【社会】元寇で使われた「てつはう(鉄砲)」、実は殺傷力があった?
は〜3重になってるよ
ギコナビ乗り換えようかなァ
重ね重ね、スマン
422 :
名無しさん@3周年:02/08/13 16:28 ID:oTuqHoAO
本屋に「野良猫は泣かない」を買いに走れ
「てつはう」は、ウリナラが起源ニダ!!
てレスあった?
425 :
名無しさん@3周年:02/08/13 17:07 ID:oNEQmIVH
>>418 漢民族自体、もともと色んな民族が統合することによって出来たと思われ。
(まあ、どんな民族もそうなんだが...)
それと中国は、ここ2000年の間に、人口が減少した時期があって、
確かその頃、五代十国の時代で、北方から大量の少数民族が流入してきて、
様々な少数民族が主導する王朝が出来たと思われ。
そんなわけで、現在の華北(北京など)あたりの漢族は、その時代の
少数民族の血が強いと思われ。
ちなみに、同時期に挑戦半島も、大陸に出来た少数民族の国の属国になって、
大量に移民が流入し、また大陸の戦乱による大量の難民が流入してきていると思われ。
426 :
名無しさん@3周年:02/08/13 17:26 ID:NSjFFDfF
>>425 上海人(呉人)は、自分たちが古代中国の原型に近い民族であって、
北京の連中は、北方からの流れ者とその混血民だ、みたいなこと言ってたな。
それで、広東人はベトナム人に近い南越人の血を濃くうけているみたいな...
427 :
名無しさん@3周年:02/08/13 17:29 ID:Z8xAh/7m
俺が昔元寇だった頃、
イエーイ
428 :
名無しさん@3周年:02/08/13 18:05 ID:heZgjeyk
対馬で男は皆殺しにされ女は掌に穴を開けられ魚の様に船に並べられ強姦された挙句
200人の子供は高麗軍に連れ去られて忠烈王に献上されたのが秀吉の朝鮮出兵の理由ですが何か?
高麗=朝鮮
429 :
名無しさん@3周年:02/08/13 18:08 ID:xzH6/9uI
てつはうに近い兵器で有名なものは、毛利水軍が使用した焙烙火矢
だろう。これはハンマー投げの玉のような形状をしており、ハンマー投げ
と同じく振り回して投げつけるというもの。ただし玉の中身は鉄片では
なく焼夷弾であり、主に火災を発生させることを目的とした。
石山本願寺への海上補給を目的とした第一次木津川口海戦では、
織田水軍は焙烙火矢による焼き討ちで大敗北を喫する。
これに懲りた信長は「燃えない船」のコンセプトの元、九鬼義隆に
鉄張り船の建造を命じる。こうして完成したのが鉄甲船で、2年後の
第二次木津川口海戦では焙烙火矢を無効化し、逆に毛利水軍を
敗走させている。
430 :
名無しさん@3周年:02/08/13 18:10 ID:lJS1p6Tn
かれらは固有の軽騎兵の密集体系を駆使しぬいてユーラシア大陸を席巻したが、
しかし、騎兵の集団運用が地理的に適しがたい日本を攻める場合、平然と歩兵主義をとった。
武器は、中国を含めたユーラシア大陸という広域規模の中から選り取りで採用した、強力かつ
新奇なものをそろえていた。たとえば、鎌倉武士の頭上で盛んに炸裂した「震天雷」という
投擲爆弾もそうであった。よく知られているように、鎌倉期の日本の戦法も敗因の一つだった。
同民族内部の争いの中で発達した日本の陣法は、敵を集団としてすり潰してゆくという大陸の
陣法から見れば基本思想として異質であり、いわば様式化された舞踊のようなものであった。
戦争とは敵を大量に殺傷することだという思想は、源平合戦においてもまったく存在しない。
戦争というよりもスポーツに近く、スポーツと同質の約束事が同民族内で成立し、慣用されていた。
元寇は、軍事の形をとった普遍性の高い文明と、特殊な民族文化との間の激突であったといってよく、
つまりは日本が普遍的文明という恐るべきものに触れた最初の経験であったといっていい。
432 :
418:02/08/13 18:19 ID:wPzdic0x
433 :
名無しさん@3周年:02/08/13 18:29 ID:xfReZlnr
>>431 実際はそうでも無かったらしいよ。
源平の合戦の頃は、意外にも東国兵は集団戦法だったらしい。
むしろ、京の護衛兵の連中なんかが、個人戦法みたいだったらしいが...
あと元寇の時は、最初の戦の時は準備不足で、寄せ集め集団だったみたいだし、
当時の日本は、承久の乱後、大きな戦争が無く、比較的太平の世だったので、
九州の御家人、非御家人たちは、戦は初体験だったわけで...
434 :
名無しさん@3周年:02/08/13 18:38 ID:n+jQ4YTR
東国は野臥せりだらけ。
だから、そこで苦労した源氏側は当然、彼らの戦法に精通してたろう。
第一、虚実は定かじゃないかもだが、義経義仲の戦法なんて、まったく
勝利至上の何でもあり戦法じゃん。
435 :
名無しさん@3周年:02/08/13 18:39 ID:YU/2FB7u
日本国内の戦争では、兵数がものをいうわけで。
周りを海で囲まれて、山が多い島国での戦は、
大陸のように機動力を生かす場が無いので、
蒙古、南宋、高麗の連合軍、14万では、日本(当時1500万人)を攻略するのは、
その兵数や、補給網の確保の難しさを考慮して、無理であると思われ。
海を超えてきてるので、食料補給などを安定させるのが難しく、
14万の騎兵では、敵地の日本国内にいる30万〜40万の兵力に勝つのは無理。
>>418 金は名前からして違う民族っぽい予感が・・・。
中国の人にも歴史上猛烈に人気が無い国だし。(明は人気ある)
>>397 >>389の
>「武器という武器、特に火薬を使った武器の殆どが中国発祥」
>「西欧諸国は結局中国の技術を加工して発展したに過ぎない」
言い方が某半島にお住まいになられている方々と同じ匂いが・・・
>対艦ミサイルの原型
ロケット弾の原型なら分かるけど・・・。
それとも誘導装置が発見されたのですか?
>連射弓
射程が短すぎて、あまり実用性はなかったそうですが・・・
>中国はそういった武器が世界一進んでいた
これは正しいのでしょうね。毒ガス兵器なんてありますものね。
全体的に必ずしもうそじゃないけど、オーバーなような気がします。
>>436 金は統一王朝じゃないじゃん。
ちなみに金と清は同じ女真族(満州族)が作った国で、
最初、清は後金という国号を名乗っていた。
439 :
名無しさん@3周年:02/08/13 18:47 ID:V0dBz/Uv
つーか、当時の日本の戦闘というのは、侍という職能の仕事に過ぎなかったわけで、大陸のように一国が全力を挙げて取り組むというようなものではなかったんでないの。
440 :
徳仁:02/08/13 18:50 ID:iNTAxoRN
>>金は統一王朝じゃないじゃん。
北朝鮮の金王朝はどう?
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「豆腐の角」も、実は殺傷力があった!!
442 :
名無しさん@3周年:02/08/13 18:56 ID:5Y6cMbQh
源頼朝が、奥州藤原氏を討伐した時、
鎌倉方が約28万、奥州軍が約3万の兵力だったと思われ。
承久の乱の時は、
鎌倉方が19万で、朝廷方が...ちょっと分からない。
そんなわけで元寇の時の大陸軍14万は、そんなに驚くほどの数字ではない。
2回目の元寇の時、14万の大陸軍を上陸させないのに、
博多の沿岸に待機した日本軍の4万という数字は、だいたい妥当な兵数である。
(普通、攻勢と守勢では、守勢のほうが少なくても十分戦える。)
仮に博多を突破しても、日本奥地に攻めあがると、
そこからは食料補給網を確保するのが難しくなり、後ろに控えている
本州を中心にした20万を軽く超える大軍と、慣れない敵地で戦わねばならない。
しかも海を越えてきているので、簡単には母国には帰れず、
1回大負けすると、そこで全滅する可能性が高い。
444 :
名無しさん@3周年:02/08/13 19:07 ID:aHqlWav2
あまりみなさん指摘しませんが、元寇の、少なくとも二回目の戦いで、日本を
勝利に導いた要因の最たるものは、短期間で博多湾のほぼ全域を石垣、
土塁で覆ってしまうなど、土木技術の分野の貢献によるところが
大きいのではないでしょうか。日本史の他の局面でも、
秀吉の一夜城や水攻め、ほかの例ではペリー来航の折、
条約締結の返事を得る為に最初の江戸湾入りから二百日ほどして
もう一度来た時に、前にはなかった”お台場”を見てびっくりした話など、
ここぞというところで土木技術が実際の戦闘行為以上の結果を出しているのが
日本の特徴かと思います。俺が思っているだけかな...。
445 :
名無しさん@3周年:02/08/13 19:07 ID:3g+3K60+
>>442 最近の研究では神風が吹かず、上陸に成功したとしても、
大阪付近に到達することすら困難だったみたいだね。
特に瀬戸内海の制海権がネックなるだろうと。
しかし、フビライはあんな少ない兵力と不完全な兵站で日本に勝てると
本気で信じていたのだろうか。やはり大陸の遊牧民的な発想が抜け切らなかったということか。
南宋や高麗人は心得ていろうに。
446 :
名無しさん@3周年:02/08/13 19:09 ID:ByuUX+W/
>>439 ていうか、鎌倉期、室町期、戦国期、江戸期と、
武士に対する意味合いの違いを考えなければならない。
基本的に、武士、侍なんてのは、後世(江戸、明治)の人間が
歴史を考えるのに、分かりやすくした区分みたいなもので、
鎌倉期の武士と言うのは、農村にいり開発領主で、農民との境界線も
意外に曖昧だったと思われ。
ちなみに、鎌倉幕府と契約した開発領主を御家人とよんた。
元寇の時は、御家人以外にも、非御家人たちも参戦し、
彼らの中には、農村の大地主からの成り上がり者も多かったと思われ。
そういう意味では、大陸と変わらんと思われ。
448 :
名無し三等兵:02/08/13 19:20 ID:zPTApRkM
>>444 土木技術が優れていたというよりも、単に防備を固めた海岸に
上陸するのが難しいってだけ。
>>448 コレは数百年を経た今でも変わらない真理だな。
自衛隊は今でも水際撃滅戦術を取るのか?
450 :
名無しさん@3周年:02/08/13 19:32 ID:89I1+5dP
>>444 土木技術が優れてるとか、そういう歴史観は、
チョソの歴史観とあんまり変わらず、いい見解とは思えない。
当時、14万の兵力で博多に上陸する場合、
防備を固めた4万の兵が待機してると、なかなか上陸は難しいと思われ。
しかも、2ヶ月間も船の上で足止めをくらったので、食料も尽きて、
狭い船の中で2ヶ月間も暮らして船酔いなんかも大変だろう。
当時は季節的に蒸し暑く、船の中は最悪の状態だったと思われ。
451 :
チンギスあせ:02/08/13 19:33 ID:mHB2Zrqj
ヘ へ
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∧∧
452 :
名無しさん@3周年:02/08/13 20:17 ID:CsBqT2ki
海は天然の要塞だな。
一回目の来襲は脅しにすぎなかったらしいね。
>>444 日本の特徴と言うよりは
どの戦争でも土木技術は重要だったと思われ。
各国とも非常に力を入れていたと思われ。
454 :
名無しさん@3周年:02/08/13 21:03 ID:xV5xkt/R
産業革命以前は、国、地域によって、技術や経済水準は
そんなに差があったとは思えん。
だから現代のように、兵数以上に軍事技術の差によって
戦争の勝敗が決するようなことは稀と思われ。
国力は農業生産高によって、ほぼ決まり、それは人口によって表れたわけで...
>454
おいおい、そんなこと言うなら、元はどうなるんだよ。
いかに国力が高くてもそれを運用する能力が低ければ意味がなく、近代以前の戦争では、国、地域によって、その差は、顕著にあったと思う。
456 :
名無しさん@3周年:02/08/13 21:43 ID:Ux/mVNc2
>442
鎌倉殿の精鋭が破れたとしても残りの有象無象が日蓮上人が期待した
ように元軍に組織的に抵抗したら大したもんですが、それは期待薄で
しょう。
逆に組織的にたった10万の清軍に組織的に荷担して国中を蹂躙して
まわった明の将軍もいましたな。
457 :
:02/08/13 21:48 ID:mEpdHkoq
しばらく見ない間に漢字多くて難しい長文ばかり・・・・シクシク
458 :
名無しさん@3周年:02/08/13 21:48 ID:Ux/mVNc2
>>454 唯物史観(過去の遺物かもしれんけど)派の歴史学者は元の
躍進は華北で始まったエネルギー革命(石炭)と製鉄に由来
するといってましたぞ。つまり国力の差だったと。
>>456 鎌倉幕府の根幹はまだ揺らいでいない時代。
御恩と奉公の秩序は未だ健在。
清が来る前に勝手に自爆した明と比べるのはどうかと思うが。
460 :
名無しさん@3周年:02/08/13 21:58 ID:kYCXkGSP
>>458 そういうのも多少影響があるかもしれんが、
元は基本的に兵力で勝ったんじゃないんじゃないの?
中国に関しては、彼らの内乱によるところが大きい。
漢族が団結すれば、少数の蒙古は勝ち目がない。
はぅっ…
462 :
名無しさん@3周年:02/08/13 22:04 ID:V0dBz/Uv
>>446 遅レスだが、中国・朝鮮は一般人民の動員が可能だったが、日本は職能者(侍)しか動員できなかったのではないかと思ったのだが。
463 :
名無しさん@3周年:02/08/13 22:04 ID:bJ2ej7lT
遊牧民って、定住型の都市や農地がないので、
漢族は、遊牧民の生活基盤を攻撃できない。
遊牧民は劣勢になれば、広大な蒙古高原に逃げ込み、
体制を整えると、再度、何度も攻撃してくる。
漢族は兵力は大きいが、定住生活してるので、
都市や農地といった生活基盤を攻撃されやすい。
464 :
名無しさん@3周年:02/08/13 22:06 ID:HFTKJTSP
465 :
名無しさん@3周年:02/08/13 22:14 ID:IVAIJPJh
>>462 職能者という考えは、後世のものだろう?
実際、当時の武士階級は、農村から起こった新興の開発領主だったので、
いわば、半分農民のようなもの。
兵の連中の中には、農村で田畑を耕していた者も多かったと思われ。
だから、源頼朝は28万もの大軍を動員できたわけで。
御家人、非御家人の部下は、一般人民からの動員もあったと思われ。
まあ、戦国時代のほうが、大規模になったのは確かだが...
専業の軍人が整えられたのは、信長の時代でしょう。(兵農分離)
466 :
名無しさん@3周年:02/08/13 22:15 ID:1QDtOh5E
>>428 ソースきぼんぬ!
...てか、探します。自分で...。スンマンソ...。
467 :
456:02/08/13 22:25 ID:qHjPvxsZ
>>459 後半明末のDQN将軍を引き合いに出して墓穴を掘ったか。
しかし、時は朝廷方との2重統治の時代。幕府軍の形勢が
怪しくなると元々朝廷方の人間は、いろんな事をする輩が出
たと思うが。
468 :
名無しさん@3周年:02/08/13 22:30 ID:IVAIJPJh
>>467 軍事専門家が、当時、元軍が日本を征服するのは、科学的に見て難しいと言ってたよ。
ただ、君の言うとおり、朝廷の連中は、アホなことしそうだ罠。
>>458 それは躍進の途中で、元が取り入れたものの一つに過ぎないだろう?
そういったものを取り込み活用できる柔軟性こそ必要であり、国力は後から付いて来る。
470 :
名無しさん@3周年:
朝廷だからな