【政治】 民主党は「民の主人」になったか 民主党政権を批判・非難する者は、軍や警察によって鎮圧する 政権を批判する発言は許さず

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1影の軍団ρ ★
■民主党は「民の主人」になったか
◆語るに落ちた仙谷官房長官

「暴力装置でもある自衛隊」と仙谷由人官房長官が18日の参院予算委員会において発言した。
「国家の暴力装置」というこの言葉、四十数年前の大学紛争のころ、
全共闘系学生集団いわゆる新左翼が警察、特に機動隊を指していつも使っていた。

この発言により、仙谷某が新左翼思想の持ち主であることを自ら示した。
こういうのを「語るに落ちる」と言う。

当時、新左翼は本気で、かつ無邪気に暴力革命によって政権を手に入れようとした。
だから、敵対者となる警察や自衛隊を、彼らにとって「国家の暴力装置」と位置付けたのは当然であった。

しかし、もし自分たちが社会主義革命に成功して政権を得たとしたならば、今度は立場を替えて、
警察・自衛隊を自分たちを守る暴力装置として使い、政権を批判する自由な発言を許さず、
弾圧するわけである。その前例こそ、旧ソ連のスターリン政権であり、中国の毛沢東政権であった。

仙谷発言は決して一時的な不用意発言ではなく、本音なのである。すなわち、
〈民主党政権を批判・非難する者は、軍や警察によって鎮圧する〉という心底を洩らしたまでである。

事実、北沢俊美防衛相は、民主党政権を批判した民間人挨拶をきっかけに、防衛省幹部を集めた会議を開き、
施設内における政権批判を許さぬと決定をし、次官通達として公的化したのである。

それならば、あえて言おう。その事件が起こった埼玉県の航空自衛隊基地の近くに、
人事院の公務員研修所がある。そこの講師として、この10年近く、毎年1回、私は出講してきた。
対象は中央省庁の課長級であり、まさに、我(わ)が国を背負って立つ人材群である。
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/101122/stt1011220345002-n1.htm
>>2以降へ続く
2影の軍団ρ ★:2010/11/22(月) 09:44:15 ID:???0
その講義の際、私は自民党であれ民主党であれ、批判すべきものは批判した。

のみならず、選挙による議員という民選政治家と、国家試験合格による官僚という“国選政治家”とは、
上下の関係ではなくて対等の関係であると論じてきた。これは私の持論であり、
議員らによる政治主導なるものへの真っ向からの批判である。それを公務員研修所という
公的施設内で毎年、論じてきたのである。

そういう私をどうするのか。北沢流ならば、来年度の講師依頼をしてはならぬと人事院に対して、
内閣は圧力をかけるべきである。さらには、官公庁の施設内においては、表現・思想の自由は許さぬという
次官通達を全省庁において発すべきである。また、それと連動して、全国官公庁にある膨大な数の掲示板に
貼(は)り出されている、労働組合の極めて政治的な諸反対声明文も許してはならない。

そもそも民主党は民主主義を誤解している。欧米の思想である民主主義は、
自立した個人を前提にした〈民が主〉人ということだ。民は、それを選挙という方法によって表現する。

しかし、東北アジアでは、自立した個人という思想・実践はなかなか根付かない。
そのため、投票という手段だけがクローズアップされる。

個人主義という前提は問わず、形式・手段だけが目的化され、投票数の多さを競うのみとなる。
故田中角栄氏やその流れの小沢一郎氏らがその典型だ。

だから、選挙が終わると、民はお払い箱となり、単なる愚昧(ぐまい)な存在としか見なさない。
民主党がそれであり、民が民主党を批判することなどもっての外で許さない。新左翼も、もし政権を握っていれば、
そうなっていたであろう。つまり、〈民が主〉人ではなく、己れが〈民の主〉人と化す。
これが、左翼的民主党の民主主義理解であり、大誤解なのである。

東北アジアでは、もともと「民主」という語は「民の主」すなわち君主のこと。また、明治維新前後、
選挙で政権担当者が交代するデモクラシーという語の中身がよく分からず、「下克上」とも訳した。
自立する個人という生き方、そうした文化なき東北アジアにおいて、これは名訳である。