【政治】福岡政行氏 次回総選挙の議席数を「自民220民主130」と予測★2
>>613 補足 訂正×レーニン→○トロツキー
行政学(新版) 西尾勝 有斐閣 175−176P (tea time)より抜粋
革命と官僚制
ウェーバーは、官僚制の十分に発達した国では真の意味での革命は困難になるので、
先進国の革命は全て、政権の担当者が交代するだけのクーデターに終わり、官僚制の本体は、抜かりなく生き残る、と述べた。
官僚制を破壊し、その活動まで停止させると、社会生活は完全なカオス状態に陥ってしまうことになり、
革命政権は、この破滅的な生活危機を招いた責任を問われ、国民大衆の支持を失い、反革命を招いてしまうからである。
ロシア革命のケース
確かに、都市型社会の市民生活は、官僚制の一日も休まぬ社会管理機能に完全に依存している。
ここでは、電気・ガス・水道の供給がたった一日停止しただけでも、ほとんどすべての活動が麻痺してしまう。
後進国であれば「まず破壊、ついで建設」という図式通りの革命の余地がまだ残されているかもしれない。
しかし、ここにおいてさえ、新しい官僚制の建設は緊急の課題にならざるを得ない。ロシア革命もその例外ではあり得なかった。
E.H.カーの『ボルシェビキ革命』によれば、1917〜20年の間に、ペテログラードの人口は57.5%減り、
モスクワの人口は44.5%も減少したと記録している。
都市生活に不安を覚えた大衆が自給自足のできる農村に流出したからであった。
>>616 続き
トロツキーの証言
この間の事情は、トロツキーの『我が生涯』の中に次のように記されている。
「1918年の春と夏は極度に困難な時期であった。人々が戦争の結果をまざまざと知ったのは、このときであった。
人々はすべてが瓦解し、粉々になってしまうような感覚、すがりつくものも、身を寄せるものも、何もないような感覚を味わった。
−中略−食料の供給は不足していた。軍隊はもうなかった。鉄道は完全に混乱していた。国家の事業はほとんど組織されていなかった。」
軍事人民委員であったトロツキーは、1918年3月の第8回党大会で、赤軍を人民軍方式から正規軍方式に切り換えることを提案し、
その承認を取りつけたのであったが、このときの党大会決議は以下のように述べていた。
「高度に機械化されたブルジョア軍隊に対抗することの出来る軍隊であるためには、最新の軍事技術によって訓練され、武装され、
組織された軍隊でなければならない。−中略−このために、これまでの志願制の原則やパルチザン主義は廃止されるべきこと、
編成と訓練の方法において常備軍的・正規軍的なものであるべきこと、そのためには、特に十分に訓練された指揮官が必要であること、−後略。」
トロツキーは、この訓練された指揮官を調達するために、赤軍に帝政ロシア軍の将校たちを大量に迎え入れたのであった。
『我が生涯』はこの間の状況を以下のように伝えている。
「赤軍に勤務しているものの中には、旧軍の幹部士官が何千人もいた。やがて、その数は何万人にも膨れあがった。
かれら自身の語るところによれば、彼らの中の多くはつい3年前までは、まだ穏健な自由主義者さえ極端な革命家だと思われたほどであり、
彼らにとってボルシェビキは第4次元に属する人間であった。私は当時、旧軍の幹部士官を赤軍に吸収することに反対した人々に向かってこういった。
『私たちが何千何万人もの軍事専門家を連れてくることなど不可能であると考えるとしたら、私たちと私たちの党に対して、
まだ私たちの理想が持つ精神力に対して、そしてまた私たちの革命的なモラルが持つ牽引力に対して、
あまりにも過小評価をしていることになりはしないか』と。」
>>617 続き
スターリンの訴え
革命後に緊急に必要となるのは、何も軍事専門家だけではない。あらゆる種類の専門家と技術者の不足が痛感される。
スターリンは、1921年の論文「権力獲得前の党と権力獲得後の党」のなかで、次のように訴えている。
「以前には、軍事問題とか経済問題の専門家なしにも済ますことが出来た。何故なら、党の活動は主として批判する活動だったからであり、
批判することは易しいことだったからである。−中略−だが、今では党は専門家なしに済ますことはできない。
古い専門家の利用と並行して、今や党は自分自身の専門家を作り出さなければならない。そうしなければ、建設していくことはできないからである。」
以上です。