俺は痴呆公務員勤務歴17年だけど、もう勤労意欲は無いな。
役所辞めて1年後にビル管理会社に就職したけど、
1か月で辞めた。
働かなくても食える環境ってのも、案外、楽では無いけどね?
父親が10人兄弟なんで、親戚がたくさんいるのよ。
親と親戚の援助で食ってる。
まあ、公的機関が大借金して民間人に資産を与えているわけだから、
財源には こと欠かないよ。
俺が痴呆公務員になったのは昭和58年の4月だった。
当時は、中曽根内閣が国鉄民営化、行政改革をしていた。
当時は、公的機関の赤字経営を是正するのが命題だった。
「収入の範囲内で、公的支出をする」
この秩序を守ることが、幸福の最低条件だと思いこんでいた。
若い俺は、
収入を越えた支出が、全ての不幸の始まりだと確信していた。
試験の作文にもそのような趣旨のことを書いた。
「赤字経営解消のために、縁の下の力持ちになって働きたい」・・・と。
福祉事務所、病院、電算管理、等の職場を経て、
平成8年に、土木の職場に異動した。
商業高校卒の俺には、ちんぷんかんぷんの仕事内容だった。
加えて、年次改革要望書の影響で公共土木工事が乱発して
津波のような仕事量が現場を襲った。
まあ、将来、子孫がやればいい社会資本整備を
親の世代が前倒しして乱発しているようなものだ。
国の借金を増やして、無駄な仕事をせざるを得ない状況が続いた。
まあ、大学いってケインズ経済学でも学んでいれば
アホな悩み方をしなくて済んだだけじゃないか・・・
と、今は冷静に思っているが、
当時は、無駄な公共事業の連発と、
公的機関の赤字増大の勢いの凄さに、
精神的、身体的についていけなくなった。
寒さに弱い俺は、冬の日曜日の午後に、家出をした。
病気でも無いのに、明日、仕事に行きたくなくて仕方なかった。
家出して、一人でゆっくりと
「死ぬべきか、退職だけにしておくか」考えたかったのだ。
・・・10代後半のころ、エスキモーの生態についての本を読んだことがあった。
エスキモーが年老いて、自分で自分の食料を獲得できなくなると、
家を出て凍死するらしい。
そして、アザラシの餌になって、ゆくゆくは、子孫の食料になることを
望むらしいのだ。
若い頃の俺は、こういう死に方もいいな・・・と、心に刻んだ。
実は、俺には、退職金で家を買いたいという夢があった。
しかし、土木課勤務2年目に父親が、
「モデルハウス見に行こう」と、俺を連れ回した。
花粉症や激務で体力的に消耗していたので、
気晴らしのつもりで、親父についていった。
当時、親父は、民間企業を退職して3年経過していた。
俺と同様、「退職したら家を新築したい」様子だった。
土木課の直前の職場も忙しかったので、残業が多く、
遊ぶ時間も無かったので、金は相当貯まっていた。
土木課の直前の職場でも、土木課でも、
上司は、俺に家を買うことを勧めた。
正直、俺は仕事と婚活で 手一杯だったが、
父親が頭金を払ってしまったので、
家を新築することにした。
俺の本音は、借金が嫌いだったので
将来、退職金でキャッシュで新築の建売住宅を買う予定だった。
しかし、「隠居したら新しい家に住みたい」という
父親の気持ちもよくわかったので、
公務員としての信用がある俺が借金をして
家を建て替えることにした。
土木課では、過去に道路建設用に買収した土地の
境界問題で、「ある粘着質な地権者B」ともめていた。
助役にまで案件が報告されており、
「裁判で対応するから、訴えられるまでは、現場で処理しなくてもよい」
という方針が打ち出されていた。
しかし、俺の前任者は、そのことを俺に引き継ぎしてくれなかった。
なぜかと言うと、大きい問題だったので、主任クラスが対応するべき案件だからだ。
だが、狡猾な「地権者B」は、異動で赴任したばかりの俺に粘着してきた。
引継を受けていない俺は、安易に「検討します」と返事してしまった。
これが、全ての悲劇の始まりだった。
「地権者B」は、真面目な人間を狙って粘着してきた。
本来は、係長が対応すべき案件なのだが、
係長は「仕事全般、やる気が無い」宣言をしていた。
係長は、仕事量が少なく、負担は俺と課長に集中した。
課長も、他に大量の懸案事項を抱えていたので、細かい作業は俺に集中した。
土木課の3年で、俺は人生のエネルギーを全部使い果たした感じがする。
仕事が忙しい上に、自分の方針を変えて
短期間に注文住宅を設計したので、
できあがった住宅に住んでみると、「しまった・・」の連続だった。
仕事では、土木課の激務3年の後、比較的楽な課に異動できたが、
心身が衰えた俺は、事務処理能力が半減していた。
普通なら、8時間で処理できる仕事に16時間を費やした
ような気がする。
しかし、超過勤務手当を、申告しなければならない。
俺が少なめに申告すると、上司は「そのまんま書け」と言った。
これが更なるストレスを生んだ。
最後の職場では、ほとんど毎日16時間勤務していた感じだった。
新築の家での生活は、風呂と寝ると朝飯だけだった。
土曜も日曜も仕事に行った。
仕事が遅い自分に嫌悪感を感じた。
しかも、働けば働くほど、公的債務は増大し、
仕事が遅い自分の給料は増える。
俺は、仕事に行く体力が無くなった。
家出して1年間遊んで死ぬつもりで、300万円下ろして
家出した。
最後の職場は、天下り外郭団体への出向だった。
土木課のような、土地がらみの嫌らしい案件が無いように見えた。
しかし、赴任して3か月経った時に、
本庁から、土地からみの嫌らしい業務が
移管してきて、俺が担当することになった。
土木課で、土地がらみの仕事にアレルギーになった俺は、
その仕事がつらくて仕方が無かった。
衰弱した俺にとどめを刺したのが、その仕事だった。
また、外郭団体で、「あまり仕事ができない年上女性職員」の
面倒を見なければならなかったことも、追い打ちをかけた。
当時の小渕総理は、
「俺は世界一の借金王だ」と自嘲していた。
俺は、「冗談じゃねえよ」と思った。
1日1万円使いながら、日本各地の大都市で遊んだ。
重い荷物を持って、1日、1万歩以上、歩いた。
うまいもんを食べた。
自然と、元気が出てきた。
家出して40日目、俺は、池袋駅の地下道を歩いていた。
それまでの40日間は、
地下鉄のホームに立つと、「電車に飛び込む死に方は最悪だな」
と考えるのが日課だった。
名古屋、大阪、博多、東京の大都市の百貨店巡りをして、
屋上に上って、「飛び降りたら痛いだろうな」
と考えるのも日課だった。
家出して40日目、俺は、池袋駅の地下道を歩いていた。
池袋駅の人の群れを見ているうちに、
「みんな、母親の産道を通ってきたんだなあ・・・」
と思うと、不思議な感覚に襲われた。
俺は、西武百貨店の屋上に上がった。
西武百貨店の屋上には、小さな遊園地があった。
幼少時に、田舎の百貨店の屋上遊園地に
親に連れられて遊んだらしき曖昧な記憶が蘇った。
遊園地の入り口に、公衆電話があった。
自宅に電話した。
母親が出てきて、苗字が聞こえた。
俺は、ゆっくりと受話器を下ろした。
家に帰ろう。
なんとかなるさ!!
帰宅を決意してから、1週間は東京で遊んだ。
23時に帰宅すると、家の鍵が、かかっていなかった。
俺は、こっそり自宅に忍び込んで自室に入って寝た。
翌朝、俺は父親に土下座して謝ると、
父親は、中腰で俺を軽く抱いて言った。
「よく、帰ってきてくれたな」
父親は、うれしそうだった。
父親は、一言だけ言って、朝の日課である
散歩に出かけた。
当時の俺は、あっけにとられた。
今、思い返すと、親父らしい行動だなあ・・・・と思えるが
金曜の夜に帰宅したので、月曜の朝、
出向先と本庁に出向き、謝罪と、今後についての話をした。
1 辞めるか、死ぬか決めるために家出した。
2 今の自分は給料に見合った働きができない。
3 今後も、給料に見合った働きができそうにないから辞職したい。
という趣旨を伝えて、自己都合退職することにした。
俺の趣旨を一通り聞いた 出向先の天下りのNo2が、
痛切な表情で天井を見上げてつぶやいた。
「純粋すぎる・・・・・」
俺は、自分を理解してくれた気がして嬉しかった。
家出の期間中は、役所の上司が
俺の家に頻繁に来たらしい。
「なにが原因で家出したのだろう?」
という話になると、
役所は、「父親が強引に家を新築したからでは無いか?」
と父親を責めていたらしい。
実は、母親の兄弟に子供がいない夫婦がいてね。
子供代わりに、俺をかわいがってくれるんだ。
家を建てた1年後に、「俺名義の総額1000万円の預金証書」
をくれたんだよ。(結婚資金として)
父親は、「借りたことにすればいい」と言ったが、
新築に失敗した俺は、結婚後は別居したかったので、
住居費用として使いたかった。
が、贈与税を払わないといけない。
母親は2人姉妹だから、正しくは
母親の姉夫婦だね。
姉夫婦は、俺に2回ほど見合いを設定してくれた。
しかし、土木課3年目の俺は体力的に消耗しており、
自分では 「女性と交際ができない程度」という感じだった。
見合い相手と対面しても、
「この人と幸せになる」という自信が湧いてこなかった。
見合いはいずれも、1回対面して俺から断った。
俺は、1000万円は、一旦、返そうと思った。
母の姉夫婦の家へ行って、
預金証書を返したいと言ったら、
「結婚したら障がい児が生まれることもあるから、
とっておきなさい」と言われた。
しかし、今の体調では、結婚する覇気が無い。
「結婚できそうもありません」とも言えず、
引き下がった。
贈与税の相談もできなかった。
14年前の話だから、時効なんで、安心して書いています。
ところで、贈与税は、誰が払うべきか?
「贈る、与える」という行為に課税するわけですから、
母の姉が支払うべきものです。
俺が悩むべき性質のものでは無かったのです。
年を取ると、世の中のことがわかってくるから、
人生は面白いのであります。
>>68 × 新築に失敗した俺は、結婚後は別居したかったので、住居費用として使いたかった。
○ もし、結婚したら、新築した家で親と同居するつもりは無かったので、
賃貸マンション経費として使いたかった。
要するに、仕事がつらいから、役所に行きたくない病だった。
加えて、結婚するあても無いので、もらった1000万を使うあても無い。
なのに、贈与税を納めるのはアホらしく感じていた。
「公務員、失格ではないか」
そのうち、若い頃の不摂生で体調を壊しているのだから、
「人間失格ではないか?」
と、自分を追いつめるようになった。
公務員を辞めることは、自分の頭の中で、ほぼ確定していた。
人間を辞めた方がいいかは、もう少し、ゆっくり考えたいと思った。
なぜなら、貯金が500万円ほどあって、使わずに死ぬのは
惜しいと思ったからだ。
とりあえず、1年、考えよう。
俺は、300万円を下ろして、家を出た。
俺が家出から帰ったのは平成12年3月17日だった。
4月2日に小渕さんが脳梗塞で倒れた。
俺は非情にも、「これで、国の借金増は抑制される」と思った。
1年後には小泉内閣が誕生し、新規国債30兆以下を約束していた。
その公約は、見事に裏切られた。
小泉内閣は、小渕内閣以上のスピードで、国債を発行した。
俺が公務員になった昭和58年当時は国債残高100兆円程度で、
国中が大騒ぎしていたのに。
「俺の信条は、いったい、何だったんだろう?」
俺は、図書館やネットで財政収支について研究することに没頭した。
40兆の収入で80兆の支出ということは、
400円払って800円のラーメンを食べて帰る客ということなんだな。
400円しか払わないなら、400円のラーメンを出せばいいわけだ。
800人公務員がいたら、400人が仕事して、
残りの400人は好きなことをやってれば良い。
ってことに強引に持っていきたいわけよ?
まあ、好きなことやってる400人は
当然、無給だけど。
無給で、政治家の決定にとらわれず、
心のおもむくままに行動すればいいと思ってる。
自然と、公務員的な行動しかできない体質なんだよな?
俺の父親の家系は、バクチ好きで、バクチは何でもやるのだが
競馬をやる人が多い。
20歳代に毎年、300〜400万円競馬で儲かっていたと
豪語するイトコもいる。
俺は、平成13年の5月から8月まで株をやって50万円、損をした。
儲かってないことを察知した父親が、俺を無理矢理
競艇へ連れていった。
母親も大反対したが、「父親が、盆と正月の2日だけ」
と言うので、仕方なく競艇へ行った。
競艇に行ったら、親父が2万円儲かった。
親父は、儲かった2万円を車代として俺にくれた。
よくわからんのだが、
その月は、3回程度、親父と競艇に行った。
翌月からは、自分だけで競艇に行くようになった。
その時、9,11テロが起こった。
放置していた株が、暴落した。
別に、株の負け分を取り返すという意識も無かったが、
俺は、競艇にのめりこんでいった。
競艇にのめりこみながらも、ヒマな時は、書店や図書館で
「日本が巨額財政赤字になった理由」を丹念に調べました。
そこで、斎藤一人さん(高額納税番付常連者)の著書に出会いました。
その人は、「税金をたくさん納めるゲーム」をしながら商売する
考え方を紹介していました。
僕は、これだ!!っと、深い感銘を受けました。
この考え方を若い人たちに2ちゃんねるで広めよう・・・と。
という訳で、2年くらい前から、斎藤一人さんの著書を
人生相談板で紹介しています。
自分が、人に本を勧めることで、自分も本のとおり
実践できるのではないか?という期待もありました。
で、本を他人に奨めていながら、自分は実践していないのですが、
最近、理由がわかりました。
僕は、商人ではなく、公務をしたい人間だったのです。
産業構造が変化し、商人が過半数を占める時代の民主主義は、
どうしても、商人の意見が通り易くなります。
そのため、公務員は、商人の性質を研究する必要があるのです。
俺は、高校生のころから酷い花粉症だった。
まあ、高校時代は花粉症と知らず、
風邪を引きやすい虚弱体質だと思っていた。
25歳くらいで花粉症と診断され、薬を飲みつづけた。
家を新築した頃は、爪が水虫になって、
薬を飲んでいた。
まあ、職場の年長者からは「お前は鍛え方が足らん」と
よく言われた。
再就職に失敗して1か月で辞めた時は、
父親と精神科へ行った。
「感情障害」と診断された。
医者は、役所の仕事による影響だと言ってた。
家を建てたのが33歳
役所辞めたのが35歳
今年で48歳
役所を辞めずに家を買わずに65歳まで働いて、
家を買って平均寿命79歳まで生きると仮定すれば
新居で14年遊んで暮らすことになります。
俺は35歳から遊んで暮らしてるから、
49歳まで生きれば、あとはオマケの人生です。