【皇室】 皇后陛下、テニス杉山愛選手の試合を観戦される・・・有明コロシアム
母・正田富美子さんが本誌の語った衝撃の回想録@
「私たちとしては思ってもいなかったことで、どなたにもご相談申し上げることもできない問題で
ございました。
それだけに、本気で考えねばならなくなった後は、ほかの子供たちにもよく話して、じっくり
話し合いました。ですから、ただいまは、まったく悔いのない気持ちでございます」
美智子さまの母・正田富美子さんがそんな胸中を話していたのは昭和34年の晴れのご成婚(4月
10日)の直後だった。
「(娘は)皇族に差し上げたもので、もう正田のものではございません」
そういって、母と娘の越えてしまった一線を、距離をおいて見守り続けてきた富美子さん。
そこにはいつも、毅然とした明治生まれの気丈な母の姿があった。
だが、5年前、本誌の取材に"あの日"からを振り返る富美子さんの話しぶりはかなり様子が違っていた。
「それは妃殿下は本当にお幸せでいらっしゃると思います。皇太子殿下にはお優しくしていただき、
また、いろいろな方々から、いつも助けられておいででしょうし……。
でも、私にとっては大変な歳月でした。あのときから、私の人生はガラッと変わってしまいましたー」
昭和60年3月4日のことだった。
その日の午後、本誌は東京・品田区東五反田のご自宅で富美子さんにお目にかかった。天皇陛下と
美智子さまのご結婚記念日に合わせた特集記事に、富美子さんの時々の思いを寄稿していただこうと、
お願いに伺ったものだった。
結果からいえば、この依頼は受けていただけなかった。けれども富美子さんは、
「私たちのこれまでを、少しでも理解していただける参考になれば……」
と、約2時間、胸の内をお話しくださった。
母・正田富美子さんが本誌の語った衝撃の回想録A
「そう、いつの日からだったでしょうか。朝、起きて窓を開けると、庭の塀の外からもうカメラマンが
カメラを構えているんです。ええ、四六時中です。私はあのときから、カメラが大嫌いになりました」
正田邸の玄関を入ってすぐ右にある応接室。富美子さんはソファに腰かけながらも、ピンと背筋を
伸ばしてこう続けた。
「私は、もともと大がつくくらいにカメラが好きでした。子供たちのスナップを撮ってきたのも昔から
私でしたし、8ミリだって撮影機が出たばかりのものをすぐに買って、私が撮っていたんです。性分なん
ですよ。子供たちにきちっとしたものを残してやりたかったんです。
でも、それがカメラに追われる立場になると、もういやでいやで、見るのもいやになってしまいました。
漠然とですが、2人の息子と、2人の娘が成長して孫が生まれたら、8ミリを回すようなおばあちゃんで
いたいと思っていました。でも、私はあの日からカメラを捨ててしまったんです」
細い身体、すっかり白くなった髪。ときおり見せる笑顔と白い歯ののぞく口元に気品が漂う。だが、
口調は意外なほどに早口だった。
「私の描いていた老後の楽しみも、ある意味では奪われてしまいました。
たいしたことじゃないけど、私は焼き物(陶芸)が好きだったんです。美智子も焼き物は好きでした。
だから、いつの日か"焼き物を教えて"っていわれるようなおばあちゃんになりたかったんです。
こういうことは理屈じゃないんです。できないこととはわかっていても、年をとるにつれて自分の夢
だったことへの思いが強くなって……。
もし、美智子のことがなかったら、私はいまも趣味の中にカメラと焼き物があったと思うわ。ふたつ
ばかり楽しみを奪われたということかしら」
応接室の暖炉の上には高さ3センチほどの小さなお雛さまが飾られていた。お雛と、め雛に背を向けて
座る富美子さん。
「最奥の縁組と、最適の縁組とは違うんですよ」
と、富美子さんはポツリとつぶやいた。
「いろいろなことで苦しみました。ひどいこともされました。どうして、私たちが……と、あのころは
そう思い続ける毎日でした」
富美子さんがはじめて視線をそらした。
母・正田富美子さんが本誌の語った衝撃の回想録B
"ひどいこと"と富美子さんがいうのはどんな出来事だったのだろう。
「それはお話してくありません。ごめんなさい。その当時の日記だって、もう読み返したくないんです……」
富美子さんはずっと以前から日記をつけてきたという。長男の巌さん(現・日本銀行監事)が生まれ、
また、美智子さまが成長されていく過程では、それは育児の記録でもあったそうだ。
「いまもちゃんと残してありますよ。ええ、あのころのものでもね。そんな話をどこからかお聞きになって、
私の体験したことを本にしないかという依頼は何回もありました。でも、それはごめんだわ。あんなにつらい
思いは絶対に人さまに知っていただきたくありません。
でも、もし、私が当時のことをありのままに書きしるしたり、また、話したりしたら……そこに出てくる
人たちはみな、こうおっしゃるでしょうね。"正田のばあさんは気が狂った"とね。それほどのことをされて
きたということかしら……。
日記を公表すれば、少なくとも100人以上の方にご迷惑がかかると思います。そのうち50人近くの方は、
すでにお亡くなりになりました。でも、ご健在な方は、きっと、お困りになるでしょう……」
妙に富美子さんの言葉が乾いて聞こえた。応接室にはしばらくの沈黙が流れた。
「もちろん、いちばんご迷惑がかかるのは皇太子殿下で、そして妃殿下でいらっしゃいます。だから、これまで
のことは私が静かに胸の中にしまっておけばいいことです。美智子も、親子ですから、そういう私の気持ちは
知っていると思います」
愛娘ではあっても、敬語を使い、"妃殿下"とお呼びになる富美子さん。
それが、あの日からの母と娘のけじめかもしれない。だが、何かの拍子にポツリと出る"美智子"という名前。
その呼び方の違いに、母としての複雑な思いが凝縮されていたのかもしれない。
母・正田富美子さんが本誌の語った衝撃の回想録C
ある年、美智子さまは妹の安西恵美子さん(昭和電工常務取締役・安西孝之氏夫人)の自宅でのホームコンサート
にお出かけになった。父・正田英三郎さんも、富美子さんも一緒だったひとときに美智子さまは、「暖炉のそばで、
いつも母と一緒に音楽を聴きたいものですね」と、おっしゃられたという。それは美智子さまと富美子さんのかな
わぬ望みでもあったー。
「私ども、みんなそれぞれに忙しくしておりますでしょう。そのせいか、昔から夕食後は家中がなんとなしに
食堂から居間に移って、冬は暖炉を囲みながら、夏は軽井沢で夜遅くまで話し合う習慣ができておりました。
それで子供たちがいろんな心配事に直面しても、親子でその都度話し合えましたから、母親としては幸せで
ございました」
いまから20年ほど前、富美子さんは母としての自分をそんなふうに語っていたことがある。
ちょうど末っ子の修さん(現・日清製粉社長)が大原泰子さん(元倉敷レーヨン社長・故大原総一郎氏次女)と結婚
したころのこと。2男2女の母が、4人の子供たちを夢中で育て上げ、独立させ、ようやく自分の時間ができたときで
もあった。
「でも、こんなおばあちゃんになっても出かけていく用事はちっとも減らないんですよ……」
そう話していたのは5年前のこと。
本誌の記者に富美子さんはふと、こうつぶやいた。
「でも、忙しくしてるほうがいいのかもしれないと思ったりもいたします。自分の時間があり余って感傷に浸る暇
のないほうが……」
美智子さまを、常に一定の距離をおいて見守り続けてきた富美子さん。そのころへのもどかしさはなかっただろうか。
「いいえ、それはございません。不自由なことが多いんでしょうって、尋ねられる方もありますが、皇太子殿下
には心苦しく思うばかりに、いろいろお気遣いをいただいてまいりました。主人(正田英三郎さん)の還暦のとき
などには、おそろいでこちらまでおいでくださったこともございました。
もちろん、世間の親子のようにはまいりませんこともあります。でも、それ自体は窮屈とは感じません。
それよりも、人さまから私たちに向けられる目や、声のほうが、よっぽどつらかったわ」
富美子さんは、そう唇をかみしめた。
母・正田富美子さんが本誌の語った衝撃の回想録D
"それは、たとえば……"と、尋ねようとしたとき、富美子さんはちょっぴり表情を和らげて、こう続けた。
「私たちの言葉が足らなかったのかもしれませんが、私たちのひと言がずいぶん誤解されたことはありました。
それでも私たちは何をいわれてもいいと思っていました。でも、振り返れば、どうしてと思うぐらいにつらいこと
はありました。
とにかく、あらかじめ話し合っていたことでも約束が違いすぎました。こんな思いで苦しむのはもうたくさんです」
妃殿下の母としての30年近い歳月。
「いまの私のいちばんの願いは、そっとしておいてほしいということかしら……。おばあちゃんは静かに死んでいけば
いいんですよー」
正田富美子さん、75歳のときの言葉だ。
(「週刊女性」昭和63年6月14日号〜7月12日号に連載したものを再構成しました)
『美智子さま愛と激動の32年 民間初の妃殿下から皇后までの全軌跡』