【社会】 「子持ちの慰安婦を生体解剖した」「不正を社会に示さなあかん」…731部隊元隊員が証言★9

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921名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:26:09 ID:FgnNUAnz0
>>916
お前の本音は事実なんてどうでもいい、とにかく日本を貶めれれば目的達成だろww
922名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:28:23 ID:FgnNUAnz0
>>908
史料であって資料じゃないぞ。
923名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:30:31 ID:3UAJXgbP0
陳  述  書      篠塚 良雄 (中帰連)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/220.html

私は、一九二三年一一月、千葉県で生まれました。満一五歳だった
一九三九年の春、その頃私は千葉県下の実業学校に通っていましたが、
石井部隊と呼ばれていた七三一部隊に入ることを勧められ入隊を志願しました。
 七三一部隊は、部隊長の軍医石井四郎が千葉県出身の人で、その地縁血縁で
隊員を集めていたため、千葉県の者が多く参加していました。
私の場合は、学校の先輩に誘われて志願したのです。親には内緒の志願でした。
形式的なものでしたが試験があり、合格して七三一部隊に入隊することが決まりました。

924名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:30:37 ID:Vt4OuFxm0
>>898
認知症の生き証人wwwwwwww
925名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:31:32 ID:4ae7euuK0

へぇ〜〜〜〜医学部のない早稲田大学を出て、解剖してたんだ・・・・wwww
926名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:33:02 ID:3UAJXgbP0
陳  述  書      篠塚 良雄 (中帰連)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/220.html

 一九三九年四月一日、出頭するように指示された東京の陸軍軍医学校の防疫研究室に向かいました。
その場所は当時の牛込区戸山町にあり、その地域には済生会病院、陸軍病院、軍医学校等が一緒に
ありました。
 防疫研究室には軍医学校の通用門から入りました。その入口に入っていく人について入って行った
のですが、奥に進むにつれてだんだん人が少なくなり、防疫研究室は一番奥にありました。
守衛所が別にありました。そこまで到りついたところで足止めをされ、中から人が来て、私たちの
名前を確認してから中に入れてくれました。
 この時、私を含めて三〇名が防疫研究室に集まりました。彼らの年齢は、私の年齢と同じ位でした。
 防疫研究室の本館は鉄筋の二階建てで、事務棟、食堂集会所が別にありました。
近くには、守衛所を出た道路の上の方に、陸軍戸山学校、軍楽隊、さらに体育の学校がありました。
道路の下の方には、練兵場、その先に幼年学校とか騎兵学校、これらが在ったように記憶しております。
 私たちは、軍医学校の傭人として、近くの清源寺という寺の庫裏に寝泊まりしました。
927名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:35:46 ID:3UAJXgbP0
陳  述  書      篠塚 良雄 (中帰連)東京地方裁判所民事第一八部 御 中
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/220.html
 防疫研究室に入って数日後、私は、当時大佐だった石井四郎部隊長と初めて顔を会わせました。
石井部隊長は、軍医学校の教官と防疫研究室の責任者を兼ねていると聞きました。
 最初に聞いた石井四郎の言葉は、今もよく憶えています。
石井は、私たちを見て「この中に顔色の悪い者がいる。身体検査をもう一度びっちりやるように。
寄生虫の検査も忘れないように」と言いました。これは彼についてきた副官に指示した言葉でした。
 石井は、私たちには、「お前たちは石井部隊の少年隊員だ。勉強すれば大学にもいれてやる。
ハルピンはいいところだ。行く時期については後から指示する。とにかく東京見物でもして
旨い物でも食べていろ」というようなことを言いました。
 この時の石井は、あごひげを生やしており、私は、学者タイプで、変わった医者というくらいの
感じしか受けませんでした。
 防疫研究室で私たちは、石井式濾水機の濾過管の検定試験を見学したり、普通寒天培地の作り方を
教わったり、他の部署の人達と共に、中国語を習ったりしました。
私は、部隊長が軍医なので、そう骨の折れる仕事ではないだろうくらいに思っていました。
928名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:36:55 ID:Zl9e8LtV0
日本人は外国人と違って悪いことはしません
929名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:40:15 ID:e2aMgDj80
戦争犯罪人の岸が死刑にならなかったのは
731部隊関係の資料をアメリカに差し出した
からだと噂されてます、
930名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:40:42 ID:3UAJXgbP0
陳  述  書      篠塚 良雄 (中帰連)東京地方裁判所民事第一八部 御 中
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/220.html
二、七三一部隊の少年隊として入隊(一九三九年五月)
1、秘密部隊だった七三一部隊
 一ヶ月余りその防疫研究室で教育を受けた後、一人は防疫研究室に残ることになり、その他の
二九人がハルビン郊外の平房の七三一部隊本部に赴任することになりました。私たちは、関釜連絡船で
釜山に渡り、朝鮮半島を汽車で北上して一九三九年五月一二日、中国東北地区のハルピン市に
到着しました。
 ハルピンに着いて平房に向かう前に、ハルピン市内の七三一部隊の吉林街分室に寄りました。
そこで顔写真の貼ってある身分証明書が渡され、私たちは七三一部隊の少年隊員として入隊することになりました。
 その日のうちに私たちを迎えに来た内務班班長の軍曹に連れられて、車でハルピンから約二〇キロ
メートル離れた平房の七三一部隊本部に着きました。平房の部隊本部までは見渡す限りの平原でした。
そこはかつて農家があり耕地だったのでしょう、破壊された家屋の残骸が点在していたことを覚えています。
 平房の七三一部隊本部についてまず目に入ったのは、入口にある「関東軍司令官の許可なき者は何人と
雖も立ち入りを禁ず」という立札でした。しかし、部隊名を記した看板はありませんでした。
931名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:41:40 ID:4ae7euuK0
矢追純一がテレビに出なくなったのは
UFO関係の資料をアメリカに差し出さなかった
からだと噂されてます、
932名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:42:36 ID:e2aMgDj80
>>391
ヤおいさんは
末期がんです。
933名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:43:32 ID:3UAJXgbP0
陳  述  書      篠塚 良雄 (中帰連)東京地方裁判所民事第一八部 御 中
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/220.html

 まず部隊配属の憲兵によって軍機保護法と陸軍刑法の教育が行われました。
 今でも記憶に残っているのは、「ここは特別軍事地域に指定されている。」「日本軍の飛行機も
この上空は飛ぶことはできない。」「見るな、聞くな、言うな、これがこの部隊の鉄則だ」という教えです。
 また、「保機隊がある。許可があるまでロ号棟の屋上には上がるな。」「ここから逃げ出せば、
『敵前逃亡』と同じように処刑されるぞ」と言い聞かされました。
 部隊長の石井四郎が軍医ですから、部隊には大学から来たと思われる医学者らしい者もかなりおりました。
下士官は衛生兵なのに、これほど厳重にしなければならない秘密はなんだろうと、私は不思議に思いました。
しかし、当時の私は秘密があればあるほど、やりがいがあると思いました。
 その後、少年隊として仕事を続けていくうちに、やがて私は、七三一部隊が実は細菌戦部隊であって、
細菌兵器を開発、製造するために細菌の大量生産や人体実験を行っていることを知るようになりましたが、
入隊した当時は全く知る由もありませんでした。
934名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:44:47 ID:e2aMgDj80
戦争犯罪人の岸が死刑にならなかったのは
731部隊関係の資料をアメリカに差し出した
からだと噂されてます、
935名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:48:16 ID:2xVQcmhtO
まだやっとるんか?

証拠も無いのに、どうやって裁判をするんですかね?
936名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:50:29 ID:4ae7euuK0
>>935

そこで、VAWW−NETジャパン
937名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:50:40 ID:e2aMgDj80
岸信介が満州国国務院実業部総務司長に就任した1936年(昭和11年)に軍馬や家畜に対する細菌兵器の開発を担当しており、
人体実験も行っていた「軍獣防疫廠」が満州に設立されたのであった。

満州での人体実験や細菌兵器の開発は当時の総務司長であった岸信介の許可なしには行われなかったのであり、
七三一部隊を率いていた石井四郎の背後で岸信介が実権を握っていた感がある。

岸信介こそがアメリカに日本軍の人体実験および生体解剖によるデータを売り渡したと噂される
938名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:51:12 ID:aofPkx5Q0

おいおい、いくら工作員から金貰ったからって国を売るなよ
939名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:51:36 ID:17Kz1ksX0
とんでもねぇ爺だ。
中国民衆の中にほうりこめ
940名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:52:50 ID:3UAJXgbP0
>>934
それは別の筋だろ
いわゆる「児玉資金」と戦後の日本支配の「傀儡」としての「自民」
731関連はいわゆる「鎌倉会議」@亀井貫一郎

亀井貫一郎にかんしては「聖戦技術協会」に興味を惹かれるがネットでは
情報不足なんだよな。
左出身の「ファシスト」かなあ?
941名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:53:38 ID:qO9zvIDs0

自称だけど(w)、日本一の発行部数を誇る全国紙が、、、、

事実確認もできない証言を垂れ流すとは、、、、。


まっ、年寄りの売名行為か、耄碌の結果だろう www。

942名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:54:35 ID:UOCZ52LX0
おう、このスレまだ残ってたか
943名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:54:47 ID:D/Hk71CWO
俺も子持ちのお腹をかっさばいて中のモノをおいしく頂いた事があるよ

イクラウマー
944名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:54:48 ID:4ae7euuK0
>>941
>>自称だけど(w)、日本一の発行部数を誇る全国紙が、、、、

厨房はこれだからwww
945名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:56:03 ID:3UAJXgbP0
陳  述  書      篠塚 良雄 (中帰連)東京地方裁判所民事第一八部 御 中
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/220.html
2、平房の施設の概要や少年隊として受けた教育など
 少年隊員として平房の部隊本部に着いた頃は、施設は、一棟、二棟、ロ号棟というロの字の形をした
建物、動物班、航空班ができていました。宿舎は建設中でした。
 私たちは、最初、一棟一階の左奥の当時の診療班用の部屋に内務班を設けました。七三一部隊には、
私たちはが来る前にもう一つの少年隊が存在していました。彼らは前期少年隊と呼ばれ、一棟一階の
右奥の部屋にいました。私たちが平房に着いた頃、前期少年隊ではチフスが発生し隔離されている
ようでした。他方、私たちは後期少年隊と言われました。
 内務班の班長は二階にいました。軍医や研究者のような人は、市内からバスや車で通っていました。
文官服にネクタイをして肩章がありました。
 少年隊に対する教育で、防疫給水の任務、消毒法、滅菌法、人体構造学、血清学、各論の細菌学など
を習いましたが、テキストはそのつど回収されて、ノートもとらせてもらえませんでした。
 毒物の教育の時には、兎に、硝酸ストリキニーネ、青酸カリ、ヒ素などを注射し、兎が痙攣して
死んでゆく様子を直視させられました。目をつぶると鞭がとんできました。
細菌の実習のときは、死んだ菌では注意力が落ちるからと、常に生菌を使いました。
 このように少年隊は、基礎的な教育も受けましたが、実際には使役要員で、七三一部隊の中で、
さまざまな使役を命ぜられました。この点については後に詳述します。
946名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 02:59:10 ID:3UAJXgbP0
陳  述  書    篠塚 良雄 (中帰連) 東京地方裁判所民事第一八部 御 中
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/220.html
 3、一九四一年七月に少年隊解散、その後は柄澤班に配属
 私は、一九三九年五月に平房で七三一部隊に入って以降、七三一部隊の少年隊でしたが、少年隊は
一九四一年七月に解散になりました。すなわち一九四一年に入ると、七月に「関特演」(関東軍特殊演習)
が発動されました。それを機に、すでに減少していた少年隊は解散させられ、七三一部隊に残る者は、
各班に配属することになりました。
 私の場合は、七三一部隊の第四部第一課の中の柄澤班に配属になりました。
そこで、「化学兵器取扱者」を命ぜられ、二五円の危険手当がつきました。
 柄澤班は、私がこれまでも少年隊として携わっていた細菌製造を主な任務としていました。
三、ノモンハン事件で細菌戦に加担(一九三九年)
 1、ノモンハン事件の時期の細菌の大量生産
  私たち少年隊が一九三九年五月ハルピンに到着した頃というのは、ノモンハン事件と呼ばれる
日本軍によるソビエト軍への軍事攻撃が始まった時期でした。ハルビンに着いて間もない同年六月、
私は、山口班で、榴散弾に使う鉄片にX字型の溝を入れ、その溝に錆止めを塗る作業を行ったことが
ありました。
山口班というのは細菌弾や散布器をつくる班ですが、後日、私はその山口班員の人から、その榴散弾は
ノモンハン事件で実際に発射されたと聞きました。
 同年七月末ころから、ノモンハン事件の影響で平房の部隊内の動きがあわただしくなり、
部隊のあちこちで軍装して鉄兜を背負ったり、軍刀をもった者を見かけるようになりました。
 丁度、この頃から、部隊では細菌の大量生産が始まりました。私たち少年隊も、その細菌の生産に
動員されるようになりました。
947名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 03:01:44 ID:y6hgTvWC0
こんの爺がぁ
地獄逝きけっていやな!!
948名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 03:01:47 ID:3UAJXgbP0
陳  述  書    篠塚 良雄 (中帰連) 東京地方裁判所民事第一八部 御 中
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/220.html
(中帰連はよく叩かれているけどディテールが細かいんだよな。)
その当時、七三一部隊の各研究室ごとに、生産する細菌の種類が決まっていました。
例えば、江島班は赤痢菌を生産し、田部井班はチフス菌やパラチフス菌を生産していました。
 少年隊だった私は、菌の植え付け作業や、菌の掻き取りに使う道具の準備などを行って各班の作業を
手伝いました。また、菌を培養するのに使うスタムと呼んでいた菌株を、培地班に運ぶ仕事なども行い
ました。
 このノモンハン事件のときに、どのような細菌を、どのくらい作ったのか、正確にはわかりません。
しかし、当時の菌株は試験管に培養してあり、金網かご一個に六〇本入っていましたから、菌株を取りに
行った場所や運んだ本数から、生産した細菌は、チフス菌、パラチフス菌、赤痢菌が、一日に三キロ
グラム以上だったと思います。
949名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 03:03:05 ID:aofPkx5Q0
このじいさんは中国か朝鮮に送って好きにしてもらおう
950名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 03:04:02 ID:3UAJXgbP0
陳  述  書    篠塚 良雄 (中帰連) 東京地方裁判所民事第一八部 御 中
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/220.html
(中帰連はよく叩かれているけどディテールが細かいんだよな。)
 
 2、ノモンハン事件の前線基地まで細菌を運搬
  七三一部隊は、ノモンハン事件に関連して、石油缶に細菌を入れて前線基地まで運びました。
無菌室の中で、あらかじめ滅菌した石油缶に細菌を入れるわけですが、その作業は私も見たことが
あります。
 すなわち、細菌はペプトン(細菌を培養する基になるもの)の空きビンに入っており、それを
ブイヨン(すなわちペプトン、肉エキス、食塩が入りペーハーを調整した液)で薄めて、ロートを
使って石油缶に入れます。石油缶の蓋はハンダで密封しされ、木箱に入れられ薦を巻き荒縄で結わえた
状態で、前線基地まで運ばれました。
 この細菌の運搬作業は、下士官に引率された少年隊が行いましたが、私も、平房の七三一部隊本部
からノモンハン事件の前線基地まで、一回だけ石油缶に入れた細菌を運ぶ任務を行いました。
 私は、細菌の運搬のためにハルピンからハイラルまで夜汽車に乗りました。細菌の入った箱は汽車の
デッキに置き、私たちがその箱の見張り番をしました。次にハイラル駅から将軍廟まではトラックで
細菌を運びました。こうして私は、下士官に引率されてノモンハン事件の最前線基地まで細菌を運びました。
 私の場合は、将軍廟まで細菌を運んだらすぐ帰路につきました。少年隊の中には、二名が、車の運転が
できるため、細菌戦の実行部隊に参加しました。後日彼らから、細菌をハルハ河の上流のホルステイン川に
流したということを、教えてもらいました。
 私は、ノモンハン事件で細菌を運搬したことで、後に論功行賞として従軍徽章と金巻をもらいました。
951名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 03:05:32 ID:y6hgTvWC0
半分以上、捏造であることは間違いない
いや、もっとだろう
952名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 03:06:46 ID:Y6Y16cV+0
普通にこの爺も殺人犯だろう?当時の法律と照らし合わせても重罪だろう。なぜこの爺がまだ生きているんだ?
悪かったと思うならさっさと腹を切って死ね。
953名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 03:06:50 ID:3UAJXgbP0
陳  述  書    篠塚 良雄 (中帰連) 東京地方裁判所民事第一八部 御 中
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/220.html
(中帰連はよく叩かれているけどディテールが細かいんだよな。)
 
四、ノミの増殖(一九四〇年)
 一九四〇年には、五月ころから、ほとんどの少年隊は、田中技手の直接指揮のもと、
ノミの増殖に動員されました。その作業は、田中篠田班(昆虫班)が管理していたロ号棟の
三階に作られた暗室で行われました。この暗室には、石油缶と同じ大きさの缶が並べられていて、
その缶の中に殻つきの小麦を入れ、さらに籠に入れた黒いネズミを入れました。
ネズミはノミのえさです。
 暗室の湿度は、七〇パーセントを超え、体感温度も四〇度を超えていました。
暗室で作業する者は、裸で白衣だけ着て作業するのですが、臭いのと暑さで三〇分か四〇分の間しか
部屋に入っていることができませんでした。
 私たちは、缶の中のネズミが死んでいないかどうかを確認し、死んだネズミがいればそれを生きた
ネズミと取り替える仕事をしました。
 その年の八月末ころ、今度は、同じ暗室で、ノミを小麦から分離する仕事を行いました。
大人が入ってもまだ余裕のある大きさの陶磁器でできた西洋浴槽に、ネズミを取り除き、小麦とノミを
入れます。浴槽の底の一方に穴があり、そもこにガラス製の液量器が置いてありました。
浴槽の片側に赤い電灯を点けますと、ノミは、習性で暗い方に逃げていきます。
さらに棒でふすまをかきまぜたり、ドライヤーで風を送ったりします。こうしてノミが、液量器の中に
団子状になってたまっていきます。
 大量生産したノミは、七三一部隊の航空班の南京行の飛行機まで運びました。
 
954名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 03:09:21 ID:3UAJXgbP0
陳  述  書    篠塚 良雄 (中帰連) 東京地方裁判所民事第一八部 御 中
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/220.html
(中帰連はよく叩かれているけどディテールが細かいんだよな。)
 
五、華中地区への七三一部隊の遠征及び新京への派遣(一九四〇年)
 一九四〇年の七月ころ、七三一部隊から遠征部隊が中国の華中地区へ出かけて行きました。
高圧滅菌機、乾熱滅菌機、コッホ釜、シャーレ、コルベン、材料、薬品などの大量の各種機材や
部隊員は、七三一部隊の引き込み線から汽車で南京に運ばれました。
 一九四〇年九月、新京でペストが発生しましたが、同月から翌一〇月にかけて石井部隊は新京に
出動しました。私も新京に派遣されました。新京では、ネズミの捕獲を命じられ、ネズミを捕獲して
ペスト感染の有無を調べたりしました。

六 石井式培養缶による細菌の大量生産(一九四〇年から一九四三年)
 その細菌の大量生産は、石井式培養缶を使ってロ号棟の一階で行われました。
私たちはこのロ号棟の手前を三棟、奥を五棟と言っていました。三棟、五棟とも設備は共通でしたが、
各棟に材料室、材料準備室、ガラス器具等の洗い場、一〇坪ほどの総ガラス張りの無菌室、孵卵室、
大型の高圧滅菌機一〇基、培地を溶解する溶解釜、冷却槽等がありました。
 培養缶の運搬は、高圧滅菌機から冷却槽へは軌道で、無菌室、孵卵室へはチェーンコンベアーを
使いました。三棟の一階にはこのほかに蒸留水を造る大型の蒸留装置と宿直室がありました。


955名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 03:13:40 ID:3UAJXgbP0
陳  述  書    篠塚 良雄 (中帰連) 東京地方裁判所民事第一八部 御 中
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/220.html
(中帰連はよく叩かれているけどディテールが細かいんだよな。)
 
細菌の大量生産を行う場合の細菌培養には、石井式培養缶を使ったわけですが、「普通寒天培地に増殖
する通性好気性菌」は全部、この石井式培養缶で培養できるといわれていました。
私の参加したチフス菌、パラチフス菌、赤痢菌、コレラ菌、ペスト菌、脾脱疸菌の大量生産も全て、この
石井式培養缶を使いました。培養缶は本体、部品とも錆に強いという軽金属で出来ていました。
 次に、この石井式培養缶を使って、どのように細菌を製造したかを説明します。
 @最初に、培養缶を組み立てます。組立といっても、本体に中箱を入れ、本体と中箱の間に中箱に
  ついている箇所から差し込みヘラを差し、押さえ棒で中箱が浮かない様に固定するだけでした。
 Aこの培養缶に、溶解釜から分注缶を使って、三%普通寒天培地(ペプトン一%、肉エス一%、
  食塩〇・五%、寒天三%、水)を分注します。この時、並んでいる中箱の上にネルの中布を置き、
  蓋には防水カバーを被せました。一缶の分注量は八リットル位だったと思います。
 B次に、培地を分注した培養缶を台車を使って高圧滅菌機に運び、一五ポンドの圧力、一一度で
  一五分間滅菌します。
 C滅菌が終わると、これを冷却槽に運び、水で冷やして寒天培地を固めました。
 
956名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 03:19:21 ID:3UAJXgbP0
陳  述  書    篠塚 良雄 (中帰連) 東京地方裁判所民事第一八部 御 中
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/220.html
(中帰連はよく叩かれているけどディテールが細かいんだよな。)
 
 D冷却が終わると、培養缶をチェーンコンベアーで無菌室に運び、細菌の植えつけを行います。
  中は真空ですので、箆を抜き空気を入れます。培養缶の中箱を取り出し、露出した培養面に、
  菌株の菌液を付けた植えつけ棒で塗りつけていきます。この作業は二人一組で行いました。
 E植えつけの終わった培養缶は、チェーンコンベアーで孵卵室に入れます。
  細菌の種類によって培養時間に多少の差はありましたが、大体二〇時間位でした。
  午後に細菌を植えつけ、翌日の午前中に掻き取るのが普通でした。
 F細菌の掻き取り作業も、無菌室で二人一組で行いました。一人が「掻き取り棒」で掻き取り、
  台の上に置いてある広口のペプトンの空き瓶の上に出すと、もう一人が「掻き落としヘラ」で
  空き瓶の中に入れていきます。

 以上が石井式培養缶を使った細菌製造の概要ですが、このような作業で、部隊の設備をフル稼働させると、
 一〇〇〇缶の石井式培養缶を操することができ、培養時間を含めて全行程約三〇時間で一〇s以上という
 厖大な量の病原細菌を造ることが出来ました。
957名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 03:21:27 ID:cv9quKGe0
まあ、捏造だろうね。もう後も無いだろうし、
金詰まれれば嘘も言うだろう。

嘘言ったところで、失う物なんてないだろ。
プライドなんて当に捨ててるだろうし・・・

都合のいい後付なんていくらでも出来るからな。

隣の国がいい見本(W
958名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 03:22:46 ID:3UAJXgbP0
陳  述  書    篠塚 良雄 (中帰連) 東京地方裁判所民事第一八部 御 中
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/220.html
(中帰連はよく叩かれているけどディテールが細かいんだよな。)

 九 実験材料としての「マルタ」と人体実験について
 私が「マルタ」のことを最初に聞いたのは、少年隊として入隊してまもなくの一九三九年六月頃の
ことだと思います。夜中に車のライトと物音で飛び起きました。すると、内務班長が「廊下に出るな、
部屋に入れ、これは『マルタ』の運搬だ」とこのようなことを言いました。こんなふうにして
「マルタ」という言葉を知るようになりました。
 その後、私たちは、「マルタ」という言葉を、部隊内の監獄に拘禁されて実験材料にされる人たちの
こととして使いました。
 その数日後のことと思いますが、植田謙吉関東軍司令官が来隊しました。石井部隊長の命令で、
少年隊として整列させられました。私達の前を植田司令官は、私達には目もくれずに、まっすぐ、
特別班に入って行きました。
 ある日の体操の時、上るのを禁止されていたロ号棟屋上で行うよう言われました。
屋上から見えるロ号棟の中庭には人がいるのがわかりました。キョロキョロしても何も注意されませんでした。
 その後も何回か屋上で体操をしました。金髪のロシア人女性と子供や足かせを紐でつっていた
中国人を見ました。
959名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 03:25:09 ID:3UAJXgbP0
陳  述  書    篠塚 良雄 (中帰連) 東京地方裁判所民事第一八部 御 中
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/220.html
(中帰連はよく叩かれているけどディテールが細かいんだよな。)

私が所属していた柄澤班を含む一課でも、細菌の毒力を試験するという名の下に、人体実験と
生体解剖を行いました。
 ロ号棟の中にあった七棟八棟の建物は、日本の憲兵や特務機関が「特移扱い」として七三一部隊に
連行した中国の愛国者を監禁したうえ、人体実験という残酷なやり方で殺害する場所でした。
処置室(解剖室)はその中にありました。
 私が直接知っているのは七棟の建物のことですが、二階には女性、一階には実験中の人を監禁する
場所であったと思います。
 私たちが行った人体実験と生体解剖の目的は、自分たちが作った細菌の殺傷力がどの位あるのか、
またワクチンとの力関係はどうかを生きた人間を使って実験し、生きたまま解剖してその結果を
見るためでした。
 私たちの使用したワクチンは、七三一部隊が開発したエンベロープワクチンと外国製のものでした。
実験では、最初に採血して抗体価測定をしました。次にワクチンを注射して再び血液で抗体価を
測定します。ただ比較用の対照者一人にはワクチンを注射しません。
こうしたうえで菌数計算したペスト菌を五人に注射しました
960名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 03:25:20 ID:0WQKVThLO
丸田ってラッパ吹きだとおもてた
961名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 03:28:01 ID:3UAJXgbP0
陳  述  書    篠塚 良雄 (中帰連) 東京地方裁判所民事第一八部 御 中
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/220.html
(中帰連はよく叩かれているけどディテールが細かいんだよな。)

一〇 生体解剖について

 私が人体実験と生体解剖に参加したのは、一九四二年の一一月末からで、使った菌はペスト菌でした。
 私は、自分が最初に関わって生体解剖した中国人の男性のことを、今もよく憶えています。
その生体解剖された人は、私が採血をし、ワクチンを注射しなかった人でした。その男性は、頭脳明晰と
いった感じのインテリ風の人でした。
 私は、その男性から睨み付けられると、目を伏せる以外にありませんでした。ペスト菌に感染させられた
その男性は、ペストが進行するにつれて、顔や体が真っ黒になりました。
 その男性は、まだ息のある状態で、特別班によって、裸のまま担架で、私たちのいる解剖室に運ばれて
きました。その男性は、解剖台の上に寝かされました。班付軍医が、私に対し、解剖台の男性の体を洗う
ように命令し、私は、ゴムホースから水を流して、デッキブラシで男の体を洗いました。
私は、初めての解剖でしたから、手や足がもたついていました。
顔をデッキブラシで洗う時、強く躊躇したことを憶えています。解剖刀をもって立っている課長が、
私に、「早くしろ」と合図し、私は、目をつぶって解剖台の上の男の顔をデッキブラシでこすって洗いました。
班付軍医が、その男の胸に聴診器をあてて心音を聴きました。その聴診器が男の体を離れると同時に、解剖が始まりました。

962名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 03:30:38 ID:3UAJXgbP0
陳  述  書    篠塚 良雄 (中帰連) 東京地方裁判所民事第一八部 御 中
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4586/220.html
(中帰連はよく叩かれているけどディテールが細かいんだよな。)
私は、命じられるまま、その男性の解剖されて切り刻まれた臓器を、コルベンに入れたり、
準備していた培地に塗りつける作業を行いました。
 このようにして二ヶ月足らずの間に、私は、五名の中国人を殺害しました。
私が生体解剖の三人目を終えた後に、班長から、「お前もやっと一人前に近づいたな」と言われました。
 生体解剖は、同時にいくつかの班でやっておりました。夜おそく、宿舎の風呂に入ると、部隊員の間で、
「お前のところは今日何本倒したか」「俺のところは二本だ」というような言葉がよく交わされました。
何本というのは、七棟や八棟に監禁されていた人を「マルタ」と呼び、その日に生体解剖された人の数の
ことを言っていたのです。
 生体解剖で殺された人たちの死体は、特設の高い煙突のある焼却炉で灰も残さないように焼いていました。
 【私と同じ第四部第一課の同僚で、もともと千葉から少年隊として一緒に平房にきた友達が、細菌の
  大量生産の時にペストに感染しました。私は彼は病院に入院しているものと思っていたのですが、
  実際には特別班に収容されていました。彼も生体解剖され、その解剖にも私はかかわりました。】

963名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 03:34:49 ID:Vt4OuFxm0
>彼も生体解剖され

ふーん、日本人も生体解剖したんだ!これは重大な事実だな!関係者は政府に謝罪と賠償を請求しる!
964名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 04:08:56 ID:3UAJXgbP0

>>963
戦死扱いで遺族には軍人恩給も出たろうし靖国に英霊として祀られてることでしょう。

まあこれだけ具体的な【陳述書】を裁判所に出すんだから「中帰連」も叩かれるわな。

初めてこの規制受けちまったヨ。
>やはり貴方は投稿しすぎです。バイバイさるさん。
>合言葉=一番上は長男
965名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 04:33:28 ID:e2aMgDj80
戦争犯罪人の岸が死刑にならなかったのは
731部隊関係の資料をアメリカに差し出した
からです
966名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 04:42:17 ID:1igu/TVf0
>964
> まあこれだけ具体的な【陳述書】を裁判所に出すんだから「中帰連」も叩かれるわな。
「小説」みたいに具体的だからね
叩かれるわな
967名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 04:46:34 ID:NSrqrd1rO
ディテールって細かかったり細かくなかったりすんのか?
968名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 04:49:07 ID:0WQKVThLO
当たり前ですまんが、戦争て嫌やな。
969名無しさん@七周年:2007/04/14(土) 04:49:22 ID:AeNmgGvf0
伍長とかいってるが、いきなり伍長になれるのか?
伍長は兵卒で、下士官だろ。
二等兵からやらないと下士官にはなれないんじゃね?

逆に士官は少尉からだしなー
970名無しさん@七周年
>>966
撫順で叩きこまれたんだろうなあ