先日、山田邦子のお父さんが死んだという報道があった。
ここのところの、山田邦子の凋落ぶりというのは、山田邦子嫌いの私でさえつらい
と思えるほど容赦ない。
何をしてもつらい、どこへ行ってもつらい。テレビに出る事で、人気だとかランク
だとが価値だとかいう、全てのものを築いてきたタレントだというのに、今の山田
邦子はテレビでその姿をさらせばさらすほど、どんどんつらくなっていくのである。
にっちもさっちも行かない状態。もう打つ手なしだったのだ。
しかし、父親の死という報道の中で山田邦子は蘇ったように見えた。ひどいことを
言ってるように聞こえるかもしれない。いや、お父さんが亡くなったということは
気の毒だと思うし、それに関する山田邦子の娘としての態度云々についてどうこう
いう気もない。
ただ、この一件によって改めて「死」というもののつぶしのききかたのすごさを認
識したということである。
人が死んでも悲しむな、といってるわけではなく、死もメディアに乗った瞬間に商
品である。ワイドショーでお葬式の中継なんか見て悲しい気持ちになるのは、悲し
い気持ちになるためにその商品を消費したという言い方もできる。そして、ワイド
ショーなんかは、なるべく多くの客に商品を消費させたいと熱演するプロショッパ
ー(実演販売員、マーフィー岡田とか)だ。悲しんでもいいけど、悲しめなくても
問題ない。CD買うか買わないかの違いだ。なんだかよく分からない結論だが。