ID:swbHXNpo0
>>195 真田はむしろあの小さな領地を守るためにフルに知略武略つかったから評価されているわけ
勝頼時代の斜陽の武田を支えていたのは真田だけど結局甲斐を支えれなかったことから
毛利元就のようになれたとは言い難いな
小さな領地だからこそ知略武略が活かされたともいえる
真田って周りが強かったんじゃないの
北条と上杉と武田ってAクラスのチームだろ
武田の後は徳川だろうし
まあ本当に強かったのかどうかは知らんけど
>>202 ところが、日本史の中で織田後期〜豊臣時代だけは明らかに非戦闘員への被害が増えている
伊達政宗の「女子供から畜生まで撫で斬り」のように(実際は誇大広告だろうけど)
そういうことをするのがこの数十年間だけはパフォーマンスとして成立していた
>>195 真田ー武田氏の重臣(役員)
毛利ー大内氏の準重臣(外部役員)
みたいな差があったしな。
>>203 年寄りが失禁するなんて別に普通だぞ
ボケた証拠にはならん。あなたが年取ってみればわかるよ
真田幸隆の無理ゲー感は凄いよ
北に謙信、近所に村上義清、東に長野業正、南に信玄
おまけに信濃は戦上手の奴が多い
>>130 自分から上司裏切ったことはまあ無いしな
小寺氏にはあっちから裏切られたわけだし
秀吉は死んでからだし、というか関ヶ原は家康と三成の
豊臣政権内の政争という見方も出来る
東軍も西軍も秀頼様のため、とか言ってたんだし、内心はともかく
>>200 切る侍のほうも不憫でそれを見逃したんだろうな。
駒姫の辞世の句が
罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき
(何の罪もない私だけど、こうなるのは自分に罪があるからなんだろうな〜)
というやつ
>>210 単純に、ボケた状態の時と我に返ってマトモな状態の時があっただけじゃないのか?
216 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:45:03.30 ID:cRD6pOVE0
>>207 そうはいうが、家康の松平家と昌幸の真田家じゃ真田家の方が出発点は
恵まれてるわけで。
で、周囲が大勢力って点では、家康の方がきついし。
基本、小さい範囲までの実力なんだよ。
大佐としてはやたら優秀だが、将軍にできない軍人って感じ。
大河ドラマでは、半兵衛、秀長、蜂須賀、前野とかつての戦友がみんな逝き、
三成らの台頭の中、寂寥感を感じつつ、政権中枢から去り再起を企む官兵衛を描いて欲しい。
218 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:45:28.81 ID:ZheyOSUwO
真田昌幸は、元々の出自である海野氏の幸輝や幸光(だったか)をだまくらかして討ち取ってる事件もあるのがちょいとイヤだ
彼らは全く昌幸を裏切る気が無かったと言っていただけになおさら
あちこちに臣従してはまた離脱し、臣従してはまた離脱を繰り返すのも。しょうがないとはいえ
似たような事をやってた山名豊国は重臣たちから「あんた裏切りすぎ」って言われて追放されたし。まあ無能だったけど
昌幸は知恵も度胸も勇気もあるけど、地侍の感覚な感じだ
>>215 証拠もなんもないのに、何が何でも秀吉がボケた事にしたいのか?w
日本国史上、空前絶後の大英雄を証拠も論拠もなく叩くような趣味はないよ。俺は。
>>194 女は出家、小さい子供も出家で助命というのが普通。
>>205 坊主になれば基本助命だったなあの当時は
ただし秀頼の子供は処刑されてるけど
>>206 親父の幸隆の時に真田は一度城を追われてるのを
武田に助けてもらったばかりか外様なのに重臣にまでしてもらったからな。
昌幸は兄貴が戦死したあと真田家の存続を許されてるから
毛利と違い武田に忠誠をもってた。
毛利は大内にそれほど助けてもらえず自前でやってたので
大内に忠誠なんてもってなかった
221 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:49:06.89 ID:swbHXNpo0
>>216 うむ、そんな感じだわな
ま、真田家としての領国をひろげる野心もあまりなかったろうしな
真田家の戦での活躍は基本的に防衛戦だからな
上田合戦にしろ大坂の陣にしろな
222 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:50:55.47 ID:7n40v9WJ0
『太閤記 サルと呼ばれた男』では、官兵衛は半兵衛とともに、姉川の戦いに従軍してたわけだが。
223 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:52:35.54 ID:ZheyOSUwO
>>210 秀吉は死んだのが62か3くらい。当時の平均寿命は短いが、本来ならまだ失禁なんてする歳じゃないだろう
それがそうだったという事は痴呆症の可能性が無いわけではないと思う
それに
>>215氏の言うように、ちょっと惚け加減な時と昔みたいにしゃっきりしたりを繰り返す状態だったのかもしれない
明の使いにニコニコしてたのが、いきなり怒りだしたのも、最初はちょっと惚けていたが、次の日には日本国王に為す
という言葉の意味を理解する昔の鋭い状態になっていたから、と考えればわかりやすい
まあ傍証でしかないけどな
>>208 それ乱捕りじゃないの?
一向一揆はみんな一緒に籠城したのだから戦闘員とみなされて
やられても仕方がないだろうし
>>212 もともと長野業正に居候してた。
>>205 茶々・初・江の浅井三姉妹とか二度(人によってはもっと)
落城の憂き目にあってるけど助かってるしな、茶々は三度目で死んじゃったが
母親が違うらしい弟は殺されてるけど
普通、妻女・娘まで皆殺しはないよな
226 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:53:11.99 ID:xb4rSYPh0
>>181 西軍の兵1〜2万くらいを
真田オヤジと島左近らが直接采配を奮うことが出来てれば
歴史変わってたかもな
やっぱ茶坊主が総大将のじてんで負けてたんじゃね?
228 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:53:29.39 ID:agExerPv0
>>1 官兵衛は来年の大河だし
これはステマだろう。
229 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:54:41.01 ID:PqD3DH200
戦国時代は夢がある。夢がありすぎる。
230 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:54:56.55 ID:cRD6pOVE0
>>221 小さい範囲で必死になるならなるで、もうちょっと、人望を得るようにすれば
もっとちがったんだろうがなぁ。
徳川の傘下にはいった時に、大人しく領地替えに応じてれば、後々領地も
増えたろうに。目先の利益ばかりみて、主家をコロコロ変えるから、結局は
所領も無くして。
父親とは違って、信義一辺倒だった息子の方が領地保全しているしな。
232 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 19:55:48.53 ID:e73s/vH9O
>>185 >>187 清洲会議の時点では、秀吉みたいな、織田家の実権を握って自分が天下人になろうという意思は無かっただろうね
信長の遺志を継いで織田家による天下統一を……とは考えていただろうけど
あと、政治能力が無かったとは言わないが、主君である信長が決めたことに従えばよい(さもないと粛清されるかも?)と考えていたために、他の大名を倒して天下をとった後どうするかについてまでは考えていなかったのではないだろうか
そう考えると、「大局が見えなかった」のではなく、家臣としては出すぎたこと=越権行為になるから「大局を見ないようにしていた」のかもしれない
関ヶ原の戦いで三成に一番必要だったのはラッパのマーク
235 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:00:46.33 ID:swbHXNpo0
>>217 秀吉が天下とって領国に引っ込んでからはあまり中央には興味なかったと思うわ
豊臣政権がどうなろうが正直知ったこっちゃなかったとさえ思う
息子の時代だから息子に名だたる古参家臣ほとんどつけていたしな
関ケ原のときあれだけやったのは息子の後方支援的側面強いわな
本当に中央への野心あったら秀吉死後に上方に上っていたろうよ
古参武将が手元にいないなか九州で挙兵して天下を狙うのは
無理難題であるのは戦巧者の如水はよくわかっていたろうしな
236 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:00:52.08 ID:ZheyOSUwO
>>233 下痢してケツ拭く紙さえ見つからなければ大坂に行ってまた挙兵を・・・
無理ゲーな気もするw
>>232 お市娶ってる時点で野心無しとは言えないと思うが
238 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:04:05.84 ID:iZPVGGiJ0
>>141 ちょっと前までは戦国武将の中でもスポ根・脳筋の代名詞的存在だったよね。
でも実際は織田家の家老として生きてきた人間だし、相応に頭脳も持ってたと思う。
徳川軍団でいうところの本多忠勝みたいなもんかな。
>>237 とはいえ勝家が持ってる実弾が実質妾腹の神戸信孝だから纏まるはずないわな(´・ω・`)
お市になんの力も無いし
240 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:08:15.72 ID:7tHFAA8z0
>>113 大谷吉継は病気になってからも輿に乗って指揮とってたじゃん
>>226 左近は実質石田軍数千の大将だろ。
左近以外に横山喜内や舞兵庫といった当時
有名な武将を抱えてたし、三成は戦ヘタだけど
家臣は高禄(自分が居候になる話)で抱えてた
ので西軍崩壊の中でも石田軍だけは引かず玉砕してる
242 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:09:01.64 ID:ZheyOSUwO
>>238 確かに昔より勝家のイメージは上がってる気はする。。かな?本多忠勝と比べると忠勝の方がスマートなイメージ。傷を負ってないだけに。こっちも猛将なんだけどなw
最近では脳筋といえば、、誰だろう。。仙石あたり?
>>240 立花道雪「儂も半身不随だけど普通に最前線立ってたお」
てか、大河のキャストって善助と太兵衛は決まってんのかな
かなり重要なポイントだからジャニーズ枠使わないで欲しい
黒田家中の双璧、栗山と母里がましな配役なら少し見たいと思う
246 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:11:03.51 ID:swbHXNpo0
>>238 清須会議までは織田家筆頭だわな
光秀を筆頭とみる分にもあるが光秀は朝廷と交渉できる人材が光秀ぐらいしかいなかったからな
方面軍としては上杉を睨む最も重要な役回りだったからな
ま、本人はあまり野心なかったろうな
担がれたら御輿には乗るタイプではあるけどね
>>241 てか
関が原で1万以上の大軍何回も動かしたことあるのって・・・家康と金吾と義弘だけじゃね?(´・ω・`)
248 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:12:39.47 ID:xb4rSYPh0
>>241 有能な奴等が率いる兵の数と実際に戦った兵の数が少なすぎた
って事
毛利なんて全然動かなかっただろ
だから負け
249 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:12:49.11 ID:e73s/vH9O
>>206 でも、結局は守れなかったわけですよね
まあ、文字通り「一所懸命」を貫いたという意味では、武士らしい生涯だったと言えなくもないけれど
それと、元就だったら信玄が死んだ後に、武田の領地を乗っ取ることを考えると思う
成功するとは限らないけれど、そこでイチかバチかの勝負に出る思い切りの良さを元就からは感じるよ
もちろん、ただの運任せではなく、やれるだけのことをやった上での大勝負だけどね
250 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:13:52.72 ID:7tHFAA8z0
251 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:14:11.02 ID:swbHXNpo0
>>243 あんたは張り切りすぎだ(笑)
そりゃ実父と養父があれじゃ息子は戦強いのは当り前かもな
>>248 そもそも他の大小名がたかだか家老ごときの指揮に唯々諾々と動くわけもなし(´・ω・`)
253 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:15:22.61 ID:ZheyOSUwO
>>247 西軍本隊は基本的に宇喜多。3万だっけか
島津義弘の兵は大坂駐在の兵と手弁当でやってきた彼の領地の出水衆など、合わせて千五百くらい
254 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:15:27.72 ID:cRD6pOVE0
>>248 毛利が動かなかったのは、内応してたせいだし。
そもそも、石田・小西・宇喜多・大谷以外はほとんど内応してたか、
内応勢に阻まれて動けていないんで。
まぁ、島津みたいな変な連中もいるけど。
関ヶ原は、謀略ですでに勝敗決まってるからねぇ。
255 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:16:35.85 ID:xb4rSYPh0
>>252 だから茶坊主が頭のじてんで
負けてたんじゃね?
後は、家康の調略の凄まじかったんだろ
>>250 言い方が悪かった
関ヶ原にいた奴らで以前に万を超す軍勢動かして戦った経験のある武将ってこの3人くらいじゃね?ってこと
>>238 刀狩を始めたのはこの人だったり。
>>243 薙刀隊を従えて突っ込んでいったらしいな。
そりゃ敵もビックリするだろうよ。
養子で道雪に虐待された宗茂は大変だったろうに
>>246 光秀の場合は信長の直属軍に近かったんでない?
支配する領国、与力の構成、動員兵力は柴田や羽柴を
はるかに上回ってたわけだし。
259 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:17:45.67 ID:e73s/vH9O
>>250 関が原の時点で、それまでに一万以上の兵を指揮した実績がある者、という意味だろ
260 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:19:49.79 ID:swbHXNpo0
>>252 うむ、たかだか石田の陪臣に指図されたくないわな(笑)
いくら本人にネームバリューあっても陪臣だからな
ネームバリューある輝元が出張って全件委任をしているなら話は別だがな
その点東軍は家康が出張っていて自ら指揮していたからな
261 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:19:54.84 ID:iZPVGGiJ0
>>242 柴田勝家のイメージっていうと滝田栄かマツケンか勝野洋か宍戸錠かなあ。
二代目中村歌門や中尾彬や大地康雄はちょっと違う。
262 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:20:05.30 ID:ZheyOSUwO
立花道雪の持ってた雷神を斬ったと言われる刀、雷切(丸)は今でも実在
写真でしか見たこと無いけど、いい刀でごんす
>>247 宇喜多秀家も朝鮮出兵で実戦経験ある。あと金吾もそれなりに朝鮮で実戦経験ある。
>>253 島津は
・カネ無し
・本国で伊集院の謀反が収束したばかりで家臣団が混乱
・情報が伝わりにくく本国には重要な決戦と思われなかった
と事情があった。
幕末はこの反省踏まえて対応したからこそ勝てた
264 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:23:19.85 ID:e73s/vH9O
>>237 その野心は、「織田家を支えた名家老として名を残すこと」で、「織田家を乗っ取ること」ではないと思うけどな
お市に男子を産ませて、その子を織田家の後継者にしようとか考えていたなら話は別だけど、そんな意思があったとは思えない
265 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:24:37.11 ID:ZheyOSUwO
>>258 いい感じだけど微妙にマイナーな気も
>>261 なんつうかごつい体育会系のいいあんちゃん、ってな感じかなw
266 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:24:55.59 ID:0EsMv9+sO
>>248 役人が率いる軍と修羅場をいくつもくぐったヤクザが率いる軍とではどちらが勝つか最初から結果が分かってるだろ。
>>249 元就の場合は偶然、厳島の合戦で勝ったからだよ。
>>251 獅子が子供を崖に落とすなんてのを実践してるような親父だから。
イガ栗の話を聞く限りw
実父は攻めたてた豊臣側が「撤退OK」、島津のほうも「和議結んで撤退するお」
と双方が助け舟を出すくらい相手を感嘆させる戦いぶりだったから。
当人はそれを拒否して自害して、これまた島津側から勇士と絶賛されてる。
269 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:26:12.26 ID:iZPVGGiJ0
>>246 尾張出身、祖父以前の代から織田家に士官、生え抜きのツワモノだな>権六
>>257 何やかんや言いながら北陸では相応に手柄は立てているし、地元尾張でも
一旦は裏切りながらも最後はちゃんと信長の尾張統一を支えているよね。
徳川家でいうと本多忠勝と本多正信をを足して2で割ったような、そんな人間では。
>>263 島津家はもともと貧乏な上に、九州での諸勢力との戦続き・朝鮮出兵などで
兵隊も結構疲弊していたと思う。
豊臣秀吉が九州統一の時、島津兵の貧弱な武装を見て唖然とした記録がある。
>>254 吉川が動かなかったからな。
毛利家はやる気マンマンなのに吉川が邪魔して動けず
「弁当宰相」なんて世間で馬鹿にされた上、戦後は領地を
削減されたので吉川家は毛利の中で幕末まで村八分扱い
にされた
271 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:30:15.36 ID:ZheyOSUwO
島津は国のサイズに比して武士が多すぎたのが貧窮してる根本の原因
江戸初期ではカライモなんてまだ無いし、作物は取れない。幕末ですら西郷がこんな酷い搾取をしている国はない、と上申するレベル。みんなシラスが悪いんや
それでも主君の危機に際して駆けつける中馬を始めとした薩摩隼人は天晴れ。中馬の老年時のエピソードも好きだ
272 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:31:20.65 ID:0EsMv9+sO
>>268 厳島で偶然勝った→毛利元就をもう少し勉強したら?それって関ヶ原で家康が偶然勝ったと言ってるレベルだから
またひとり
歴史上の人物が大河で破壊される。
今度はジャニとW攻撃。
>>269 佐久間や林が粛清されてるのを見ると早晩柴田も粛清されてたんでない?
もっとも信長のあの感じからすれば秀吉や光秀も僻地に追放で粛清された可能性
(官位が筑前、日向)高い。信長は森蘭丸のような若手側近を官僚にした政治(石田三成みたいな)を
目指してたみたいで
275 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:32:39.34 ID:e73s/vH9O
>>260 輝元くらいになると名目だけの大将で、実際に軍を動かした経験は無いだろうからなー
「某は戦の指揮には不慣れゆえ、ここは島津殿に采配をお預けしたい。島津殿の命に従わぬ者があれば、左近に斬らせまする」とか言えばよかったのだが、それができる三成なら……
276 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:33:11.20 ID:swbHXNpo0
京極が粘ったのがかなり大きいわな
宗茂や元康が関ケ原にいたらかなり混戦したろうなぁ
>>271 中馬は妙にユーモアがあるなw
関ヶ原を突破して脱出してる時の話とか
愛らしい。
でも殺人マーシンなんだよなあの当時の
薩摩の侍は。仲間内の厳しい掟は有名な話。
幕末でも樺山の話を聞く限り
>>272 厳島の前に大内氏を滅ぼすなんて考えてないだろ?
動員兵力考えたら大内氏のほうが上で背後に尼子を抱えてる状態で
>>275 先陣申し出て、叔父ちゃんに気絶するくらいぶん殴られたり
無茶苦茶派手で悪趣味な設えの衣装で上洛して笑いものになったり
色々トホホなエピソード満載ですよね、輝元さん(´・ω・`)
279 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:38:03.74 ID:xb4rSYPh0
>>270 毛利秀元が豪勇で暴れまくってたら
西軍も勝って、本家取り潰しも無かったかもな
吉川広家は、マジで癌
280 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:38:04.45 ID:iZPVGGiJ0
>>271 っていうか、関ヶ原の戦いの頃の人口分布を見ると南九州はかなり過疎地帯だよ。
薩摩・大隅だけだと13万人程度。
甲斐一国で12万人、近江一国で30万人強、房総半島で50万人弱いた事を考えると、
戦い続けるには人口に占める武士の割合が相当高くないときついと思う。
281 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:39:09.84 ID:ZheyOSUwO
>>277 二才衆の厳しい掟は幕末までずっとだしね。ただそれさえ守ればよく笑う南国気質もあったようだし。といっても家庭じゃ笑ったらあかんかったらしいけど
中馬といえば馬の肉よこせ!と
さて関ヶ原と申すは・・・・(;_;)
以下無限ループ
>>275 長い間叔父さんたちが指揮してたし、養子の秀元という優秀な武将もいたからねぇ>毛利
三成は島津に妙に肩入れしてたし、島津も石田の言うことなら従っただろうな
>>276 あと1日奮戦してたら近江50万石京極藩なんていう大藩があったよ。
結局は丸亀で終わったけど
>>278 人の見ないとこで温厚な小早川さんがブチ殴ってたそうな
甥が家臣の嫁を横恋慕して家臣を怒らせたのを、その家臣を殺して口封
じなんてしてたらもう。。。。
283 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:42:19.60 ID:iZPVGGiJ0
>>274 まあ実際、重臣を一掃して若い後輩たちだけで固めようという気持ちはあったかも。
似たようなことを晩年家康もやってるし(武断派を冷遇して文治派を登用してる)。
>>277 まあ薩摩は半分、日本の中の異国だわな。
フランスで例えるならブルターニュ地方(昔から中央に反抗的)、
イギリスで例えるなら陸続きの北アイルランドみたいなもんか?
>>279 逆にこれがあったから幕末があったとも言える。
長州藩が経済力つけたのも関ヶ原の戦いのあと
領地削減でどうしても経済改革しないといけない
という事情があったからに尽きる
家康軍は主力軍(秀忠のほうが主力)でなかったとは
いえ本多や赤鬼がいたから毛利でも返り討ちにあったかもな
江戸時代の資料しかないっていうが
黒田家譜なんかも江戸時代の資料になっちまうわけ?
黒田家譜では官兵衛さん最前線で大ハッスルですのに
>>280 あそこはスパルタのような国民皆兵みたいなところ>薩摩
長宗我部の1領具足に似てるかも
287 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:45:36.25 ID:swbHXNpo0
>>279 関ケ原で勝ったとしても西軍が勝てたかは微妙だわなぁ
徳川本隊もいたしなぁ
そもそも関ケ原が短期で決着ついたのが異常であって
混戦ないし仕切りなおしになったろうからなぁ
長期的にみれば家康や長政が諜略してたから結局寝返りおきて東軍が組織力で勝ったろうな
288 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:47:02.43 ID:ZheyOSUwO
>>280 あそこはシラスでろくに食物が育たないので人口は少なくなるのが必然で、でも武士は必要だから郷士と呼ばれるれっきとした武士が畑をする形態が当たり前になり
結果的に武士の割合も多くなるのもうなずけます。んでついでに絶対数も確かに少ないかも
九州の桶狭間といわれる木崎原の戦いで、日向の伊東氏を叩くのに義弘が率いたのが300騎かそこらだった記憶が
たしか1570年代の話だから、他の地域に比べて兵の少なさは顕著です。。
>>281 >二才衆の厳しい掟は幕末までずっとだしね。ただそれさえ守ればよく笑う南国気質もあったようだし
といっても気に入らないヤツはみんなで事故に見せかけて殺したり、度胸試しで実弾入りの鉄砲ぶらさげて
その中で宴会とかしてたから死傷者もいたんじゃないか?
>中馬といえば馬の肉よこせ!と
その時の「殿様は切腹するんだから肉なんかいらねぇ」と
殿様の持ってた肉を取り上げて自分が食う、殿様は恨めしそうに
「そうだな・・・」とやせ我慢とかw
>>283 幕末の時は朝鮮出兵で連れてこられた渡来人も
薩摩軍として従軍してるんだと。金やら朴やらの姓をつけた
まんま示現流振り回してたんだろうな。。。。
291 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:54:08.93 ID:ZheyOSUwO
>>289 まあちょっとした喧嘩ですぐ刀を抜いて暴れてたし(西郷も斬られて剣がうまく使えなくなった)
人斬り半兵衛も二才衆に生意気ってんで毎日甲突川に落とされてたそうだし
それくらい薩摩ではよくあることなんじゃないかとwある意味野蛮。半分日本という言い方もある意味当たりかw
罪人の処刑と同時に処刑場に入って、罪人の肝を切り取る「ひえもんとり」が主な?スポーツだったしw
>>285 そういうのはご先祖はすごかったんだぞという一種のプロパガンダで
江戸時代はどこの藩もやってる。たとえば蜂須賀家は家康からもらった
感状なんてのも持ち歩いて自慢してたくらいだから。
明治になってタバコで失敗はしてるが。。。
293 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:54:27.24 ID:cRD6pOVE0
>>279 っていうか、毛利の内応がなければ、関ヶ原はああいう形は起こっていない。
最低でも、徳川本軍が合流してからの戦いになったろうし、また、それをさせない
ために西軍が攻撃に出て岐阜城あたりで戦いになった可能性もある。
少なくとも、西軍包囲陣に東軍が突っ込んで行くって展開だけはないな。
>>280 逆に、農地としてはアレだったから武士階級の「傭兵」が
多かったと言う利点でもあるけど。
鎌倉時代以前の野武士が生きてたって感じで。
前線としては練れた兵が居るほど士気は揚がるし、専守防衛でも
単騎突破背面展開でもやりかねない教育があったしね。
島津に関してはホント面白いよ。
>>287 あの時家康が関ヶ原に連れて来てたのは
本多と井伊除いて実戦経験が少ない、皆無の若手世代中心。
実戦経験豊富な精鋭のほうは秀忠が指揮してた。
故に勝てた可能性が高い。
296 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:56:47.99 ID:iZPVGGiJ0
>>286、
>>288 1600年当時だと、薩摩・大隅は現在(2013年)よりも全国の人口に占める割合は小さい。
しかも太閤検地だと、両方足して46万石あまり。
これだと普通は1万人ぐらいしか兵力を養えない。
島津が2か国を統一するのは戦国時代末期だから、現実にはもっと少なくなる。
一方、黒田如水の地元播磨は1国で36万石・26万人。
豊臣秀吉の地元尾張は1国で57万石・33万人。豊かなところはいいねえ。
297 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:57:04.36 ID:swbHXNpo0
ま、武士の世界は精神的ホモの世界でもあるけど
薩摩武士はさらにそうかもなぁと思うわ
イチローラブのムネリンみてるとそう思う
298 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 20:57:05.90 ID:BTi5DgPnO
>>181 逆に家康は陰湿なイメージがあるけど、実際は全然そうじゃないしな
孕石主水ぐらいかな、陰湿なエピソードは
>>297 明治以前はホモにも寛容だったぞ。ちなみにホモセックスの際の脱糞も日常茶飯事だったので、
スカトロにも寛容だったのかもしれない。
>>277 単純な兵力だけ比べたらそうだが、陶は逆臣の汚名を返上するために焦りまくってたから
あまりにも強引だったし大内はとても一枚岩とは言えなかった。
一方毛利は元就を中心にチート性能二人を含む三人の息子ががっちり一枚岩で、厳島まで大内を誘いこんで、罠にかけて急襲。
中身を掘り下げたらたいした奇跡とも思えんな。
301 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:01:05.28 ID:ZheyOSUwO
>>298 昔の恨み晴らさでおくべきか・・・ギギギとか家康がやってる姿を思わず想像したw
302 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:01:42.24 ID:e73s/vH9O
>>289 島津の殿様は、「別に、馬なんて食べたくないんだからねっ!」というツンデレ台詞を言ったらしいね
もちろん本音じゃなくて、そうでも言わないと家臣が遠慮して食えないということだけど、そう言える殿様も、分かっていて馬肉を食べる家臣も素晴らしいと思うわ
303 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:02:44.09 ID:iZPVGGiJ0
>>291 家康の面前を堂々突破していったんだから、ある意味で命知らず・脳筋体質。
でも幕末にはちゃんと頭脳を磨いて長州とも渡り合いながら明治維新をやった。
>>294 上にもあるけど、土佐みたいなもんだな。あそこも四国の中の『異国』。
実際、ドラマや時代劇でも土佐と薩摩の人間は必ず方言を喋らされている。
麿赤児や山口祐一郎の鹿児島弁はうまかったぞ(後者は薩摩人だから当然か)。
304 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:05:40.22 ID:cRD6pOVE0
>>298 まぁ、陰湿っていっても、抵抗した敵を斬首しただけなんで、敗残兵の措置としては
結構普通の措置だわな。
>>291 女に色目を使ったら禁止、バレたら死を含む制裁だったので
必然アッーも発達したんだとw相当なアッー天国だったんじゃないかな。。。。
>>294 1人1人が強かったみたいだな>薩摩兵
大将首を上げても当たり前というレベルで褒賞されないし、
敵に背を向けたら死刑、大将死んだからオマイらも全員市ね
とかもうねぇ。。。。
>>298 孕石の場合は家康でなくても根に持つだろ。
あの当時馬鹿にされた侍はソイツを殺さないと世間では
バカにされて奉公先もないという時代だったんだし
ちなみに秀吉は串刺し刑とか結構陰惨なことしまくってる。
織田家を乗っ取って信長の息子や側室を殺してるしな。
それを考えたら十何年も臣従させようとあれこれしてた
家康の忍耐はスゴイ
>>25 問:『ノーモア関ケ原合戦』って?
答:平和を願う心から生まれた言葉です。
問:どうして関ケ原合戦に来ていない武田信玄がいるの?
答:いるのは武田信玄の”亡霊”ですね。比べて頂くと分かりますが、他の武将より顔色が少しわるいです。
なにこれ?
307 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:08:53.52 ID:swbHXNpo0
>>295 だから関ケ原という戦闘には勝ったとしても東軍西軍の戦争に西軍が勝てたかは難しい、っていってるでしょ
しかもあの不利な戦況で東軍が応じたのは内応が確約されていたからであって
その内応が効き目あったのは西軍が戦闘に勝とうが戦争に勝てないという認識があったからさ
東軍は確かに徳川譜代は新兵多かったが外様は歴戦の軍団でしたわな
福島、黒田、池田、細川、加藤、山内、藤堂
308 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:09:26.18 ID:e73s/vH9O
>>305 でも、そんな家康が「国家安康」にはキレたんだよね
やっぱり、歳をとると怒りっぽくなるのかなー(棒)
>>302 一応あの当時日本中の武家からは神扱いされてた殿様なんだけどねぇ。。。。
(朝鮮出兵での殿で大勝。朝鮮出兵がらみで大名の中で唯一加増があった)
その殿様がこういうエピソードとは面白いw
>>301 晩年をわざわざそういう嫌な思い出のある駿府で過ごしてる家康は
Mなのか?と思ってしまうw
あるいはいい思い出のほうがたくさんあったのかもな。
310 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:11:17.93 ID:ZheyOSUwO
>>303 薩摩人の海音寺氏曰く、薩摩は基本的に脳筋で、ただ優れた二、三の人間に従う感じになる、という事だとか
確かに西郷と大久保が基本的には薩摩の頭脳で、小松とかがその脇を固め、後は篠原国幹や中村半次郎なんかが腕っ節担当って感じではある
もちろん彼らに理屈が無いわけではないし、いろんな主張はするので単なる脳筋じゃないけど、いざとなったらそんな感じだそうで
んで理論理屈より実利を優先するんだそうで。だから攘夷から開国路線になるのもあんま抵抗が無かったとか
有馬新七だけはちょっと毛色が違って長州的な理論派だけど
>>303 西国の藩は大坂商人との付き合いが多かったので
商業経済の吸収が早いところばかり。
そのため人材の育成もそれ方向重視になっていった。
明治維新の時に優秀な人材が佐幕倒幕でも西日本
から大量に出てきたのはそのおかげ。
312 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:15:47.27 ID:ZheyOSUwO
>>309 そういやなんで駿付に隠居したんだろう。確かにいやな思い出が多そうだしw
戦略的には、箱根の手前で西から上がってくる敵を迎え撃つ拠点にする、という事になるんだろうけど
隠居所にする必要は無いよねえ。。
313 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:16:57.13 ID:swbHXNpo0
甘党の織田信長
甘党の西郷隆盛
今ごろきっと二人でお茶会やってんだろうな
>>310 土佐もそんな感じだったな。
ただ武市が死んだのでまとめる人材がいなくなり
明治維新では薩長に後れをとった
>>312 隠居するなら実家の岡崎とか浜松もあったんだけどねぇ。。。。
岡崎や浜松のほうが京都には近いし。
普通に考えたら今川家ではそれなりに大事に扱われてたんじゃ
ないのかな?>家康 そうでないなら氏真を保護して今川家を
高家にしないだろうし
315 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:21:40.03 ID:4GVF6QEm0
黒田官兵衛の家臣が武田信玄を暗殺、以後2年半ほど信玄は影武者だった史実。
316 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:21:47.83 ID:cRD6pOVE0
>>312 気候も温暖だから、住みやすいしな。
それに、駿府で家康はそれほど酷い扱いはされていないんだよ。
例外もあったけど。
岡崎衆を使う上でも、家康虐待なんてアホなことは今川家もやらんし。
扱いが軽いってのはあったようだが。
酷い目にあったのは、岡崎衆の方。
>>312 嫌な思い出やりも良い思い出の方が多いと思うよ、家康自身は
当時最高の軍師である太原崇孚雪斎に学ばせたり、義元の姪を正室にして一門格の扱いを受けたり
人質とは思えない厚遇ぶりだし
中には孕石みたいな逸話あるけど、若殿様の氏真とはマブダチだしwww
築山殿だって史実だと全然夫婦仲悪くないしwwww
てか
築山殿は戦国モノで一番可哀想な被害受けてるよ、あと武田信玄の三条夫人もw
318 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:24:43.43 ID:OzQ+Zb2Y0
>>312 気候が良くて、暖かいからって言われているけど
なんだかんだで駿府は今川以来拓けているし、東海道の要衝であり、江戸に近いからじゃない
お前ら生き生きしてんな
信長の野望をやっただけの自分じゃ、ついてけねえ
>>313 信長は甘いもの食い過ぎて糖尿病だった可能性大。
しかも塩辛い味付けが好きで今の時代で見ても塩分取りすぎだろという
食生活してた。晩年になるほど信長が猜疑心がつよくなったり
キレたりするのも上記の成人病のせいだろうな
>>316 だから後に今川衆を徳川で召し抱えると岡崎衆がいままでの
仕返しとばかりにつらく当たったんだと。
>>317 三条夫人は賢婦人というのが最近の評価になりつつあるな。
こないだの大河ではそう描かれてたし。
築山殿の場合は岡崎衆とか家康の母ちゃんが悪いんだよ。
そこで「家康すり替え説」ですよ。
322 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:27:50.49 ID:syb2wISjO
>>255 家康のお手紙作戦は評価されてるけど、
あの当時の状況を考えると、三成はただの人に過ぎないわけで
そのただの人が、東軍に配置の上では勝てる布陣まで持っていってる以上
三成のお手紙作戦の方が凄いと思うんだぜ。
323 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:28:06.35 ID:YeXA7tu6O
黒田36計に書いてあった官兵衛の家臣の技術者集団みたいなの実在したんですか?
324 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:28:06.71 ID:aPttQXRmO
官兵衛は武将であって戦国時代は武将で諸葛孔明みたいな軍師はいないからな。
後世の人間は軍師=孔明的な者として刷り込まれてるけど。
325 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:29:05.19 ID:OzQ+Zb2Y0
>>314 土佐は後藤とか頑張っていたけど、なまじ当主が英明だったのが裏目だったな
>>318 あの当時は政治的に重要なのは京都で江戸じゃない。
江戸が本当に政治の中心になるのは4代将軍以降でそれまでは将軍が毎度の
ように上洛してるし重要な法令は全部京都で出てたりする。
幕末はまた京都に戻ったけど
327 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:32:36.70 ID:MBzSiK/iP
秀吉が最も才能を認めてた人物だろう
忠誠心が高いのも、相当評価されてた証拠だと思う
>>319 光栄のソフトなんざ一つも触れてない。
でもここと幕末は地域でフォーカスするとホントに面白い。
史料も後から後から出て来るし。
>>322 大谷刑部の工作が大きい。
大谷に「オマイは人望が無い、家康に学べよ」と言われるくらいだから
実際の工作は大谷が仕切ってたと思われ
>>325 土佐は優秀なのが結構いたけどそういう連中が
個人主義で勝手に動きまくって自滅したんだろうな。
水戸藩みたいに明治維新の頃にはほとんど死に絶え
て、若手しか残ってないみたいな。
それを考えたら鍋島はすごいね。
殿様の号令一下で動いてたのだから
330 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:34:34.33 ID:OzQ+Zb2Y0
>>326 将軍を支援しなきゃならないなら、やっぱり江戸に近くないと拙い
>>324 竹中半兵衛はそんな感じじゃない?
実際半兵衛の軍勢なんか少なすぎて戦局変える力なんか無いだろうし
>>318 気候が良くて暖かいからって理由で十分でしょ
当時の家康にとっては、豊臣家をなんとかするまで
長生きする事だけが重要だったわけだから。
戦略的な意義は特にないんじゃね
西側の交通の要衝には、井伊と本多がいたわけだし。
>>330 そのために江戸には正信付けてたんじゃないの?
ましてあの当時の実権は家康が握ってたのだし、何かあれば
家康が軍勢率いて上洛して工作の繰り返しだった
334 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:36:33.03 ID:iZPVGGiJ0
>>311 実際、薩摩藩は大坂の商人のおかげで財政危機を乗り切ってるしねえ。
長州藩や佐賀藩もさることながら、福岡藩や広島藩、尾張藩など
上方の商人の力で城下町を拡大したり財政危機を克服した藩は多い。
>>310 何となくアイリッシュやフランス人、北イタリア人みたいな感じだね。
優れた特定の指導者が政財界を束ねて、自分たちはそれに乗っかるってイメージ。
三河や越後も似たような印象が。
>>320 家康も濃い味付けが好きだったが、味噌好き&健康オタクだったのが幸いしたな。
実際は徳川家に刃向かう者はいないと自信があったんだろ
>>324 そういう意味での軍師ってなるとやっぱり太原雪斎と甲斐宗運と吉岡 長増になるのかね?
こいつらは完全に兵権委任されてたし
>>331 15人でクーデター起こしたってアレはマジですか?
いまいち状況が分からんのだが、女子供を人質に取りながらバッサバッサと相手を殺していったとかか
>>332 一富士二鷹三茄
なんだろうな文字通り。
鷹狩できる場所多いし、富士山も見えるし、食い物もある
339 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:38:24.81 ID:swbHXNpo0
>>322 ま、その光成のお手紙作戦の上をいったのが長政のお手紙作戦だったからな(笑)
長政は父親と比べると脳筋よりだったがそれもプラスに働き父譲りの諜略しましたからな
実質関ケ原がああなったのは長政が秀秋広家等の寝返り工作の成果だからな
だから父の如水も関ケ原が短期戦になって驚いた
>>331 半兵衛の活躍って、稲葉山城乗っ取り以外はほとんど表に出ていない。
近江周辺の調略とか、そういう地味な作業をやっていた可能性が高いが詳細は不明。
死ぬのが早かったんで、もう少し長生きしていれば回顧録でも書いてたかもしれんね。
341 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:40:06.89 ID:8Kk1tseuO
>>327 秀吉が最も恐れていた人物
如水に100万石以上与えたら日の本を席巻すると言わしめた
まあそれが原因で次殺されるのは自分だと確信して早々と隠居したんだけどね
342 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:40:57.84 ID:7tHFAA8z0
>>331 戦局変えるとかなんとかじゃないんだよ。武将は領地があって領地で取れる米の量で集める兵の数が決まってる。
戦があれば自分の割り当てられた兵を集めて自分の上司の元へ行き、配置につく。
つまり、作戦や計略に長けた武将はあっても、それだけを専門にする軍師はいない。
343 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:41:09.29 ID:eHx6Ns42O
>>312 青春の思い出って意味なら、岡崎には殆ど無いだろうな。
幼少期は尾張、青少年期は駿府で過ごしてるから、却って駿府辺りが良かったんじゃね?
>>334 佐幕だった備中松山藩も山田方谷という逸材が
出てきた品。なんせ西日本はあの当時新しい学問が盛んだったし
大坂商人の活躍で情報や経済が発達してた。
対する東日本は江戸含めてその辺への対応が遅れてたのが
明治維新で災いした。
345 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:42:48.88 ID:e73s/vH9O
>>331 稲葉山城を少人数で占拠した際には、自らを武器をとって戦ってるけどね
まあ、けっこう若いうちに病死してるから、体が弱い→安楽椅子探偵みたいに頭脳労働専門、というイメージがあるんだろう
346 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:43:12.96 ID:iZPVGGiJ0
>>332 家康が駿府を余生を過ごす地として選んだのは、信長が安土を選んだのと
大まかには同じような理由だと思う。
そういえば、信長も織田家の家督を信忠に譲ってから安土に移ってるよな。
気候が良くて交通の要衝、江戸と三河の中間。海と山と川に挟まれた守りの要。
しかも今川氏が開発してくれたおかげで街を短期間で発展させやすい。
>>334 越後といえば、長尾景虎の直属の馬廻りは無言で相手をフルボッコにするので有名だったんだよねー
鬨の声すら挙げずにただひたすらに相手の頸動脈狙ってたそーな(´・ω・`)
>>337 当時美濃にいた快川紹喜が縁者に送った書状が残っていて、
その中に稲葉山城で異変があったという記述が残っているそうだから
あれは事実みたいだ。
城に人質に行ってた弟が病気と嘘ついて、
看病の人間入れて
夜半に謀叛が起きたとふれ回って大混乱引き起こし、その隙に半兵衛一派が乗り込んだと言うね
>>336 太原雪斎は基本外交担当で、外交のために戦もしてたから
軍師というよりも政治家だな。京都の坊主ということで坊主のネットワーク
を使って工作しまくってた感じがする(今川義元の兄貴は御寺泉涌寺の
住職)
>>342 つまり秀吉も半兵衛に軍事力を期待してるわけじゃない
351 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:46:27.06 ID:7tHFAA8z0
>>349 平安の昔から坊主は軍人も兼ねてるから。
>>349 小豆坂の戦いと岡崎の戦いとか東海道方面の経略はほぼ和尚に丸投げやんか(´・ω・`)
秀次はいきなりじゃないだろ。
秀吉の若い時の手紙で
「わしは人を斬るのは嫌いだがおまえだけは斬ってやろうか思った」
みたいに諌めるやつ残ってたろ。
354 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:47:18.55 ID:iZPVGGiJ0
>>343 っていうか、早くに余所に人質として移っているからあまり子供の頃の思い出はないし、
大人になって帰郷してからも一向一揆とか信康自殺とかあまりいい思い出は総じて
岡崎には持ってなかったと思う。
だから駿府は身内が配されたり天領になったりして優遇されたけど、
岡崎や浜松は老中を生む出世コースの場所にはなったものの、
やはり優遇度合では駿府に負けてる。
見方によっては、尾張藩が置かれた名古屋にも負けていたような気がする。
355 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:49:10.01 ID:swbHXNpo0
>>340 武功以外のとこでいえば
黒田家は二度竹中親子に助けられているからな
長政殺すように信長に命じられ竹中父殺さなかった際
黒田騒動でやばくなったとき竹中息子に助けられた際
黒田家が幕末まで大名として生き残れたのは竹中親子のおかげだわな
>>349 信玄の恵林寺もそうだが、戦国の坊主ネットワークは外交でかなり重要だね。
外交文書作るのもだいたい坊主上がりだったりするし、外交戦略にも参画したりする。
家康の天海、金地院なんかもそうだが。
357 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:51:18.49 ID:7tHFAA8z0
>>350 秀吉が何に期待したかは関係なく、三国志みたいな軍師ではない。
>>347 だいたい信越や薩摩の兵は猛者扱い、畿内や尾張の兵はヘタレ扱いだわな、昔から。
>>344 まあ東日本は都市経済が限られたところでしか伸びなかったからなあ。
東北地方も海運によって畿内と結びつきがあった日本海側が栄えていたっていうのも
あながち不思議じゃないと思う。
薩摩と会津は教育が独特で仲間意識が強い点では何となく似ていなくもないけど、
最終的にはそういった「打算」のあるかないかが分かれ目になったんだろうね。
>>342 これが東北とか近畿になると鉱物資源や商業という
別の物差しがあって米だけでは判断できん。
伊達政宗が暴れられたのも米というより鉱物や特産品の
馬のおかげのようなもん
>>343 生まれは岡崎で転勤の連続で駿府に居た時が多かったからな>家康
外国のユダヤ人がイスラエルを祖先の地と尊敬しても住む気にならないと似たような
感覚か?
>>347 親衛隊数百人で数万の大軍の囲みを突破した話がある>謙信
親衛隊はプロレスラーみたいな怪力な連中が斬馬刀を振り回してたので
近寄る敵兵がいないのは当たり前だけど
>>346 隠居してから家康って江戸によくいってたのかな?
自分の感じとしては上洛しまくってたけど江戸にはさほど
いってない感じがするが
360 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:51:51.52 ID:xHAJ6q8L0
今さら発見て明らかに嘘だよね
>>351 そりゃ天台宗や日蓮宗や一向宗じゃないの?
あいつらは法華の乱とか内戦してたけど(本能寺とか城塞みたいだったのはそのため)
雪斎は臨済宗の坊主なのに。。。。
363 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 21:55:52.45 ID:iWxichaH0
>>349 坊主の存在は日本の戦乱の原因だった。
日本仏教界の闇
www.youtube.com/watch?v=-m6vaJWB1aY#t=37m
戦国武将を育てた禅僧たち
blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38575363.html
臨済宗では、真言宗の「理趣経」(この経を読むと、全人類を殺しても成仏できるという)を、重要経典としている
karateodori3.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/152071012_a2fe.html
>>350 秀吉が期待も糞も、当時の半兵衛は織田家の直参
秀吉がどうこうできる問題ではない。秀吉付の与力だっただけだ
>>362 雪斎は別に先陣切って刀振るったりはしてないしね
用兵が上手かったんだろ所謂、参謀総長みたいな感じだろ、今川家の
やっぱり官兵衛は軍師だったんだろな
常に味方に有利な体勢を整えてから戦に臨んでるからね
秀吉の配下になってからは、信長の桶狭間的な戦をやった事が無い
実際には、小寺氏の被官の頃は無茶な戦を何度もやっているけど
秀吉自身がそういう性格の戦を好まなかったからだろうけど
官兵衛のやった無茶な戦に負けて、うちのご先祖様は帰農したわけだ
お袋の実家も負けたクチ
勝った奴等はみんな、官兵衛に付いて播磨を出て行ったからな
うちのご先祖様は新田氏の流れの世良田氏。家康と同族。家康の親父様だか爺様は世良田二郎三朗を名乗っていたくらいだからね
実際は、南北朝時代に本家を裏切って北朝側に付いた家
南朝側に付いて負けて、三河に流れたのが家康のご先祖様らしい
お袋の実家のご先祖様は島津氏。薩摩島津氏から別れた家系
>>364 そう考えると信長はずいぶん秀吉に期待してたんだな
もしくは半兵衛がかなりの器だったのか
>>310 思えば『議を言うな』って決まった事に対して愚痴を言うなとか、
理屈じゃなくてまず行動だとか、まあそういう意味合いだもんね。
やっぱりアイリッシュみたいな感じがしてくるな、うん。
>>313 まあ薩摩・鹿児島は甘い味付けの多い九州の中でも群を抜いて甘いし、
尾張・名古屋もザラメとかみりんを駆使した煮込み料理が多いし、
案外天国で病気も気にせず甘いものを食いまくっているに違いないwww
鹿児島生まれの婆様が味付けに納得いかない時の口癖が
「砂糖がきかん」だからなぁ
>>354 家康は死ぬまで「信康が生きてれば。。。。」と言いまくったらしいが
よほど優秀な息子だったみたいだな。信康が2代将軍になってたら江戸時代が変わってた
かも
>>356 義元も坊主だったしな。
京都から公家や僧侶が逃げてくるのもその
経歴が利いてただろうし、今川家は京都方面の
政界工作やりやすかっただろ。
武田信玄の嫁を斡旋したのも今川(代わりに武田
と同盟して武田の侵略を防いだ)。
あと直江状というのも坊主に対する回答だからねぇ
>>358 酒田の本間家なんか有名だな。
371 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 22:04:36.40 ID:7tHFAA8z0
どうしても三国志の諸葛亮みたいな軍師が居たって思いたい人が多いのはなぜなんだろう。
>>359 そこだわな。
薩摩も金山があったし、奄美や琉球でのサトウキビや樟脳などが収入源になった。
薩摩の場合、稲作に向かない土地柄であったが故に、米一本のモノカルチャーならぬ
「モノエコノミー」にならなかったのが幸いしたのかもね。
ちなみに家康の人生を探ってみると、人生の半分以上は今の静岡県で過ごしてる。
岡崎や三河にいたのはせいぜい5分の1ぐらいで、それと同じぐらいの期間を
京都や大阪で過ごしている。
>>371 軍師って言葉の用法が既に間違っている
ありゃ本来、祈祷師みたいなもんだ
所謂、参謀的なものとは根本的に違う
>>365 戦のウマイ安国寺みたいなもんだった
>>367 信長は与力をつくって軍団長とかを監視させてた
あくまで信長が貸し与えるというカタチで個々に紐帯が出来る
ことを警戒してたとか
各方面の軍団が各地を征服して子分にしていけば軍閥化して
謀反を起こされる可能性もあるんで
>>371 光栄のせい
俺もプレイしてる最中は軍師の言いなりだった
>>374 それで半兵衛貸して貰えるならいいな
信長の野望で真っ先に欲しい人材だ
>>367 秀吉の出自故の欠点を補うためにつけたという感じじゃないだろうか?
多分、秀吉は当初は学問もしてなかっただろうし、都言葉や方言にも通じてなかっただろうから
交渉や物資の調達を行うような立場になると不便が生じたと思う。
いっぽう、竹中半兵衛で画像ググると女の子しか出てこなかった
>>368 言葉が多分通じない2人ともw
2人が武家言葉が分かればいいけど。。。。
>>372 上杉もあれだけ戦やれたのは
金山や日本海交易、あおそという当時の服の繊維に使われていた
植物の交易でカネをねん出してたようなもん。
田舎大名なのに京都に強力なコネクションがあったのも
そういう経済事情によるもの(朝廷から御旗なんてのを許可
されてたりする)
謙信が上洛2回もしてるのもコネクション強化と販売促進
だったと思われ
>>377 まあ、美濃攻略時の秀吉なんかゲリラ作戦主体の山賊みたいなもんだったろうからな。
半兵衛が加わってだいぶ軍勢としての体裁は整ったろうな
>>370 家康も天海とか崇伝とか僧侶を重職に据えているしね。
あの当時じゃ坊主は識字率が高く教養やコネもある貴重な人材。
今で言うなら、学者や弁護士を徴用するようなもんだ。
>>369 東北(特に岩手や秋田)ではその言葉が『塩が足りねえ』になるね。
>>377 秀吉の伝記、豊鏡にさえ素性怪しい不明と
あるからねぇ
>>382 そういう輩が天下取るんだから
歴史ロマンだな
戦国はやっぱり面白い
384 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 22:18:32.52 ID:BTi5DgPnO
武田も強かったのは金が出てるうちだけだったからな
>>381 特に禅宗はそういう人材を排出してる。
武士の宗派と言われるだけあって
>あの当時じゃ坊主は識字率が高く教養やコネもある貴重な人材。
坊主なので身分社会のあの時代で唯一無敵な存在。
将軍や公家、果ては天皇にさえ会えるわけで。坊主が使者にされたのも
この利点が大きい(普通の武士だと身分や格式があって難しい)
>>379 織田信長も尾張津島の海運での収益や水産加工、
肥沃な濃尾平野での畑作・武具製造による利益でのし上がった人間だからな。
武田信玄も甲斐の金山を持っていたし、毛利には砂鉄があった。
結局、米以外の収入源と京都とのコネクションをどれだけ持っていたかが鍵。
387 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 22:20:29.22 ID:e73s/vH9O
>>371 三国志が有名になりすぎたことによる悪影響だろう
実際、孔明だって本当は政治家だからね
まあ、フィクションである「三国志演儀」の中では参謀本部総長みたいな感じになってるけど、ちゃんと外交官や政治家としても活躍してる
だいたい、情報伝達が遅かった昔では、現地の状況を見てその場で作戦を立案できない者に指揮官が務まるはずがないんだけど
388 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 22:22:12.16 ID:7tHFAA8z0
>>380 美濃攻略の秀吉の働きについては何もわかってないんだけどな
>>383 信長や家康がある程度基盤があったけど
この人はなかった
>>384 手柄を立てたヤツに手づかみで金(豆状にしたやつ)を
信玄はあげたらしい。その他いろんなアイテムを戦にもって
いって褒美にしたらしい。そりゃ人は石垣や城にもなりますよ。
金が出なくなり農民に重税を課した結果武田は離反を招いて
自滅したわけだし
>>389 そこらへんが豊臣家の命取りになったわけですな
>>371 諸葛亮の時代も「軍師」なんていないでしょ。
諸葛亮もシバイもリクソンもホウトウも法正も前線に出てる。
>>386 あと美濃、尾張、三河あたりでは木綿が生産されてた。
当時木綿は火縄銃に使われたりする軍需物資。
あと火薬は種子島氏経由(本能寺が種子島氏の菩提寺)で
確保したりと信長が鉄砲使いまくれたのは
火薬類の入手がラクだったから
>毛利には砂鉄があった。
石見銀山だなやはり。これで中国と交易(メキシコ銀にやられたけど)
できたし朝廷への献金に使われてる
あと信長も親父の代から京都にコネクションがあったのも
意外
黒田官兵衛は播磨の出身だけど、先祖の地である備前と
播州の人間の特徴をしっかり備えているような気がする。
そういえばヤクザの世界でも、播州と岡山の出身の人間は
一目置かれている時代があったとか。
本多忠勝が三河の出身、直江兼続が越後の出身と言われて何となく頷けるのと同じで
官兵衛の才能も播磨の風土で培われたものなんだろうね。
394 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 22:28:28.90 ID:swbHXNpo0
ま、戦国後期は既に経済力が戦を左右する時代になっていたからなぁ
秀吉はジャパニーズドリームの体現者だわな
>>385 本願寺の下間一族ってなんであんなに武闘派なの?(´・ω・`)
>>390 譜代の家臣をにわかにこしらえたけど秀次事件で
それを潰してしまった>秀吉
豊臣家滅亡の原因
>>391 孔明は丞相、司馬懿は大尉、陸遜は荊州都督だから
政治家の色彩があるのは孔明くらい。司馬懿は軍師のイメージ強いけど
曹爽をクーデターで倒す晩年までは軍人生活のほうが長い
陸遜も基本は荊州の防衛担当で晩年丞相になった
397 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 22:30:25.36 ID:DTzsCHUaO
>>392 狭い尾張1国の3分の1も支配していない織田信秀は、内裏の修復に際して
中国地方8か国を牛耳る毛利元就の倍以上のお金を朝廷に寄付してる。
それだけ経済力をもう持っていたってことだね。
信長自体、戦よりも祭りや商い見物、セミナリオでのオルガン演奏鑑賞が好みだったらしい。
意外とビジネス好きだったのかもしれない。
播磨の目薬屋です>黒田家のもともと
官兵衛の爺さんの代に目薬の財で土豪になり、親父の代で
侍になったはず?
黒田家は武士の顔と目薬屋という商売人の側面があったから
あの当時としては珍しく情報は入手しやすかったんだろう。
元商売人の小西家も黒田家みたいな年数があればマシな
存在になってただろうな
400 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 22:35:47.33 ID:lmcS18cW0
>>197 少々説明がたりなかったかな
熊本城は篭城戦になった場合に、防戦一方になるのではなく
軍団を組んで中央から一気に雪崩れ出ることができるつくりになっている
もちろんそういう構造に気づかない人間が城主になっても意味はないし
圧倒的に兵力で劣る側が攻める場合も、雪崩れ出る必要はない。
篭城戦は時間との戦いで、包囲されれば守備側は疲弊していつか全滅するのは定めだ
そんな篭城戦のなかでももっとも絶望的な戦い朝鮮で経験した清正は
斜面になった地形を城の中央の割れ目に据えた
篭城が絶望的と判断されたときは、そこから玉砕方式で打って出て殿様を逃がすやり方だ。
ちなみに戦国時代にはそういう戦法が一つの形として確立されていたわけではないが
負け戦の包囲網を突破する場合において、数百人の家老が一塊になり敵陣に切り込んで
一人また一人と尾を引くようにして立ち止まって塊の中心にいる殿様を逃がすという捨て身の戦法がよく使われていた
まじで身の毛のよだつ話
家老は死ぬための役回りを本気で慣行した。
こういった戦術に名前があったんだが、近頃・城関係の話から遠のいていたんで忘れてしまった・・・。
>>370 そんな優秀な長男を、信長の命令だからって切腹させちゃう家康、、、
同じ信長からの殺せ命令を無視して友人の息子を助けた竹中さんはほんとに凄いよ。
>>394 センゴク関連の作品は正にこの銭という経済的な視点で
描かれてる
>>395 下間は寺侍だな坊主というより。
一向宗は山科から追い出されたりと宗派間で内戦してた
経緯から武装してたけどその部門を下間家がやってた。
>>398 信長軍団の特徴は
・年中戦OK
・軍事物資豊富
・兵隊無限
だったから必然ビジネス重視になるんじゃないか?
カネがないとできないだろうし
>>400 薩摩の捨奸は有名だな。
関ヶ原でも義弘逃がすために甥や家老が自分から犠牲になってる。
しかも死ぬ連中は嬉々としてそれをするとか
>>401 まあ築山事件は家康も追い込まれちゃったからなあ
家を守るためには仕方なかったと言うしかないだろうな
405 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 22:42:32.80 ID:swbHXNpo0
また、黄金の日日のような大河やらないかなぁ
406 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 22:43:34.45 ID:RzajsBCo0
中国大返しは黒田官兵衛が用意させたんだろ?
経路は、黒田官兵衛の地元だしなあ
鳥取の米の買い占めによる、兵糧攻めの成功
備中高松城の水攻めの難工事を船を沈める立案で成功
運さえよければ、確実に天下を取れた武将だったかもしれんなあ
407 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 22:43:51.75 ID:emfWnSjHO
秀吉の軍師といえば
・竹中半兵衛
・黒田官兵衛
・蜂須賀小六
・神子田正治
だろ?
神子田正治の無名っぷりが悲しい
>>401 >>404 信長の命令というけどどちらかいえば家康個人が積極的に命令したっぽい>信康自害
信長の命令ってのは家康の行為の正統化するための創作に近い。。。
単純に浜松派と岡崎派の内部抗争の犠牲になっただけ。
武田家の義信みたいな感じだったんだろうな
>>399、
>>402 そういえば豊臣秀吉も若い頃行商の経験があるし、
織田信長の母親も豪商の出身だな。
織田信秀は当時としては珍しく、中堅以上の武士なのに豪商の娘と結婚して
伊勢や近江、京へ続くコネクションを構築している。
更に織田信長の祖父信定は、ほぼ無血で津島湊を手に入れてる。
これは信長が後に堺の街を抑える時に活かされたと思う。
当時の寺院は寺領も保証されて資金もあったし
今の宗教法人とは比べものにならんよね
廃仏毀釈はじつに効率よい寺社のスケールダウンなんだろうな
>>408 家康のお家大事はすごいな
それでこそ江戸幕府があれだけ続いた基礎作れたんだろうが
>>409 信長の側室のきつのも生駒家という商人。
秀吉が拾われたのも信長が生駒家に出入りしてた時かと思われ
>伊勢や近江、京へ続くコネクションを構築している。
伊勢神宮修復の献金もしてたはず。
伊勢湾岸を抑え込んでたんじゃない?
伊勢が後年あっさり陥落するのも
経済圏を織田が抑えてたからかと
413 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 22:48:44.75 ID:o+pDceeK0
黒田バズーカなら知っている。
>>410 それにあの当時は自力救済なので自前の軍隊持ってた。
寺も今のそれとは違い城のような城塞だった。
京都に行くと大きな寺があるけど城塞みたいな構造してる
ところが結構ある。
特に日蓮宗は攻撃されまくってたので城塞化が進んでおり
信長が死んだ本能寺や宿泊施設にしてた妙覚寺はその好例
そういや斎藤道三も商人なんだよね
やはり経済的なセンスがないと戦国大名も務まらんか
>>42 どこで字を覚えたのかは知らんが、
魯山人は秀吉の書を絶賛してたわ
俺にはよくわからんが
>>411 武田信玄が息子を自害させたのも、もともと自分がクーデターで
担がれた存在な上に、野党的な重臣も多かったのでそういう連中を抑え込むため
にもクーデターで自分も追放されるのを防ぐために必要だった。
家康のほうも松平家はもともとが土豪で君主が絶対的な権力を
持っていない上に、岡崎派や今川系の武将とか派閥が多くその上に
いた存在なので息子が対抗勢力になれば排除するしかなく。
両人ともいえることは隠居して後継者育成を怠ってること。
信長や義元、氏康はさっさと隠居して育成に乗り出してる
419 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 22:56:56.69 ID:e73s/vH9O
>>415 最近の研究によれば、油売りをやっていたのは道三の父親らしい
そうだとしても道三は商人の息子なので、やはり経済感覚は有していただろうけどね
俺は竹中半兵衛派!
俺の中では三国志の郭嘉と被るイメージ。
>>418 信玄の後継者育成に問題があったのは分かるが
家康は一応成功じゃね
>>415 今は親子二代で下剋上したという説が濃厚>斉藤道三
油商人だから近畿にコネがあったんだろうよ
>>417 和歌も取得してるぞ>秀吉
>>416 寺の跡地だなあれは
>>419 道三の父親が商人やりながら土岐家に取り入ったのは納得できる
一連の話道三一人のストーリーにしては時間が足らない気もするからなあ
ただ経済的感覚が優れている人が動乱期を生き残るってのは面白いな
>>412 戦国時代はもう経済力と情報力がものを言う時代だったから、
そういう意味では近畿や濃尾の武将はかなり優位な位置にあったと思う。
信玄や謙信も、領国がもっと京に近ければまた変わった人生だったかもね。
>>421 信康自害までこれといって子供がいない>家康
そのため慌てて子作りしたけど、若いし信康みたいな
優秀さ(秀康除く)が乏しい子供ばかりだったので
家康は晩年まで苦労して「信康がいれば。。。」と
グチこぼしてる。
秀忠は恐妻家で子ども少ないし、孫の家光はアッーに
走って晩年近くまで子供がいなかったので徳川家の直系は
7代で絶えた。
428 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:07:18.07 ID:swbHXNpo0
>>417 秀吉の真筆見たことあるが決して上手い字ではないわな(笑)
型にはまってなくて味のある字ではあるが(笑)
三筆や三蹟もみたことあるけど個人的には家康の祐筆が一番美しいと思ったな
>>424 人望が如何にあっても家臣団は急には作れない。
親父が仕官し2代目の息子がクーデターというなら時間的にも
合う
>>426 信玄や謙信も情報収集には熱心だった。
信玄も嫁が三条家出身ということでお手紙作戦しまくって
公家や坊主呼びまくってるし、隠密を派遣して情報を
集めまくってた。謙信も先に述べたように京都との
コネクションあるし商売の関係上京都方面の情報
には敏感だったと思われ。
>>427 七代続くだけでもすごいけどね
でも確かに徳川幕府は七代で終わっても不思議はなかったんだよな
いきなりそこで傑物登場というのも歴史の面白さだ
>>430 御三家という宮家みたいな存在があったからな
>>431 御三家システムはすごいね
しかも初期御三家は揃って優秀だ
>>426 謙信や義元は海を通じた交易で相当稼げたようだが、
信玄に至っちゃそれすらなかったから大変よね
一方で美濃の斉藤龍興が宝の持ち腐れしてるのが面白い
>>428 うんうん、味のある書ではあると思う(笑)
434 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:12:15.55 ID:cLey94YM0
黒田官兵衛と言えば
一年間の酷い禁固と超せこくてボヤッキー
秀吉の軍師という話はあってないような物だけど
ここばかりクローズアップしてしょぼいドラマになるんだろうな
NHKだし
>>432 煩い家老がいたからだよ>御三家
その薫陶のたまもの
>>435 安藤帯刀とかいたな
戦国の生き残りはすげえわ
>>433 斉藤さんの場合は
・美濃はクセのある国人ばかり
・それを治めてた親父が急にいなくなる
・助言する参謀がいない
と独自政策するのは難しいと思われ
438 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:14:51.80 ID:2vdvPZt40
>>419、
>>424 北条早雲も伊勢新九郎時代には行商をしていたって説があるとか。
>>418 信玄の場合、一応源氏の末裔たる守護大名家出身とはいえ、
領国は似たような勢力規模の土豪の集まりだったもんね。
謙信やその養子の景勝も結局クーデターで這い上がったっけ。
家康の場合、もともと西三河のそれまた南半分以下のエリアしかない。
お爺さんの清康の時に一度三河のほとんどを支配下に置いたけど、
彼はすぐに暗殺されちゃったのであっという間に元の木阿弥に戻る。
一方尾張はもともと守護大名斯波家があって、織田家が清州と岩倉に分かれ、
それぞれの下に3奉行があってやや複雑ではあるけど、実質的に織田家が
尾張を統率できていた点は三河や甲斐、信越、南九州とは大きく異なる。
>>436 成瀬という犬山城主もいた。
彼らは附家老と言われ陪臣でありながら
城持ちの万石大名で将軍への拝謁権もあった。
441 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:16:52.07 ID:e73s/vH9O
>>432 確か御三家の初代当主って、みんな関ヶ原の後に生まれてるんだぜ……
442 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:17:41.12 ID:7tHFAA8z0
>>418 氏康はともかく信長は織田家の所領に関する文書発行などの雑事から解放されるためという側面もあった
443 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:19:32.22 ID:I8xaGtdjO
こんな400年以上昔の命令書が残ってるのに、70年くらい昔のヒトラーのユダヤ人抹殺の命令書のほうは見つからないのか?
444 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:20:32.02 ID:7tHFAA8z0
>>439 伊勢新九郎については幕府の政所執事の伊勢糸の一族という事がわかっているので、正体不明の浪人で商人とかやってた説は否定されてる。
445 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:20:49.78 ID:e73s/vH9O
>>442 天皇だと儀式や何やらで忙しいから、上皇になって院政をやったのと同じですね
オレさ、思うんだが、
何で今年の大河は八重なんて選んだんだろうな
福島取り上げて女性でって順番は分かるが、
正直取り上げるべきは保科政之だよね
福島地元じゃないけど既存の体制とか価値観が壊れちゃうような大火事からの復興、
その後の幕藩体制の立役者ってぴったりの人材だったと思うんだが。
ベーアンビシャース
448 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:22:30.20 ID:QdJPIZ4T0
昔、24が流行ってた頃、賤ヶ岳48という48話完結のリアルタイムドラマの作成を妄想してた。
けど兵隊が移動して話が全体の半分以上を占めるんで、面白くなさそうなんで諦めた。
盛り上がるのは前半の中川清秀戦死シーンくらいなんだよね。
後半の秀吉着陣後はまあ面白いけど、
結局前田利家の逃亡で戦の趨勢が決まるってのは拍子抜けだしねえ。
449 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:23:11.93 ID:2vdvPZt40
>>438 駿河侵攻は今川の金山狙いだったらしい
そのために駿河派の息子と対立してるのだから。。。。
>>439 早雲はもとは備中国の国人で、政所執事の伊勢氏の一族で室町幕府の役人だったから
副業で行商でもしてたのかな?早雲の場合は伊勢氏という血統と礼法の家という出自が駿河や
関東では貴種扱いされて有利になったようなもん
>信玄の場合、一応源氏の末裔たる守護大名家出身とはいえ、
>領国は似たような勢力規模の土豪の集まりだったもんね。
甲斐のうち武田氏が支配してたのは3分の1であとは小山田と穴山が支配と
国人連合だったから戦をするにも何をするにも両人に気を使ってた。
この2者が武田滅亡時に揃って裏切ってるように信玄の家臣団には
野党的な家臣が多数いたと思われ
>>429 謙信自身が何度も上洛経験があるんだよな。
信玄も池脇千鶴・・・じゃなかった三条殿が京の出身で朝廷との接近を図ってる。
>>428 前田利家や豊臣秀吉の字を見たことがあるが・・・『個性的』だった。
家康は駿府できちんと当時として最高の教育を受けていたし、字がうまいのは納得。
>>433 全国的にはむしろ美濃のような有力国人や土豪の割拠する土地のほうが多いんだよね。
この時代ならなおさら。如水の出身地播磨だってそう。家康の地元三河もそうだし、
薩摩・大隅だって島津家が統一するのは安土桃山時代になってからだし。
越後や甲斐や信濃なんて信玄や謙信が死んだらまた群雄割拠寸前に戻ってしまってる。
むしろ尾張がなぜ早期に国人の目立たない、織田家の土地になったのかが不思議。
453 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:24:44.19 ID:HSETC/ky0
京都や大阪では、徳川の人気は低いな。
>>437 それを乗り越えてかなきゃ中央集権化できないんだが、
義龍がポックリ逝っちゃうからどうしようもないね
>>438 謙信の鳴海金山もそうだが、直接経営できていたかは疑わしいんだっけ?
>>439 そして勝頼が中央集権化を焦って苦労するという…
>>442 江戸時代もそうだけど殿様は結構儀式とか雑用が多いらしいな。
>>444 素浪人ならその妹か姉が今川氏の側室になれるはずがないからな。
室町幕府の役人というので駿河に下向したと考えるべきだな
456 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:26:05.09 ID:swbHXNpo0
>>430 まぁそれも家康が御三家というシステム確立したからだわな
江戸時代の幕藩体制は日本が明治維新文明開化でスムーズに近代化した理由のひとつだわな
幕藩体制によって中央集権一局集中ではないから内政重視した結果
日本各地に管理システムや人材が育ったからな
だからあんな内戦やったのに比較的混乱もなく移行できた
他のアジアが軒並み中央集権国家で近代化遅れたのみると
家康が近代日本が世界に羽ばたく土台をつくったともいえるわな
明治新政府も何だかんだいって力をつけたのは
幕府官僚システムや藩官僚システムがあればこそだからな
つまり層が厚かったんだよな
個人的には明治政府は家康が土地をならした上に
廃藩置県という家屋をうちたて
西南戦争に終結する士族反乱の鎮圧によって出来た感じだな
>>446 保科正之ではとてもじゃないが一年もたんよ
スペシャルドラマが限界だと思う
458 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:26:50.00 ID:blbFurdz0
>>1 一方、管(当時首相)は前線に立っているつもりだった
>>452 字のうまさは人それぞれだと思うのは
足利義満の字を見れば分かる。
正直あれは小学生の習字w
>>457 そうかな
出自もドラマがあるし、
忠長事件も絡めたり、家光の浪人政策、島原の乱、明暦大火、復興と八重なんかよりよっぽど話が作りやすいと思う
461 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:30:00.05 ID:UzXrrO/9O
熱弁してるが、秀吉は実在したのか?
実在したとしてホントに農民だったのかも怪しい
>>452 しかも三条夫人は姉や妹が室町幕府管領の嫁や本願寺顕如の嫁だったから
中央政界の重要人物と縁者になれると親父の信虎が決めたんだよな。
それをツテに公家や坊主が京都からカネの無心を含めてやってくる。
親父の信虎も追放後一時期京都にいたくらいだしな 親父は案外工作員
してたのかもな
>>453 取られたという思いが強いからな>近畿
橋下が大阪市長になった前後なんぞは「太閤以来400年ぶりに近畿復活」
なんて言われたり。。。。
>>460 会津騒動から始めればなんとかなるな
当分正之出てこないけど
>>461 秀吉の出自がもっとしっかりしてて、譜代の家臣団とか充実してたっていう資料もないしな
勝てると分かっていたけど、何かあれば死んでほしかったのかな
>>454 義龍が早死にした時点で摘んでた。
>そして勝頼が中央集権化を焦って苦労するという…
親父時代の課題を全部背負わされたんだよ。
当人は愚物ではないのにさ
>>452 そうそう、紺野美沙子…じゃなかった三条殿は、
姉が細川晴元、妹が顕如に嫁いでいて本当コネクションはんぱないよね
信長が弟と戦争したり、信友を潰したりゴチャゴチャしてた時代って、
統治体制を築く上ですごい大事だったんだろうな
468 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:34:11.68 ID:swbHXNpo0
昔は下剋上の象徴だった伊勢の新ちゃんは
今では室町幕府高官の一族で今川家のお家騒動仕置きや
鎌倉公方や関東管領の牽制だったからなぁ
>>460 八重は問題外としても、不十分だよ
政治劇は流行らんし、合戦も少ないし
多くの視聴者の興味を引くようなネタがなさすぎる
一年は無理。
まぁ江戸時代に戦争が終わるまでずっと戦争してたからな日本は
>>467 後年このコネを生かして各地の本願寺と縁組を信玄は進めてた
473 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:37:34.43 ID:2vdvPZt40
>>468 昔は戦国時代は下克上の時代って言ってたけど
今じゃ下克上なんて滅多に無かったって話になってるからな
>>469 八重で一年保たせようてのはそれ以上に無理があると思う。
実際鍵屋の辻とか幡随院長兵衛とかまでからめた大河を妄想してた時があった
476 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:40:22.02 ID:7tHFAA8z0
>>473 下克上はあったけど守護代や家老が家を乗っ取ったパターンが多い。
逆に守護が戦国大名になった例は少ない。
477 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:41:59.87 ID:swbHXNpo0
ま、日本最大の下剋上は明治維新かもなぁ(笑)
特に廃藩置県なんて下剋上以上だわな(笑)
>>466 彼はかわいそうだったな。
もともと跡継ぎじゃなかった(信玄は勝頼の息子を跡継ぎにして、
勝頼に執政の地位についてもらうことを考えていたという説がある)上に
親父が引き起こした問題を全部引き受けざるを得なかった。
勝頼が親父並みの威光を守ろうとするあまり、その威勢が空回りして
重臣たちが離れていってしまうし、財政再建のために年貢を増やしたら
領民の心まで失ってしまうし。
>>467 あの時代、生き残りをかけるにも天下取りを狙うにも頭脳戦だったってことだわな。
>>471 緒方拳が死んじゃったので、迫力のある尼子は描けそうにないのが辛いな。
おまけに今月は夏八木勲も死んじゃったし。
賤ヶ岳の戦いが西暦で1583年、
関ヶ原の戦いが1600年
大阪の陣が1615年
関ヶ原から大阪の陣って案外年月が経ってるよね
480 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:44:00.84 ID:2vdvPZt40
>>476 いや実権を握っても主家を廃するようなことは滅多に無かったって事だよ
他の人間を立てて主家はそのまま残す
481 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:45:01.82 ID:urREERvA0
>>427 直系は途絶えてねえだろ
吉宗だって家康の直系だろバーカ
>>474 いやだから八重も問題外だが、保科正之も無理があるだろって事よ
>>480 まあそこは中国の春秋時代に通じるな
一応の礼節はあったということか
484 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:46:23.50 ID:7tHFAA8z0
>>480 守護っていうのは京都にいる事が多いので、その守護から守護代が実権を奪って治める下克上が多かったんだよ
>>481 家康の直系じゃなくて秀忠の直系だわな。
もともと長男信康は娘2人しかもうけていない(小笠原忠脩・忠真兄弟は家康の外曾孫)。
吉宗は家康の10男の息子(しかも嫡男ではない)。家康の血はもちろん引いてるけど。
>>478 当人は諏訪御寮人の息子で諏訪氏を継いでたから
正式な後継とは武田では見られなった。
だから孫の信勝が継ぐまでの中継ぎと見做されてたし
お館さまでなく陣代さまとか呼ばれてたはず
>>480 信長も斯波家は残してたな
488 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:48:50.42 ID:2vdvPZt40
>>484 だからそれは下克上とは違うということに今はなってるんだよ
あの世の黒田官兵衛「えっ?」
>>478 緒形拳主演の大河ドラマ「尼子経久」を夢見た時代もありました
夏八木勲の島左近やら壺谷又五郎
原田芳雄の最上義光
迫力のある渋い役者さんがいなくなっていって、寂しいね
>>487 勝頼の立場はマジで微妙だな
信玄が引き起こしたことだけどさ
492 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:50:17.83 ID:swbHXNpo0
>>481 >>427は徳川将軍家の直系が絶えたっていってんでしょうが文脈読みなさいよ
しかも普通傍流家系の子孫は血は連なろうが直系とはいわん
>>481 将軍直系が絶えたってことよ。
御三家は臣下になってるわけだし血統でも別物なんですよ
将軍のそれとは。
ちなみに本当のこといえば秀忠系は越智家というところで
7代以降も少し残ったんだけど陪臣ということで将軍候補にも
ならなかった
>>490 今や橋之助が経久やってもおかしくないぐらい時が経ったのさ
>>493 御三家は将軍家とは違うもんてのは家康がちゃんと規定してるよね
七本槍の中でなぜ脇坂だけが
譜代なんだよぉ・・
>>484 織田や鍋島もそうやって這い上がった家だわな。
そういう意味では、織田家だって下剋上の体現者といえる。
信長の実家は守護代の家老の部下だった織田弾正忠家、
つまり殿様の家来の家来。
だけど信長も鍋島直茂も家老職・奉行職から勢力を蓄えて主家を圧倒した。
むしろ島津や武田、佐竹みたいな家のほうが珍しい。
>>487 家康が信康を自殺させた時、信玄が義信を自殺させた時がそれぞれかぶって見える。
>>491 義信事件で家を一時的に継ぐことになっただけだからな>勝頼
しかも武田の家臣は種馬扱いで正式な後継者とはみなしてない
そりゃ言うこと聞かないだろ家臣は
>>54 確か官兵衛の祖先が近江から播磨に流れて行ったとかじゃなかったか?
500 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:55:12.18 ID:tyRwzggC0
>>11 なんでもやるんじゃなくてコイツは、空気読まないところが
ヤバいって思われた人なんだよ・・・。
前線に孤立して絶体絶命の時だからな本能寺の変の秀吉って。
(というか信長の援軍がなかったら普通は死ぬ。)無傷の毛利の
大軍に対峙して後詰めの信長死亡って投了状態。
・・・というか織田家に肩入れし過ぎてる黒田も滅亡する。
事実関東の滝川とか信州の森や甲斐の河尻は死にそうになって
実際かなり討たれてる。
黒田が進言と言うよりも
史実では毛利を相手に超詐欺的な交渉して全軍で中国大返し。
・・・まあ全軍で最前線から逃げたわけだが。結果的に光秀を
討つ機会になったという。
勝頼の苦労がちゃんと評価されててうれしいな
信玄が偉大だということに異論はないけど、
偉大であればこそ生まれる後継者の苦労もあるわけで
そういやクロカンは晩年、家臣に嫌われるような振る舞いをわざとしたんだっけ
504 :
名無しさん@13周年:2013/05/12(日) 23:59:38.29 ID:swbHXNpo0
>>502 殉死だめ〜
身の回りのモノ中古品として家臣に売る
息子に比べるとかなり心くばりしてるなぁという逸話が多いよな
505 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:00:39.00 ID:e73s/vH9O
>>491 きっと信玄は、もっと長生きするつもりだったんだろう
あのタイミングで死ぬと分かっていたら、勝頼をちゃんとした後継者に指名していたと思う
他家に養子に出された後見人では、重臣たちから軽く見られるのも当然だということくらい、信玄も承知していただろうからね
>>504 後藤又兵衛みたいな頑固もん統率してたんだからなあ
>>505 だからこそ義信事件は痛恨の極みだな
すべての歯車はそこで狂った
508 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:02:56.29 ID:XLZC6iaQ0
>>500 あの時滅亡寸前だったのは毛利のほう。
毛利は農村兵で繁農期に出陣してるから
長期滞留になると年貢収入が得られない。
しかも秀吉が官兵衛とおして毛利氏の豪族の
調略をして実際に重臣クラスで離反者が出て
動揺しててそれどころでないし、天敵の大友が
織田に呼応して背後で動くし戦続きで費用嵩んで
内部崩壊は時間の問題だった>毛利
秀吉と決戦しようにも堤が邪魔してヘタすると堤切られて
溺死してしまう可能性があり長期戦になればなるほど
毛利は不利。そこに信長の大軍が来ると滅亡確定
なわけで(このころの信長は相手は降伏させず滅亡さ
せるという路線)
小早川が自分の領国のあるところまで差し出して
講和(降伏)を願い出るくらい切迫してたんだよ
510 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:04:04.38 ID:aSeGMmJ/0
>>505 義信が廃嫡された後にすぐ勝頼が正式に後継者として指名されてるけど
511 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:04:37.48 ID:urREERvA0
>>492 御三家は家康の息子なんだから直系だろが
傍流って意味わかっってんのかお前
>>510 正式の後継者は勝頼の息子だよ
勝頼はその後見人に過ぎない
513 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:05:08.86 ID:VPbTwKOF0
黒田官兵衛=長谷川慶太郎
>>505 だから家康は信玄の二の舞にならないよう、信康の死後暫定的に
跡継ぎになっていたものの結城家に養子に出された秀康を跡継ぎに再指名せず、
秀忠を跡継ぎにしたんだよな。
一方で秀康の血統は越前系・制外の家と呼ばれて後々までそれなりに優遇された。
家康や秀忠、後の将軍は信玄・勝頼の末路をきちんと反面教師にしてる。
515 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:05:57.93 ID:4CmQATE80
516 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:06:21.52 ID:aSeGMmJ/0
>>512 何か勘違いしてるんじゃないの
勝頼は正式に後継者に指名されたし武田家の当主として家督も継いでる
>>516 その話はよく知らない。
信玄の書状でも残ってんの?
>>510 信玄の孫の信勝の後見役だ正確には>勝頼
彼はお館様ではなくご陣代様としか呼ばれなかった。
これは中井貴一が武田信玄してた大河でも描かれてる
三条夫人の子でなく諏訪御寮人の娘の子だし、
何より武田氏の通字である「信」を名乗っていない>勝頼
>>12 当時、電車の中から清洲城を見たおっさんが
「ん?なんだあれ?ホテルかあ?」と言っていた。
たしかにホテル徳川に似てた。
>>493 家康は征夷大将軍。
御三家も征夷大将軍である家康の直系。
直系が絶えたのは、秀忠の直系。
十五代目の慶喜まで全員が家康直系の子孫。
521 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:09:24.59 ID:l8yj7MiiO
信長の野望で勝つ寄り弱すぎ
鉄砲で打たれ過ぎ
>>505 名前を改名してないから
正式に継がせる気はなかったんじゃないか?
勝頼ってのは諏訪氏の「頼」の字はあるけど
武田氏の「信」の字ではない。
523 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:11:20.45 ID:rL46vULg0
>>9 山本勘助は実在する証拠の文書が見つかってなかったっけ
軍師ってほど高い地位ではなかったらしいけど武田家の家臣だったとかなんとか
福島といえば・・・福島正則だろうな
525 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:11:43.56 ID:E5na8+x0P
寛平がどうしたって?
>>523 屋敷の所在地を示す文書が見つかってんじゃなかったかな
ただそれが軍師だったかどうかは分からんみたいな
>>514 結城秀康は他家に養子に出されていたとはいえ徳川家の中では
人気あった。なんせ家康に似ず武勇や威厳で優秀なところを見せてるし
後継者諮問では本多を始め結構な徳川家臣が秀康を推してる。
>>516 ならなんで武田氏の通字である「信」を名乗ってないの?
正式に継いでるなら「信」の字を入れた名前に改名するはずだけど
名乗ってるのは諏訪氏の「頼」という字だ
529 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:16:55.80 ID:lN9AFj/rO
>>520 その理屈だと、足利高氏(尊氏)や新田義貞は源氏の直系ということになるね
530 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:17:15.05 ID:aSeGMmJ/0
>>518 それ今じゃ完全に否定されてる作り話だから
史学では勝頼が正式に家督を継いでることはハッキリしてるよ
通字は、
津軽・・・信
南部・・・直
最上・・・義
伊達・・・宗
北条・・・氏
上杉・・・景
武田・・・信
織田・・・信
松平・・・忠
徳川・・・家
毛利・・・元
浅野・・・長
鍋島・・・直、茂
黒田・・・高、長
細川・・・興
島津・・・久
>>11 信長で固まりつつあった天下をチャラにして、幽閉された一年を取り戻すための孝高乾坤一擲の策が本能寺の変だった、
くらいのブラック孝高をドラマでやってほしい。
>>530 そのソースしりたい
信玄の書状とかあるなら是非教えて欲しい
>>509 尼子攻めの長期包囲の時はどうしてたんだよw
どこも農繁期とか支障をきたさないレベルで動員かけてるつーの
>>531 あれ、細川さんとこって元じゃなくて興なの?
って一瞬思ってしまったw
肥後細川氏の方でしたね
>>533 wikipwdiaのソースで恐縮だが甲陽軍鑑では正式な相続を行ったことが記されていると記載してあるぞ。
537 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:24:33.49 ID:AQWX09E10
>>529 源頼朝も清和天皇の直系!
平清盛も桓武天皇の直系!
清和天皇も桓武天皇も天智天皇の直系だから
源頼朝も平清盛も天智天皇の直系!
538 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:24:42.23 ID:aSeGMmJ/0
>>533 そもそも陣代説ってのが甲陽軍鑑にしか載ってない話でね
甲陽軍鑑は後世に作られたもので史料としての信憑性がない
当時の一次資料で勝頼が家督を継いだ事を疑うような話は一切存在しない
>>538 ただ、勝頼が正式に家督を継いだソースは甲陽軍鑑って言ってるね。
判断難しいな
>>536 甲陽軍鑑は当てにならんて説を言ってる人もいる。
よく分からん話だな
> ほとんど記録のない合戦の
そ〜なん。
静香ちゃん岳合戦て、ある意味関ヶ原的な、天下の帰趨を制する一戦じゃろ。
こりは、日本の歴史記録の弱さ示すエピなんかの〜?まぁ、残念ですばい (。・ω・。)y━・~~
「毛利攻略中の秀吉が信長に援軍を頼んだ」って所までは事実だけど、
秀吉が本当にピンチだったから呼んだって言うのはあんまり説得力無いなぁ
局地戦で毛利が善戦する事もあったけど全般的には秀吉の圧勝といっていい状態
あと、こうして本能寺の変の後に
「小早川・吉川の先鋭が戦っていたら秀吉は負けていたはず」
「小早川隆景が追撃策を退けなければ毛利が天下を取っていたのに」
って言う楽観論は毛利家内にも強かったけど、秀吉との交渉を通して
自分達がどれだけ追い詰められたかを知った安国寺恵瓊はこれらの意見を否定している
543 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:33:03.06 ID:AwCSCR8F0
>>426 そう。鉄砲を買うには金が要る。専業武士も増え、遠征して何ヶ月も戦うには経済力が必要だった。
自分の領地の防衛だけなら、そんなにかからない。
544 :
ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2013/05/13(月) 00:33:11.69 ID:0Ot3K2u3O
でもやっぱり山内や前田と違って子孫が領国
引き継いでないとしまりがわるいな
545 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:33:57.54 ID:AQWX09E10
今の定説では家督を継いだってことだわな
一説では家督は継いでいないという説もあるという。。。
ま、継いだ継いでないかはともかく家臣団は勝頼を信玄の後継者として仕えたのは間違いないわな
>>536 wikipediaはともかく、甲陽軍艦ソースはちょっと厳しいっすねえ
>>538 一時的には継いだのかもしれないけれど、
丸島和洋氏は「信勝元服に伴って勝頼は隠居してる可能性が高い」
って論じてました
やはり微妙な立場だったのかもしれませんねえ
>>504 息子も配慮してるというか優しいよ、部下からの扱いがヒドイともいう
長政「この前謡の先生に誉められたんだよ(謡を披露)」
部下「この下手くそ!それ世辞に決まってんだろ、気づけよアホか」
長政「父のように厳しく忠言してくれて嬉しく思う(刀を授ける)」
こんなのが黒田家譜に載ってる
まあ父親が凄すぎて、父親の代からの家臣は物足りなかったのかな
>>547 勝頼が家督を相続していないというソースは甲陽軍鑑以外のなにか確かなものがあるのか?
>>549 自分は「継いでない」説の提唱者じゃないので、聞かれても困るw
むしろ「少なくとも一時的には」継いでいると思っているほう
>>542 秀吉はずっと毛利本軍を避けてヒットアンドウェイで戦ってた
残念ながらあのころの秀吉軍だけで毛利本軍と本気で対陣する力はないよ
援軍呼ぶのは至極当然のこと
武田勝頼の末路って知れば知るほどかわいそうに思えてくる。
本人が凡庸だ馬鹿だなんて話じゃなくて、やることなすことほとんどが裏目に出てしまって、
まさに負のスパイラルに嵌っていくって感じ。
中央集権にも国防強化にも財政再建にも外交施策にも失敗、
もう生きているのが嫌にならないか?ってぐらい可哀想。
まして父は全国的に有名な猛将、家も超・名門。
プレッシャーは半端なかっただろう。
『転落人生』ってこんなものなんだろうか・・・ってしみじみ感じる。
>>548 極めつけが後嗣問題だった気がするの
長政「忠之は本当にダメ息子だ、継がせられないよ…廃嫡しよう」
栗山大膳「そんなことしたらみんなで切腹するぞ!」
長政「すみませんでした(´;ω;`) 」
554 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:49:46.70 ID:FCRNncjgT
へー
555 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:50:33.86 ID:lN9AFj/rO
>>545 むしろ反対で、重臣たちの多くは勝頼を後継者として認めていなかったし(少なくとも内心では)、その空気を感じていた勝頼は、実績で認めさせようと無理をしたんじゃないか?
まあ、「藩主の父親」というだけの身分で幕末の薩摩藩を動かしていた島津久光と同じで、勝頼が実権を握っていたことは間違いないと思うけどね
ただ、薩摩藩で久光を認めていなかった重臣は西郷だけだったのに対し、武田家で勝頼を認めていなかった重臣はたくさん居た、ということだと思うけど
556 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 00:57:42.92 ID:lN9AFj/rO
>>549 他のソースは知らないけれど、「家督相続した説」のソースだって甲陽軍艦だけじゃないの?
状況証拠だけど、名前が「勝頼」のままであったことが、正式には継いでいない証拠だと思うんだが
>>556 勝頼以外にも「信」の付かない武田家当主もいるから、
通字は根拠にならないだろ?
官兵衛は好きだが大河は微妙かも。
559 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 01:17:12.15 ID:17D5PpoQO
てか、官兵衛の血統は絶えちゃった?
560 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 01:33:57.15 ID:t5mlb1pHO
>>556 むしろ勝頼陣代、跡部長坂奸臣論の最たるモンだろ>甲陽軍鑑
家康は源氏の直系ではないので松平ではなく強引に徳川を名乗って征夷大将軍になった
徳川は新田の直系
562 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 01:54:52.33 ID:hgRUOSA00
>>561 新田氏は源氏だよ。それも河内源氏、足利と家格は変わらん
直系なら名門中の名門になってしまう
563 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 02:08:38.58 ID:t5mlb1pHO
>>561 自称直系で、ぶっちゃけ徳川も松平も、新田の直系どころか新田の係累かすら怪しいだろ
織田が桓武平氏、って並だ
564 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 02:24:37.23 ID:dDdfolCs0
秀吉が天下を取れたのもこの時代は7度主君を変えても実力が
あれば出世できた。
今の日本は・・
565 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 02:32:55.10 ID:iqBq5Rk/0
何か大河ドラマに決まると、それに関連したモノが発見される様な気がするんだが。
発見されてるけど話題にならないだけ
567 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 02:40:34.12 ID:cRIl8g0r0
568 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 02:41:38.86 ID:t5mlb1pHO
>>555 正直ホントーに認められてないなら叩き出されて新しい御輿担ぎ出してたと思うがな
>>564 当時は失敗すりゃ本当の首が飛ぶだろw
何甘えたこと言ってんだw
570 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 02:43:43.58 ID:74WZ5yf90
足が不自由なのによく行ったなあ
さいとう・たかをの描いた「戦国謀略図」の中で
黒田官兵衛が荒木村重に幽閉されている間に、実子を信長と秀吉に勇み足で殺害されて、解放後それを知った官兵衛が
二人に対して密かに滅亡に導くように画策するも、全て裏目に出て逆に秀吉の天下に貢献するというシナリオの漫画が面白かったぞ。
軍師っていうと政略、戦略レベルなイメージだ
参謀なら戦術レベル
内政、外交は前者、戦争をするのは後者、一般的にはどんなイメージなんだろう?
兵站や補給も国内で作るまでは戦略、輸送に入ったら戦術でいいのかな?
いかに戦地まで安全に届けるか、というのは戦略(ドクトリンの整備)だろ
配備されたものをどう使うかが戦術
>>565 大河が決まると、地元とかで史料調べが活発になって
新史料が発見されやすくなるんだって
575 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 03:38:25.68 ID:ePUmBiLt0
また96か
>>552 勝頼の時に武田家は最大版図を叩き出してるんだけどな。
勝頼体制が崩壊した最大の原因は、
信玄が先を見据えた後継準備をしなかった。
武田家家臣団は周辺豪族の寄せ集め集団で日和見だったこと。
最後まで従った家臣も、心情的に武田家ではなく信玄個人に仕えていた。
ようするに外にも内にも味方が居なかったんだろう。
言えるのは
この時代に内戦なんかに明け暮れずに
樺太、千島、台湾をしっかり占領しておくべきだった
朝鮮出兵の秀吉や鎖国の家康なんぞ、まさに愚の骨頂
バカな先祖たちを持つと本当に苦労する
一事は万事に通ずと言うがとにかく何でも出来る人
才だけなら戦国でも五本の指に入るのでは
秀吉って自分の部下を貶すの好きやな
あの直江兼続や小早川隆景を天下に政治ができる奴と評価してた逸話も
要約すれば「直江兼続はアホ、小早川隆景はチキン。どっちも天下取れんな。」だよな
>>555 島津久光の場合は、国許で生まれ育っているので藩士とは馴染みがある。
むしろ江戸で生ま育った斉彬よりも馴染み深いくらいだったろう。
一方、勝頼は躑躅ヶ崎では育っておらず、武田家の家臣団とは馴染みがない。
勝頼が武田の当主になれば、諏訪の家臣団側近として引き連れて躑躅ヶ崎に乗り込んでくる
ことになるから、武田の家臣団としては主君から遠ざけられる可能性があり、
心中穏やかではないだろうな。
一旦他家に出された人間が戻ってきて本家の当主になると常にこの問題が生しで、家中が混乱する原因になるな。
582 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 09:47:21.21 ID:NBy3yQ2uT
へー
583 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 10:46:32.87 ID:OfcAfXCAT
せやな
お、おう
585 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 11:26:24.94 ID:rRfFZ500T
へー
こうした歴史的に貴重な文献を個人が秘蔵しているのはいかがなものだろうか?
今の我々が存在するのは過去の積み重ねによるものであるのは間違いない
我々には知る権利がある!今なお秘蔵されているかもしれない歴史的価値があるものは
政府が直接介入し、回収して全人民の知りえるところとすべし!!
まずは天皇家からやっちまおう
姫路のステマか
>>80 感心した。普通に読んで違和感なかったから。
>531
肥後細川の興の字は、本家は名乗らずに分家に与えるタイプで通字とは微妙に違うという
幕末辺りでも家臣や徳川直臣の分家でも興●の名が散見されるから藩祖というものの当時の影響力を感じられる
人に媚びず富貴を望まず
俺の座右の銘にするわ
ところで軍師の話をすると太原雪斎はS級軍師だとか
戦国日本のビスマルクとか呼ぶ奴がいるが今川厨の戯れ言でいいの?
大都会の基礎を築いた宇喜多の名前がまだ出てないとは。
徒手空拳に近い状態で出発して、備前1国をほぼ手中にした直家も何気に凄いはずなんだが。
官兵衛と敵としても味方としても戦ってるし、大河に出して欲しいなあ。
あと上で経済の話が出てたけど、直家の親父が備前の豪商の娘を嫁にもらってんだよな。
勢力伸ばすにはやっぱり経済感覚って大事なんだわな。
標準語をシャベル官兵衛かぁ。
大河で土佐と薩摩だけ方言で他は標準語という
のはいい加減やめろよ。。。
葵徳川なんかは皆狂言の言い回しや武家言葉を使って当時の
状況に比較的近かったのに
>>593 経済感覚のある武将は
・海沿い
・経済がコメ主体でない地域
に集中する傾向がある。
596 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 18:43:50.33 ID:4CmQATE80
墨俣一夜城は日数の問題どころか歴史的事実として築城自体が完全否定され、高松城水攻めの3km以上の大堤防も今では300〜400mで陣地に偽装して作ったことになってるけど、
墨俣一夜城を信じて、こうすれば築城できたとかあれこれ研究してた人とか可哀想だな。
>>597 そうだな。
鉱物を売る先を考えないといけないからな
>>595 織田信長・・・安土
豊臣秀吉・・・大阪
徳川家康・・・江戸、駿府
伊達政宗・・・仙台、塩竈
上杉謙信・・・高田、直江津
前田利家・・・金沢
井伊直政・・・彦根
今川家・・・・・駿府
後北条家・・・小田原
佐竹氏・・・・・水戸
九鬼氏・・・・・鳥羽
長宗我部・・・高知
宇喜多氏・・・岡山
毛利輝元・・・広島
蜂須賀氏・・・徳島
村上水軍・・・今治
黒田長政・・・福岡、博多
大友宗麟・・・大分(府内)
島津義弘・・・加治木
島津家久・・・鹿児島
井伊氏がより内陸の佐波山から琵琶湖畔の彦根に移ったのもその一環かな。
豊臣秀吉も浅井氏滅亡の後に小谷城を拝領したものの、琵琶湖畔の長浜に移った。
>>599 石田三成は葦に税金かけて大軍持ってたからな
琵琶湖は儲かるみたいで
>>577 武田が最後に組織だった抵抗が出来なかったのは信忠が父親も敵も予想出来なかったような大暴走したからなわけだし、
変な言い方だが信忠がもう少しリスクの事を考えられる武将なら、
後世に「武田勝頼軍団は烏合の衆だった」なんて言われずに組織を上げて防衛してたと思うがな
長篠の勝頼も本能寺の信忠も、勝てるはずがないのにバカ正直に戦った事が逆にダメな結果になるって、
勇敢で潔い武士が必ずしも良い大名ではないって事なんだろうな
602 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 20:59:25.86 ID:4CmQATE80
603 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 21:10:03.34 ID:wHslCOtv0
豊臣秀吉は韓国人なんだよな
歴史通なら常識だと思うが。
豊臣秀吉の最初の名前は「木下」つまり・・「朴」になる。
また、秀吉のブレーンでもあり茶礼の先駆者であった、千利休も
韓国人だったわけですし、秀吉がなぜ韓半島へ出兵したか?というと
故郷に錦を飾りたかったわけですわなw
>>54 一応黒田家は近江佐々木源氏の分かれということになってるからね
そこから備前福岡に流れた後に播磨で小寺家に仕えた
ただ播磨黒田庄出身の豪族という異説もある
606 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 23:09:14.67 ID:t5mlb1pHO
>>601 長篠で家中で力を持った重臣が倒れたのを好機に、豪族連合体からの脱却を図ろうとしたけど、性急すぎて反発を招いたからな
組織再編で若手を使い出したが(と言っても言われる長坂跡部の跡部なんか、もともと甲斐で力持ってた跡部氏の出だけど)
その他の連中の反発を上手いこと受け流せる調整役がいなかったのが致命的だったな
>>112 実績で言えば官兵衛の圧勝
半兵衛は伝説的軍師とされるけど史料に残る実績はほとんどない
講談の世界では半兵衛のが少し上なイメージ
薄命ボーナスかな
608 :
名無しさん@13周年:2013/05/13(月) 23:28:56.95 ID:YWqXx6Hk0
紙に書いた昔のものは何がしか残ってるけど、今のような電子媒体は2,3世紀もすればほとんど失われてそうで怖いなぁ
一世紀でも怪しいかも知れんなぁ。。。
おまえらこの手の話すきだねぇ
>>608 一応、今も内閣が陛下に奏上申し上げ、玉璽や国璽が押される書類は全て毛筆の縦書きで各大臣の花押が記されているよ
だから内閣に入る際には花押を決めとかなきゃならない