・イギリスの政治思想家アイザイア・バーリンは、政治家と歴史家には現実感覚が必要な点で
共通した側面もあると述べた。また、政治家には庭師や料理人と同じく即興の才能も欠かせない。
こうした点から見れば、気勢が上がらない自民党でも気を吐く議員の一人として、小泉進次郎氏の
名を挙げても大方の異議はあるまい。
彼の魅力は、政治を“家業”として世襲する血筋に生まれながら、ひ弱さや尊大さのいずれも
感じられず、真っ直ぐな“叩き上げ”の雰囲気を醸し出している点にある。甘い容貌はともかく、
今ではすっかり死語となった党人派のような雰囲気さえどこか漂わせているのだ。
昨今では、育ちが良くても、たくましさを身につけた政治家はめったにいない。幕末でも毛並みは
よくても、ここ一番でふんばりがきかず、判断ミスを重ねた“ジュニア”もいた。
金沢103万石の前田慶寧は、最大の雄藩リーダーとして改革への抱負をもちながら、失意の
うちに世を去った大名である。恐竜化して身動きのとれない大藩に生まれたのも運というものであった。
母は11代将軍・家斉の寵愛を受けた美代(専行院)が生んだ溶姫であり、徳川将軍の外孫という
抜群の血筋に恵まれていた。それでいながら、世子のころから勤王派の側近に囲まれ、長州びいき
だったらしい。育ちようでは随分と面白い大名になったはずである。
◆絶好機に京を離れる愚
絶好のタイミングは、元治元(1864)年に藩主・斉泰の名代として御所警固のために上洛したときに
訪れた。彼は長州藩宥免のために斡旋する豪胆さをもっていたが、禁門の変が起こると、長州藩と
干戈を交えるのを潔しとせず、京を離れてしまった。
この判断こそ加賀藩の行方を暗くする誤った判断となった。薩摩や会津とは同盟ならずとも、
不即不離の関係を維持しながら、103万石大藩の存在感を誇示しておけばよかったのだ。
そうすれば、いかようにも道を後につなげることができたのである。京に近い加賀の地理的優位性は、
薩長に勝っており、強力な武備を再編して、佐賀藩レベルの脅威を薩長に与えられたのに
もったいなかった。(
>>2-10につづく)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100520/acd1005200811002-n1.htm