>>48 大正の末か昭和の初め、蟹工船に乗り込んで北洋漁業に従事していた、
ひうらさんは、突然旧ソ連の警備船艇に拿捕され、乗組員一同、ウラジオストックに連行、抑留されました。
そこでの取り調べは惨たらしいもので、ありもしない犯罪の自白を強要され、
半殺し状態で再び日の目を拝めるかと思った程でした。
次の日、再び鉄格子の中から引き出されました。
いよいよ殺されると半ば覚悟した途端、何故か旧ソ連官憲の態度が
手のひらを返すように豹変し、ロシアンティーまで振る舞われて、にこやかに釈放されるではありませんか。
捜査は打ち切られ、無罪放免となった彼等は施設の外に出ました。
彼等は「ともかく港へ向かおう」とふらつく足を海に向けました。
その瞬間、何故、助かったかが判りました。
(ここからは、本文をそのまま引用します。)
沖には日本海軍の大艦隊が間近く展開し、旗艦たる巡洋艦以下、
各艦砲身を陸に向け、砲門を開き、その強大な攻撃力は毎分幾百幾千發ぞ
陛下の赤子にかすり傷だに負はせなばウラジオストックそのものを消滅させんばかりの
圧倒的武威を以て、ソヴィエト社會主義共和國聯邦を威圧して呉れてゐたのです
旭日の軍艦旗の何と美しく、浮かべる城の何と頼もしかったことでせう
皆、感泣しました
鋼鐵の艦体に頬ずりしたい思ひで‥‥
こうして彼等は無事、日本に帰ることができました。
取るに足らない漁船の、わずかな人数の乗組員の為に、大国相手の戦争も辞さず、
瞬く間に艦隊を繰り出して救出してくれた祖国日本に報いる為、と、その後、ひうらさんは一層仕事に励んだそうです。