【社会】 麻生首相の親族が経営していた旧麻生鉱業に、外国人捕虜300人…63年前、公文書に記載★4

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189名無しさん@九周年
麻生鉱業の歴史は麻生太吉が1870年代に筑豊で石炭の採掘を始めたことによる。
1910年代後半には麻生系炭鉱での朝鮮人の使用がはじまっている。
朝鮮の植民地化によって、麻生は朝鮮半島での事業をすすめ、1927年に忠清南道の安眠島に林業所を設立し、ここで松木を伐採して炭鉱で利用した。
1930年代には朝鮮で遠東鉱山と宝成鉱山の開発を始めた。

麻生の鉱業経営の拡大によって事故も多発するようになった。1927年から10年間でのガス爆発や火災による大きな事故での死亡者数は120人を超えた。
とくに1936年1月の吉隈での坑内火災では29人、10月の綱分でのガス爆発では39人が死亡した。落盤などの小さな事故による死亡者を加えれば、
この数倍の死者があったであろう。このなかには朝鮮人労働者の死者も多いとみられる。
1932年には賃金を切り下げ、朝鮮人の大量解雇をおこなう。この解雇に対して麻生の朝鮮人が立ち上がり、争議を起こした。
この頃麻生は1000人余の朝鮮人を雇用していた。
これらの麻生系の各炭鉱は新坑の開発を次々にすすめ、生産を拡大していった。中国への全面侵略戦争がはじまると、麻生はさらに各坑での新坑開発をおこない、佐賀の久原、長崎の岳下などの炭鉱の再開発もすすめていった。
このなかで1939年後半には麻生への朝鮮人の強制連行がおこなわれた。
1945年までに麻生系炭鉱へと連行された朝鮮人は1万人を超えた
労働者は監獄部屋・豚小屋ともいわれる納屋に入れられ、地底で一日一六〜七時間も働かされるが、その賃金は1ヶ月20円に達しなかった
(厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」福岡分統計)