【政治】田中真紀子秘書給与ピンハネ疑惑 ★15

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232名無しさん@お腹いっぱい。
1985年2月7日  創政会(竹下派)発足
1985年2月27日 田中角栄、脳梗塞で倒れる
1985年4月28日 真紀子、東京逓信病院と大喧嘩、角栄を強制退院させる。
           渡辺院長と早坂茂三秘書は「一時帰宅」と発表
1985年5月11日 真紀子、自民党記者クラブに以下の文面を貼り出す
           「渡辺恒彦院長、加嶋政昭第三臨床科部長、早坂茂三秘書と田中家の交渉は断絶中。
           彼らの発表には一切関知しない」
1985年6月6日  真紀子、平河町の田中角栄事務所を突如閉鎖。
           早坂茂三、佐藤昭子、朝賀昭の3名、私設秘書を解任
           その後、公設第二秘書工藤節子も解任
1986年2月27日 公設第一秘書田中利男、首吊り自殺

1987年1月1日  竹下登自民党幹事長、田中家に年始の挨拶するも門前払い。
1987年10月6日 竹下登、再び田中家を訪問、門前払い。

1987年の10月6日、田中邸を竹下が訪れた時、何故か田中邸の前はマスコミでいっぱいだった。
マスコミが見つめる中、竹下は即座に真紀子に訪問を拒否され、名刺を渡すのが精一杯ですぐに帰路についた。
総裁選への立候補を控えていた竹下は、連日、右翼団体皇民党の「ホメ殺し」にあっていた。
竹下は「ホメ殺し」を中止してくれるように、広域暴力団稲川会の石井会長に調停を依頼した。
皇民党が「ホメ殺し」の中止にあたって、石井につけた条件は「竹下が、田中角栄に会い、田中派を乗っ取ったことを謝罪するとともに、総裁選への立候補を挨拶せよ」というものだった。
この中止条件を履行するために、竹下は強引に田中邸訪問し、門前払いを食ったのである。
この時、よく事情のわからない新人秘書が真紀子に命じられ、竹下を追い返すよう対応させられたという。

これは何だ?
いかにも真紀子がやりそうな陰湿なイヤガラセではあるが、
ここで問題なのは、かの「皇民党事件」の陰に真紀子がいるのではないかということである。
街宣右翼が左翼の別働隊であるのは周知のことだが、真紀子にこのような過激組織との繋がりがあるとすれば、
新潟における真紀子の恐怖支配や、
今回の秘書給与流用疑惑において告発した秘書が、とっくに関係者には個人の特定はされているであろうというのに、
あくまで匿名である理由も何となく頷ける。