オウム真理教の被告189人のうち、最後に残った元幹部・遠藤誠一被告(51)に対し、最高裁が21日
死刑判決を言い渡し、一連の事件の裁判が終わった。
これを受け、東京地検次席検事として捜査を指揮した甲斐中辰夫・元最高裁判事(71)がインタビューに応じ早期摘発
の機会を生かせなかった教訓や、教団が企てた、70トンものサリンや1000丁の自動小銃を使用する「首都制圧計画」
が食い止められた経緯を、次のように語った。
読売新聞は1995年1月1日の朝刊1面で、「山梨県上九一色村(当時)でサリン残留物を検出」というスクープ記事を
掲載した。記事で前年に起きた松本サリン事件とオウム真理教との関連が初めて示唆され、教団は慌てふためいた。サリン
製造プラントだった教団の施設「第7サティアン」が宗教施設であるように装うため、その一部を自らの手で取り壊しサリン
の製造は中止された。
教団は、自分の手で製造した70トンものサリンを霞が関や皇居に空中散布して大量殺人を実行し、混乱に乗じて自動小銃を
持った信者が首都を制圧するという国家転覆計画を企てていた。
記事が出たのは、教団がまさにサリンの量産に乗り出す直前のタイミングだった。この報道によって教団のサリン量産と国家
転覆計画は頓挫したと言ってよい。読売新聞は報道の報復として、自分たちの会社にサリンをまかれる可能性もあったわけで
勇気が必要だったと思う。おかげで多くの人々の命が救われた。
今、そんな計画を聞いても荒唐無稽な印象を受けるかもしれないが、教団は実際、サリン散布のためにヘリコプターを購入し
ていたし、自動小銃の試作品もでき、信者らの訓練もしていた。計画が実行されていれば、三日天下くらいは取られていたか
もしれない。
▽読売新聞(2011年11月22日03時02分)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111121-OYT1T01448.htm?from=top