【鹿児島 】 2つのジゲン流紹介 

このエントリーをはてなブックマークに追加
294名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 02:50:43.33 ID:c+Vlo0X40
どっちもただ突っ込んでいくだけだろ?
295名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 02:52:39.51 ID:lluIVvcd0
刀での決闘なんて気合が入ってるほうが勝つだろ
おりゃー!って思いっきり振り下ろされたら受けられないしよけられないだろ
だから松井とかAロッドが武士だったら強かったってこった
296名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 03:00:19.67 ID:K/K2pBGj0
>>293
実際に真剣で切り結んできた先人の工夫を営々と稽古してきたものだから、
現代日本人には実感できないし、それを証明する手立てもないわな。

据え物斬りですら、真剣を以って何かを斬ろうとすれば、
慣れるまでは下っ腹を中心にイヤ〜な感じがたまる。

これが真剣を持った相手と命の遣り取りをしなきゃならん、となったら、
未知の気構えと未知の技術があるんだろうな、と漠然と思うだけで。
297名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 03:16:39.21 ID:bJ/CtVkJ0
>>296

でしょうね、でかい声出して打ち付けまくればガード空くんじゃね?という作戦ですね。

実戦ではシンプルな方が良いですね
298名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 03:21:31.19 ID:KsGbPxR20
かのブルース・リーもこのジゲン流の叫びにインスピレーションを得て怪鳥音を生み出したと言う
299名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 06:23:37.34 ID:XVCbdwET0
>>285
黄金造りの貞利あるの?
300名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 09:48:25.68 ID:Sa+yR7gn0
>>288
だな。
薩摩半島。
301名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 09:49:53.35 ID:JrJkD9Xl0
東郷ターンは自顕流の間合いでやったというのは本当なの?
ただの伝説なの?
302名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 10:04:27.38 ID:gFLxPELo0
>>287フォロー
元々薩摩の軍法は戦国時代から、集団戦レベルでは剣で切りあっても、所詮1対1交換にしかならない
だから兵士全員に鉄砲持たせるんだ、弾の数だけ殺せるぞ火力万歳!という実も蓋も無いもの

江戸時代になって薩摩も、一時幕府にこびて徳川家推薦の甲斐武田の軍法もやっていたが
江戸後期になって西洋の軍隊がどうも凄く強く、日本の軍法では太刀打ちできないらしいということになり、
外国の軍法書の翻訳から、あちこちの藩が西洋軍法の真似っ子を始めた時
薩摩の学者が「ぶっちゃけ、うち(島津)の戦国時代の軍法って西洋軍法に酷似してね?」ということに気がついて
古流掘り返してルネッサーンス(乾杯)することにした

太平の世に失伝したものやその後の技術革新にそぐわないものなど、いろいろあって
できあがった軍法は必ずしも西洋に対抗できるものじゃないってのは薩英戦争で痛感したけど
その後薩摩があっさり英国式の軍法を受け入れたのはそういう素地があったからという話

卑怯とかやったもん勝ちとかいうのは戦国の考え方なら当たり前
303名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 11:23:10.10 ID:VT5xGekU0
2の太刀いらず、って嘘じゃねぇか。
べしべし奇声あげて10の太刀20の太刀えんえんと打ちまくるだけじゃん。
304名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 13:54:38.73 ID:KsGbPxR20
膝くらいの高さに打ち込んでるのは転んだ人間を切り刻んでるイメージか?w
305名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 14:30:07.28 ID:pgyavguKO
ミッション一寸法師終了
\(^_^)/

あー薩摩剣士ーあー薩摩剣士ーはーやーとー
306名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 14:35:33.20 ID:L+IcTwfh0
上手くコントロールしてるわ
http://uproda.2ch-library.com/55837307U/lib558373.jpg
307名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 14:43:35.73 ID:wm6hIE5p0
さすがは薩摩奴隷王朝、クソ。
308名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 14:43:44.60 ID:KsGbPxR20
>>306
まさかのストレス解消剣法w
309名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 14:45:30.20 ID:694sl94A0
>>306
薩摩義士伝か
310名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 14:46:14.32 ID:pgyavguKO
現阿久根市、折口川河口に折口三文字がある。
ここに医王院とつく寺があったらしい。

川内市泰平寺
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E5%B9%B3%E5%AF%BA_(%E8%96%A9%E6%91%A9%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%B8%82)
311名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 14:58:58.32 ID:F9ShAIJ00
>>306
いや、薩摩に一揆がなかったのは、庄屋=肝煎が郷士だったから。

他藩でやったような安土桃山や江戸の兵農分離をしなかったので、
集落ごとに郷士が集団を作っていた。農民とは生活行事も異なっていた。

そのため幕末では動員可能兵力が他藩との比較で異様に大きくなったし、
明治の士族認定者も異様に多く、国政選挙をしてみると当選者はほとんど士族出身者だった。
312名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 15:09:04.46 ID:F9ShAIJ00
>>303
戦場では10も20も相手がいるんだよ。
だから、常時刀を振り回して走り回っているのに十分な体力を付けたほうが勝ち。
そのような人間には敵もやりづらいから。

試合のような礼や一対一の対戦は戦場ではないわけ。
313名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 15:09:30.22 ID:pgyavguKO
左翼の史観は、薩摩には当てはまらない。
314名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 15:10:04.24 ID:i0+IUjEK0
>>2
ざけんなよ
315名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 15:19:12.47 ID:HB5wipVzO
ルパン最強議論スレはここですか?

S 五右衛門
A ルパン
B 次元
C 銭形
D ふーじこちゃーん
316名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 15:46:35.61 ID:iHArBCVjO
鹿児島の 居合九段剣道範士八段の達人 もう90歳近い小柄な方だが 今年も京都大会にも出られた
現役選手が打ち込んでもすらりすらりと瞬間移動 でとんでもないところで面・胴をいただく 穏和な顔だが竹刀を持つと姿が何倍にもなる
戦中は抜刀隊の指導をされたとか(素人が真剣を持つとまず自分の脚を切ってしまう) 刀はかる〜く持って すっと振る 無駄な力はいらない 首などすぱんすぱん飛ぶよと
後にも先にもその頃のことを話されたのはそれだけだったが 妙に納得した
317南米院 ◆ULzeEom5Pip0 :2012/07/29(日) 15:54:45.89 ID:JTga3HWJ0
次元ってそれほど射撃が凄いってわけでもないよな。
よく外すしqqqqq
318名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 15:56:59.67 ID:IA/UXlqI0
319名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 16:11:19.37 ID:uquXvpog0
薩摩示現流は京都で新選組とも戦っているからね。新選組が逃げなかったところを見ると、特に示現流が図抜けて最強と言うわけでもないだろう。

相手の刀ごと力と勢いで両断するような剣法だから、戦う相手には脅威だろうけどね。
320名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 16:19:06.79 ID:iT0HFci40
薩摩の侍が異常に多くて貧乏だったのは事実

http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/02e89e40252f022ff4f0d35ae57f9d8f

 明治初年、各藩主から太政官に提出した藩の禄高と士数が残っています。(林義彦著「薩藩の教育と財政並軍備」より)

 鹿児島藩 43,119戸 20.1石(一人あたり平均石高)  
 
 熊本藩8,050戸(97.6石) 久留米藩948戸(386.3石) 徳島藩2,100戸(210.8石)
 高知藩7,269戸(68.1石) 山口藩3,000戸(123.1石) 岡山藩2,711戸(167.5石)
 広島藩1,780戸(274.1石) 姫路藩706戸(212.4石) 鳥取藩1,710戸(250.3石)
 彦根藩1,251戸(162.9石) 金沢藩7,797戸(173.5石) 秋田藩3,219戸(103.1石) 
 弘前藩2,066戸(132.8石)

戦国時代の北条氏あたりの文書によると兵力の供出義務として
50石は馬なしの徒歩武者1-2人+(徒歩武者のお付の非戦闘員)+足軽数人
100石近くになって馬上1名(徒歩侍が付くこと有)+(お付の非戦闘員)+足軽(50石の倍以上)

1人あたり20石で何をしろと。
加えて4石だろうが5石だろうが侍身分登録なら鉄砲持っとけ、できれば2丁以上持てってのが決まりだったはず。
他国だと侍が鉄砲持ち出すのは100石以上だぞ

中岡慎太郎談「 薩摩藩の兵制は、すっかりイギリス式に改まったよ。
この改正は、長州の改正を見て亥年(長州に習って亥年、文久三年というのはちょっと疑問なんですが)以来やってきたことなんだ。
それまでは古流(合伝流)だったけどね、
薩摩は古流といっても、士分がみな銃をもつ習わしだったので、他の藩とちがって簡単にできたんだよ。
薩摩の歩兵はみんな士分で、足軽は兵士じゃないんだよ。身分は士族でも、とても貧しく、土佐の足軽より貧乏な者が多いので、
ほんの少しの給料で歩兵になるんだよ。これは、他藩にない薩摩の特長だね。」
321名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 17:38:14.31 ID:K/K2pBGj0
何時の日か必ず徳川を倒すと決めて、長い長い江戸期を
雌伏の時と定めて生き抜いてきたんだから、
戦備えとそこへの貯えが、他藩とは比較にならない。

ので、藩士全般が貧しかったのは当然のことで、
石高に現れない秘密の利益もあったのが薩摩。
322名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 17:44:13.90 ID:062Z9LwtO
>>272ゴエモンはルパンに勝てなかった。
ゴエモンは敵だったからね
323名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 20:44:07.42 ID:pgyavguKO
平城京遷都千三百二年奈良のおせんしに叩き起こされた。
山門院が正解。
寝る。
324名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 20:50:55.41 ID:pgyavguKO
うっ、祝吉御所とな…いわよしと読む。
325名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 21:01:54.07 ID:BwW4NJrt0
>>319
薩摩の初太刀は絶対に避けろと隊士に厳命してたと聞くな
326名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 21:15:05.91 ID:pgyavguKO
西郷隆盛が奄美大島から連れて来て従者弟子にしていた若者を、
新撰組が西郷隆盛と誤認して斬り殺した。
西郷隆盛は大変悔やみ、この若者の墓を相国寺に建てた。
甲子の変戦死者石碑近くの院内に、奄美大島の若者の墓があるらしい。

祝吉御所、早水神社、髪長姫、大雀命はまた調べておく。
327名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 21:38:10.67 ID:bJ/CtVkJ0
さつまは貧乏侍が多かったから、せっかく馬に乗れる身分になれても馬が買えなかったらしいwwww

関ヶ原の時もみんな歩きで退却したらしい、馬が有ったら華麗にスルーできたのに…
328名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 21:53:58.00 ID:OJjUi4MK0
いや、馬なんかいらんから予備の鉄砲持っとけって命令されてた
島津には、足軽の長槍隊も騎馬隊も無かったらしい

戦国末期は他の戦国大名家でも騎馬戦が衰退して、
騎馬武者も移動か追撃にだけ馬使ってたから、
その頃の話で馬に乗って戦おうとしたら自分の馬切っちゃった、
最近の武士は騎馬戦下手だなあって話がある(雑兵物語だったか)

それでも馬に乗れる=石高の高い侍の証でもあるし
追撃にも使えるし、戦の前哨戦で騎馬武者の小競り合いも多かったんで
他家では騎馬の武者は徒歩の武者より数が多いことが多かった

ただ、島津は騎馬隊持ってなかった割には、敵の退却の時の追撃戦で
掠奪に夢中なあまり追撃しなかったって話はあるけど、追撃してまんまと
逃げられた話はあまり聞かない…
329名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 22:13:53.89 ID:Xz7t05g+0
>>328
ちょっとだけ追撃して、これは逃げられそうだとなったら
略奪に切り替えてたんじゃないのか?w
330名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 23:10:50.85 ID:OJjUi4MK0
木崎原、耳川、沖田綴など、島津の追撃の厳しさは正に鬼です…
331名無しさん@13周年:2012/07/29(日) 23:36:10.44 ID:v5D64NeV0

共 必
に 死
死 す
す な
る わ
を ち
も 生
っ く
て る
真 な
と り











332名無しさん@13周年:2012/07/30(月) 00:27:26.84 ID:ETt2i22n0
お〜い。Fランの足利工業大学(偏差値40以下)に進学せざるを得なかったにも関わらず、
「俺は武力85で知力90だ」とかほざいていた三国志オタクで付属校出身の1993年入学の
川原、元気か? ロクでもない会社に就職して、ロクでもない人生送ってるだろうけど、
まあ頑張れよ。

剣術好きだったにも関わらず、薩摩示現流すらロクに知らなかったようなアフォだったな。
333名無しさん@13周年:2012/07/30(月) 00:32:24.12 ID:MFymA3YM0
キチガイ剣
334名無しさん@13周年:2012/07/30(月) 01:30:16.07 ID:8GR7A2Qj0
略奪王島津って群盗犯罪集団だよな。
日本人を奴隷にしたり白人商人に売却したりしてさ。
しかも上方から来た兵に軍備の貧弱さをあざ笑われたり、
寡兵の藤堂高虎に翻弄させるし
蒲生氏郷には島津弱すぎとか言われるし
島原で龍造寺軍を討ったのはキリシタン式からの援助の有馬大鉄砲隊と2台の大砲だし。
大陸から鬼島津って呼ばれたとか言うけど、鬼って大陸だと幽霊だろ。鬼は強いと解釈するのは日本だけだしw
島津強いなんてエピソードは捏造三昧にもほどがあるだろ!

島津は謙信の劣化コピーな感じですよね。
謙信は小田原侵攻した際は沼田城→厩橋城を攻略し策源地として→由良の金山城や成田の忍城の岩槻城などを自陣営を招いたのち
街道を制する古河城や松山城を攻略し補給路を確保してから、侵入し小田原で北条を威嚇したのちに
今回の目的であった鎌倉鶴岡八幡宮での関東管領職就任式を北条の目と鼻の先で挙行し見せつけて帰った。
島津の場合は、家久が日向口の入口たる佐伯地域をまったく攻略できないままに放置し内部深くに侵入し苦戦。
義弘が肥後口の入口たる岡城が攻略できず、やむなく兵力を分散し玖珠郡方面へ派兵するも角牟礼城で大敗。
さらに兵力を分散して手当たり次第に攻めるも、
小田原城のような城を築いてない大友は言わば、伊豆方面で籠城したようなもんで龍王や丹生島で籠城。
結局、島津は戦略的な郡単位の面の支配が不可能どころか戦術的な点の支配さえ出来ず敵中孤立してたのであり、
背後の補給路上には敵の要害が策源地として健在し、
死に物狂いな必死な攻城戦でいたずらに島津は兵力を大きく失われて壊滅状態になってしまった。
結局、島津は秋月にさんざん利用されたに過ぎなかった。
335名無しさん@13周年:2012/07/30(月) 01:34:08.26 ID:8GR7A2Qj0
残念ながら家久は戦場のだいぶ後ろでビビって隠れてただけ
赤星や相良の援軍が必死に戦い、
それを有馬の陸から2門、海からの2門の大砲で援護射撃して崩しにかかり
隆信が前線が崩壊して混乱してるのを見てこいと指示しただけなのを
「隆信さまがどんどん前進しろや!」と喚いて回ったために
竜造寺軍が自殺進軍を開始し完全に敗北して隆信の周りが孤立無援になってから
急いで家久が少数の兵を派遣しておいしいトコだけ盗んだ卑怯者なだけ。
しかも有馬を助けたいだけで野心はないと大ウソまでついて善人顔してた屑な人柄。

イエズス会によると
「前線にあった島津軍は膨大で、
しかも優れた装備の隆信軍を見て色を失い、
互いに顔を見合わせ死の汗を流した」と島津が完全に怯えていたと記す。
そして後方へ逃げた島津3000。
一方の有馬5000や赤星や相良らが島津に代わり、
前線で竜造寺と果敢に激突し、
大村純忠が戦うフリをして空砲をはなって有馬に内通を開始。

陸海からの大砲の集中攻撃で竜造寺が敗走した時に
島津の川上が竜造寺兵の如く変装して
独断行動で隆信に近づき暗殺しただけ。
隆信は川上を味方の兵だと誤解していた。
336名無しさん@13周年:2012/07/30(月) 01:34:52.31 ID:GgWKzkjR0
どっちも二の太刀要らずっいわれてるの?
337名無しさん@13周年:2012/07/30(月) 01:35:56.14 ID:zeTHFyyF0
あの棒は伝統的には地元でユスと呼ばれている木を適当に切ったもので、重さは真剣と同じくらいだった。
袈裟斬りしかないのは、実戦では結局それか突きでしか殺せないからと。
真剣の重さで袈裟斬りとフットワークばかり何千時間も練るわけだから、幕末みたいなゲリラ戦の即戦力はとても多かったろうね。
338名無しさん@13周年:2012/07/30(月) 01:37:29.43 ID:8GR7A2Qj0
イエズス会は隆信を暴君と呼んで嫌っていたが
島津に対してはデタラメを言うようなことはない。
島津の国主と書いたりしている。
また陸上2門と有馬の老臣安富徳円の船から二門の大砲を操ったのが
隆信が不当に殺すことを命じたために大村領から逃げてきた
マルチニヨというキリシタンが砲の狙いをつけ
黒奴が砲に装薬し、マラバル人が火をつけたなど細々と解説している。
もっとも跪いて手を挙げ祈祷したりする手順があったのでそれを知る人間しか大砲を操れなかった。
フロイスによると有馬氏へ天正8年に鉛や硝石を提供したりしているので大砲もこの時にもらったのではと言われている。

これにより海岸線のに展開して進軍していた竜造寺隊は崩壊逃走し
一部は中央の畦道を進軍する軍へ乱入混乱が増した。
有馬隊は柵の後ろで鉄砲により応戦していた中央の赤星隊300を守るために右前方に突出した森岳に布陣し
大砲を打ち込みつつ有馬兄弟や叔父たちとともに竜造寺の槍隊に討ってでて恐れを知らなかった。
事実、隆信戦死の地とされる場所は海岸線に近い森岳前方なのである。
つまり有馬の陸海からの大砲と有馬本隊の突撃(有馬隊自体は鉄砲は使わず)で竜造寺の左翼の海岸線の部隊は
壊滅し、その敗走は中央軍の混乱を誘い、隆信は海岸線の部隊の督戦のため移動し
そこで隆信は孤立無援状態に陥り討ち死にしたとしか思えない。
ちなみに竜造寺軍は鉄砲1000挺に大砲も持っていたらしい。これを島津が見て恐怖したようだ。
339名無しさん@13周年:2012/07/30(月) 01:38:52.37 ID:NcRLPDofO
乱れうちなら2も3もあるだろ
340名無しさん@13周年:2012/07/30(月) 01:39:57.10 ID:8GR7A2Qj0
ちなみに相良軍は13歳の忠房が疱瘡で病んでいたために
有馬救援軍を的場自休が代役として率いており
竜造寺相手の先陣争いでは騎下の豊永金兵衛が奮戦したと言う。

島津が攻撃に参加したと思われるのは竜造寺が敗走した後の追撃戦のみ。
これを家久の武功だなんて主張するのは基地外のやること。

豊後への家久の侵入でも佐伯地方で大敗続きでついに佐伯攻略を諦めて盲信したために補給困難に陥り、
利光宗魚が鶴賀城を奪回し完全に補給線を断ち切られ大苦戦。
たまたま利光宗魚が流れ矢で死んだからよかったものの島津兵力は半数以下までダウンさせた。
一般に軍隊において半数が戦力外になるということは部隊の崩壊を意味している。
仙石秀久の自爆がなければ家久こそ自滅していただろう。
統率面でも豊後で略奪、人さらい。さらに仙石秀久軍からの略奪を繰り返し
多くの戦利品を集めた薩摩兵は勝手に薩摩へ帰っていき、ただでさえ減少した島津軍は完全に崩壊し
ついには佐伯地方でフルボッコされるなかを敗走。
続いて岡城で封鎖を受けて肥後へ脱出不可能になった義弘が佐伯地方から日向へ抜けるにあたり、
先に血路を開いてくれたと誤解し家久を信用していた義弘は佐伯地方から日向へ抜ける峠で包囲され壊滅的な被害を受けて殿の相良軍を壊滅されながら逃走し、家久の援軍もなく死地で迷走し
義弘が命より大切にしていた茶器まで佐伯氏に奪われる始末。

つか丸尾山方面へ向かったはずの右翼の鍋島ってこの時も兵を動かしてないように思える。
出兵に反対していた鍋島はこの時、隆信を暗殺すべく敵側へ内通してたんじゃないか?
この時の鍋島の行動は腑に落ちない。
341名無しさん@13周年:2012/07/30(月) 01:40:56.70 ID:w5w8qLOL0
刀は刃こぼれしやすいし血糊が付いたら切れなくなるので
突く叩くといった使い方のほうが実戦向きだろ
342名無しさん@13周年:2012/07/30(月) 01:46:19.96 ID:L8d1RI9U0
肝煉りじゃ!
343名無しさん@13周年
ちぇりおおおおおおおおおおおおおおおおお