>>96 相川三菱は早期には金、後期には銅を採掘するために、朝鮮人労働者を募集していたようですが。
「強制連行」ではないので。
以下まとめ。
戦前のかなり早い時期から、相川三菱には少数の朝鮮人労働者が採鉱労働に従事していた。
開戦後、日本人労働者が徴兵され、労働力不足になったため、佐渡鉱業所は1939年2月に、
忠清南道で大規模な朝鮮人労働者募集を開始した。
1939年の夏の朝鮮南部は数十年ぶりの大皐害で、農村部での募集では、
一村落20人の募集割当てに約40人の応募が殺到したほどであったという記録が残っている。
佐渡鉱業所は1940年2月から1942年3月までに、6次に渡って述べ総数1005名の
朝鮮人労働者を募集で集めた。
1943年5月現在、584名の朝鮮人が相川町内の4ヵ所で生活していた。
1944年9月から、募集は徴用に切り替わった。
1945年7月までに、述べ1300名近い朝鮮人が佐渡鉱山で暮らしたと推定される。
1945年になると佐渡鉱業所では銅採掘の実績が上がらず、朝鮮人労働者は過剰となった。
このため、同年8月に第一次挺身隊として189名を埼玉県に、第二次挺身隊として219名を
福島県に、計408名を佐渡鉱山から派遣した。
佐渡鉱山では8月15日現在、244名の朝鮮人が労働に従事していた。
佐渡鉱山へは敗戦直後から、挺身隊として派遣されていた朝鮮人が戻ってきた。
福島組は8月26日、埼玉組は8月27,28日の両日、計319名が佐渡に到着した。
本来派遣した数は408名であり、この間に89名が行方不明となっている。
また、敗戦によって佐渡から逃走する者、反対に帰山する者などが相次ぎ、
8月末に佐渡鉱業所の朝鮮人は573名に達した。
挺身隊派遣者を除き、8月15日から9月11日までに佐渡鉱山から新たに逃走した者は7名、
帰山した者は27名だった。
九月末から朝鮮への帰国が開始され、1947年10月初めには佐渡郡全体の
朝鮮人労働者総数は128名となった。
労働者を生き埋めにするために意図的に坑道を爆破したという記録はない。