【朝日新聞】「報道や取材の自由」…田原総一朗氏の拉致被害者に対しての舌禍裁判、高裁の取材テープ提出命令はきわめて乱暴

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 報道や取材の自由を考えるうえで見過ごせない裁判が、大阪高裁で審理されている。
「朝まで生テレビ!」の田原総一朗氏に対し、神戸地裁が10月、取材内容の録音テープを訴訟の証拠として
提出するよう命じた。不服とする田原氏が即時抗告したのだ。

 番組で氏は、北朝鮮拉致被害者の有本恵子さんらについて「外務省も生きていないことは分かっている」と
発言した。これを受け、恵子さんの両親が損害賠償を求めて提訴した。田原氏も両親の気持ちを傷つけたことを
謝罪した。だが、発言は取材に基づく自らの見解だなどと争っている。訴訟手続き上、まずテープ提出の
当否に決着をつけることになった。やましい点がないのなら、堂々と取材の中身を明らかにすればいい。
そう思う人もいるかもしれない。しかしそれは重大な問題を引き起こす。

 報道にあたっては、その元となる発言をしたり資料を提供したりした人の氏名や立場を示すのが基本だ。
一方で「情報源を明らかにしない」「取材内容は参考にとどめる」「公にする時は相談する」といった約束を
交わすこともある。ほかに方法がなく、奥深い報道に必要と判断した場合だ。

 田原氏の取材も同様だった。ところが訴訟になり、発言の根拠を説明する必要が生じた。やむなく外務省幹部の
取材テープから関連部分を書き起こし提出したところ、地裁は「文書を出したのだからテープを出すのも一緒だ」と
全面公開を命じた。きわめて乱暴な理屈である。

 テープには拉致問題以外の取材内容も含まれているというし、全体のやり取りや声から取材相手が分かってしまう
可能性は高い。そうなれば、その人物が苦境に立たされるのはもちろん、取材活動一般に対する不信や取材に
応じることへのためらいが、世の中に広がる事態も十分考えられる。

 取材の自由とは取材者のためにあるのではない。取材と報道によって必要な情報が社会で共有される。
それは、人々がものを考える際の材料になり、民主主義の発展に役立つ。最高裁がこれまでの裁判で、取材の自由は
十分尊重されねばならないと述べ、取材源の秘密には重要な社会的価値があると判断してきたのはそのためだ。
>>2以降に続く

ソース:朝日新聞
http://www.asahi.com/paper/editorial20101204.html#Edit2