【訃報】宇井純さん死去 「水俣病」などに大きな足跡 [11/11/2006]
沖縄の日本復帰直前から現在にいたるまで、赤土流出による海洋汚染をひたすら批
判(特に沖縄○庁)し続けていた姿は、確かに痛々しいものがあったな。
自分でも田中正造みたいな徒労感を感じると自分で書いていたし・・・。
>>39 そういえば、国家のためなら嘘でもなんでもする学者でもそれに信念があるならま
だわかるが、惰性に流されてなあなあなことを続ける学者(特に琉○大学あたり)
は大嫌いという趣旨のことをどこかで書いていたな。
73 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 07:03:17 ID:atEGSuad0
一時代を画した人だな。しかしなぜ助手が長かったり冷遇されたのか。大学と企業との関係が悪化することをおそれてなのか。情けない学者の世界だな。
74 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 09:05:20 ID:Zu+7KlRS0
75 :
多分においおい:2006/11/13(月) 09:12:27 ID:hhn6RNmW0
小和田雅子さんのジイさんの死を見届けてから、というのが
まだ救いなような気もしないでもない。
公害病とかこれから中国インドあたりで酷くなるのかな
77 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 09:25:09 ID:bsDd0Eh30
東大からこんな人材が生まれるのは珍しいね。ご冥福をお祈りします。
>>76 今でも、充分酷いよ?あっちはレベルが違う
79 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 09:32:33 ID:2Dg43PfRO
>>76 中国はもう公害のレベルが違うと思う
背中に足が生えた牛とか、三つ目のカエルとか、掘ると水銀が収穫出来る畑とか、
頭が巨大化する奇病とか色々あるよ
アジアの安全な食品でググればニュースが出てくるよ
80 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 09:35:39 ID:OqXtkCpb0
小和田の爺さんが死んで安心したんだろ。
81 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 09:38:48 ID:h5nfhkUA0
うついけんしはしんけいつう
82 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 09:51:16 ID:RVTEILEF0
70年代勉強させていただきました
ご冥福をお祈り申し上げます。
83 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 10:13:40 ID:qqSq55Oo0
>>45 にちゃんの書き込みで見たよ。
なんか、熊大のお医者さんの話で、東大と戦いながらも水俣病の研究,チッソの
糾弾をしたとかいう本人の書き込み。
雅子のオランダ豪遊スレだったかな。
>>63 戦前の北チョンは日本の重化学工業地帯
日本は北チョンを工業で、南チョンを農業で盛り上げようとしていた
だから、戦後、独立した北チョンは日本が置き去りにしていた工場を活動させ、当初は十分な経済活動をしていた
しかし、その工場で働いていた人間や日本時代の教育を受けた人間を片っ端から粛正、西側諸国との突き合いも辞めた所為で
機器が壊れても壊れっぱなし、新しい機器が出来ても更新はしないって言う状態に……
それが北朝鮮没落の原因
常識だろう?こんな事……
戦前の朝鮮半島は「日本」だったんだよ、今の常識で物事を語るな
俺が中学校のときは 北→工業 南→農業 って図式で習った。ソ連が無くなる頃の話。
86 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 10:48:37 ID:KBonp9fA0
この人の同輩だった中西準子は、環境ホルモンその他で騒ぐ左翼学者を「科学的でない」と批判したら
「御用学者」呼ばわりされて訴訟まで起こされちゃったんだよなw
多分宇井や中西は変わってないんだけど、プロ市民団体の中身が変わってしまった。悲しいことだね。
87 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 10:52:07 ID:ZIvy1Zvn0
同じ東大を出ても、立身出世金銭欲名誉欲にとらわれてその頂上を
めざす人間もいるのに・・・
そういえば、愛子様チャッコの儀の時早朝東京では雷鳴が轟いたとか・・
88 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 10:53:36 ID:ykahcnacO
まだ水俣病は終わってない
89 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 10:56:44 ID:0hRd8VQo0
宇井先生は素晴らしい方だったとは思うが、
一方で、ねらーの嫌いな「プロ市民」的な臭いのする方でもあった。
にもかかわらず、叩きのレスがほとんどないことに、
改めて宇井先生の偉大さを感じざるをえない。
謹んでご冥福をお祈り致します。
90 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 10:57:14 ID:LGLKKQtVO
ういういかわいいよういうい
91 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 10:58:49 ID:KBonp9fA0
>>91 確かにこのスレの平均年齢高そうだな。
(そういう漏れも40目前だがw)
93 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 11:02:04 ID:e/7JTLz30
>>86 中西さんは権力を手にしてしまってからかなり変節なさっているようですよ。
東大時代の自分がそれほど関わっていない研究を自分の手柄のように言っていたりもする。
宇井さんは権力を手にしなかった事が最後まで彼を綺麗にしたと思う。
94 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 11:06:04 ID:ZIvy1Zvn0
これですね。
>一方で昇進の道は閉ざされ、東大の「万年助手」となった。
御冥福をお祈りします
95 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 11:20:08 ID:JT39XgDU0
>
>>76 もうとっくにひどいよ
しかし人の常
大日本低国民絶滅のため合成されたDDTは自国製造分は戦後フロリダの蚊撲滅に使われ、
新しく合成されたものは日本で米軍発注でS製薬(下請けDインキ)により大量製造され
ベトナム戦争で大量に使われた。
もともと爆薬系の合成技術
96 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 11:27:23 ID:nXr14aT20
2chは反体制派はすぐ売国奴よばわりするからたちが悪い
98 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 15:37:51 ID:Ih4MG+jp0
>>72 それが募ってチュチェ思想マンセーしちゃったんだけどね。
科学的に赤土問題対策を考えたのは琉球大で、宇井さんは残念ながら口先ばかりだったのに。
実証的対策を論じる研究者を攻撃して、環境問題は自分以外は触るなという姿勢ばかりを
全面に出していた沖縄大教授就任後の宇井さんは、明らかに老害でしかなかった。
取り巻き連中が宇井さんを裸の大様にしてしまったというのもあるけど。
>>87 水戸も雷鳴があった。
あの時間帯に珍しいなと思ってたけど
愛子の儀式があったのか…
そういえば水俣爺の葬儀の時もすごい雷だったね
>>99 香川でもなってたよ、近所の家が焼けて、空港に穴が空いて、800世帯が停電になった
101 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 21:16:56 ID:b+oorT2V0
:( ´`ω´)φ ★
おいらのスレ立て依頼を無視したな。
確か栃木出身の人。
103 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 21:20:39 ID:b+oorT2V0
沖縄に行ったまでは知っていたが、無くなるまでの話しを知らなかった。
馬鹿な大学でただ一人、尊敬できた
先生のご冥福をお祈りします。
104 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 21:27:59 ID:F0OIsS2z0
御冥福をお祈り申し上げます
105 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 21:33:32 ID:cT2COVGi0
南無南無
106 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 22:26:15 ID:knDCmky80
学生時代、研究のためにどぶさらいしていたら
警官に怪しまれて補導されたことがあるらしい。
107 :
名無しさん@七周年:2006/11/13(月) 22:33:09 ID:RtPCjTOS0
宇井先生・・・・
雑感366-2006.11.13「宇井さんありがとう −宇井純さんの死を悼む−」
by 中西準子
2006年11月11日宇井純さんが逝去された。深く哀悼の意を表したい。
宇井さんの紹介で、私は広い世界に知られるようになった
1.東大都市工学科への就職(1967年)
私は応用化学の大学院終了後、土木工学の出店のような都市工学科の助手になったが、この就職口をもってきたのは宇井さんである。と言っても、それ以前に宇井さんを知っていたわけではない。大学院生の集まりで、ときどき発言するのを聞いたことがある程度であった。
たまたま、私の研究室(米田研)の助教授だった斎藤泰和さんが、宇井さんと仲が良く、当時都市工学科の助手だった宇井さんから、都市工学科に今いる別の助手が辞めるという情報を聞いて、斎藤助教授が私にどうかと話しをもってきたのである。
宇井さんは、大学院は応用化学だったが、途中から土木工学の大学院に移り、そして都市工学科に移ってきていた。
2.宇井さんの代役として冨士、田子の浦へ(1969年頃か?)
私は公害問題についてはほとんど知らなかった。公害問題を知るきっかけは、宇井さんの代役からだった。
当時、田子の浦周辺の大気、水汚染はひどいものだった。そこで、宇井さんが講師の講演会が予定されていたが、急に体の具合が悪くなり出席できなくなった。代わりに私が行くことになったが、何も知らない、必死になって勉強し出かけた。
故甲田寿彦さんのお宅を訪ね、今井町の公民館にでかけた。200人ほどが集まっていた。私の話は好評で、以後田子の浦に通うことになった。私は今でもパルプ排水を研究対象にしている。
3.「衛生工学者のための水質学」の執筆(1968〜1970)
宇井さんが構想を温めていた「衛生工学者のための水質学」の連載を数人で始めることになった。連載3回目として書いた私の文章を宇井さんが見て、「後は任せる」と言った。その後13回まで連載を続けた(内6回単独執筆)。
私は、水質指標とは何か、指標によって汚染の姿が違って見えることを強調した。これが、水質学を過去に遡って勉強する機会になり、衛生工学の分野で私の名が知られるきっかけになった。
雑感366-2006.11.13「宇井さんありがとう −宇井純さんの死を悼む−」
by 中西準子
私は公害問題についてはほとんど知らなかった。公害問題を知るきっかけは、宇井さんの代役からだった。
当時、田子の浦周辺の大気、水汚染はひどいものだった。そこで、宇井さんが講師の講演会が予定されていたが、急に体の具合が悪くなり出席できなくなった。代わりに私が行くことになったが、何も知らない、必死になって勉強し出かけた。
故甲田寿彦さんのお宅を訪ね、今井町の公民館にでかけた。200人ほどが集まっていた。私の話は好評で、以後田子の浦に通うことになった。私は今でもパルプ排水を研究対象にしている。
3.「衛生工学者のための水質学」の執筆(1968〜1970)
宇井さんが構想を温めていた「衛生工学者のための水質学」の連載を数人で始めることになった。連載3回目として書いた私の文章を宇井さんが見て、「後は任せる」と言った。その後13回まで連載を続けた(内6回単独執筆)。
私は、水質指標とは何か、指標によって汚染の姿が違って見えることを強調した。これが、水質学を過去に遡って勉強する機会になり、衛生工学の分野で私の名が知られるきっかけになった。
4.「浮間処理場批判」(1971年)の掲載
浮間下水処理場の調査結果を発表する場がなかった時、宇井さんが「公害研究」創刊号に私の原稿が掲載されるように動いてくれた(岡本雅美さん、故華山譲さんと共に)。
若い三人が「公害研究」の編集同人で、三人とも理系だったことが大きいと思う。文系の人であれば、これ、単に技術の問題でしょう、総合雑誌には向かないという判定になったと思う。
私と宇井さんは相当考えが違っていたと思うが、両方とも理系で、技術の中に社会構造が隠れていると考える点で一致していた。また、お互いに現場での調査や実験が重要という点でも一致していた。この時代としては、この考えはそう一般的ではなく、少数派だった。
雑感366-2006.11.13「宇井さんありがとう −宇井純さんの死を悼む−」
by 中西準子
宇井さんの紹介で、総合雑誌や論壇で仕事の機会が与えられ、名前が知られるようになった。
5.宇井さんの名前で有能な志ある学生が集まった
宇井さんの名前を知って有能で志のある学生が都市工学科にやってきた。そして、
どちらかと言えば外で活躍することの多い宇井さんのところに行くのではなく、大学でこつこつと仕事をしている私の方に集まった。
その学生達が私の研究室の研究を維持した。
志と能力の点で世界一の学生達だった。
富田八郎著「水俣病」の衝撃
富田八郎著「水俣病」は、宇井さんが合化労連という労働組合の機関誌に連載していたものだが、その別刷りを読んで、
私は全く新しい世界を知った。ひとつは、公害問題の構造とか背景だが、
もう一つは宇井さんの調査の仕方(資料を徹底的に集める)と、
それとは全然異なることだが、公害問題における原因究明の難しさだった。
当時「富田八郎」(とんだやろう、というひねり)のペンネームを使っていたのは、
本名で書くことが怖かったからと宇井さん自身が言っている。
それほど当時、公害問題を扱うことは覚悟のいる大変なことだった。
宇井さんは、当時の熊大医学部の研究報告を執拗に引用(と言うより、論文そのものを載せていたように思う
:実は大事にしていた合冊本が盗まれてしまった。東大の私の研究室の書棚からなくなった)していた。
こういう風に書いてもいいのだなとまず思った。
雑感366-2006.11.13「宇井さんありがとう −宇井純さんの死を悼む−」
by 中西準子
それを読んでいて、有機水銀説にたどりつくまでに、異なる物質を原因とする説の論文が数多く出たことを知った。
今となっては、間違いと言えるのだろうが、その時は正しいと思われたことである。
例えば、マンガン説が出るとマンガンが正しいとされる論文がどっと出る、しかし、つぎに別の説が出るとまた、
どっとその説を支持する論文が出る、間違いの説の論文を書きつつ博士号をとってゆく、原因究明の過程はこういうものか、
私はひどく衝撃を受け、この難しさをしみじみ考えた。もし、自分がここにいたら、正しい原因究明に寄与できるだろうか?
後に、私は院生にこのことを題材にして問題を出したことがある。これこれこういう実験結果がある時、
マンガン説が正しいと結論できるか?自然科学論理学として考えてみなさいと。どういう回答があったかは覚えていないが、
正義感とか、社会的な立場とは異なる次元の“原因究明の科学”があること、それなしには、正義感も成就できないということを痛切に感じた。
雑感366-2006.11.13「宇井さんありがとう −宇井純さんの死を悼む−」
by 中西準子
■都市工学科での助手生活と人間宇井純の心の葛藤■
宇井さんは万年助手と言われ、ご自分でも言っていたが、今計算してみると21年間助手だったようだ。
本人も皆の前で「助手の方がいい」「これは勲章だ」と言うこともあったが、いつもいつもそのように割り切れていたわけではなく、
「なぜ、あいつが教授で、俺が助手か」という怒りが、どろどろと宇井さんの体中を占領し、のたうち回らせるのをしばしば見てきた。
それを見て、宇井さんの悪口を言う人もいたが、「ふざけたこと言うな!」と言うしかなかった。
「そういうことを覚悟して自己主張を続けているのでしょう、覚悟がないならやめた方がいい」と言った若い教授もいた。
かつて、「都市の再生と下水道」(日本評論社、1979年)の中で、私はこう書いた。
「研究者の社会で、無能という烙印ほど辛いものはない。「有能だけど不遇だ」などと言われているうちはまだよいが、
不遇が続けば無能になる」。これを読んだ宇井さんが、「中西さんどうしてこういうこと書けるの?これって、俺の気持ちだよ」と言ったことがある。
苦しむ人間宇井純を私は助けることはできなかったが、少なくとも近くにいて、その苦しみが分かる存在であり続けた。
雑感366-2006.11.13「宇井さんありがとう −宇井純さんの死を悼む−」
by 中西準子
■二人いたから生き残ることができた■
宇井さんが沖縄大学に移る時、確か、私はこう言ったと思う。「二人いたから生き残れた。これから、私はどうなるだろう?」と。
宇井さんと私は、同じところにいて、公害問題に取り組み、時には協力してことに当たっていたが、考え方は随分違った。
宇井さんは、どちらかと言うと社会や政治のことを問題にしたのに対し、私は自分の足下のことを自然科学的手法で見極めたいという考えだった。
宇井さんは大学の外で活躍し、私はひたすら研究室にいた。
下水道や富士市の公害問題、それから派生した私のところで勉強する大学院生への進学妨害や就職妨害に関して、
私が都市工学科教室と団体交渉をしている時に(「環境リスク学」13〜14頁)、宇井さんが大勢外部の方をつれて応援にきたこともある。
また、私は宇井さんの自主講座に講師として出席し(この時、娘をおぶって行ったので、皆驚いたそうです。自主講座は夜ですから、
保育園に預けるわけにいかず、おぶって行ったのでした)、高知の生コン裁判(パルプ工場の排水口を生コンで塞いでしまった事件)や様々なことで応援をした。
別のことをしながら、場合場合で協力するという関係が続いた。
雑感366-2006.11.13「宇井さんありがとう −宇井純さんの死を悼む−」
by 中西準子
■我々を支えた、本当の力は学生達だった■
自主講座を開き続けたということが宇井さんの大きな業績の一つであることは、誰もが認めている(第1は水俣病)。
大学の中に、解放区のようなものを作ったのだから、
やはり革命である。あれよあれよと言っている間に、大きな教室を占拠して自主講座が始まった。これが15年も続いた。
都市工学科の学生や院生の協力者は少なく、ほとんどが都市工学科以外、東大以外の人だった。
しかし、宇井さんがこういう活動ができたのは、都市工学科の学生、院生の別の意味での活動があったからだと私は思う。
都市工学科が東大闘争の三拠点の一つになっていて、学生達によって占拠されていたこと、東大闘争が下火になっても運動が続き、
都市工学科が事務局みたいになっていたこと、有名な山本義隆さんもずっとここにいたことなどがある。そして、
学生達の公害問題への関心が非常に高く、いくつもの調査活動が進んでいたことである。
直接に宇井さんの自主講座活動を支援しなくとも、同じような考えの活動がずっと続いたが故に、
大学は宇井さんの自主講座を強権でつぶすということができなかったのである。自主講座と言えども、
教室を借りるには教授の印鑑が必要だった、それを教授は捺し続けたのである。それは学生の力があったからである。
学生達の運動は一過性であると非難する人はいる。変わり身が早く、もう官僚じゃないかとかいう批判はしばしば聞いた。
しかし、官僚と言っても悪いことばかりする訳でもない、公害問題に興味を持つことのなかった人より良いことをしているに違いない。
また、そうでなくともいい、少なくとも都市工にいる2〜3年の間、公害問題と戦うという姿勢があれば、
1人が2年でも、毎年学生は入ってくるから、10年も20年も続くことになる、それでいい。そういう力が、宇井さんの活動を支えた。
もちろん、大学の外側の力は大きかったが、大学内での学生の力も無視できなかった。
115 :
名無しさん@七周年:2006/11/14(火) 00:56:23 ID:tPHF07ys0
偉大な人が逝ったなー
雑感366-2006.11.13「宇井さんありがとう −宇井純さんの死を悼む−」
by 中西準子
■大学闘争の時期■
宇井さんの活動と東大闘争は切っても切れない関係にあるが、東大闘争の時期に宇井さんは日本にいなかった。
WHOの上級研究員として欧州に行っていた(1968〜69年)のである。帰国は、予定より遅れ1970年になっていたように思う。
東大安田砦の攻防戦は、1969年の1月だったから、ちょうどこの時期、日本にいなかったわけである。
ここで宇井さんが力を消耗しなかったことが、日本の公害問題の解決のためには良かったと思う。
沖縄大学に移って
その後、宇井さんは沖縄大学に移り、私も講義に行ったことがある。宇井さんが沖縄大学を辞める時に、
都市工1期生の櫻井国俊さんが後を継ぎ、今は学長になっている。櫻井さんは、ともかく頭脳明晰で、
東大闘争の時期もその指導者だったが、その後東大教授になり、しかし、突然東大教授の職を辞し、武蔵野市長選に出馬、
その後宇井さんの後を継いだ。宇井さんにとっては、本当に嬉しいことだったろう。
宇井さんは、奥さんの紀子さんのことをしばしば自慢していた。紀子さんの家系は身分が高く、
かつ、ご兄弟の地位も高いとかで、「野武士が貴族の娘を嫁にもらったようなものだ」と言っていた。
また、紀子さんは透き通るような白さだったが、それも自慢の種で「顔の白さは七難隠す」というでしょうと、
謙遜か自慢かわからぬことを言っていた。
私は、紀子さんにとても親切にして頂いた。東大で助教授になった時に、贈り物を頂いた、
「女の方が活躍されているのが嬉しくて」とのメッセージがついていたが、もちろんそれだけでない暖かい心遣いを感じた。
雑感366-2006.11.13「宇井さんありがとう −宇井純さんの死を悼む−」
by 中西準子
■留守番電話の声■
今年の夏、留守番電話に宇井さんの声が残っていた。その声には力がなく、かすれていて、
その声をきいているうちに涙があふれてどうしようもなかった。この声が最後になった。
いまもその声が耳に残っている、それが切ない。
水俣病問題で言いたいことがあったであろう、解決に力を添えたかっただろう、
「東京にもどってきたら、急に仕事が増えたんだ」とにこにこしていたのに、逝ってしまった。残念だ。
もう、これしか言えない。宇井さん、ありがとう。
2006年11月12日
http://homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/zak366_370.html#zakkan366
118 :
名無しさん@七周年:2006/11/14(火) 01:15:03 ID:BMX4kXua0
その気持ちがあるなら初心に返って下さい中西さん。
今のあなたがそんな事書いても売名にしか思えません。
ふなばし氏が書いた、飯島伸子先生のあゆみ くらいの内容書いてくれ
就職を紹介してもらったとかさ直接的すぎる
もっと精神的なものはなかったんかいな。
それはともかく、宇井先生、安らかに。
120 :
名無しさん@七周年:2006/11/14(火) 10:45:50 ID:eUF4wHWw0
>一方で昇進の道は閉ざされ、東大の「万年助手」となった。
マスコミにはここら辺をもっと深く斬り込んで欲しいところだが。
大先生を当ビルヂングの如きが語るのはチート烏滸がましいが。
「公害原論」だけでは社会の負の部分を扱ふに過ぎん。
此に止まらず社会の正の部分を展望しる活躍があれば。。
とオモーテをつた。
シカーシ其も「公害」がデカ過ぎな為だなや。
「公害原論」だけでも勿論天下一品だがや。
シカーシ其は大学の先生の要件ではない。
中西タソ評判悪いなや。藁