新選組の近藤勇(1834―68年)が中山道板橋宿(現在の東京都板橋、北両区境)で
処刑された際、「介錯(かいしゃく)役」を務めた岡田藩士の横倉喜三次が、勇のため
に岡田藩(現在の岐阜県揖斐川町)内で営んだ法要の記録文書が揖斐川町で13日
までに見つかった。
喜三次が受け取った介錯の賞金全額をつぎ込み、藩主や自分の菩提(ぼだい)寺から
僧侶を呼んだ事実が記されている。藩の武術指南役だった喜三次は勇と同様に剣術の
使い手。介錯役の立場を超え、勇に心を寄せていたことを示す貴重な史料といえそうだ。
文書は「大和守(やまとのかみ)法会入用覚帳」と参列者の手紙2通で、歴史研究家あさ
くらゆうさんが喜三次の子孫宅で発見した。
手紙には「(喜三次が賞金の)金子を下さり、お竹さま(喜三次の妻)が16日に営まれま
した」と記述。藩主の菩提寺の松林寺、横倉家の大興寺などの僧侶ら6人が法要を執り
行ったことや参列者の名前も書かれ、参列できなかった喜三次に様子を伝えている。
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20041013AT3K1301013102004.html
2 :
名無しさん@5周年:04/10/13 15:17:23 ID:4Z+KE8lc
2っすね
3 :
名無しさん@5周年:04/10/13 15:17:23 ID:YZBOwGqz
2Get!
2
コンドーム
これってニュースなのか?
7 :
名無しさん@5周年:04/10/13 15:18:48 ID:o7RuynBv
「心を寄せていた」んではなくて、単に慣習だったと言う可能性はないのか?
恨みを避ける為の。
>>8 幽霊ではなくて、実際人気はあっただろうから世間体かなぁ。
慣習じゃないの?
ところで、当時、近藤勇って人気があったの?
京都では嫌われてたのだが。
>>10 いや、しらないっす。
そうなんですか、嫌われてたのか
モー板の固定か
あいつうざいな
13 :
名無しさん@5周年:
雅