【歴史】本能寺の変:信長はなぜこれほど不用心だったのか…考えにくい怨恨説★2 [08/03/03]

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1きのこ記者φ ★
戦国時代の転機となった「本能寺の変」に関して、初めて確認された旧本能寺遺構は、
織田信長の常識ではとらえがたい行動を裏付けることとなった。
あれほど執念深い人物がなぜ、わずかな供だけで無防備な宿舎に入ったのか。謎はますます広がっている。

「この石垣が、信長の時代のものであることは間違いない。それと遺物、とくに瓦の量などから
大きな伽藍(がらん)が焼けた可能性は低いのではないでしょうか」
発掘調査にあたった吉川義彦・関西文化財調査会代表は、こう話す。
遺構の伸び方からみて、堀が巡らされていたのは、境内の東北隅にあたるほぼ40メートル四方。
この場所に、信長の御殿があったことは疑いないという。

規模の小さな御殿で、しかも警護の者は少ない。
圧倒的な兵力(1万3000人)の明智軍を前に、信長はあっけなく自害。
戦いはすぐ決着がつき、伽藍の被害もそれほど大きくなかったということのようだ。
それにしても、信長はなぜこれほど不用心だったのか。
今谷明・国際日本文化研究センター教授は「光秀が叛くとは、考えてもいなかった」とみている。

光秀の謀反の理由については、
(1)領地替えを命じられたり、安土城での家康接待役を免じられたりしたことに対する恨み
(2)佐久間信盛ら重臣が次々、追放されたことに対する焦燥や危機感
(3)足利義昭や近衛前久(さきひさ)ら、旧幕府・朝廷勢力に唆(そそのか)された
−などの説が唱えられている。


ソース(>>2以下に続きます)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080303/acd0803031414006-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080303/acd0803031414006-n2.htm
関連ソース
“信長御殿”簡素だった 「本能寺の変」の舞台で新説
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080303/acd0803031411005-n1.htm
前スレ
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1204547837/