【捕鯨】「(豪国内で自己責任で払えと言われる)救出費用は日本に」「すしバーなかった」 シー・シェパード支援活動家が放言★2

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541クジラさんのお肉の食用利用は日本全国8千年の歴史♪
>>529-530 >>532>>534 マァジィデエェェッ…日本中の大半の地域では8千年も前からクジラさんのお肉は唯の食材だったのに変わった風州の地域も有ったんだねェ・・・w↓

[鯨肉wiki]

日本においても、組織的な捕鯨産業の成立以前から、鯨肉を食用とすることはあったようである。小型のハクジラ類を中心に、縄文時代以前を含む旧石器時代の貝塚や、弥生時代の遺跡など古くから出土例がある。
日本では宗教上の理由などから[3]、「肉食」が忌避されたり、公式には禁止される時期が歴史上で度々あったが、欧米の場合と同じく「魚」として食用にされていたようである。
奈良時代から室町時代の鯨肉贈答の記録 [編集]
712年(和銅5年)の古事記のなかで神武天皇に鯨肉が献上されたという記述がある。文献「古事記」
1570年(永禄13年)織田信長が禁裏へ鯨を献上。山科言継は禁裏より織田信長が献上した鯨肉を拝領した。文献「言継卿記」
1577年(天正5年)水野監物が織田信長に鯨肉を贈った、その返礼が信長よりなされており「鯨一折到 来候細々懇 情別而悦入候 猶参上之時 可申候也 正月十六日信長」という内容の感状が書かれている。
文献「織田信長から水野監物への黒印状」
1582年(天正10年)鯨肉ではないが、「鯨桶」(鯨肉を運ぶための専用の木桶)が、伊勢国より正親町天皇へ2つ、誠仁親王へ1つ、勧修寺晴豊へ1つ献上された。文献「晴豊記」
1589年(天正17年)高橋丹波守は北条氏政と北条氏規に鯨肉を献上した。
1591年(天正19年)長宗我部元親が豊臣秀吉に鯨一頭献上。文献「土佐物語
1612年(慶長17年)里見忠義が榎倉長兵衛を介して伊勢神宮に鯨の尾の皮を献上している。「一、領分の船、鯨留め候上、壱疋の内より、初尾の為一尺八寸の皮壱枚宛とらるべく候事 慶長拾七 弐月七日 忠義判 榎倉長兵衛殿」文献「千葉県鋸南町の醍醐家の古文書」

542名無しさん@12周年:2012/02/04(土) 09:05:32.22 ID:B0AiEFi20
もうシーシェパード所属の人命は助ける必要ないな
543クジラさんのお肉の食用利用は日本全国8千年の歴史♪:2012/02/04(土) 09:08:03.49 ID:ShH6Xmfq0
>>541の続き♪

室町時代から江戸時代の鯨料理に関する書籍 [編集]
室町時代末期に「四條流庖丁書」という料理書に食材としての魚の格付けとして最高位に鯨、二番目が鯉、その他の魚は鯉以下として挙げられている。
室町時代に「大草家料理書」(欠年)という料理書に鯨肉の料理が記載されている。
1561年(永禄4年)には「三好筑前守義長朝臣亭江御成之記」のなかで三好義長が自邸宅において鯨料理で足利義輝をもてなしたという記述が残されている。
1643年(寛永20年)に「料理物語」という料理書の中で10種類の鯨料理が紹介されている。
1669年に「料理食道記」という料理書には、日本各地の鯨肉産地(詳細後述)が記載されている。
1763年(宝暦13年)に「料理珍味集」という料理書に鯨蕎麦切という鯨料理が紹介されている。
1832年(天保3年)には、捕鯨の様子を描いた絵物語の付録として鯨料理専門書「鯨肉調味方」が発行されている。鯨の約70もの部位についての料理方法として、
「鋤焼き」という焼肉風の料理、すき焼きに似た鍋物、揚げ物などが紹介されている。鯨肉普及のための一種の広報誌だったとも言われる。
天保年間には「日用倹約料理仕方角力番附」という家庭料理書の中で「夏場のおかず位付け(ランキング)」の前頭16番目に鯨料理が紹介されている。

江戸時代から明治までの日本各地の鯨料理 [編集]
江戸時代から組織的な捕鯨が行われるようになり、それら捕鯨地域周辺の漁村では、鯨肉は常食とされていた。ただし、九州地方の一部では、初期の突取式捕鯨期には鯨油生産のみが行われて食用習慣が無く、皮下脂肪以外の鯨肉は沖合いに運んで廃棄していたという記録もあるが、
その九州でも網取式捕鯨が始まる頃までには急速に鯨肉食が盛んになる。例えば幕末に捕鯨地の長崎を訪れたシーボルトも、しばしば鯨料理が供されたことについての記録を残しており、中には「鯨ひげのサラダ」などの特異な献立も記されている。
ツチクジラは、現在の千葉県房総半島太平洋岸のように、該当種の捕鯨が行われてきた地域では古くから食べられ、特有のクセに応じた調理法も工夫されてきた(鯨肉の干物の「鯨のたれ」と呼ばれる加工品など)。
544名無しさん@12周年:2012/02/04(土) 09:08:21.10 ID:jEzWtZHn0
>>526
 
オーストラリア・日本大使館前で捕鯨反対デモ
  ttp://killkorea.iza.ne.jp/blog/entry/440633
・ハングルで捕鯨反対w
545名無しさん@12周年:2012/02/04(土) 09:09:26.44 ID:0Mqa2S+g0
無駄な話ばかりだな
日本沿岸で漁をすれば済むだけの話
巡視船とか出し放題だ
南極海まで出向くから睨まれる
546クジラさんのお肉の食用利用は日本全国8千年の歴史♪:2012/02/04(土) 09:10:17.54 ID:ShH6Xmfq0
流通の常(つね)で生産地の周辺地域に広く消費される傾向にあるが、大坂など近傍経済圏にもこの頃に生まれた伝統的な鯨肉料理が存在する。
京都では「鯨の吸い物」が食べられているのを井原西鶴が著書の中で紹介している。十返舎一九も東海道中膝栗毛のなかで大坂の淀川で「鯨の煮付け」を紹介している。
高知県では土佐藩の高知城下を中心に数々の鯨料理が伝承されており、特に「はりはり鍋」は代表的な物の一つである。江戸城下では鯨肉を素材に調理した
「鯨鍋」や「みそ汁」や「澄まし汁」などが食され、「ホリホリ」「鯨のし」などと称した頭部の軟骨を加工した珍味も売られていた。
行事などと結びついた料理も生まれた。江戸を含め日本各地で12月13日の煤払い(すすはらい)の後は「鯨汁」を食べる習慣が広まり、その様子は沢山の川柳の記述や物売りが鯨肉を扱っていた記録が残されている。
秋田でも鍋物としては珍しく夏の暑気払いとして「鯨貝焼(くじらかやき)」という鯨のしょっつる鍋が江戸時代から食されており、夏場になると五艘程度の小舟の船団で鯨漁に出ていた記録が残されている。
そして明治開拓以降の北海道の日本海側各地で正月料理として鯨汁が食されるのは、秋田藩を中心とした東北の人々が移り住んだ名残といわれている。北海道のアイヌ民族の鯨食は江戸時代よりも古いとされる。
同じく夏の土用の食べ物としていた地域は多く、九州の農村では土用に備えて各戸で一樽ずつもの皮の塩漬けを作る地域もあった。塩蔵すれば魚類よりも長期間の保存・輸送に耐えることを活かして、少量は各地に輸送され、
一般の海魚の運ばれない山村等で正月などハレ(晴れの席)の料理に供されていた例もある。

昭和以前の需要供給、流通 [編集]
江戸時代には、江戸の日本橋の魚市では「大には鯨、小には鰯、貴品には鯛、鰈等があるなかにも堅魚は近海の名産にして、四月八日の初市には、衣を典し衿を売るも必ずこれを食ふの旧習民間に行はる」という言葉が残されており、
江戸城下で鯨肉が広く一般に流通していたことがうかがえる。