【富山】米国人元捕虜が高岡市の高橋市長を訪問

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1再チャレンジホテルφ ★
 第2次世界大戦中に捕虜生活を送った高岡市を訪れている
アメリカ人男性2人が19日、高岡市の高橋市長を訪ね、交流を深めました。

 高岡市を訪れているのはハロルド・バーグバウアーさん(91)とジム・コリエさん(88)です。

 2人は第2次世界大戦中に捕虜として高岡市の収容所に入れられ、
働かされた経験があり、外務省の草の根交流事業で今月16日から来日しています。

 高岡市役所で高橋市長と会談した2人は
「66年という時を経て高岡に来られて嬉しい。高岡のみなさんのもてなしに感謝します」
などと話して友好の証として高橋市長に記念のメダルを贈りました。

 高橋市長は2人に高岡漆器のペン皿を贈り、
「高岡の歴史にそういう事実があったことを伝えていかなければならない」と述べました。

 2人はこのあと京都や東京を訪れて市民との交流会などに参加し、今月23日に帰国する予定です。

2011 年 10 月 19 日 10:42
http://www2.knb.ne.jp/news/20111019_29980.htm
2名無しさん@12周年:2011/10/19(水) 22:47:39.80 ID:Rc4SLKNk0
イイハナシダナー
3名無しさん@12周年:2011/10/19(水) 22:51:55.99 ID:4g9v/tO/0
「良い日本兵」という意味はよくわかりませんが、このような話があります。

沖縄戦で戦死した福島県出身の太田博という陸軍少尉がいました。
太田少尉には郡山商業時代から応援歌の作詞をするなど、詩の才能がありましたが、陣地構築の手伝いに来てくれた
ひめゆり学徒隊の女学生にお礼として「別れの曲(うた)」(相思樹の歌)を作詞して贈りました。
これに沖縄師範学校女子部と沖縄第一高等女学校で音楽を教えていた東風平恵位先生が曲をつけ、
卒業式で歌う予定でしたが、学校での卒業式の前に戦場に動員され歌えませんでした。
しかしこの歌はひめゆり学徒隊の生徒たちの愛唱歌となりました。作曲した先生も沖縄戦で亡くなりましたが、
戦火の中を生きのびた生徒たちは戦後の苦難の中でこの歌に励まされたと話しています。
戦後60年にあたる平成17年には沖縄で太田少尉を偲ぶ平和祈年祭が開かれました。
4名無しさん@12周年:2011/10/19(水) 23:10:40.15 ID:0Jz3/NkP0
外務省の草の根交流事業

どんな目的の事業なんかね
5名無しさん@12周年:2011/10/19(水) 23:36:58.25 ID:6FjMj90v0
91歳に88歳というご高齢の方が飛行機での長距離移動、大変お疲れ様でした。
お時間許す限りくつろいで頂けたらと。

心から歓迎致します。
6名無しさん@12周年:2011/10/20(木) 00:51:53.70 ID:03Nlm7YZ0
一方、日米戦争初期から中期にかけて米軍に投降した日本兵を
米軍は捕虜にせず一人残らず拷問し殺していた。

第二次世界大戦で捕虜の首を切り落とし、自国民に見世物や土産として
晒していたのも中国と米国の2カ国だけ。
米国では今も日本兵から掠奪した遺品や遺物を販売する市場が形成されている。
7名無しさん@12周年:2011/10/20(木) 01:03:10.72 ID:FkSycr8l0
ついでに広島に連れて行って、民間人の大量殺戮の場を見せ、被爆者との対話を企画しろ。

こんなの予算こそ仕分け対象。
8名無しさん@12周年:2011/10/20(木) 01:06:50.73 ID:HEugMuTj0
>>7
洞窟から日本兵の遺体を引きづり出して戦車のキャタピラの幅に並べて、ミンチにした。
これを見た日本兵の将校が「鬼畜米英」と言う言葉が始まり。
集団で登校してきた日本兵を並べて、M−60で虐殺したのは米兵の証言によっても、確認されてる。

この糞爺どもはよく日本に来られたな!
キリギリス教徒は人間でない!!
9名無しさん@12周年:2011/10/20(木) 04:27:02.70 ID:sRwdLTM20
>>6
あの画像も一緒にだせば?
アメリカの女が旦那からプレゼントされた日本兵の頭蓋骨写真
10名無しさん@12周年:2011/10/20(木) 04:28:29.77 ID:OKfv7umJ0
東京大空襲と原爆の謝罪も頼んだ
11名無しさん@12周年
まあまあ
日本とアメリカは一応友好国なんだからな
中韓と一緒にしちゃいかん
昔のことは持ち出すべきではない
ただしTPPはいかんぞ
これはこれからのことだ
あれはGHQの復活を狙ったものだ
日本が完全に植民地化される
アメリカの植民地は韓国だけでいい