【W杯】「引き分けがあったら」 トルコの仮設村住民
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1890年(明治23年)9月16日、トルコ皇帝ハミル2世が日本に派遣した特使一行を乗
せたエルトゥール号が、帰路、暴風雨に遭い、和歌山県串本町沖合で岩礁に衝突し
遭難するという事故が起きた。
この事故で、特使を含む518名は死亡したが、死を免れた69名は、地元民の手厚
い救護により、一命を取り留めた。この時村人たちは、台風により漁ができなく、
自分たちの食べるものさえ無くなってしまうという状況にあったにもかかわらず、
非常時のために飼っていた、最後に残ったにわとりまでも、トルコ人に食べさせ介
護したのだった。また、遭難者の遺体を引き上げ、丁重に葬った。
この話は、和歌山県知事から明治天皇に伝えられた。その後遭難者たちは明治天
皇の命により軍艦2隻でトルコに送り届けられた。このことは、日本中に大きな衝撃
を与えた。
この話に同情した「山田寅次郎」なる人物が、一民間人として新聞社などの協力
を得ながら全国を歩いて義捐金を集め、それを携えてトルコに渡った。 1892年4月
4日、イスタンブールに上陸した山田は、外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し
、皇帝アビドゥル・ハミト2世に拝謁した。山田寅次郎はトルコ側の要請で、その
ままトルコに留まり、日本語を教えるとともに、日本とトルコの友好親善に尽くし
た。この時の教え子の中に、後にトルコ共和国初代大統領となる、ケマル・パシャ
(アタチュルク)がいた。