【宗教】世界的ベストセラー「ダ・ビンチ・コード」、レバノンで発禁処分に
278 :
名無しさん@5周年:
280 :
名無しさん@5周年:04/09/20 23:25:55 ID:zh7OZR3v
>>279 もったいつけんなよー
おまいは中尾彬か
281 :
名無しさん@5周年:04/09/20 23:26:11 ID:s9vfbXZV
>>278 間違った。
ttp://tanakanews.com/990528israel.htm 海岸に出れば、どこまでも続く砂浜で、夕方には地中海に沈む夕日を眺めながら、語り合う恋人たちや、
犬を連れてゆっくりと散歩する人、ジョギングする人などが、人生を楽しんでいる。
この街に住んでいる人々、特にこの街の北の方に広がる高級住宅街に住んでいる人々の多くは、
イスラエル人の中でも「アシュケナジー」(Ashkenazi)と呼ばれる系統の人々だ。彼らはヨーロッパ方面から
移民してきた人々で、イスラエル社会の中ではエリート層を占めている。
彼らと対をなす系統として存在するのが、「スファラディ」(Sephardi)である。この人々は、中東・北アフリカと
いうイスラム圏から、移住してきた。彼らは、主にブルーカラー層を形成しており、アシュケナジーに比べ、
失業率も高い。2つの系統の人々は、社会的な階級という意味でも、対照的な存在だ。
政治家、医師、マスコミその他知識人のほとんどは、アシュケナジーであり、建国後、スファラディが
首相になったことは、まだ一度もない。
スファラディの人々が多く住んでいるのは、たとえば砂漠のなかにあるビルシェバといった町だ。
スファラディの人々がイスラエルに移住してきたのは、一般にアシュケナジーの人々より遅く、イスラエルが
建国され、世界中からユダヤ人を呼び寄せるようになった、1950―60年代より後のことだ。
ヨーロッパのユダヤ人たちによって建国運動(シオニズム)が始められ、その結果建国されたイスラエルは、
当初からヨーロッパ風に作られた国だった。イスラム世界に住み、ヨーロッパ風の近代的な生き方を
身につけていなかった多くのスファラディの人々は、高収入を得る方法もなく、悪い条件の街に住まざるを得なかった。
282 :
名無しさん@5周年:04/09/20 23:32:13 ID:s9vfbXZV
283 :
一言で言うと、ハザール人は歴史を捏造したっぽい:04/09/20 23:34:27 ID:s9vfbXZV
>フンの王国が崩壊すると、カザール人はコーカサス北部を中心にしだいに勢力を拡大していった。
>首長はカガンと呼ばれた。ついで広大な草原にトルコ民族の突厥(チュルク)が出現すると、
>カザールの民はいったん突厥の支配下に入り、アバール・ハーン王国を名のった。
>そのうちビザンチン帝国の版図の拡大にともなって、ビザンチンとカザールとのあいだに軍事同盟ができ、
>コンスタンティヌス5世がカザールの王女を娶り、その息子レオン4世が“カザールのレオン”として
>ビザンチン帝国の皇帝の座についた。
その直後の740年ころ、カザールはユダヤ教に集団改宗した。理由ははっきりしない。
>ともかくカザールの民はいっせいにユダヤ化してみせたのだ。ノアの3番目の息子のヤペテを
>始祖とする“血の伝承”に関する見方もこのころにつくられた。
>しかし、その血統は実際にはセム系ではなく、白色トルコ系であり、その気質はあきらかに遊牧民族系だった。
>こうして、カール大帝が西ローマ帝国を治めたときは、ロシア・トルコ地域には、キエフ王国とユダヤっぽい
>カザール王国(首都イティル)の二つの勢力がが相並んでいたということになる。
>そのカザール王国の盛衰に終止符が打たれたのは、1236年にモンゴル軍が侵攻し(いわゆる「タタールの
>くびき」)、1243年にキプチャク・ハーン国が成立したときである。カザール人はバトゥ・ハーンの支配となって、
>ここに王国は滅亡した。
>しかしケストラーは、このあとにカザール人がロシアから東欧に移動して、のちにアシュケナージとよばれる
>親ユダヤ的な中核をつくったと推理して、そこにブルガール人、ブルタ人、マジャール(ハンガリー)人、
>ゴート人、それにスラブ人が交じっていったと判断した。ケストラー自身がハンガリー生まれだったのである。
284 :
一言で言うと、ハザール人は歴史と言葉を捏造したっぽい:04/09/20 23:37:16 ID:s9vfbXZV
>黒海とカスピ海に囲まれた地域を中心に広がった半径のなかにいたカザール人が、しだいにマジャールや
>ブルガールと交じっていったことは、その後のユダヤの歴史をひどくややこしくさせている。
まずカザール・ディアスポーラは、東欧にかなり高密度な集落をつくっていった。これはゲットーではない。
>自主的なコモンズで、もっぱら「シュテトゥル」と呼ばれた。この集落がロシアの地からの拡張にともなって
>しだいにポーランドのほうにも移行して、やがて「ユーデンドルフ」(ユダヤ村)と総称された。
>そのユーデンドルフに、それまで離散していたユダヤ人が少しずつ加わった。
>そこには”本来のユダヤ人”(セム系ユダヤ人)やスファラディも交じっていた。
>ここからはハウマンの記述が詳しいのだが、こうして、ポーランドが東方ユダヤ人の原郷とされていったのだ。
>これこそ、モーセ以来のセム系ユダヤの十二支族にもうひとつが加わることになった
>「第十三支族」なのである。
>けれども、そのポーランドこそは近現代史の悲劇の舞台であった。ポーランドはたえず分割された。
>そしてそのたびに「第十三支族」が影のシナリオを担わされていった。これはかつての
>「さまよえるユダヤ人」ではなく、新たな近現代の「さまよえる複合ユダヤ人」の物語なのである。
>第1に、「モーセの民」と「タルムードの民」は必ずしも一致していないということだ。本来のユダヤ教は
>「旧約聖書」と「ゾハール」と「タルムード」が聖典であるが、アシュケナージは「タルムード」しか読まない。
>第2に、言語の問題がある。「モーセの民」はヘブライ語の民である。ところがディアスポラのユダヤ人は
>各地でその地域の言語を編集して、新たな“ユダヤ風の言語”をつくった。それが10世紀ごろに
>確立されたイディッシュ語である。ドイツ語を基盤に、そこに「タルムード」の単語や句を交ぜた。
>これが大流行した。アシュケナージは主としてイディッシュ語をマメ・ロシュン(母語)とした。さきほどの
>ユダヤ・コモンズ「シュテトゥル」もイディッシュ語である。