東大・安田講堂に機動隊が突入した1969年。秋田書店「週刊少年チャンピオン」は産声を上げた。
創刊号の部数は21万部。だが、その10年後には250万部を突破、ひとつの伝説を作る。
その最大の功労者が「がきデカ」(74〜80年)の山上たつひこ(61)だ。
「でも、描いていて全然楽しくなかったんですよ」。山上が振り返る。
「がきデカ」以前の山上は、知る人ぞ知る存在だった。貸本時代からSFや怪談マンガを発表していたが、
メジャーな雑誌にはあまり縁がなかった。「マイナーなメディアで自由に描くのが性に合っているんですよ」
依頼を受けた当時、「チャンピオン」は誌面作りにカラーが全く感じられず、「つまらない雑誌」に思えた。
それでも「編集方針が緩く自由に描ける」のが気に入ったという。
「がきデカ」は、山上が大人向け雑誌に描いたギャグマンガ「喜劇新思想体系」(72〜74年)の
いわば焼き直しだ。学生運動は72年の「あさま山荘事件」で終焉(しゅうえん)を迎え、
シラケの時代に入っていた。その中で、「少年警察官」としてハチャメチャの限りを尽くす
「こまわり君」は、権威やモラルの破壊者でもあった。少年誌にしては過激な笑いがかえって受け、
「チャンピオン」の部数も急伸する。
だが、山上は苦悩した。「大衆向けの作品にするほど、ギャグの毒が読み手に伝わりにくくなる。
毒が僕の中に逆流して、自家中毒を起こしてしまった」
いっそ、「サザエさん」のような国民マンガにしようと思ったこともあった。
「でも、絵を描くのが苦手なんであきらめた。絵がうまければ、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』
みたいに、何十年も長期連載できたんだろうけど」
続きます
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