【社会】皇室:桂宮さま、敗血症の疑いでご入院 -宮内庁

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323名無しさん@九周年
金吉が小和田系統になりすまし、その金吉のところから2才の毅夫を抱いて実家に逃げて
産婆やって育てた小和田竹野が、系統への融解を完成させた気がする。

小和田匡利道助        //  −金吉  −  毅夫−恒−雅子
 ↑
この人までは家系で下ってこられる  ↑墓不明  ↑2才で金吉と生き別れ

2人扶持の父を持つ匡利道助が13歳の時に、次男・金吉が生まれないとつながらないらしい。
大名家などは早婚だが、庶民(底辺士族含む)はなかなか所帯を持てなかった時代。
小和田一家が拝んでいた小和田匡利の墓は、この匡利道助の個人墓。
雅子さんの祖父・毅夫が昭和になって、村上市から新潟市に移したもの。
移す際に、匡利の妻子の墓は村上に残したまま。祖父の墓を移すとき、先妻(または後妻)のものを
残してくるって考えられない。残してくるなら匡利のも残して、新潟に新たに小和田家の墓を分祀なり
新設なりすればいい。もってくるなら、ひっくるめてもってくるだろう。墓所の土地が狭いなら
(実際、匡利の墓は新潟の寺の隅にあった)、小和田家累代之墓を造ればいい。
また、村上の寺と、新潟の寺は宗が違う。 で、毅夫の父・金吉の墓はない。

結論として、小和田毅夫は、どうしても匡利の墓石が必要だった。小和田という姓でであるために。