【民主党】選挙で当選するためなら何を約束してもよいというモラル・ハザード 一部議員、菅直人首相の居座りを批判する資格無し
1 :
春デブリφ ★:
★幕末から学ぶ現在(いま)】(125)東大教授・山内昌之 奈良原喜左衛門
生麦事件と子ども手当
政治は結果責任である。たとえ、政治家の意図がどれほど高邁(こうまい)で理想に
あふれていたとしても、成果を出せないとなると無責任な評論に堕してしまう。
もし政治が主観的な善意で評価されるべきだと政治家が信じるなら、選挙のために有
権者の耳に快く響く公約を乱発すればよいことになる。財源の裏付けもないのに、国民
各層に好都合な政策を打ち出せば政治が行き詰まることは分かっている。
とくに政権与党の場合、ひとたび無理筋だと認識するなら、公約やマニフェストの変
更や廃棄をするのは当然であろう。それができないでいる点に今日の政局混迷の因がある。
衆参両院のねじれのために、与野党の歩み寄りが必要とされるのに、政権与党が財源
面で実施が不可能と分かっている子ども手当の堅持にこだわり、新税の必要性からも逃
げるとなると、政策の実施財源はどうなるのだろうか。
政治は生き物であり、政策を実行するには当初のもくろみと違った形や結果を甘受し
なければならないこともある。この基本がどうやら民主党の一部議員には分かっていな
いようだ。選挙で当選するためなら何を約束してもよく、実現できなくても看板を下ろ
すべきではないというのは、モラル・ハザードにほかならない。これでは菅直人首相の
居座りを批判する資格もないだろう。
(続く)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110804/art11080407540001-n1.htm
言ったれ
3 :
春デブリφ ★:2011/08/04(木) 10:49:08.75 ID:???0
(
>>1の続き)
日本の進路が急展開
ある事件の結果が歴史の複雑さでまったく別の様相をもたらすこともある。政治家は
刻々と動く歴史の流れと方向を見抜き、的確な措置をとらなくてはならないからだ。
文久2(1862)年の生麦事件は、さしずめ日本の進路を急旋回させた大事件であ
った。その直接の下手人だった奈良原喜左衛門は、自分の行為が薩摩の藩論を大きく変
え、国論さえ攘夷(じょうい)から開国にまとめあげる結果をもたらすとは想像だにし
なかったであろう。
ことは、文久2年に島津久光が率兵入京し、寺田屋事件で尊皇過激派の藩士・有馬新
七らの挙兵を阻止したことに始まる。久光の供頭(ともがしら)として寺田屋事件の鎮
撫(ちんぶ)にもあたった奈良原らは、さらに江戸に随従したのち京都に戻る途中、生
麦(現横浜市鶴見区)で行列のなかに馬を乗り入れてきた英国人チャールズ・リチャー
ドソンら4人の外国人を斬り捨てた。薬丸(やくまる)半左衛門に薬丸自顕流(じげん
りゅう)を学び、弓術にもたけていた奈良原の剣先は鋭かった。
大名行列を乱す行為は、国内法で重大犯罪だというのが薩摩側の言い分であった。し
かも、薩摩藩にすればリチャードソンらに再三再四下馬を要求し、道脇に寄るように説
いた上で従わなかったので、臨機の措置として斬り捨てたのは当然だというのだ。
(続く)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110804/art11080407540001-n2.htm
公約の実現なんざ、考えなくても不可能なのは分かっていた事。
そんなアホバカミンスに投票してる時点で文句言う資格はない。
5 :
春デブリφ ★:2011/08/04(木) 10:50:37.43 ID:???0
(
>>3の続き)
開国へ舵切った薩摩藩
しかし、英国はじめ横浜の外交団居留民は収まらない。かれらは薩摩藩に下手人の処
罰と賠償などを要求するが、藩庁は奈良原らが逃亡し、すでに島津家中でないとシラを
切る。この事件が発端で薩英戦争が起きた。奈良原も海江田武次(たけじ)とともに英
艦奪取を計って切りこもうとするが失敗した。海江田は後の信義であり、生麦事件の際
の仲間である。
とはいえ薩摩藩は、戦の教訓として攘夷の不可能を悟り、開国に向けて大きく舵(か
じ)を切った。抜本的な政策の見直しである。それどころか、幕府の力の限界を見抜い
た薩摩藩は、大胆にも倒幕路線を突き進むことになった。これは根本的な政策の変更と
旋回にほかならない。
これが歴史の因果関係の皮肉であり複雑なところである。島津久光にしても、奈良原
と海江田の2人にしても、無礼な英国人斬りが開国政策への転換の発端になるとは思わ
なかったに違いない。
複雑だったのは、リチャードソンを斬った奈良原であった。藩の外交的説明として脱
藩逃亡とされたのは、薩摩隼人として納得できない気持ちであったろう。それでも彼
は、元治元(1864)年の禁門の変に出水隊の指揮をとり活躍した。
(続く)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110804/art11080407540001-n3.htm
まったくだ
さっさと離党しろよ
7 :
春デブリφ ★:2011/08/04(木) 10:52:06.40 ID:???0
(
>>5の続き)
犠牲を伴う政策の終焉
彼が倒幕の大業を見ずに慶応元(1865)年5月に京都二本松の薩摩藩邸で没した
のは、当人にとっても薩摩藩にとってもある意味で幸せであった。英国人を堂々と斬っ
た人間が明治新政府の要人になるのは外交上も好ましくなく、新リーダーの薩人に攘夷
の古傷をうずかせることにもなりかねなかったからだ。
一つの政策の終焉(しゅうえん)は誰かの犠牲を伴う。そして、新たな政策の開始は
ある歴史的事業の清算をもたらすものだ。これは生麦事件であれ、子ども手当の措置で
あれ、変わらない歴史の真理なのだ。(やまうち まさゆき)
◇
【プロフィル】奈良原喜左衛門
ならはら・きざえもん 天保2(1831)年、薩摩藩士の家に生まれる。明治後期
に沖縄県知事を長く務めた繁は弟。薩摩藩きっての剣の達人として知られ、安政6(1
859)年、藩内若手改革派の誠忠組に加盟。文久2(1862)年、島津久光に随行
して京都入りし、誠忠組の急進派の説得に当たるが失敗。同年、生麦村(横浜市鶴見
区)で久光の行列に馬で乗り入れた英国人を斬殺。その後も京阪方面で活動し、慶応元
(1865)年、京都の薩摩藩邸で病没した。
(以上)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110804/art11080407540001-n4.htm