【社会】「茶会へ来て」豊臣秀吉が徳川家康を茶会に誘った朱印状、農家で発見…山梨
1 :
☆ばぐ太☆φ ★:
★<秀吉朱印状>家康に「茶会へどうぞ」 山梨市の農家で発見
・豊臣秀吉が徳川家康を「茶会」に招待した際の朱印状が、山梨市の農業、梁田壽昭さん
(74)方で見つかった。
千葉県立関宿城博物館の島田洋・上席研究員(43)が発見。書状(縦23.8センチ、横71
センチ)には、秀吉がよく用いた上質和紙「大高檀紙(おおたかだんし)」が使われ、直径3.7
センチの秀吉印判が押されていることから、本物と断定した。
あて名は「江戸大納言(家康)殿」とされ、「先のお見舞状は拝見しました。目の病気も湯治で
治ったのでご心配なく。近く伏見で茶会を行うので来てもらいたい」との内容が記されている。
発行日は文禄2(1593)年9月11日とある。
秀吉は同年、朝鮮出兵(文禄の役)で出陣した九州・名護屋城から「秀頼誕生」の知らせで
急きょ、大阪に帰り、9月22日、完成直前の京都伏見城で家康と前田利家の2人を招待して
「同城口切(くちきり)の茶会」を持っている。
島田上席研究員は「文面から、秀吉が家康に十分に気を使っている様子がうかがえ、豊臣
政権の重要な動きを示す貴重な史料だ」と話している。
梁田家は戦国末期の下総国関宿城主。大阪の冬の陣で徳川方に参陣、功績を上げて旗本と
なった旧家だが、朱印状を所有した経緯は伝わっていないという。(一部略)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20020807-00000203-mai-soci
2 :
名無しさん@3周年:02/08/07 10:24 ID:Nm2Gyqgu
2
3 :
名無しさん@3周年:02/08/07 10:25 ID:ErvQBS0R
捏造じゃないの?
4 :
名無しさん@3周年:02/08/07 10:25 ID:RvqwWQV0
お前ら俺にひれ伏せ!俺は町田の東京都民!町田is東京!町田is東京!
町田is東京!町田is東京!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/\ /\ /都民\/../
/ /\ \( ・∀・)./
())ノ__ ○二○二⌒/../
/ /||(二ニ) (___/../ 几l
γ ⌒ /|V||彡Vミ/⌒_ノ二二ノl0
l| (◎).|l |((||((゚ )/⌒/||三三三・) || (´⌒(´
__ ゝ__ノ  ̄(___) ̄ ゝ__ノ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(´⌒(´⌒;;
>>3へ お前はさいたま市民。ひらがな市名でいきがってんじゃねえ ププ
>>4へ お前は大阪民国民。犯罪率日本一。日本の恥 ププ
>>5へ お前は筑豊出身者。生活保護受給日本一。日本のお荷物 ププ
>>6へ お前は足寄町民。ムネオの威光も過去のものだぜ ププ
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ナ∀ウ)<
>>7-1000へ 今から都庁展望台でフィーバーしてくるモナー。俺は町田の東京都民!
( ) \__________________________
| | |
(__)_)
5 :
名無しさん@3周年:02/08/07 10:26 ID:fQz9o9fF
5
6 :
名無しさん@3周年:02/08/07 10:26 ID:ZBXmsfrq
明智光秀
↓
7 :
名無しさん@3周年:02/08/07 10:26 ID:4xp6NAxt
6
なぜ農家に・・・
9 :
名無しさん@3周年:02/08/07 10:26 ID:KBOHYbra
なんでそんなとこで見つかるんだよ?
俺んちにもなんかあるかな?
「利家とまつ」
昔の名家とかかな?
12 :
名無しさん@3周年:02/08/07 10:27 ID:pTZ9v/Q7
お宝鑑定団に出してみろ
14 :
5:02/08/07 10:28 ID:fQz9o9fF
IDがFと9だらけだ…
15 :
8:02/08/07 10:29 ID:uVjXGb6A
>9
∧_∧ @∧ ∧@
(*´Д`) (´∀`*) チャラーン
|≪∞≫@@*@@
|U..V .| ミ⊃⊂彡
| : | /∞ ∞\
(__)_)〜〜〜〜〜
16 :
名無しさん@3周年:02/08/07 10:31 ID:WOhv3UHN
17 :
名無しさん@3周年:02/08/07 10:32 ID:ErvQBS0R
ヤフーオークションに出してみろ!
18 :
h:02/08/07 10:35 ID:ZYSPbQwh
朱印状を所有した経緯…、盗んだんだろ。
農家といえども、一国一城の主の末裔じゃねえかよ。
20 :
名無しさん@3周年:02/08/07 10:51 ID:P7Q1bK/l
廃藩置県より前のこと、関東大震災より前のこと解ってない人間には
ジェラシー感じるのかもね。
可哀想な
>>4 町田は東京市部
21 :
名無しさん@3周年:02/08/07 10:52 ID:ua9JkUX5
また捏造かよ。
で、あるか……
ばぐ太のスレに夢中
24 :
名無しさん@3周年:02/08/07 11:06 ID:tqSlZFMb
>22
で、あるが何か?
25 :
名無しさん@3周年:02/08/07 11:08 ID:KlvYkpRd
この頃は7年後には家康の天下になるとは予想してなかったろうな。
26 :
ああああ:02/08/07 11:10 ID:YGT1co6x
太閤立志伝やりたくなった。
27 :
名無しさん@3周年:02/08/07 11:45 ID:jYKEhpzU
俺も作るかな。
木簡とか
28 :
名無しさん@3周年:02/08/07 11:49 ID:0BRdl8xp
>島田洋・上席研究員(43)
こいつ、一人で勝手に断定とかして良いのか?
29 :
名無しさん@3周年:02/08/07 13:31 ID:YtHNiWcu
30 :
もう少しで基地外:02/08/07 13:32 ID:X0lWpDHD
「茶会に来て…」
激しく意味深
豊臣秀吉は戦国時代のヒトラーなんだっけ?
32 :
名無しさん@3周年:02/08/07 13:35 ID:6iecmC/0
33 :
名無しさん@3周年:02/08/07 13:40 ID:dhCBtZm6
名家だったとしても何故
「自分の上司が偉い人からもらった手紙」なんか持ってるのだ?
まだ刀とかだったら名家に貰い物があってもいいけど
他人の手紙って・・・? そういうの管理する役目の人だったのか?
34 :
名無しさん@3周年:02/08/07 14:19 ID:xJV5SkXo
秀吉が家康のご機嫌とりに出した茶会の招待状を
このおっさんの祖先が握りつぶしたために
関ヶ原の戦いが起こったということか?
35 :
?1/4?3?μ?3?n???R?u¨?N:02/08/07 14:21 ID:btLLrCm4
家康ぅ、あのさ、お茶しない?
36 :
名無しさん@3周年:02/08/07 14:21 ID:sGHAV+lN
朱印を預かってすっとぼけていたのか、ここのご先祖様は。
37 :
名無しさん@3周年:02/08/07 14:24 ID:KlvYkpRd
秀吉は家康に「頼むから俺に頭下げて」と人質2人も贈ったんだったよな。
しかも秀吉の妹(姉?)と母を
38 :
:02/08/07 14:24 ID:pnqhZfbQ
某国会議員からの「お酒のお誘いメール」を
保存していますが、将来、価値がでるのかな?
39 :
名無しさん@3周年:02/08/07 14:25 ID:R93n3h5z
>>2-38 どういう方向で叩こうか、みんな手探り状態だな(w
40 :
名無しさん@3周年:02/08/07 14:27 ID:xJao6a7G
ちがうよ。秀吉くんが手紙入れるげた箱を間違えたんだよ。
41 :
名無しさん@3周年:02/08/07 14:28 ID:FqDT/HRP
42 :
名無しさん@3周年:02/08/07 14:29 ID:OTrLPrbX
43 :
名無しさん@3周年:02/08/07 14:29 ID:eygAX2Xm
人事
→没収
44 :
名無しさん@3周年:02/08/07 14:31 ID:v61WzShG
手淫がどうかしたか?
45 :
名無しさん@3周年:02/08/07 14:33 ID:QdVmcjOM
>34
ワラタ
46 :
名無しさん@3周年:02/08/07 14:35 ID:d47RC91h
B&Bかとおもた。
47 :
名無しさん@3周年:02/08/07 14:38 ID:E6G3YOFY
「茶ぁしばかへん?」
48 :
名無しさん@3周年:02/08/07 14:38 ID:ddzSF1ht
「ののたんからあいぼんへのてがみ」
の方が、値が付くのに。
49 :
名無しさん@3周年:02/08/07 14:39 ID:gzn04m1W
茶道下手の家康にはある意味皮肉だな(w
50 :
名無しさん@3周年:02/08/07 14:59 ID:cChVn9Qc
豊臣政権って、徳川政権に比べて、連合政権的意味合いが強いよね。
そういう意味で、弱体政権なので、外様大名のことを気にしなければならない。
豊臣政権下の石高
豊臣家220万石 徳川家250万石 毛利家120万石 上杉家120万石 ...
親藩譜代の層が薄いあげく、近隣に毛利などの外様の大大名が存在し、
ある程度、外様の顔を伺わなければならない。
徳川政権下
徳川家400万石 前田家120万石 島津家80万石 伊達家70万石 ...
しかも御三家を筆頭にして、親藩譜代の層が厚く、
江戸の近隣は、親藩譜代でガッチリと固めている。
可能性はいくつか考えられるが…
豊臣あぼーん
↓
いらない文書の廃棄
↓
廃棄係(やなだ)が手紙ハケーン
↓
「お、珍し。太閤から神君への手紙ぢゃないか」
↓
掛け軸にして保存
↓
秀吉の下手な字が読めず、誰の手紙か忘れ去られる
↓
現在に至る
とかじゃないの?
52 :
名無しさん@3周年:02/08/07 15:17 ID:ddzSF1ht
筑波万博で催された「21世紀の自分への手紙」
全く忘れていたものが、突然配達された。
読んでいくたび、ずんずん鬱に沈んでいく自分がいた…。
53 :
名無しさん@3周年:02/08/07 15:20 ID:WRQ9wk42
>>50 豊臣政権は徳川政権と違い,海外貿易収入が莫大だったので徳川政権下のように単純に石高の多寡では大名の力関係は測れません。
徳川家が重要都市の周りを譜代で固めたのは豊臣家の影響です。
また,徳川家の政治体制の確立は秀吉の一連の改革があってこそだということも忘れないでください。
54 :
名無しさん@3周年:02/08/07 15:22 ID:jO4j2hIj
秀吉の手淫状なんて汚ねーーー
55 :
名無しさん@3周年:02/08/07 15:32 ID:XKkycmBl
>52
まぁ、大半の人はそんなもんだ。
56 :
名無しさん@3周年:02/08/07 15:34 ID:cChVn9Qc
>>53 家康の頃の徳川幕府は、海外貿易は積極的だっただろう? 鎖国は家光からだろう?
徳川家の政治体制の確立は秀吉の一連の改革だったのは正解だと思う。
あと、豊臣家は、直轄領は220万石で、外様大名の徳川250万石より小さいけど、
一応、譜代や一門衆の大名がいて(例えば、福島、加藤、木下、など)、
それを合計すれば、同時期の徳川250万石よりは多くなる。
あと、天下をとってたので、外様からも税を徴収できたので、その蓄えがある。
ただ、後に成立した徳川政権と比べれば、豊臣政権は弱体政権なのは事実だと思われ。
57 :
名無しさん@3周年:02/08/07 15:37 ID:KlvYkpRd
>>49 家康にとっては茶道より本草学。
強壮剤作って長生きした。
58 :
名無しさん@3周年:02/08/07 15:53 ID:/faWTHkr
豊臣政権は、やっぱ外様大名の勢力が大きかったのは確か。
豊臣は直轄領が220万石かもしれんが、一門譜代を合計すれば、300万石くらいは
あったと思われ。
ただ、外様の雄、徳川は250万石、
毛利は120万石で、これに一門譜代を合計すれば、毛利は180万石くらい。
上杉は120万石で、これに一門譜代を合計すれば、上杉は150万石くらい。
徳川政権が、徳川直轄領が400万石で、一門譜代を合計すれば600万石?くらい。
外様の雄、前田が、120万石(一門譜代を合計して130万石くらい)、
その次の、島津、伊達などは、100万石に届かない状態。
(伊達に関しては実高は100万石は超えていたという見方もあるが...)
徳川政権のほうが、豊臣政権よりも安定してたのは、事実だと思われ。
59 :
名無しさん@3周年:02/08/07 16:04 ID:jmEYRuEF
で、行ったの?バックレたの?
>>57 典雅の道に疎い事をネタの一つにして、もっぱら実用の道を目指したのはたしか
しかし、その医者嫌いが逆に仇となったのではないか。
秀忠の遣わした典医すら近付けなかったらしいからな。
61 :
名無しさん@3周年:02/08/07 17:42 ID:z8JI48GQ
出所が違うからなぁ。
農民出身は厳しい。!
62 :
名無しさん@3周年:02/08/07 17:53 ID:dhCBtZm6
家康がうなぎの天麩羅喰って死んだって本当?
63 :
名無しさん@3周年:02/08/07 17:54 ID:lwOhOKdL
天ぷら食って死んだってのは本当なのか? >家康
(´・ω・`)カサナッタ
65 :
山野野衾 ◆NDQJtGoM :02/08/07 17:55 ID:nUgys+o2
>62
鯛の天麩羅です。因みに当時登場したばかりで、現在のそれとはかなり違った。
66 :
はにわちゃん:02/08/07 17:59 ID:icID5wRm
ちゃー飲み友達スレスレ
67 :
名無しさん@3周年:02/08/07 18:05 ID:+ce8L92G
チタンの板に嘘歴史刻んでどっかに埋めとこうかな。
68 :
名無しさん@3周年:02/08/07 18:07 ID:si1xpLPu
関西弁だと「茶ぁでも飲みいかへんかぁ」
っていう感じ?
69 :
名無しさん@3周年:02/08/07 18:09 ID:kKUacs9v
名古屋弁だと??
70 :
名無しさん@3周年:02/08/07 18:09 ID:icID5wRm
梁田氏は,このころ,どういう立場だったのかな?
家康の麾下の武士だったのだろうか?
71 :
名無しさん@3周年:02/08/07 18:11 ID:SGMyZavd
秀吉研究は藤木久志に任せれ!
72 :
名無しさん@3周年:02/08/07 18:11 ID:si1xpLPu
そっか、大阪城のイメージがあったが
豊臣秀吉って名古屋人か
73 :
名無しさん@3周年:02/08/07 18:13 ID:bvpttBNL
愛知とは言っても、尾張と三河じゃ性格が違いすぎる。
74 :
名無しさん@3周年:02/08/07 18:13 ID:icID5wRm
そうか.考えてみれば,梁田氏の主筋の結城家は,結城秀康が継いでいる.
秀康を通して,家康と秀吉の両方に近い立場だったのかも.
75 :
名無しさん@3周年:02/08/07 18:16 ID:SGMyZavd
>>50 つーか前提が違うと思われ、
豊臣平和令ぐらい押さえとけ
76 :
:02/08/07 18:43 ID:aEbLxhE2
ヒデヨシくんは「誘い受け」デスか?
78 :
名無しさん@3周年:02/08/07 21:43 ID:MB5t4KWg
実は羽柴誠三秀吉の朱印状なわけだが。
79 :
名無しさん@3周年:02/08/07 21:55 ID:s/jbDb+8
江戸大納言殿じゃわかんねーよ
80 :
名無しさん@3周年:02/08/07 21:56 ID:9b9eeleg
私も今のうちに何か作っておこう。
( ´D`)ノ<
>>79 官位で呼び合うのが当時のならわしなのれすよ。
「江戸」とつけるのは大納言が複数いるかられす(加賀大納言=前田利家etc)
82 :
名無しさん@3周年:02/08/07 21:58 ID:9b9eeleg
83 :
名無しさん@3周年:02/08/07 22:11 ID:FMlJwkru
秀吉はね、秀頼ができちゃって、秀次につらなる人間みーんな殺しちゃっただろ。
結局血縁というか、家につらなって幼少の秀頼を補佐するべき人間みーんな殺し
ちゃって自分の中央集権体制敷いちゃったから、結局自分が死んだら粛正食らった
家臣団と三成みたいに粛正を図った家臣団が分裂してそれをまとめる豊臣家の人間
がいなかった。
そこに、家康が家臣団の分裂に乗じるという隙があったんだね。
ほんとは秀吉はもうちょっと長生きすると読んでたフシがあるし、死ぬとわかった
ときも唯一秀頼の補佐に頼っていた利家もおっ死んじゃったから・・・
政権としては、末期はかなり強固な政権だったが死んだあとの集団指導体制がいかにも
まずかった。
84 :
名無しさん@3周年:02/08/07 22:11 ID:icID5wRm
>>81 江戸大納言のときは,加賀中納言.
家康が内府になり,利家も加賀大納言に昇進
85 :
名無しさん@3周年:02/08/07 22:14 ID:9b9eeleg
>>83 利家って、秀吉よりも長生きしてなかった?
86 :
名無しさん@3周年:02/08/07 22:20 ID:FMlJwkru
>>85 ったりめーだろ。
ちょっと文がまずかったな・・・ていうか訊くなよ常識。
87 :
名無しさん@3周年:02/08/07 22:21 ID:GpSa56Yq
当時の鯛の天ぷらってすったニンニク入りって聞いた事があるけど本当だろか?
88 :
カトちゃん ペ:02/08/07 22:25 ID:1o0cBctm
加藤茶会
89 :
名無しさん@3周年:02/08/07 22:57 ID:FBmN+7rQ
>59
> 9月22日、完成直前の京都伏見城で家康と前田利家の2人を招待して
> 「同城口切(くちきり)の茶会」を持っている。
ってあるから、行ったんじゃないかな。
90 :
名無しさん@3周年:02/08/07 23:04 ID:NfGHun/s
おもしろい
91 :
名無しさん@3周年:02/08/07 23:10 ID:Ikrg6E18
>>83 しかし秀吉の一族にはろくな奴いなかったろ。秀長は死んじゃったし。
種が薄いのが敗因か
93 :
名無しさん@3周年:02/08/08 01:34 ID:8Ss7N9DC
凄い家系の簗田氏も今じゃ農家か…
でもお宝は一杯あるんだろうな
94 :
茶道スレより:02/08/08 02:33 ID:yhaXwx+t
口切の茶会?茶事じゃねーのか?
口切の茶事とは炉を開くとき、新しく茶壷の口を切り祝うことだ。
昔は禁裏、公卿、大名、庶民あらゆる層に至るまでが、それぞれの茶壷を
取引のある茶師のもとに預けており、茶師が其の年の新茶を茶壷に入れ
封印を押し、半年ほど寝かせ茶の風味を最上にし、その茶の風味を最上に
し、その茶壷を各々の家に届けたのである。
口切は茶の正月であるので、
客として口切に招かれるということは大変光栄なことである。
95 :
名無しさん@3周年:02/08/09 00:00 ID:0Q1iHR1T
東照大権現マンセーage
96 :
名無しさん@3周年:02/08/09 01:06 ID:G+Onfl0M
で、行ったの?
97 :
名無しさん@3周年:02/08/09 01:09 ID:i5XeuGD1
羽柴誠三秀吉
98 :
名無しさん@3周年:02/08/09 10:24 ID:lx1cZ62H
文面が「茶でもしばく?利家も呼んでるで〜」
だったら秀吉DQN確定
99 :
名無しさん@3周年:02/08/09 10:33 ID:obtMa0fT
>>98 っていうか、秀吉ってDQNじゃねーか?
漏れにはそう見えるんだが・・・
100
>>99 現代でもDQN上がりだけど会社を興して大成功するタイプの人っているじゃん。
そんな感じだと思う。
102 :
名無しさん@3周年:02/08/09 10:39 ID:kqa4iu3R
捏造は結局ばれて痛い目に遭うっつーことがまだわからんのか、山梨県民は。
103 :
名無しさん@3周年:02/08/09 10:40 ID:rDc/zcB/
俺の知ってる元藩主で今は農家(代々市長だが)は広大な山林
を持っていてその中に町に水道を供給してる貯池なんかもあるが
その山林の中に江戸時代の隠し地下蔵があってそこに
千両箱数十個や刀剣、銀銭、掛け軸から最近の株券まで隠し持ってるな。
104 :
名無しさん@3周年:02/08/09 10:43 ID:78gNzfVZ
>>87 ニンニクは薬味に使ってたという話を読んだことがある。
105 :
名無しさん@3周年:02/08/09 10:44 ID:Z42G3eIm
秀吉って茶道やったり、花見したり、けっこう粋だよね。
見習いたいわ。
106 :
:02/08/09 10:46 ID:SltSX8zK
107 :
名無しさん@3周年:02/08/09 10:54 ID:CCQ6E93N
花の慶次にこんなシーンあったよな
108 :
名無しさん@3周年:02/08/09 11:06 ID:78gNzfVZ
>>105 お祭り騒ぎのイベントを企画させたら天才的だったそうだ。現代に生まれてたら
広告代理店とか芸能プロダクションを作って成功してたかもな。
109 :
名無しさん@3周年:02/08/09 11:47 ID:thjd7493
>>108 秀吉は自分に対するプロモーション活動では天才です。
ていうか、茶会のたびに公家や有力者に金銀配ってたんだよね。
あと、茶人が競って自分のスタイルを宣伝する格好の場だったり、ルソンの壷を
物色する場だったり。
皆の欲望と芸術と資金の循環と政治と権力闘争が入り混じった最高の舞台を花見や
茶会に取り込んでたんだから、ある意味史上最高のプロデューサかもね。
しかも階級関係なく何か披露できるものがあれば参加できたりした。
2ちゃんねらぁ 見てきたように ものを言い…
112 :
名無しさん@3周年:02/08/09 23:35 ID:G+Onfl0M
バックレ
113 :
名無しさん@3周年:02/08/09 23:56 ID:hxWNyAXI
すいません。こんなスレなので
誰か答えてくれるんじゃないかと思って質問します。
征夷大将軍って源氏と血縁関係ないとなれないの?
昔、友人にそー教えてもらったんだけど、
なんとなく気になってたもので。
ご教授下さい。
114 :
名無しさん@3周年:02/08/09 23:57 ID:Mg/JnqKE
ちがうだろ
115 :
名無しさん@3周年:02/08/09 23:58 ID:/e2EofrJ
っで鑑定額はおいくら?
116 :
名無しさん@3周年:02/08/10 00:01 ID:/QIdbT4f
>>113 捏造した家系図でも天皇が認めればOKです。
118 :
名無しさん@3周年 :02/08/10 08:49 ID:onV2af6j
なんで山梨に住んでんだろ
119 :
名無しさん@3周年 :02/08/10 13:51 ID:iKJoszxQ
秀頼は本当に秀吉の子なのか?
二条城で家康と会見して「秀頼は思いのほか賢い」と判断したそうな。
秀吉はすっかり東京に水をあけられた今の大阪をあの世でどう見ているのやら。
120 :
名無しさん@3周年:02/08/10 13:54 ID:lSinlQpf
>>119 それより自分の名前を勝手に使われてどう思ってるか聞きたい。
121 :
在日三世 ◆COREAbyg :02/08/11 02:02 ID:uXiM1RBZ
日本人は秀吉の韓国侵略をことを死んで償え
秀吉はあまり好きではないがチョンを叩いたのはエライ!
123 :
名無しさん@3周年 :02/08/11 02:07 ID:nEOXYSdo
この時に家康殺してりゃぁな
>121
ナウい煽りで、ちょお放置ぷれいってかんずぃ。
125 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:11 ID:7//3o+W5
「私を海に連れてって」豊臣秀吉が徳川家康を海に誘った朱印状、農家で発見
126 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:11 ID:0anj01eR
>>121 羽柴誠三秀吉をくれてやるからこれで簡便しろ
127 :
俺もばぐ太のスレに夢中:02/08/11 02:12 ID:NaWDYGWe
俺もばぐ太のスレに夢中
>>120 横レスだが、羽柴誠三秀吉のこと?
あれって秀吉の生まれ変わりじゃないの??
129 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:14 ID:4kHZUKjW
濃い茶age
130 :
名無しさん@3周年 :02/08/11 02:15 ID:JHDcRyI2
朝鮮征伐の時の名護屋城の茶会は無茶苦茶華やかだったらしい。
131 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:16 ID:tR/zZ5t6
>>85 秀吉の死後、豊臣家の為に大阪城で暮らしたはず。
その時、利家は引退状態だったかもしれないが。
132 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:20 ID:un08ch8L
昔城主いま農家か。
133 :
名無しさん@3周年 :02/08/11 02:21 ID:V4wffXHF
134 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:21 ID:XnXkpnfN
秀吉は、征韓論、日清戦争へ多大な貢献をしますた。
戦国乱世を平定しただけでなく、維新後の日本にあらたな目的を
与えてくれた偉大な人なのれす
135 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:23 ID:ZfQN1Ngh
>>98>>99 秀吉はDQNでも、そのDQNさのスケールが巷のDQN共とは段違いというか話にならんわな
136 :
俺もばぐ太のスレに夢中:02/08/11 02:26 ID:NaWDYGWe
プン シン ス ギル
豊 臣 秀 吉
137 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:27 ID:0Su4aqOe
江戸時代は豊臣秀吉はタブーだった。よく残っていたと思う。
138 :
名無しさん@3周年 :02/08/11 02:28 ID:V4wffXHF
139 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:30 ID:XnXkpnfN
>>137 だから、朝鮮侵略のために明治政府が蘇らせたんだよ!!
その時に、墨俣一夜城などの作り話が生まれた。
140 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:31 ID:zUN6pNF3
>>119 大野治長と茶々との不倫の子という説は、当時も今もある。
141 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:32 ID:V4wffXHF
>>136 うーん、やっぱ急にいわれると習ってないものはできないんだね。
在日でも。
142 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:34 ID:JFEmQpkF
>>140秀吉は種無しだし秀頼は巨漢だったし秀吉の子というのは考えられんな
143 :
名無しさん@3周年 :02/08/11 02:37 ID:TgRsCbXM
144 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:41 ID:0anj01eR
秀吉の種無しは、石原都知事の弟と同じで梅毒だったんだろ。
後年それが脳に回って唐入りなんてのをやらかそうとしたんだな。
利家が関が原前年に死ななかったら、やっぱり西軍の総大将になってたかな?
そして勝敗はどうなっただろう?
146 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:42 ID:BCWtCIQG
>>113 征夷大将軍は『源氏』が誕生する前から存在しましたよ。
147 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:42 ID:20Qw2IaW
開国シテクダサイヨ〜
史上初の征夷大将軍は坂上田村麻呂だっけ?
文字通り蝦夷征伐に出かけたんだよね。
150 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:46 ID:4wm3NV43
一万円 豊臣秀吉 朝鮮出兵
5千円 西郷隆盛 征韓論
1千円 伊藤博文 朝鮮人に暗殺される
これに汁!
151 :
名無しさん@3周年 :02/08/11 02:52 ID:QU3SkCbB
>>143 秀勝さえ死ななきゃ豊臣政権続いたのにね。
鶴松でもいちお可だが。
152 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:55 ID:AMgJYgjJ
戦時中疎開してきた人が食べ物と交換するためにこの朱印状を差し出したのかな
153 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:58 ID:CyKD+ktB
わざわざ遠出して、暑苦しい恰好して、まずい抹茶飲んで。
権力者ってよく分からんね。
154 :
名無しさん@3周年:02/08/11 02:58 ID:RH87jpbs
手淫?
155 :
名無し募集中。。。:02/08/11 03:03 ID:PgLSDT+J
梁田家って信長の野望にも出るじゃん
156 :
名無しさん@3周年:02/08/11 03:03 ID:tNwTv2AT
>>151 マジレスすると、続かんでしょ。
朝鮮出兵とかで、大名連中も豊臣政権に反感もったろうし。
結局、明の援軍を受けた朝鮮に負けたから、大名達にろくに論功行賞できなかったし。ほとんどただ働き。
唯一、秀吉に直言できるであろう、秀長も死んじゃったしね。
157 :
名無しさん@3周年 :02/08/11 03:08 ID:QU3SkCbB
>>156 続くに決まってるじゃん
反感持っただけじゃ誰も何も出来ないし
淀殿いないしw
158 :
名無しさん@3周年:02/08/11 04:33 ID:agH1rc3/
太閤が薨去して作戦中止・撤収しただけです
正直、チョンなんかに負けません
159 :
名無しさん@3周年:02/08/11 08:13 ID:4OIQgQpV
>146
征夷大将軍は、源氏か平氏しかなれなく、平氏は滅亡したから
源氏しかなれないというのを読んだ記憶ある。
中公新書の征夷大将軍とかの本、ちょっと今見つからないけど。
160 :
名無しさん@3周年:02/08/11 08:15 ID:8DvJhf36
ヤパーリ太閤さん、ええわぁ
161 :
名無しさん@3周年:02/08/11 08:19 ID:3YPdRGdZ
朝鮮出兵を悪く言うひとおおいが、
ああしなきゃポルトガル辺りに攻め込まれテタゾ
162 :
名無しさん@3周年:02/08/11 15:36 ID:G7zdrUrI
163 :
名無しさん@3周年:02/08/11 15:45 ID:TZwHqsp3
秀吉さんと野中って顔が似てるよね。
ばぐ太のスレに卒中
165 :
:02/08/11 17:44 ID:ARgCcCX9
征夷大将軍は源氏しかなれません。
でも征夷大将軍も関白太政大臣もはっきり言って変わらん。
166 :
名無しさん@3周年:02/08/11 17:53 ID:k16LG9NU
結局源平交代説のために
信長が平家を名乗って室町幕府を滅ぼして
秀吉が近衛家の養子に入って関白(源氏を名乗れるように頼んだけど駄目だった)
家康が先祖の乞食坊主の名前から新田系の得川(だったよな)に
連なるような偽系図を勅許で得て徳川を名乗った。
(おかげで後で将軍になる大義名分が出来た)
167 :
名無しさん@3周年:02/08/12 00:07 ID:oTvYdGLb
徳川政権のほうが、豊臣政権よりも安定してたのは、事実
168 :
名無しさん@3周年:02/08/12 09:04 ID:omwLFhFg
ちがうだろ
別に源氏じゃなくても征夷大将軍にはなれるよ。
初代は大伴弟麻呂、二代目が坂上田村麻呂、三代目は文屋綿麻呂。
その後も、頼朝、頼家、実朝の3代の後は、藤原頼経、藤原頼嗣、宗尊親王、惟康親王、久明親王、守邦親王と源氏以外が就任している。
ただし、その後足利が15代も続いて、雰囲気としては源氏じゃなきゃ将軍になりにくい状況だったとは言えるかもしれない。
(あくまで、近き先例のなかりせば…ってことだが)
実際には、関東の支配権を握っていることが重要だったらしい。
だから織田信長が征夷大将軍になる可能性があったという説もある。(「関東討ち果たされ重畳」という天皇の言葉があったらしい)
秀吉が将軍にならなかったのは、小牧長久手で家康に負けた後、関東の支配権を得るまでの間に、もう将軍より官位が上になっちゃったから、というのが真相だろう。
170 :
名無しさん@3周年:02/08/12 09:48 ID:AF9v4Y4F
豊臣政権の経済的基盤については,
>>50 や
>>53 あたりが述べているが
要するに封建政権としては不健全だね.それゆえに,官位による権威付けを
余計に必要としたのであろう.
大陸出兵も,政権の求心力づくりに苦心した末の政権延命策なのだ.
封建国家の支配者になることを諦めて,最初から財政国家として
生き延びる通をめざせばもっと長続きしたかもしれないのにな.
171 :
名無しさん@3周年:02/08/12 09:57 ID:rCdQgN70
韓国が長野県知事選の羽柴秀吉に抗議しています。
172 :
名無しさん@3周年:02/08/12 10:14 ID:7qo9ipru
太閤殿下に引き立てられながら秀頼公に叛く恩知らず・・か。
宇喜多秀家の七本槍に対するくだり。
173 :
名無しさん@3周年:02/08/12 10:36 ID:T8AJ3kT/
朝鮮人の耳を塩漬けにして日本へ送らせた極悪人
歴史談義はそれなりの板でやったほうが
造詣が深い人が多いと思うよ(勉強になる)
175 :
名無しさん@3周年:02/08/12 13:26 ID:5v+qFZkj
国宝とまではいかなくても重文級?
176 :
名無しさん@3周年:02/08/12 13:27 ID:9pWLokY0
177 :
名無しさん@3周年:02/08/12 13:28 ID:wk3tUxLj
>2
おまえ、「2」とか書いてて恥ずかしくないのか?
ほかのスレを見てみろよ。
ネタ、まじめな回答、そのほか何かを主張したくて、頭を使って書いてるよ。
それをおまえは何だ。考えた結果が
「2」か。何それ。
「2」とか書いて、それがスレの役に立ったか?
誰がおまえのレスに共感するんだ?
昔のことは言いたくないが、「2」なんて書いてる奴はいなかったよ。
なんか驚かそう。笑わそう。なんか考えてたよ。
その歴史を踏まえて、おまえが書きこむレスは
「2」なんだな。
わかった。おまえのことはわかった。
これからおまえのことを、哀れな人間として認識することにしたよ。
それから、あらかじめ言っておくが、
キリ番なんてゲットしようとするんじゃねーぞ。
そんときのおまえのあだ名は、「金の粒」だからな。おぼえとけ。
178 :
名無しさん@3周年:02/08/12 13:29 ID:p/VvdoJi
で山梨市の農家は成金になれるのか?
179
180 :
名無しさん@3周年:02/08/12 13:52 ID:ZjAkLw5u
ちゃーのみにこいや、オサーン?。
ひで☆
181 :
名無しさん@3周年:02/08/12 13:56 ID:U0FDaLGA
家康×秀吉
182 :
名無しさん@3周年:02/08/12 21:08 ID:omwLFhFg
183 :
名無しさん@3周年:02/08/12 22:07 ID:Z9F3K1Cx
関が原の戦いは、豊臣家の内紛(尾張閥と近江閥の争い)に
外様の徳川、毛利、上杉が介入したような形で起こり、
関が原以後の論功行賞で、徳川の石高が250万石から400万石になり、
逆に毛利や上杉は大幅に削減された。
ただ、それでも、直ぐには、豊臣家を潰せなかったのは、
豊臣家譜代の家臣に勢力拡大した連中もいたわけ。加藤、福島など、いわゆる尾張閥。
これらを合計すれば、まだまだ大勢力だし、豊臣家が天下を平定した時期に
大量に蓄えた軍資金が残っていたので、これらを使えば、15万ぐらいの兵力は
かき集めることができたわけで。
ただ、それでも、徳川は関が原以降、単独(直轄、譜代合計)でも
15万ぐらいの兵力は動員できたし、
着実に外様の大大名を、政略結婚(家康には子孫が多い)で親族化してき、
豊臣譜代の大名までに、政略結婚で、豊臣家からの切り離しを図った。
大阪の陣直前は、家康は40万の兵力は確実にしたと思われ。
大阪城を22万の大軍で包囲した。
184 :
名無しさん@3周年:02/08/12 22:25 ID:f3O+zvoq
前田利家が秀吉の生前に家臣でただ1人朝鮮出兵より徳川征伐を提案した
という資料が残っているからもしこれが実現していればどうなっていただろう?
185 :
名無しさん@3周年:02/08/12 22:41 ID:7yb6r6Ox
>>184 秀吉存命の頃の、徳川の石高は250万石で、動員兵力にして7万くらい?
普通、敵地で戦う場合、相手の3倍の兵力を必要とするので、
秀吉が徳川を征伐するには、単純に20万以上の兵力がいるが、
秀吉単独では無理なので、他の外様(毛利、上杉、島津、伊達など)の協力が必要になる。
ただ、秀吉は天下人で権威があって、いちおう他大名は彼の命令に従うと思われ。
しかし一方で、徳川を討伐するには、それだけの大義名分がいるわけで。
それがないと、毛利や上杉は、次は自分が討伐を受ける番だと警戒してくるわけ。
そうなれば、事態が複雑になってくる。
186 :
名無しさん@3周年:02/08/12 22:50 ID:LATnNnou
梁田家は御一新後、帰農しちゃってたんだね。
大身旗本(といっても大身の中では小禄のほうか)の殿様でも
農作業が勤まったんだろうか?
187 :
名無しさん@3周年:02/08/12 22:52 ID:7yb6r6Ox
>>185 秀吉が大義名分を得ないまま、徳川を攻撃すると、
少なくとも東国の外様の雄たちは、場合によっては家康につくかもしれない。
上杉、伊達、佐竹あたりは、徳川と組むかもしれない。
毛利は地政学的に西国で、秀吉に逆らえにくいが、それでも、
大義名分なしに徳川を攻めるとなると、次は自分の番だと警戒する可能性が高い。
そうなれば、天下が二分され、再び戦国の動乱になる可能性が高い。
結局、秀吉が家康を滅ぼすには、無理やりでも徳川の大きな落度をつくって、
周辺の外様の大大名を説得するしかない。
188 :
名無しさん@3周年:02/08/12 22:54 ID:11AmvmRQ
信雄のバカが・・・。
189 :
名無しさん@3周年:02/08/12 23:08 ID:v9P+sXNd
挑戦出兵で、海を渡った兵力って13万くらい。これって意外に少ない。
日本国内の戦争でも、九州の役で豊臣、島津 両軍で30万。
小田原の役も、大阪の陣も、両軍で30万。
関が原の合戦は、関が原付近に集結した軍は16万ぐらいだが、
関が原以外の地域も戦場になっていたので、それら全体だと30万は超えるだろう。
そう考えると、海を超えて投入できる兵力が15万前後というのは苦しいところ。
案の定、明が20万の援軍を送ってきたわけで。
海を越えてるので食料輸送もままならず、敵地なので当然兵力以上に不利。
無理があったわけで。
190 :
名無しさん@3周年:02/08/12 23:12 ID:11AmvmRQ
>>189 >日本国内の戦争でも、九州の役で豊臣、島津 両軍で30万。
兵農分離された兵士と農兵の区別ついてる?
四国・九州・東北では農民兵が主流
百姓に田畑を放置させて海を渡らせるわけにもいかないだろう・・・。
191 :
名無しさん@3周年:02/08/12 23:22 ID:v9P+sXNd
>>190 それは大きいね。大陸に渡るとなると農民兵は厳しくなる。
ちなみに、九州の役は、豊臣方の25万は兵農分離された兵が主流だと思われ。
本州軍は一応、遠征だったわけで、兵農分離率が高かったと思われ。
島津方の5万は農民兵が多かったかもね。
しかも、大友、竜造寺から寝返ったヤツラが多かったので、
強いものに巻かれろで、島津を見限る可能性が高い。
192 :
名無しさん@3周年:02/08/12 23:25 ID:ylqJ2Pf7
当時の日本は世界有数の軍事大国で戦争のノウハウも豊富。
足枷になったのはやはり対馬海峡越しの補給だろ。兵力が少ないのも補給
が続かないから。この戦の後、明は体力を消耗して遥かに少数民族の満州族
に滅ぼされている。秀吉の誇大妄想ではあっても、彼がもう少し長生きして
いたら中国の北半分くらい征服する可能性は十分あっただろう。
中国人は昔から戦争は弱い。その分、外交は得意だけどね。
193 :
名無しさん@3周年:02/08/12 23:31 ID:SKnbydUu
良スレage
194 :
名無しさん@3周年:02/08/12 23:36 ID:v9P+sXNd
>>192 明が体力を消耗したとは思わない。
20万という兵力は、明にとってそんなに苦痛ではないと思われ。
蒙古や満州族というのは、兵力は弱小だが、彼らの経済システムが、
遊牧型なので、必ずしも農耕民との戦いに、兵力差は反映されない。
たしか、チンギスハンの蒙古軍が10万、ヌルハチの満州軍が5万ぐらいか?
彼らは何度も攻撃し、形勢が不利になると自国の大地に逃げ帰り
再び形勢を整えて、何度も攻撃してくる。
明は彼らを追い詰めたくても、何度も大地に逃げ込まれるし、移動民なので、
定住民のような都市や農地などへの生活基盤を攻撃できない。
195 :
名無しさん@3周年:02/08/12 23:47 ID:hctbEp5j
>>191 そもそも、兵農の分離のために検地をしたんだろ。
特に織田軍団では職業軍人化が進んでいたから・・・装備、兵糧、馬具をそろえ
兵站を整えて訓練されて統率された軍団になりつつあった。
秀吉の検地によってほぼ完全に職業軍人化したから、ある意味軍制改革でもあった。
ていうか、そもそも信長が領国での検地をちょくちょくやってたから。
顕著な例が四国計略で半分職業軍人化していた秀吉軍に四国を支配していた長宗我部の
一領具足は壊滅に追い込まれたことでわかる。
196 :
名無しさん@3周年:02/08/12 23:48 ID:ylqJ2Pf7
15万っていう数字にも多分に誇張があるかもしれないが、それでもこの
時代に海上補給で、これだけの遠征をやった秀吉はすごいよ。食料だって、
ほとんど現地調達できなかったらしいし。飯だけだって大変。
もちろん前線じゃやっぱり補給不足で加藤清正などと小西、石田らの対立の
原因を作ったわけだけど。
197 :
名無しさん@3周年:02/08/12 23:51 ID:v9P+sXNd
>>194 遊牧民は、何度も、大陸王朝の都市や農地を攻撃できるが、
大陸王朝は、遊牧民の都市や農地を攻撃できない。
なぜなら、遊牧民は、定住型都市や農地を持っていないからだ。
つまり、大陸は攻められる一方になる。
ちなみに日本と大陸との間の戦争は、こうはならない。
両者には海が隔たり、両者とも農耕民である。
つまり、産業革命以前は、両者の国力が、真の意味で全面衝突することは無かった。
198 :
名無しさん@3周年:02/08/12 23:57 ID:hctbEp5j
>>196 水軍がやられちゃって補給が届かなかった。
そもそも異民族の土地を支配経営するノウハウがなかったから、加藤清正なんかは
戦で結構相手を苦しめるのだが長期化すると孤立無援になってしまう。
小西なんかは、割り切って和平工作したりするから指揮命令系統がなってなかったね。
やっぱり、家康クラスを送り込んで総大将にすべきだったが、秀吉もそこまではでき
ないよな〜。
199 :
名無しさん@3周年:02/08/12 23:59 ID:SKUGwVxu
>>195 それもあるが、
長宗我部の国力自体が小さかった罠。60〜70万石くらいの石高だろう?
これぐらいの石高だと、動員兵力にして2万前後というところ。
豊臣の四国遠征軍が10万ぐらいだから、兵農分離いぜんに、兵力差が大きい罠。
200 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:04 ID:Bq43OUgc
>>198 この頃の水軍は、基本的に風の力と人の力で動く船に乗ってるため、
計画的に食料を輸送をするのが大変である。
西欧人は蒸気で動く船を発明することによって、
世界中に兵隊と食料を補給できるようになって、世界を制覇したわけで。
201 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:04 ID:mk5SxabV
当時の明は宦官の専横、東林、非東林の党争とまさに内憂外患。
朝鮮へ大兵力を送るのが負担にならないわけがない。対外戦争って
のは恐ろしく国力を消耗させる。この20年余り後に満州族の後金
に敗北し、さらに25年後に滅亡。
202 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:07 ID:Iu3P1nzF
203 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:09 ID:Bq43OUgc
>>201 明の兵力って、どんなもの?
たぶん全兵力で、常に200万ぐらいは、動員できたかもしれんが、
(農民兵を集めれば、もっと多いだろう。)
国土が広いので、半島に送り込めるのは多くても50万ぐらいかな?
広い国境を防衛するのは大変だ罠。
204 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:22 ID:xSGGfqLp
こういうスレ、結構、好きです。
205 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:27 ID:mk5SxabV
今でもそうだが、中国というのは顔つきは一緒でも地域間で言葉や文化の
差が大きすぎでまとまった兵力にはならない。なにしろ話が通じない。
日清戦争のときの清国もいってみれば各地の軍閥の私兵の寄せ集めだった。
明も事情は同じ。兵力というのは人数ではないしね。
206 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:34 ID:Rk0etSWP
っていうか、島田洋研究員って、島田洋八だろ?
207 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:35 ID:BlxWfUO1
なぜ、秀吉は家康を滅ぼすことが出来なかったのだ
滅ぼされなかった家康も凄いけど
208 :
うんこ記者:02/08/13 00:35 ID:YT1ol0b5
本 物 か し ら?
209 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:36 ID:xSGGfqLp
>>205 明と清は違うと思われ。
明は基本的に多数派の漢族の王朝だが、清は少数派の女真族の王朝である。
そのために、清では漢族を警戒して、漢族の軍隊を巨大にするのに躊躇っていた罠。
清の軍隊は60万くらいで、戦国期の日本と変わらないくらいだったと思われ。
明よりは兵数は小さかったと思われ。
ただ、その60万は、かなりの精鋭部隊だったとは思うが。
210 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:40 ID:otnliHjC
>>207 秀吉が織田の後を追って出来た政権という当時の流れがあるからね。
実力があって役立つものは、武力で圧倒しても最後は古来の領地を
安堵して自分の政権にとりこんできた。
織田を反面教師としたのかどうかわからないが、それが秀吉政権の
強力な理由でもあった。
いまの時代から結果だけみて振り返れば、当然の疑問だが、やはり
これは歴史の流れというものだろう。
人間には自分だけのやり方というものがあるからね。
211 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:43 ID:SPe1NHsx
秀吉は家康に弱みを握られてたとか?
信長の件で・・・
それとも
家康を信頼してたかな?
実際家康が裏切るの秀吉死んでからだし
212 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:44 ID:N6QQggWN
戦国期の日本と明の人口は、
今の日本と中国ほどの開きはないと思われ。
まあ、資料が不正確なので、中国に関しては隠れている人口が多いのも
考慮に入れなければんらないが、
日本が1800万人で、明が9000万〜1億人くらいかな?
だから動員兵力も、今ほどの開きはないと思われ。
明国に関しては、人口を完全に把握してないので、人口の多い分を生かせない
ところも多少はあると思われ。
213 :
:02/08/13 00:44 ID:Ty32eNuv
>210
敵がいなくなって安堵(配分)する領地もなくなったので、
最後に海外派兵?
214 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:45 ID:otnliHjC
これまた反面教師にしたのかどうかわからないが、家康は実力があって
役立つとしても、自分の政権を脅かしかねないものは排除した。
それも、信長のような隙を見せずに苛烈な方法も使わず、確実に排除した。
時代というのは積み重ねてなんぼのもんなんだなって思うよ。
215 :
w:02/08/13 00:46 ID:spqD15A1
飛び道具を除くと世界最強の武器は日本刀
異議のある方は即どうぞ
216 :
コピペです。:02/08/13 00:47 ID:N6QQggWN
秀吉存命の頃の、徳川の石高は250万石で、動員兵力にして7万くらい?
普通、敵地で戦う場合、相手の3倍の兵力を必要とするので、
秀吉が徳川を征伐するには、単純に20万以上の兵力がいるが、
秀吉単独では無理なので、他の外様(毛利、上杉、島津、伊達など)の協力が必要になる。
ただ、秀吉は天下人で権威があって、いちおう他大名は彼の命令に従うと思われ。
しかし一方で、徳川を討伐するには、それだけの大義名分がいるわけで。
それがないと、毛利や上杉は、次は自分が討伐を受ける番だと警戒してくるわけ。
そうなれば、事態が複雑になってくる。
217 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:48 ID:iFdI0plS
>>207 つうかそもそも信長の後は家康のところが
秀吉がうまいことやるからとりあえず1歩引いた
って事だとおもてたがをれは とりあえず揚げ
218 :
コピペの続き:02/08/13 00:48 ID:N6QQggWN
秀吉が大義名分を得ないまま、徳川を攻撃すると、
少なくとも東国の外様の雄たちは、場合によっては家康につくかもしれない。
上杉、伊達、佐竹あたりは、徳川と組むかもしれない。
毛利は地政学的に西国で、秀吉に逆らえにくいが、それでも、
大義名分なしに徳川を攻めるとなると、次は自分の番だと警戒する可能性が高い。
そうなれば、天下が二分され、再び戦国の動乱になる可能性が高い。
結局、秀吉が家康を滅ぼすには、無理やりでも徳川の大きな落度をつくって、
周辺の外様の大大名を説得するしかない。
219 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:50 ID:otnliHjC
>>213 というか、やっぱあれは秀吉の野心というか領土欲のようなもんだな。
あれだけの政治力があったら解決できん問題でもなかろう。
土民からなりあがって天下をとったものの性というか、なんというか。
だからこそ、成り上がって天下取っちゃうようなクレイジーなことを
なしとげられたんだろうね。
日本史上実力で土民から成り上がって天下の采配を握ったのは秀吉だけだからな・・・。
近代国家以前はね。
220 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:51 ID:SPe1NHsx
本当は茶会で毒盛るつもりだったとか・・・
家康は、鯛の天ぷらがあたって死んだって本当?
221 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:52 ID:BlxWfUO1
>>217 一歩引いたって、その一歩はとてつもなく大きいかと
天下人とそうでないものの差は果てしなく大きいと思う
でも、小牧長久手で家康は負けなかった
負けなかったことで影響力をもち続けた
222 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:52 ID:+ATnvbR2
223 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:54 ID:BlxWfUO1
ちなみに、家康の関東移封も有利に働いたよな
なんで敵に塩の製造工場を丸ごと送りつけるまねをしたのか
いや、結果論なのは百も承知なんだけど
224 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:55 ID:uFOOPMi7
家康を滅ぼす事は可能だったけど、実際それを行うにはあまりにリスクが高すぎ
たんじゃないかな?多大な犠牲を出して滅ぼすよりは、自分の配下にしてしまう
方が手っ取りはやいし、何より諸大名に対しても「家康でさえ臣下になっている」
と諦めさせる事が出来る。後は家康が秀吉に攻め滅ぼされるようなボロを見せなか
ったのもあるけど。
225 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:55 ID:CCdGwGIT
>>215 戦争で日本刀が大きな役割を果たしたとは思えない。
なぜなら、日本刀は1回人を斬ると、人の血や油で、使い物になくなる罠。
実際は集団戦法で、歩兵騎兵とも槍で応戦し、あと、弓や鉄砲や大砲で
陣形を乱すという感じが主流だろう。
226 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:56 ID:mk5SxabV
>>209 だから戦力というのは人数じゃないんだって。練度と士気と実戦経験。
日本国内の戦争ならまだ比較的、人数の差がそのまま参考になるけどね。
漢民族が一枚岩どころじゃないのは前述の通りで、言語別に民族を分ける
ならヨーロッパ並にまとまりがない。中国の軍隊、特に漢族の王朝は対外
戦争にからきし弱い。これは中華民国でもかわらないし、共産党の時代に
なっても大差ない。八路軍も今やなかなか中央のコントロールが効かない
のはご承知の通り。
むしろ征服王朝の時代のほうが対外戦争では強い。元はもとより清の時代
にも中国は領土を膨張させている。
227 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:57 ID:i+95pMcQ
秀吉は、家康の落ち度を作るために関東へ国替えを命じたんだよ。
小田原攻め後の不安定な情勢の関東へ家康を入れて、
支配者の家康家臣団と北条派の土豪に諍いでも起これば、
十分取りつぶしの理由になる。
またうまく治めればそれはそれで北国への睨みをきかすことも出来る。
家康は逆にこれを好機と捉えた。十三松平とも呼ばれる一族の禄高は据え置き
本田や榊原といった直属の家臣の禄高をアップして松平一族の中で自身の
発言力を増したんだよ。
228 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:58 ID:i+95pMcQ
北国→東北
本田→本多
229 :
名無しさん@3周年:02/08/13 00:59 ID:SPe1NHsx
家康の死因はー?
230 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:00 ID:otnliHjC
231 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:02 ID:VgIwMU5v
徳川時代の最大の外様大名の前田家は130万石だけど、
豊臣時代の最大の外様大名の徳川家は250万石なんだよね。
秀吉はトンでもない大きな外様大名を抱えていたわけで。
しかも秀吉の直轄領は220万石だからね。大変だ罠。
232 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:02 ID:p1tgEDwj
>>215 当たり前だが、戦場では槍>>>刀だ
剣聖上泉信綱のような戦国期の「剣豪」は槍も巧かった
(つーかよっぽどの事がない限り戦場で刀なんか抜かない罠)
233 :
:02/08/13 01:02 ID:UXvw7ITS
あれほど朝鮮出兵や明朝打破にこだわったのは征服した新規領土に豊臣恩顧の
大名を配し豊臣勢力の拡充をはかることで家康を屈服させたかったのではないかな。
だから秀吉は存命中の征服にあれほど意欲的である意味必死だったのでは。
234 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:02 ID:SPe1NHsx
がーん、腹上死?
235 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:03 ID:skbCNHVi
豊臣はなんだかんだで世の武家から嫌われてただろうな。
農民に支配されてるみたいで。
236 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:05 ID:HV6tcMv5
梁田って名前は桶狭間でも出てこなかったっけ?
237 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:07 ID:RFz7kSG1
>>227 それは素晴らしい見方だね。
秀吉が家康を国替えさせたのは、家康を関東経営に忙殺させるためだったんだけど、
家康はうまい事、乗り切った。
結局、家康は国替えで、2倍以上の国力を手に入れて、外様最強の大名になった。
238 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:07 ID:4IbKfN8x
239 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:07 ID:mk5SxabV
小田原北条氏は善政で有名だったからね。その後は難しい。
むしろ家康国替えの後の東海に上杉をもってくるくらいの度胸
があればね。
240 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:09 ID:i+95pMcQ
>>239 織田信雄に東海国替え命じたけど、いやだって断られたから改易したんでしょ
241 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:10 ID:RFz7kSG1
>>235 当時は武家とか農民とか商人とかの境界線も曖昧だったんじゃ?
家康だって、何代か前は乞食坊主だろう?
242 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:10 ID:44ZQ8udb
>>215 日本刀は目釘が折れやすく、
すぐに曲がってしまいます。
(刀身は折れないがね)
世界中にある刀剣と比べても
特に優れている要素はありません。
243 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:11 ID:h/Vz5sB8
家康って大納言ではなく内府って呼ばれていたのでは。
大納言と内府は官位が同じなのか。
244 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:12 ID:Q9FgMNxJ
”ちゃかい”って読むの?
それとも”さかい”?
”おちゃかい”だと思うけど。
245 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:12 ID:i+95pMcQ
内府って内大臣でしょ?内大臣はもっと後になってからじゃ…
令外の官だけど結構上の方だろうし
246 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:14 ID:XsU2gjnu
レス見ないでカキコ
手淫状だよな。
247 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:16 ID:4IbKfN8x
大納言=正三位
内大臣=従二位
よって、内大臣のほうが上
らしい。今調べた
248 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:18 ID:XsU2gjnu
>>215 レス見てカキコ
日本刀で人を切り殺すのは案外難しいらしいです。
人間はどこから切り込んでも、骨にさえぎられて致命傷にはなりにくいとか。
包丁で刺し殺すほうが100倍楽らしいです。
249 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:18 ID:RFz7kSG1
>>240 国替え
徳川家康 120万石 から 250万石 受け入れる
織田信雄 60万石 から 120万石 断り、改易される。
もし、信雄が国替えを受け入れて、うまく乗り切っていれば、
関が原の時、有力な天下採り候補になってたよ。
徳川より小さいが、徳川よりは畿内に近く、毛利や上杉と同じくらいの国力。
また官位は、家康よりも上位の官位を貰ってた可能性が高いので、
豊臣家に次ぐ権威を保持していた可能性が高い。
250 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:19 ID:SPe1NHsx
でも、京を攻めれたのって地理的な優位性もあるよね。
東北民なんて通すぎるもん。
251 :
:02/08/13 01:23 ID:F6FyV+Sg
日本人は韓国人に謝罪しる!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
252 :
:02/08/13 01:23 ID:F6FyV+Sg
ちんこ
253 :
:02/08/13 01:24 ID:F6FyV+Sg
ohまんこ
254 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:25 ID:SPe1NHsx
伊達政宗なんて
えっちらおっちら
京まで来れるかよ・・・
255 :
:02/08/13 01:25 ID:F6FyV+Sg
仙台人はすっこんでろ ぼけ。
256 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:27 ID:0BJ03PYW
257 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:29 ID:cqzZOydC
>>249 織田信雄は家康より先に内大臣の位を貰っていたので、
家康は大納言のままで、信雄が内府と呼ばれてたかもね。
そうすれば、秀吉の死後、120万石の国力で、
最高の官位を持っていた外様の雄として注目されてたかもね。
しかも、本来天下をとっていた、信長の息子という肩書きは大きい。
258 :
:02/08/13 01:31 ID:+duWKMee
259 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:31 ID:cqzZOydC
>>254 伊達の兵力は2万もいかなかった罠。国力が小さいし、京にも遠い。
260 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:35 ID:aY7vnhU0
で、羽柴"誠三"秀吉様が最強なわけだが。
261 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:35 ID:cqzZOydC
秀吉、最大の失敗は、家康の国替え。
家康は関東に遠ざけられたが、そこの経営をうまく乗り切って、
250万石の大大名に変身した。
国替え前なら、120万石で毛利と同レベルだからね。
262 :
名無しさん@3周年 :02/08/13 01:36 ID:NjVGH1q1
伊達か上杉を関東に移封すりゃ徳川は天下取りどころじゃなかったろうな。
焦る家康はオモロイ。
263 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:36 ID:i+95pMcQ
最大の誤算は前田利家の死と家康の長命でしょ。
264 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:38 ID:aY7vnhU0
津軽という辺境の地に転生してしまったのが最大の不運だな。
265 :
:02/08/13 01:39 ID:F6FyV+Sg
人 柄 の 小 渕
266 :
:02/08/13 01:41 ID:BlxWfUO1
>>262 伊達を警戒する必要は全くないし
上杉を移封する理由もないんじゃない?
267 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:42 ID:cqzZOydC
>>263 前田利家の死とか家康の長命とか、多少関係はあるかもしれんが、
一人の人物の影響なんて、限定的と思われ。
そんなのは、武田信玄が長命だったらというのと似ている。
たとえ、信玄がもう少し生きていても、
武田はイズレ滅ぼされる可能性が高かったと思われ。
268 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:44 ID:i+95pMcQ
>>267 家康がもっと早く死んでいたら、徳川260年はなかったと思う。
まあ「歴史にif ...」はどうしようもないことだが
269 :
:02/08/13 01:46 ID:BlxWfUO1
>>267 それは確かに興味あるところなんだよな
信玄死後あまりにも脆すぎる。信玄存命中も問題抱えてたのかもしれないよな
270 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:50 ID:dlSfw8FD
よく人物で、天下の形勢を決めたがるのは、
大河ドラマや歴史小説の影響だね。
例えば、いくら上杉や伊達が家康の近隣に移封しても、
問題はその時の石高の方が形勢に与える影響が強いと思われ。
ちなみに家康は、もっとも近隣の大名では、常陸の国主、佐竹(約60万石)を
警戒してた。畿内へ攻め上がる時、背後を狙われる可能性を懸念してたと思われ。
271 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:57 ID:o4pH9w+D
>>269 武田信玄の時、最大で90万石くらいで、兵力は2万5千くらい。
しかも兵農分離が進んでおらず、農民兵が多いので農作業との関係から、
長期間の遠征は無理。
仮に兵農分離すれば、90万石くらいだと2万5千も兵力は集まらないだろう。
しかも、信長は同時期、畿内、濃尾平野を中心に約10万近い兵力は
あったわけで。
272 :
名無しさん@3周年:02/08/13 01:57 ID:EBL7UBMV
柴田勝家が勝っていたら。
徳川って、策略家でいやらしい。
273 :
名無しさん@3周年:02/08/13 02:00 ID:p1tgEDwj
>>241 曖昧つーこともないだろう、商人に関しては「座」があったわけだし
>>254 伊達は生き残るだけでやっとだっただろう
東北からの天下盗りは不可能
秀吉がその才能を恐れた蒲生氏郷が移封させられて嘆いたのは有名
274 :
名無しさん@3周年:02/08/13 02:07 ID:mUM/jH9x
だいたい伊達に天下取りの大望なんてあったのかね?
関ヶ原時の行動を考えると到底そうは思えないんだが
275 :
名無しさん@3周年:02/08/13 02:07 ID:o4pH9w+D
>>273 結構、曖昧だったと思うよ、江戸時代と比べれば。
まあ、ちょうどコノ頃、士農工商への過渡期みたいなもんだよね。
鎌倉期は武士は農村に住んでて、大農民、開発領主みたいなもんで、
室町後期から江戸期にかけて、城下町に武士が住み、農村から切り離される
わけで、まあ、都市に住む、官僚となっていく。
伊達は60万石だが、同時期の蒲生は90万石だったと思う。
276 :
名無しさん@3周年:02/08/13 02:10 ID:XIk9gzGz
力的にみて、伊達に天下とりの野望はなかったと思われ。
まあ、うまくいけば、天下の勢力を何分かに分断して、
自分は奥州での覇権を握るということだね。
277 :
262:02/08/13 03:09 ID:NjVGH1q1
もうちょっと頭の良い人間がレスしてくれるとよかったんだが
人いねぇな
ま、お盆だからしゃあないかw
278 :
名無しさん@3周年:02/08/13 03:12 ID:uTb4hhM4
しゅいんぢょー。
279 :
:02/08/13 03:34 ID:aeRjxZdb
大体、伊達は秀吉に仇はあれども恩なんて無い。
よほどのことが無い限り秀吉側につくのは不可能。秀吉も伊達を警戒して蒲生を配置した。
280 :
:02/08/13 03:53 ID:6REaF0cv
武田 ちん毛 VS 上杉 謙ちん
281 :
名無しさん@3周年:02/08/13 04:06 ID:q1MNz2gE
>>279 伊達は芦名を倒して約100万石、約3万の動員兵力を越える力を持ったと思った瞬間、
秀吉に領土を削減さたもんな。
芦名は秀吉と誼を通じていたのに、伊達が攻め滅ぼしたのが原因だが...
まあ、よくは思ってないかもしれんが、
伊達は、秀吉が絶対有利な戦いなら、秀吉と敵対することは無いと思うよ。
基本的に、勝ち組に如何に乗るかだよ、この時代。
282 :
名無しさん@3周年:02/08/13 04:54 ID:q1MNz2gE
>>271 武田信玄の石高90万石、兵力2万5千という、
信長よりも遥かに劣る国力からくる限界もあるが、
もう一つ武田の弱点は、その支配形態にある。
武田家というのは、甲斐、信濃の小さな領主の寄り合い所帯で、
中央集権的というよりは連合政権的意味合いが大きい。
武田の当主は、これらの小さな領主たちの意向を調整しながら
国を運営していかなければ ならなかった。
特に勝頼の代になると、甲斐と信濃の勢力で主導権争いが激化する。
勝頼は母方の諏訪氏を継いでいたことにより信濃衆との関係が深かった。
当然、信玄時代に優遇されていた甲斐衆との対立は避けられなかった。
だから信玄は、勝頼ではなく、その子で、信濃衆の影響力が少ない信勝を
当主の座につけることを望んでいたと思われ。
しかし当主の座についたのは勝頼だった。
283 :
名無しさん@3周年:02/08/13 04:56 ID:ACZ96TRs
同伴して・・・キャバクラ来て・・・
って電話がしょっちゅうかかってくるのと同じ気がするが・・・
284 :
名無しさん@3周年:02/08/13 05:25 ID:hqG1Va4D
大納言ってどれくらい偉いの?
よくわかんないけど最強は関白でいいの?
たしか信長は右大臣だったような
右大臣っていうのは大納言より上?
285 :
ゆんゆんくらぶ:02/08/13 05:27 ID:pIhhm9zG
関白秀吉は正しい日本人だったので、
ホモっけはありませんでした。逆にホモを嫌がっていましたので、
家臣は安心してお勤めできたそうです。
286 :
名無しさん@3周年:02/08/13 05:40 ID:hqG1Va4D
ていうか家康はマンガだとナイフって呼ばれてたぞ
287 :
名無しさん@3周年:02/08/13 10:28 ID:4MpKDTp8
関白摂政
太政大臣
左大臣
右大臣
内大臣
大納言
権大納言
中納言
権中納言
ていう順番で官位が高い。
名古屋の“太陽”という店では来店者ふんどし着用が義務とか、
さらに年齢で“大納言”などと階級がつくとか、
本当であろうか?
289 :
名無しさん@3周年:02/08/13 10:38 ID:8QszYx8z
山梨の冷麺美味そうだったな
勝沼ICって中央道東にあんの?
関西からじゃ勝沼は遠いかな〜
伊達なんて目先の領土をチマチマ取ることしか考えてなかったじゃないの
徳川の近くに移封されたところで、徳川の影響下に入ったのがオチだと思うけどね
291 :
名無しさん@3周年:02/08/13 12:06 ID:KabXXTLR
>>290 京に遠い東北に本拠があって、石高も60万石だからね。
天下を狙う発想自体わかない罠。
むしろ自分の領土を少しでも大きくして、
ある程度の独立性を保持したかったんじゃないの?
292 :
名無しさん@3周年:02/08/13 12:08 ID:Mp0FC52X
>>286 ナイフ=内府=内大臣
家康が内大臣になったのはこの手紙よりすこしあと
293 :
名無しさん@3周年:02/08/13 12:20 ID:KabXXTLR
家康が内大臣になった時、
大納言に、前田利家
中納言に、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川秀秋
上杉景勝は石高(120万石)が高い割には、官位がそんなに高くなかった。
たぶん、参議ぐらいだったと思われ。
上杉って、田舎大名ということで、京のヤツに見下されていたのかな?
294 :
名無しさん@3周年:02/08/13 13:18 ID:WYDF33MK
上杉はno.1危険大名。
295 :
名無しさん@3周年:02/08/13 13:24 ID:tdApSPxq
上杉景勝の会津転封は1598年で秀吉の死の直前
それまでは越後一国と北信だからせいぜい6〜70万石ぐらいでは
296 :
名無しさん@3周年:02/08/13 13:31 ID:yeYDI7wu
>>295 たしか、そうだったね。
それなら、上杉景勝が、官位が低かったことも、五大老に入るのが遅かったことも
ある程度、納得できる罠。
297 :
名無しさん@3周年:02/08/13 13:56 ID:ACZ96TRs
尼子天目茶碗を見せびらかしたかっただけなんだが・・・
298 :
どきゅん:02/08/13 14:47 ID:JwvCu9og
どうしてどいつもこいつも天皇をぶっ殺そうとしなかったんだよ
一番手っ取り早いじゃん
299 :
名無しさん@3周年:02/08/13 14:58 ID:RNB2mZ6b
>>298 それは日本が地方分権型だったからじゃないの?
つまり中央集権的絶対君主をもとめなかった。
だから、権威は天皇で、権力はその時代最強の封建領主と
いう役割分担が出来たと思われ。
日本各地の諸侯たちも、権威も権力も両方を持った君主を必要としなかった。
信長は天下不武を唱えていたから、和を大事にする日本には合わないだろう。
天下不武とは、易姓革命を意味し、大陸のように王朝自体が
完全に入れ替わってしまうからね。
300 :
名無しさん@3周年:02/08/13 15:00 ID:5o/XMPG2
-,---γ''''''''--_
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///ノノノノノノ从 ミミミミミミミミミヽミ
//ノノノノ 〓〓ノ 〓〓ミミミミノ从
ノノ;ミ;ミミ -=・=- -=・=- ミミノ从
ミ;ミミミ | |ミミミ
.ミミ从 /ミミ
. ミミ:|. ヽ . ∨ / |ミミ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ミミ ! ー===-' ! ./ミミ < 秀吉はウリナラを侵略したので嫌いニダ
ミミヽ  ̄ ノミミ \________
−−
301 :
名無しさん@3周年:02/08/13 20:28 ID:CroiaARg
本能寺直前の織田信長は、石高800万石、動員兵力は20万。
302 :
名無しさん@3周年:02/08/13 20:38 ID:NlhfzrEB
303 :
風来のシレソ:02/08/13 20:41 ID:BTl5Yswm
三国板からかなり出張して来てる奴多いみたいだな。(藁
自慢も程々にしとけよ。
304 :
名無しさん@3周年:02/08/14 00:22 ID:tl7zfO66
カワイイ
305 :
名無しさん@3周年:02/08/14 00:26 ID:iC1+x01C
でも一介の農民が数十年で頂点に上り詰めるってのはやっぱりすごいもんが
あるな〜。
ヨーロッパあたりじゃ絶対に考えられん事だ。
306 :
名無しさん@3周年:02/08/14 01:05 ID:gZ74S1NG
ナポレオン・・・はコルシカ貴族の家柄か。。。
でも、ローマ皇帝には何人かいたと思う
アウレリアヌスとかディオクレティアヌスとか
307 :
名無しさん@3周年:02/08/14 01:11 ID:xsjS860s
農家で発見
>>285徳川に次ぐ加賀100万石の前田利家は信長の尻の相手。
徳川譜代で最高の彦根30万石をもらった井伊直弼の先祖井伊直政は
家康の尻の相手。
出世するなら上司の相手をするのが得?
309 :
名無しさん@3周年 :02/08/14 14:26 ID:ZJ4wnX92
いくら有力大名を抱え込んだ政権とはいえ、統治のための組織作り
がおろそかだった。晩年の五大老五奉行では。征夷大将軍になれて
いれば少しは違っていたのか。
それにしても当時の明・朝鮮の国情をきちんと調べた上で攻め込ん
だのかね。
310 :
名無しさん@3周年:02/08/14 14:28 ID:4cF7L0yF
猿 必 死 だ な (藁
311 :
名無しさん@3周年:02/08/14 14:28 ID:MRzXiFP6
高校の時、徳川って名字の奴いたよ。
目白に住んでた。
312 :
名無しさん@3周年:02/08/14 14:30 ID:fDkDI4gS
313 :
:02/08/14 14:38 ID:qU64+2Lx
今日、「笑っていいとも」に、前田家の末裔が出てた。
前田氏って(相続税対策の為?)
あちこちの愛人に子ども作ってるから何番目の奥さんかは不明。
高校生だったがな。
314 :
名無しさん@3周年:02/08/14 14:43 ID:5zVa7Muw
315 :
名無しさん@3周年:02/08/14 14:52 ID:iCVz08gb
また農家で発見かよ
金印もそうだったな
316 :
:02/08/14 14:54 ID:qU64+2Lx
井伊直弼の末裔も東京にいるよ。
ギャラリエドゥっていう画廊主。
317 :
名無しさん@3周年:02/08/14 15:19 ID:4WlK5GWB
>>309 豊臣政権(220万石)は力的に限界があって、どうしても外様の大大名を
政権の中枢に置かねばならなかった。
徳川幕府(400万石)は余裕があるので、外様を政権から遠ざけたけど。
明のこと理解してなかったかもね。たぶん、蒙古が10万の兵力で
大陸を制覇したから、いけると思ったかも?
自分には50万を超える兵力があると。
でも、日本列島から海を越えて大陸を攻めるのと、
広大な蒙古高原から騎馬に乗って大陸へ攻め込むのとは大分違うしな、条件が。
しかも、蒙古は何年もかけて、何度もアタックしなが、大陸を制覇してる。
日本は海を越えて何度もアタックと言うわけにはいかんだろう。
318 :
:02/08/14 16:52 ID:Hfs7VR+A
目白にでっかい徳川のお屋敷あるよね
319 :
名無しさん@3周年:02/08/15 01:14 ID:1l4mmeTz
目白は徳川の末裔の人達が集まっています。
>>314 ハック???
320 :
名無しさん@3周年:02/08/15 01:16 ID:+LFPHc2Y
豊臣政権は家康に大封を与え過ぎたな。
なにも北条の旧領をほぼまるまるヤる事はなかった。
徳川勢力が巨大すぎるおかげで近隣大名は徳川の意向に
逆らうのが事実上困難になってしまった。
また、三遠駿甲信の土豪であった徳川家臣団は移封により旧領から
切り離され必然的に兵農分離せざるを得なくなり、徳川軍団の
専業武士団化は加速してしまうし。
しかも、関東の支配固めには十分すぎる十年という時間まで与えてしまった。
正直、徳川が天下取れたのは豊臣政権の甘さが原因だと思う。
321 :
名無しさん@3周年:02/08/15 01:17 ID:aTiDb93r
目白にあるお屋敷は直系でしょ?
屋敷のほかにもあの一帯徳川家の土地で外国の大使とかに貸してるって
聞いたことあるけど
322 :
名無しさん@3周年:02/08/15 01:30 ID:skx3OZaf
>>320 豊臣家の家臣は反対したらしいね。外様に領土をやりすぎるって。
そしたら秀吉は、「俺は天下をとったのだから、誰に何をやろうと
俺のものみたいなもんだ。」と言ったとか。
秀吉は甘かったね。
だから晩年になって、慌てたんじゃないの。
東国に250万石、兵力7万。その周辺の大名なんて、家康が怖いから、なびくわな。
323 :
名無しさん@3周年:02/08/15 01:35 ID:Y4o5l8oY
>>320 逆だろ。
家康を移封させたのは、表向きには石高の増加だが、
当時、江戸・武蔵一帯はとんでもない荒地で、未開発。
力のある家康を左遷させた、という見方の方があってると思う。
しかも、北条家が見事な政治をしていたため(当時、年貢率は日本一低かったはず)、
民心を得るのに10年かかった。
あまりに労力を割いたがために、家康は朝鮮出兵を断ったはず。
で、豊臣政権の一番のシパーイは・・・・・
↓が書いてくれるよ。
324 :
レプタリアン昴 ◆0UvVQevE :02/08/15 01:36 ID:Y00+rhlk
325 :
名無しさん@3周年:02/08/15 01:38 ID:Y7RXnuXz
>>323 >あまりに労力を割いたがために、家康は朝鮮出兵を断ったはず。
上手い口実だな
326 :
名無しさん@3周年:02/08/15 01:47 ID:8yHNBbnd
>>323 >>320は間違ったこと言ってないぞ。
最初は、家康を関東経営で苦労させのが狙いだったんだけど、
でも、うまく乗り切られたんだよね。しかも未開発だったから、
逆に潜在力は高い土地だったわけで。つなり、伸びしろのある土地だった、関東は。
力のある家康というのは、結局彼の支配地域の石高(浜松120万石)が大きくものをいうわけで...
彼が人物的に優秀かどうかは関係ない。
力のある家康を左遷させた、というよりは、裏切りそうな外様の領土は
畿内の豊臣領から遠ざけたかったというのが正しいと思われ。
327 :
名無しさん@3周年:02/08/15 01:51 ID:CwG7SeQX
秀吉は毛利も遠ざけたかったんだよね。
たしか、中国の領土を削減するかわり、九州に倍近いの領土を与える
つもりだったと思われ。
外様の中では仲良さそうで、やっぱ毛利のことも信頼してなかったのかな。
328 :
名無しさん@3周年:02/08/15 01:52 ID:+LFPHc2Y
>>322 佐竹の50数万石は、全国レベルでも相当な大大名だが、徳川が
でかすぎる(5倍弱)ため、歯止め役として全く機能しなかった。
徳川軍団西進時の足止め役として旧徳川領に配置された
豊臣子飼いの小大名たちに至ってはこぞって徳川に靡く始末。
>>323 江戸武蔵一帯を支配していたのは見事な政治を敷いていた北条なんですけど・・・
その武蔵が荒地ばかりだったとは思えませんね。朝鮮派兵拒否は口実でしょう。
329 :
名無しさん@3周年:02/08/15 01:55 ID:eayIbAu6
330 :
住基ネット反対しる!!!!!:02/08/15 01:57 ID:ZgOYb6u2
331 :
住基ネット反対しる!!!!!:02/08/15 01:57 ID:ZgOYb6u2
332 :
名無しさん@3周年:02/08/15 01:58 ID:CwG7SeQX
北条の治世は、評判が高かったらしいね。
関東は荒地だったというよりは、まだまだ未開発な土地がたくさんあって、
これから伸びていくという土地だったと思われ。
だから、決して関東の治世が荒れていたわけではなく、
庶民も其れなりに豊だった。
家康が苦労するとしたら、北条に深い連中を、どう取り込むかだろうね。
333 :
名無しさん@3周年:02/08/15 02:07 ID:+LFPHc2Y
>>326 当時の関東が難治の地であった点には同意。
323の言うとおり租税が安い北条の領地だったからな。
豊臣政権としては一揆続発佐々成政パターンであぼーんを狙った可能性もあるだろう。
ただ、関東土着勢力が案外と弱かったのか、目立った抵抗は派生していない。
これは直前に豊臣軍が北条方についた関東土豪たちを
コテンパンに叩いたせいなのかもしれないな。
334 :
名無しさん@3周年:02/08/15 02:25 ID:vwKH5OUg
北条までの関東の覇権をもった武士って結局開発とか経済より、防衛に主眼を置いた
国作りだったよね。
でも、家康は地形による防衛よりも開拓を優先し、システムと戦略での防衛を考えだした
ところが偉いな。
で、結局江戸という海に開けた平地を開拓し、都市化したんだからこりゃ清盛も顔負けの
都市計画の力量があったということかな。
秀吉もすごいけど、秀吉は堺商人がすでに基盤をもってたところに圧倒的な権力で後押し
しただけだからね。
江戸なんか何にも無いとこだからそれを考えるとやっぱすげー。
335 :
名無しさん@3周年:02/08/15 02:33 ID:GjjRwe/2
>>334 関東は日本最大の平野だし、伸びしろが大きい罠。
確かこの頃の関東の人口って100万くらいで、畿内が300万と聞いたことがある。
今では関東のほうが人口多いけど。
ちなみに、この時期以降、関東以外で石高、人口が大きく伸びたのが、
仙台平野だと聞いたことがある。
336 :
名無しさん@3周年:02/08/15 02:45 ID:c+NQxevx
>>334 後北条前の関東の覇権をもった封建領主たちは、
確かに防衛を重視してたのが分かるね。
だから、鎌倉や小田原という狭い土地に本拠を置いた。
彼らが開発をやらなかったとは思わないが、
鎌倉時代の頃は、全国の封建領主たちは農村に近いところにいて、
城下を大きくする戦略は希薄だったのかな?
まあ、戦国期の後北条のころは、一応、鎌倉よりは土地の広い
小田原を本拠に選んだのだけど、
徳川が広くて防御に適さない江戸を選んだ理由の一つに、
乱世が一応、終息したのがあるかも?
337 :
名無しさん@3周年 :02/08/15 13:32 ID:BAHULtZZ
防御に適さない分、入り組んだ街作り、大名の配置、小田原・名古屋等の
防衛ラインで総合的・システム的にカバー。あの世でも日光で神として
関東に睨みをきかす念の入れよう。
338 :
名無しさん@3周年:02/08/15 13:38 ID:aQH2YrJT
>>329 どことなぁーく、風格がただよってる感じがするね。
339 :
:02/08/15 13:53 ID:T5uehf8U
有力大名の統制は、豊臣の方が実はうまかったかもしれない。たとえば、
島津だが、有力な家臣を自分の「直参」同然に扱って、巧みにきりくずし
ている。「二重籍」だ。どの大大名に対してもそうしている。家康は、同
じようにはできなかった。結局、二百何十年後、このつけがまわってきた。
石川和正の逐電は、−−。豊臣のように操作していれば、島津は二つに
わかれ、また毛利も二つに分かれただろう。家康はそのあたりが甘かった。
江戸に本拠を置くようにすすめたのは秀吉では?
徳川の家臣も「関東一の名城小田原や、頼朝公が幕府を開いた鎌倉なら
いざ知らず、聞いたこともない江戸なんて…」と反対したそうだが
341 :
名無しさん@3周年:02/08/15 22:59 ID:O5+j3TPZ
342 :
名無しさん@3周年:02/08/15 23:02 ID:v7LaDKrA
なんだオフ会か
また秀吉か
344 :
名無しさん@3周年:02/08/15 23:53 ID:sxoHQTkQ
>>339 家康を操作することが出来なかったんじゃ意味ないな
石川数正? あんなの小物小物
345 :
名無しさん@3周年:02/08/15 23:57 ID:JkRt+Rcq
家康タンもDQNでつ
bv
347 :
名無しさん@3周年:02/08/16 10:08 ID:rojRVCkY
>>339 二百何十年も政権が保てれば十分だろう。徳川のほうが上手いに決まってるだろう。
毛利も二つに割れるまでもなく、大幅に石高が削減されたじゃん。
島津は石高が小さいんだし、二つに割れようが割れまいが、しれてる。
それよりも、幕末の開国の時、徳川の親藩譜代で意見が割れたほうが大きい。
つまり、徳川自体が一致団結できなかったのが、徳川にとって痛かっただろう。
あまりにも多くの大名を取り潰し、あるいは親藩譜代の子息を養子に
送りつけたりしたため、徳川が突出し、外様に敵が無くなってしまったため、
内から崩れていく。そんな時に欧米からの開国要求。
349 :
名無しさん@3周年:02/08/16 12:43 ID:fCevVyTQ
豊臣必死だなw
350 :
名無しさん@3周年 :02/08/16 21:46 ID:7tyS9+bT
血縁より地縁・制度としての家。
代々続いて御三家では徳川本家と縁遠くなり、8代吉宗の時代で御三卿創設。
一族といっても色々と思惑も出てくるだろう。
徳川政権が巨大な力を集中できて、強力な統治システムを確立できたのは、
関ヶ原の合戦という最終戦争を経過することで、対抗しうる力を持つ諸勢力を
一時に無効化できたというのが最大の原因だろう。
諸勢力を個別に懐柔することで短期間に統一事業を完成した豊臣政権では
所詮仮組みのシステムにしかなりえず、真の統一のためには、
最後の戦争が必須だったと。
>>351 秀吉は家康が最後の障害だったのかもね。
それにしても、なんで家康を完全に潰さず、
あういう講和という形で決着をつけてしまったんだろう。
やっぱ自分の寿命のことで心配だったのかな。
完全に潰すとなれば、時間かかりそうだもんな。
たしか北条、徳川、伊達で同盟結んでたんだよね。
その3者の合計で400万石は越える。
しかも周辺の中小大名も含めれば、まだまだ、豊臣に対抗できるし...
353 :
名無しさん@3周年:02/08/17 01:48 ID:xLU/IgyE
信長=秀吉>>>>>壁>>>>>家康>>秀頼
354 :
名無しさん@3周年:02/08/17 04:03 ID:cLT/GQhd
農家で発見かよ
355 :
名無しさん@3周年:02/08/17 16:37 ID:OkcZB06Q
>>352 家康服従が遅れたら九州が手遅れになってたからねえ
奥州での伊達の急膨張はこの段階では予測できないとしても
北条の関東制覇も最終段階に差し掛かってたし
各地方に統一勢力が成立すると何かと厄介だから
その前に叩いて併呑する必要が優先した、って事だと思う
都合のいい事にこの時期の徳川は北条と婚姻同盟結んでたから
徳川領は北条との緩衝地帯として利用でき、畿内濃尾を空白にして
その兵力を九州遠征に回しても安全になった、という側面もあるだろう
私こと羽柴秀吉はダム建設を推進します
357 :
名無しさん@3周年 :02/08/17 22:51 ID:t1LkmdIu
信長があと10年生きていたらな。
358 :
名無しさん@3周年:02/08/17 23:17 ID:1rMuha1P
そういえば北千住に徳川と名乗る町医者があった。
だけどチョンだったはず。
359 :
名無しさん@3周年:02/08/17 23:37 ID:8gJ1djw5
やっぱり関が原という大戦争を仕掛けて、そしてそれに勝利した事が家康の権力基盤
を磐石にしたと思うな。もし、仮にあの時点で戦が起らずにごく自然に家康に権力が
移ったとしたら結局の所諸大名連合の盟主の位置でしかなかったのではないだろうか。
オレは秀吉と家康どっちが優れてるかというのは正直あまり興味がない。その時代時代
と状況によって人間の力量は伸びるし、同時に制限もされる。信長の死以降、成り行き
上の事もあっただろうが、ひたすら天下という先を見ていた秀吉と自分の勢力圏の保持
に懸命になっていた家康とではやっぱり秀吉が天下を取ってしかるべきだったし、秀吉
の死後、諸大名連合の盟主という地位に満足せず絶対権力者を目指してありとあらゆる
手を使ってその地位を取った家康はやっぱり天下を取るにふさわしい人物だったと思う。
>>355 たしか秀吉が家康を服従させた直前、島津が大友、龍造寺を撃破して、
九州を統一しつつあったんだよね。
つまり九州に、250万石クラスの大大名が誕生しつつあった。
北条も関東制覇を目前にし、200万石に届く勢いだった。
伊達の東北での躍進は、もうちょっと、後だったかな。
それにしても、秀吉は焦っていたのは分かるが、
なぜ家康は、急いで秀吉の傘下に入ろうとしたのだろうか?
あと、毛利が、あっさりと秀吉の傘下に入ったのは、
本能寺の変の前に、織田との戦いで、国力を労費してたと思われ。
たしか秀吉が、中国から光秀を討伐しに転進し始めた時、
毛利の動員兵力は1万人くらいだったと思われ。
石高から計算して4万近い動員兵力があるはずの毛利が、
これくらいの動員率に落ちていたのは、かなり体力を消耗して
たのかもしれない。結局、毛利は後ろから
秀吉を襲うことは出来なかった。
361 :
名無しさん@3周年:02/08/18 00:04 ID:KoNsv8Sd
>>359 確かにそうだと思われ。
歴史ドラマのように、人物の優越よりも、
その人物の周辺の環境の変化の方が、運命を決すると思われ。
秀吉は織田軍の後を受け継ぎ、畿内を勢力圏に組み込んだことから
天下を目指すのは、当たり前のことだった。
光秀を討った直後で、200万石近い国力を手に入れたと思われ。
その後、柴田勝家(石高120万石?)を討伐して、かなり有利になったと思う。
家康は本能寺直後では、三河・遠江・駿河で70万石くらいだったと思われ。
信長の同盟者だったが、その動員兵力は、信長の臣下(秀吉、勝家)たちが
任された兵力より少なかったわけで、力が足りなかった。
よって、秀吉、勝家が対立している間に、甲斐・信濃攻略が先決だったわけで、
秀吉と対決する頃には、ほぼ5カ国を制覇し、120万石の大名になった。
362 :
名無しさん@3周年:02/08/18 09:31 ID:zAkIqO3N
梁田氏(この朱印状が出た農家の先祖)は,反北条勢力だったとみていいのかな.
北条氏も領内の検地をやっただろうが,梁田氏みたいな反北条の在地豪族って
どんな感じで生き延びていたんだろうね?
363 :
名無しさん@3周年:02/08/18 16:51 ID:d3x8XIKR
>>360 家康は大大名同士で反上方連合組んでも先が無い、と見切ったんだと思う。
既に織田信雄が秀吉に取り込まれてしまった以上、上方の大軍の矢面に
立つのは徳川な訳で、しかも北条からの十分な軍事支援が受けられるか?
となると甚だ心許無い。北条には同盟時代の武田氏が織田徳川と攻防を
繰り返してた時期に武田を支援しなかった前科があるし、小牧長久手の時
も援軍を派遣してはくれなかった。
既に上杉・毛利が豊臣に膝を屈し、四国征服・紀伊制圧が完了した以上、
豊臣方と徳川との戦力差は小牧の役の頃とは違い隔絶してしまっている。
しかも重臣石川数正が寝返った事で徳川の機密はバレバレであったと思われる。
このような状況で秀吉軍が本気で攻め込んで来たら、単独で戦っても兵力差で
押し潰されるのが目に見えており、最悪北条による関東制覇の時間を稼ぐ
捨て駒にされるのがオチだ、とまで考えていたかもしれない。
翻って豊臣勢力を見ると、中央政権としての体裁を整えつつあり、
大大名家まるごと傘下入りを受け入れる仕組みが出来あがっている。
現に、臣従した毛利は優遇されており、上杉にしても冷遇はされていない。
また、秀吉政権がこの時期九州情勢に絶大な関心を寄せており、東方での
本格戦争を望んでいない点も明白である。
気付いてみれば今が敵対巨大勢力と和解する好機であり、しかも相手は
自分と徳川家を高く買うと言って来ている。
自分の身柄の安全は気になるが、秀吉・秀長の実妹と実母を保証として
差し出されている以上、罠では無いだろう。こんなチャンスはおそらく
二度と無いだろうし、ここまでされて拒否しては逆に危険である。
上洛臣従時における家康側の立場はこんなあたりじゃないかと。
364 :
名無しさん@3周年 :02/08/18 23:37 ID:PQ6CmFdV
確かに本能寺の変後3年くらいの秀吉の行動は特に冴え渡っていた。
問題は権力を取った後。
365 :
名無しさん@3周年:02/08/19 02:50 ID:q12ZvhOe
>>364 案外、権力を握ったあとが難しい罠。
しかも、豊臣政権の場合、外様の大大名を多く抱えていたし...
そんなわけで、五大老みたいに、外様の大大名を中央政治に
参加させなければならないわけで...
366 :
あ:02/08/19 02:56 ID:IeaYXEfU
秀吉は指が六本あったって聞いたんだけどホントかな、
誰か教えて。
367 :
名無しさん@3周年:02/08/19 05:02 ID:HCgh8Kdg
>>363 ほとんど完璧に正解の答えだと思うが、北条が武田を見捨てたのは色々理由がある。
最初の頃は、関東情勢、特に佐竹のこと警戒してたのもあるし、
1582年の滅亡直前は、上杉謙信の跡の相続問題で、
長尾家からの養子の景勝と、北条家からの養子の景虎が跡目を争ってた時に、
武田は、一部領土の譲渡と、北条勢力に挟まれるのを恐れて、
景勝が上杉家を継ぐのを後押ししたため、北条は武田に激怒したと思われ。
そこを織田徳川は攻撃し、北条は武田を見捨てたと思われ。
368 :
名無しさん@3周年 :02/08/19 15:28 ID:3v/W0hFY
本能寺の変のとき、信長は京都を軍事的な空白にして信忠も身近に置いて
リスクを分散させなかった。信忠が安土にでも残っていたら、後継問題で
ケリがついても、より不安定な事態が待っていただろう。
今川義元は氏真を残して京に上ろうとした。一般に氏真は暗愚ということに
なっているが、有力な敵に囲まれて中々難しかったということだろうか。
369 :
名無しさん@3周年:02/08/19 15:43 ID:cFukaTVB
>>368 歴史は結果論みたいなところがある。
今川家に対する評価が悪いのも、桶狭間が全てみたいなところがある。
今川家が苦しくなったのは、やはり尾張が信長によって磐石になったのが
大きいと思われ。周りを強固な勢力によって囲まれ、勢力を範囲を広げにくくなった。
今になって思うのは、義元の桶狭間は苦し紛れだったかもしれないということ。
少なくとも京に上洛するという目的じゃなかったのは明らか。
(駿河から2万5千の兵力では無理、実際は1万8千という説もあるし、結構
寄せ集めの兵で、今川家を中心に団結してるわけでは無かったともいわれる。)
尾張が信長によって統一されつつあり、そうすれば今川は京へ勢力を拡大するのが困難になる。
尾張が統一されれば石高57万石、駿河、遠江、三河の今川は70万石。
意外に国力差はない。
370 :
名無しさん@3周年:02/08/19 22:20 ID:7DTjQri3
豊臣の方が
*::: @
::*:: ,;;ノノノノハ) / ::: 何から何まで、すべてまつにお任せ下さりませ
:: 川 ´D`)./ :*::
: ⊂ ゞ ソ〉つ :::: ..
:*: |__|三※|/_| .:: .. ::*::
::: |;|;|;|;|;| .: .:::: :::
: ┗`┗` .:
┌───────┐
(|● ● |
/| ┌▽▽▽▽┐ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ┤ | | |< 土13:05も見てね
\ └△△△△┘ \ \__________
| |\\
| | (_)
| |
| /\ |
└──┘ └──┘
373 :
名無しさん@3周年:02/08/20 11:54 ID:Axw3cRW1
秀吉君。
374 :
名無しさん@3周年:02/08/20 15:31 ID:w60wCan+
茶くらい飲めや。
普通に。
375 :
名無しさん@3周年:02/08/20 15:37 ID:Z+WsS9dA
旗本から農家か・・・
すごい落ちぶれ方だな。
376 :
名無しさん@3周年:02/08/20 16:18 ID:gqlHfBO/
>>366 井沢元彦『逆説の日本史』1巻にそういう文献が引用されている。
377 :
名無しさん@3周年:02/08/20 16:23 ID:b0oPgzkv
>>375 庄屋クラスの豪農だったら落ちぶれでもなんでもない。サラリーマンが独立して
自営業を始めるようなもの。
378 :
名無しさん@3周年:02/08/20 17:42 ID:Nho9JlV4
>>376 フロイスが秀吉は指が6本あるって書いてる。
379 :
名無しさん@3周年:02/08/20 18:12 ID:VzEJH6ck
いえやすクン
このあいだはお手紙ありがとー!
ちょっと目の調子悪かったんだけど、もー平気だよ♪
目にすっごく効くとかって温泉行って、マターリして来たんだー。。。
そうそう。おうち新しくしたじゃん、いえやすクンに最初のお客様になって欲しいの。
えーと、としいえクンも呼ぼか。。久しぶりに3人でお話しよ。
とっておきのお茶用意するよ♪
絶対来てね!待ってるぅ(はぁと
ひでよし(chu!
ばぐ太のスレに(´ε`)ムチュウ
なんだかんだいっても秀吉がその気になれば家康を倒せただろう。
でも秀吉も無事では済まない。その後、再び乱世になることは必死。
お互いその辺の力の均衡はわかってたんだろうな。
つーか、なぜ何もかもそうやって断定する?
千秋キタ━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━ !!!!!
384 :
名無しさん@3周年:02/08/20 22:40 ID:gShxg4Wm
豊臣必死だな
385 :
名無しさん@3周年:02/08/20 22:46 ID:5rje0Hh1
茶会に誘われても青森の田舎まで行くのは大変でしょうに
386 :
マグロ男:02/08/20 22:52 ID:EcXzFIEw
ふ〜ん、まだ大納言だったんだ。家康が内府になったのはいつ頃なの?
387 :
山野野衾 ◆NDQJtGoM :02/08/20 22:57 ID:Q44W0qOY
>378
前田利家がそう語っていたと「国祖遺言」にも出ていますね。信憑性がある。
388 :
名無しさん@3周年:02/08/21 02:45 ID:l2oqom1p
>>369 だが尾張統一済なのに桶狭間の際、織田方兵力が劣勢だったのは事実
軍勢を出し渋って日和見した豪族が大勢いたと思われ
389 :
:
手淫状か・・・
さむっ!