【コラム】君が代・日の丸は『侵略戦争のシンボル』と反対する人は、他国を併合し人権弾圧している近隣国にも同じ主張してほしい

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1ぽこたん( ・∀・ )φ ★
国歌を唄えて国旗を掲げる権利と、喜び
http://beijing2008.nikkansports.com/news/column/20080522.html

昨今はさすがに少なくなったが、以前は五輪が近づくと必ずと言っていいほど、こんな記事が新聞紙上に載ったものだ。
「五輪期間中は“にわか愛国者”が増える。普段は国旗に見向きもしない人たちが、日の丸はいくつ上がったか、君が代は何度歌われたかに夢中になる」。
まるで日の丸や君が代に夢中になるのが滑稽なことでもあるかのような、シニカルな文章を目にしたことがある人は少なくないだろう。
「日の丸や君が代に対して、あくまでも批判的なのが進歩的文化人というもの」あるいは「普段は日の丸や君が代に
批判的な進歩的文化人も、五輪の時は童心に返ってしまうもの」といった読者に対する優越感に満ちたニュアンスを
感じるのは私だけではないだろう。仮にそれが私の思い過ごしだとしても、一部メディアで使用される「愛国者」
という単語には、通常は尊敬の対象であるべきカテゴリーの人々に対して、それとは正反対の侮蔑と、ある種の
危険人物であるかのような意味が含まれているように思えてならない。
五輪は、国家を強烈に意識させるイベントでもある。そして、わが国は最も国歌や国旗に敬意を払わない人が多い国の
1つであったのは間違いないだろう。それは60年代から70年代にかけて、新左翼運動が全盛であったことと無縁ではない。
だが、80年代から90年代にかけて、そういったイメージは急激に変わってきた。北京五輪を目前を控え、
日刊スポーツに掲載された記事を見ても、選手の意識が変わりつつあるのは感じられる。例えば以下のような記事だ(いずれも抜粋)。

競泳・中西悠子・・・母校(近大)に贈った色紙に「メーンポールに日の丸を」と書き込んだ。
競泳・北島康介・・・「センターポールに日の丸を揚げます」。
競泳・末永雄太・・・「自分はセンターポールの隣に日の丸を揚げます」。
野球・片岡易之・・・「日の丸を背負ったことがないので、そういうチャンスがあるなら国の代表として頑張りたい」。
野球・サブロー・・・「予選では日の丸を背負うプレッシャーと感動がいかにすごいものかを知ることが出来ました。
もう1度、あの興奮を味わいたいので、シーズンでしっかりとアピールしていきます」。

>>2-30辺りに続く