津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で、岩手県北部にある普代村を高さ15メートルを超える防潮堤と
水門が守った。村内での死者数はゼロ(3日現在)。計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長が
「15メートル以上」と譲らなかった。
「これがなかったら、みんなの命もなかった」。太田名部おおたなべ漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は
高さ15・5メートル、全長155メートルの太田名部防潮堤を見上げながら話した。 津波が襲った先月11日、
店にいた太田さんは防潮堤に駆け上った。ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが、防潮堤が食い止めて
くれた。堤の上には太田さんら港内で働く約100人が避難したが、足もとがぬれることもなかった。
村は、昆布やワカメの養殖が主な産業の漁村で、人口約3000人は県内の自治体で最も少ない。海に近く
狭あいな普代、太田名部両地区に約1500人が暮らし、残る村人は高台で生活している。普代地区でも
高さ15・5メートル、全長205メートルの普代水門が津波をはね返した。
防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ、水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。既に一部が完成し
60年にチリ地震津波を防ぎ、「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市田老地区の防潮堤(高さ10メートル)を
大きく上回る計画は当初、批判を浴びた。
村は1896年の明治三陸津波、1933年の昭和三陸津波で439人の犠牲者を出した。当時の和村幸得村長(故人)が
「15メートル以上」を主張した。「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだという。
今回の津波で、宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ、数百人の死者・不明者を出した。岩手県全体で
死者・行方不明者は8000人を超えた。普代村も防潮堤の外にある6か所の漁港は壊滅状態となり、船の様子を
見に行った男性1人が行方不明になっている。深渡宏村長(70)は「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った。
まず村の完全復旧を急ぎ、沿岸に救いの手を伸ばす」と語った。
画像
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20110403-187719-1-L.jpg ソース
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110403-OYT1T00599.htm