【歴史】江戸時代にもストーカー「縁切り」通告文書展示 群馬

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1帰社倶楽部φ ★
別れた後も元恋人などに付きまとわれる「ストーカー被害」は、昔からあった。群馬県太田市徳川町の
縁切寺満徳寺資料館で展示している「執心切れ一札」と呼ばれる文書は、男女の別れの難しさを物語っている。

展示史料は、「執心がましき儀御座なく候」という関係解消を明言する文言を含む男女の念書で、
江戸時代後期の天保年間(1830〜44)から明治32(1899)年までの東毛地域を中心とした25点。
相互に交わした文書のほか、片方から一方的に出されたものもある。慰謝料の支払いが明記された文書も
複数あり、後難を避けたい方が払ったと見られる。
交際していた2人の個人名だけが署名された文書がある一方、家族のほか、町役人や若衆組といった
公的立場の人が「世話人」として名を連ねたケースも多い。

高木侃(ただし)館長は「離婚は社会的に公示され、周知されるが、未婚の場合はそうはいかない。
公的な文書を交わすことで、交際相手から後日被害を受けることを未然に防ごうとしたとみられる」と話している。

展示は11月7日まで。月曜休館(10月11日は開館、12日休館)。入園料200円、小中学生無料。
10月3日午後2時からは満徳寺復元本堂で高木館長の講演会、同17日午後2時からは資料館で展示の
解説会がある。問い合わせは資料館へ。

[朝日新聞]2010年9月30日20時22分
http://www.asahi.com/national/update/0930/TKY201009300421.html
江戸時代に書かれた執心切れ文書。慰謝料の金額が明示されている
http://www.asahicom.jp/national/update/0930/images/TKY201009300418.jpg
2名無しさん@十一周年:2010/09/30(木) 21:24:14 ID:tSIvrgko0
源氏山から北鎌倉へあの日と同じ道程で辿りついたのは
3名無しさん@十一周年:2010/09/30(木) 21:50:08 ID:WfFTy3K40
基本行動は変わる訳ない
原始人だって、恋愛感情、l親が子を思う気持ち
これらはDNAに不揮発性ROMとして残っているもの
1000年2千年で変化するもんじゃない。
4名無しさん@十一周年:2010/09/30(木) 21:53:21 ID:xxyeZ6en0
>>1
やけに紙が真新しく見えるな
5名無しさん@十一周年:2010/09/30(木) 21:59:22 ID:SWLob59p0

江戸時代のストーカー:てやんでぇ、こんな紙切れ一枚で
6名無しさん@十一周年:2010/09/30(木) 22:18:36 ID:sxJeQJRO0
いつの世も変わらずということか。
7名無しさん@十一周年:2010/09/30(木) 23:03:47 ID:oFps9GbQ0
江戸と言っても、19世紀後半だったら、ついこの間じゃん。
写真やら蒸気船やらがすでにできてた頃だぜ?
8名無しさん@十一周年:2010/10/01(金) 01:27:01 ID:ZDr4h3eu0
三こすり半ってやつか
9名無しさん@十一周年:2010/10/01(金) 02:06:41 ID:xFR5j0jn0
徳川氏発祥(自称)の地か
10名無しさん@十一周年:2010/10/01(金) 16:57:37 ID:CKkGGIV+0
いつの時代も男女の問題って変わらんってことだな。
コートに裸とか、下着泥してスーハーなんてのも
きっといたに違いない。
11名無しさん@十一周年:2010/10/02(土) 20:34:26 ID:dsOfybtNO
江戸時代にコートはないだろコートは
12名無しさん@十一周年
>>10
腰巻が盗まれることはあったらしい。