【政治】菅首相の資金管理団体、北の拉致容疑者親族所属政治団体から派生した政治団体「政権交代をめざす市民の会」に6250万円献金★33

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799名無しさん@12周年
市民の党の歴史(試験にはでません。)

1970年代に複数の大学のノンセクトグループが日本学生戦線(日学線)結成したのが発祥。
その後日学線が「三里塚を支援する労働者の会」を母体に「マルクス-レーニン主義・毛沢東思想に立脚した新党」結成を掲げ、機関紙「新生」を発行。
中国およびカンボジアのポルポト政権を支持し、ソ連、特に北方領土返還運動を支持していたが、その後成田から撤退し、市民運動路線へ変換した。
1983年に「平和と民主運動(MPD)」を結成し、田英夫、横路孝弘、八代英太らも発起人で参加している。
80年代後半からポルポト支持に行き詰まり、1990年には大衆党に名称変更し多摩地区に地方議員を送り込みます。
94年に村山政権の方針転換で田英夫らが離脱し、「新党・護憲リベラル」を発足させたのを契機に大衆党は、この「護憲リベラル」と合流します。
護憲リベラルはその後すぐに「平和・市民」と名称を変えますが選挙で敗北し「平和・市民」は解散。田英夫は社民党に復帰。
旧大衆党は「市民の党」となり、今日に至ります。
この市民の党を日学線時代からリードしていたのが斉藤まさしという人で、またこの方は田英夫の娘婿でもあります。
神奈川県知事選で田嶋陽子が参議院議員を辞職し市民の党に担がれ立候補しましたが、それによって参議院に繰り上げ当選したのが田英夫でした。