〜たい、っていうのは九州の方言だが
722 :
名無しさん@十周年:2010/03/09(火) 17:27:50 ID:FO/tiynD0
邪馬台国栃木県宇都宮市川田町864-1番地説
723 :
名無しさん@十周年:2010/03/09(火) 18:25:33 ID:YSwMBtJt0
>>718 >当たり前田のクラッカーであり、常識なんだよ
ジョークも常識も古すぎw
724 :
名無しさん@十周年:2010/03/09(火) 19:29:04 ID:d+Pz9k4N0
725 :
名無しさん@十周年:2010/03/09(火) 19:56:41 ID:5IHM1Mj40
邪馬台国愛知県岡崎市岩津町東山43-1説
726 :
名無しさん@十周年:2010/03/09(火) 20:00:04 ID:Qg0f9v6C0
修羅の国四国説
邪馬台国釜山説
728 :
名無しさん@十周年:2010/03/09(火) 20:03:26 ID:nN6dgP3kO
邪馬台国韓国説
なんかここ見てたらこのころの歴史に興味出てきた。
昨日太平洋戦争関係のスレ見てその頃の本買ってきたばっかなのにw
ちょっと後悔。
だから邪馬台国は岩手でキリストの墓は青森で義経がチンギスハンなんだって
つか近江だって言ってるやつ誰もいないなw
>>716 天武天皇以前の遺跡から大量に出土する銅鏡は太陽信仰とは無関係ということ?
ちょっと考えにくいと思うのだが
732 :
名無しさん@十周年:2010/03/09(火) 21:01:41 ID:d+Pz9k4N0
つか天武天皇のときに太陽信仰は滅んだんだよ
733 :
名無しさん@十周年:2010/03/09(火) 21:02:11 ID:GUTD8E4D0
近江の起源は韓国w
734 :
名無しさん@十周年:2010/03/09(火) 21:03:55 ID:nGbREL6Y0
邪馬台国は普天間に移転しました
黒沢さんと一緒に踊ったのか
736 :
名無しさん@十周年:2010/03/09(火) 21:12:32 ID:TADPl/I80
間違えて東亜板に来た? w
>>711-716とかいろいろ
アマテラスが伊勢の神だったように、イザナギ・イザナミも淡路の神で、
その原型は東南アジアの諸神話と同様に、最初に不具の子(ヒルコ)を生んだ
あとに、日月二神を生むんだよな。記紀でその日神をアマテラスにしたというのは、
まあ、「あ、ちょうどいいからくっつけよ」以上のもんじゃない気がする。
それが成立した時期というのは
>>716の言うように天武の頃かも知れないし、
河内王朝、継体期には今の形が定まっていた、という人もいるよね。
ちなみに朝鮮の歴史書「海東諸国記」には、祟神天皇期に初めてアマテラスを
祀ったと書いてある。これは14世紀の成立だけど、その元ネタが知りたいところ。
>>731 というか、鏡はたしかに太陽っぽいけど、日神信仰との関係ってのも、
なんだかよくわからんよな。そんじゃ鉾やら鐸やらは何なんじゃい、
ということになるしw
738 :
名無しさん@十周年:2010/03/09(火) 21:46:26 ID:nGsbVD4r0 BE:1786878465-2BP(1500)
┌─────┐
│ 邪馬台国 │ 田んぼ
└─────┘
━━━━━━━━国道━━━━━━━━━
┌───┐
│市役所│
└───┘
┌───┐
│平和堂│
└───┘
┌───┐
======.│ JR駅 .│========
└───┘
∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴
∴∴∴∴公園∴∴∴∴
〜〜〜〜〜〜〜〜 びわ湖 〜〜〜〜〜〜〜
739 :
名無しさん@十周年:2010/03/09(火) 22:19:30 ID:tFBr99KF0
卑弥呼はヒ一族で
肥前肥後の肥国の支配階級と関係がある
間違いない!
銅剣・銅戈は普通に戦いの神じゃない?
銅鐸はよくわからんけど
剣・鏡・勾玉の三種の神器を宝物としていたのは天皇家だけではない
九州から一部中国地方の豪族の間では割と一般的なものであった
勾玉は縄文時代から続く日本固有の文化としても、剣および鏡は大陸由来のもの
弥生時代の遺跡のものはほとんどが九州・中国地方から出土している
畿内で出土する銅鏡は魏鏡の様式ではない
天皇家は九州から渡ってきたものと考えるのが妥当
そして畿内に勢力が拡大するに至って、銅鐸文化が駆逐されたのではないかと思う
邪馬台国が畿内にあった可能性は皆無とまでは言わない
しかし畿内派の主張はあまりにも乱暴なものが多すぎる
邪馬台国の道程が途中で方角や距離の単位が変わっていたり
大陸で例のない銅鏡を倭国専用に大陸で作らせたとか
遺跡の年代を調べ直したら、たまたま都合よく邪馬台国・卑弥呼時代にピンポイントで合致したり
この手の恣意的な解釈が非常に多い
わからないものはわからないとして、純粋に調査・研究を重ねていくべきであって
その上で現在の調査で可能性が高いものを定説とすべきものであるのだが
現状ではとてもそういう状況にあるとは言い難いのが残念なところ
いきおい、カウンターバランスとして九州説を支持せざるを得なくなる
743 :
名無しさん@十周年:2010/03/10(水) 07:23:17 ID:AByT/My70
>>742 九州説を支持するのはいいが
>>741 >天皇家は九州から渡ってきたものと考えるのが妥当
>そして畿内に勢力が拡大するに至って、銅鐸文化が駆逐されたのではないかと思う
もし、東遷説を考えてるなら、マンガの読みすぎ。
>>517 普通に考えてそうでしょうね。
伊都国、奴国、不弥国などの大きさから考えれば
30国の範囲はそう広くはないでしょう。
しかも南の狗奴国との争いに手を焼き魏に泣きついているわけですから
私の地元(大阪府某所)一帯の遺跡がそんな弱小連合国家のものだとはとうてい思えません。
畿内を中心に西日本一帯に勢力を誇る連合国家が南の一国に手を焼く姿は想像しがたいものです。
邪馬台国は九州の小国家連合にすぎず、卑弥呼も九州くんだりの一首長にすぎないでしょう。
745 :
名無しさん@十周年:2010/03/10(水) 07:57:16 ID:TpiqX8G30
>>742 >いきおいカウンターバランスとして九州説を支持せざるを得なくなる
九州論者乙。畿内九州の二元論をまず捨てろやな。
邪馬台国は倭国大乱で決着が付かず、有力国たちに担ぎ上げられた傀儡政権。
邪馬台国=最大の国って前提がおかしい。有力国の首長たちが秩序を回復させるために
自分より強い国に全権を預ける訳がないだろ。卑弥呼個人にカリスマがあったとしても
邪馬台国自体は弱小国に過ぎない。
それが証拠に、卑弥呼が死ぬと途端に倭国は再び乱れた。
そもそも倭国大乱は列島全土に渡る争乱ではなく、地域紛争だと思う
でなければ卑弥呼以前にも倭国を統一した男王が存在したことになってしまう
それだけ集中した権力があれば熊襲が大和王権の時代まで服従せずにいられるとも考えにくい
倭国大乱の後にその男王を継いだ卑弥呼もまたおそらくは有力な地方豪族の長のひとりに過ぎない
だから邪馬台国は傀儡政権ですらなく、ただの有力な一国でしかないと考えている
単に地理的な条件で朝貢が可能だったので魏志倭人伝に記録が残っただけでは
747 :
名無しさん@十周年:2010/03/10(水) 08:59:53 ID:UEuMGfG40
>>737 例の三種の神器も天武天皇ころに勾玉が正式に加わって、
皇位継承のシンボルになったという話だな。
748 :
名無しさん@十周年:2010/03/10(水) 09:34:03 ID:h5EkBchV0
>>517 >で、結局、邪馬台国連合は滅亡した。
>その後の大和朝廷と連続してないことは、
>邪馬台国のあと、150年間も日本から
>使者が来た記録がないことでも明らか。
倭の五王から遣隋使まで100年使者が来た記録がないが
その間にまた別の国が出来たとでも言うのか?w
749 :
名無しさん@十周年:2010/03/10(水) 09:47:11 ID:7w07Vzl80
>>517 邪馬台国以前も使者が来た記録が無いよね?
これは遣隋使以前は半島経由の陸路で使者が往復してたから半島情勢に左右されるって証明なんだよね。
邪馬台国以前は半島が公孫氏に支配されてて使者がそこで止められてた。
魏が公孫氏を滅ぼしたと同時に邪馬台国の使者が魏の記録に登場してる。
そして倭の五王の時には任那を支配し半島を勢力圏下に置いたので自由に使者を送る事ができたがその後は高句麗や新羅との抗争で陸路の往復が難しくなった。
統一国家が無かったという支那の情勢も影響してるしね。
やっと隋という統一国家が誕生して支那の情勢も安定した頃に海路を使って派遣されたのが遣隋使なわけ。
150年の空白はむしろ日本側の都合ではなく支那朝鮮の情勢不安定が原因なのさ。
750 :
名無しさん@十周年:2010/03/10(水) 09:58:39 ID:72j0z6ZC0
卑弥呼の墓って仁徳天皇陵にあるって聞いたんだけどほんま?
邪馬台国の起源は韓国ニダ!
753 :
名無しさん@十周年:2010/03/10(水) 12:48:23 ID:g/sbqY9I0
何をいまさら
邪馬台国(女王国)=纒向で
ほぼ確定してるだろ
755 :
名無しさん@十周年:2010/03/10(水) 12:52:00 ID:GIdaA1550
特定の時代の建物跡だけが残ってるってことは
何かしらの理由で滅んだってこと?
珍説を自費出版ww
しがない県の癖に調子乗りすぎだろ
>>748 そりゃむしろ中国の政治情勢の影響じゃないか
倭の五王はずっと南朝に朝貢してたわけだけど
最後の進号記録が残ってる南朝最盛期を築いた梁の武帝が晩年
侯景の乱で餓死してから南朝は政治的混迷が続き北朝からの軍事圧力が強まってたきた
梁の次の陳王朝なんか長江下流域をかろうじて維持してただけだから
北朝系の隋が統一するまで使者を送る必要性を感じなかったのだろう
759 :
名無しさん@十周年:2010/03/10(水) 14:40:26 ID:qnVkSeUC0
もう日本国内ならどこでもいいですw
760 :
名無しさん@十周年:2010/03/10(水) 14:48:13 ID:3JBXY1820
つーか
こんなの卑弥呼の子孫に確認すればわかる話だろ
>>753 邪馬台国が半島経由で魏と通じていた同時期に
狗奴国が半島経由でさらに魏を通過して呉と通じるのは難しいんじゃないか?
もし呉と通じるのであれば琉球経由となる可能性が高い気がする
九州の北と南からそれぞれに通じていた形じゃないかな?
あるいは魏から生口として呉の職人が半島経由で連れてこられたか
三角縁神獣鏡は魏の年号が入っていたり呉の年号が入っていたりでよくわからない状態
いずれにしても日本固有の出土品なので邪馬台国の所在地を証明するものとしては根拠が弱いものだとは思う
>>761 三角縁神獣鏡の製造地がどこであれ一世紀ほど後の畿内の被葬者が
かつて魏との交渉があったことを意識していたことは間違いない
763 :
名無しさん@十周年:2010/03/10(水) 16:04:27 ID:TpiqX8G30
>>746 倭国大乱は近畿から中国、九州の話。
この辺りの有力な国々の争い。
>>758 倭の五王がずっと中国に接近してたわけじゃない。
中国からいろんなノウハウを入れて試行錯誤した結果、
「別に中国いらなくね?」ってなって自ら距離を置きだしてる。
764 :
名無しさん@十周年:2010/03/10(水) 23:08:33 ID:XP3pTABj0
自費出版じゃないほうの本、読んでみたらかなりまともだった
>>764 ほほう、俺も読んでみよう。
「水行十日陸行一月」ってのは、「琵琶湖を行けば10日だけど、
岸を歩いたら1ヶ月よ」ってことかしらん。
琵琶湖程度じゃ10日はかからないし
瀬戸内まわりは10日では厳しい
>>766 ホメロスの「オデュッセイア」とか読んだら、エーゲ海周辺を
ちまちま回るだけで10年とかかかってるじゃん。そこはそれ、
物語ってのはそういうもんなのだ。
というか、するってーとおまいは、四国徳島論者か?
あそこなら、大分から渡って水行十日+陸行一月どんぴしゃだ。
は?
( ‘д‘)y-~~<滋賀はとっとと関西から出て行け
770 :
名無しさん@十周年:
水行十日陸行一月畿内に
あったことは間違いない