1 :
urawath:
その1
1937年4月初め、父の盛毓常(盛毓常は盛宣懐の長男の長男です)
は盛宣懐から受け継いた300件余りの非常に貴重な中国古代の
文化財を東京の展覧会に出展しました。出展品のうち、最も貴重
なのは雨過天晴ヒョウタンの瓶、宋、元、明清時代の有名人の
真筆、書画、碑文の拓本、母屋のバーチカル・シャフト、巻物と
田黄、ニワトリの血の印鑑です(そのうち、田黄で作られた貴重
な観音菩薩像もありました)。
当時、同行したのは母親の王碧芙、姉の盛瑋(当時4歳)、二人の
スタッフの宋治鈞、顧静波及び乳母の阿珍などでした。
父の日本人友人である奥田愛三(歯医者)に彼らの渡日旅券、
出入国などの手続きをしてもらいました。(当時、上海の康脳脱路
金司徒庙弄に自宅があり、これらの文化財を日本へ持って行くまで
は、自宅の中で秘蔵していました。奥田さんは当時、上海虹口に
ある施高脱路(現在の山陰路)の近くに住んでいまして、中国各
業界、数多くの有名人士を知っていました。かつて、父と一緒に
魯迅先生に会いに行ったことがあります。奥田さんは父が骨董品
などの文化財を持っていることを知ってから、よくほかの日本の
方々(日本皇族の方もいました)を連れて観賞しに来ました。)
当時、奥田ご夫妻と助手の陳光生氏(浙江寧波出身)も同行しました。
全員上海からの出発で、日本船の“長崎丸”に乗って日本神戸港に
到着した後、列車で東京まで行きました。これらの文化財はクスノキ
の木箱に入れられて、携帯して日本まで持ち込みました。
東京に到着後、父、母、姉は東京の“龍名館”、“山王飯店”に
宿泊していました。スタッフたちはずっと“龍名館”に泊まって
いました。
2 :
urawath:2008/10/18(土) 12:23:35 ID:???0
その2
奥田さんのご紹介で、父は当時、とても声望のある藤山爱一郎さん
と知り合いました。(藤山爱一郎さんは当時の日本の参議員であり、
中国解放後、日中友好協会の会長にも務めていました)。藤山さんの
お手伝いのもと、父が主催した展覧会は1937年4月28、29日の2日間に
渡って、東京銀座工業クラブにて順調に開催されました。その間、父
は展示物の中いくつかの骨董品を藤山さんのお友達に売却したことも
ありましたが、その以外の文化財、骨董品を売り出すつもりは一切
ないと強調しました。
1ヶ月後、母は妊娠で、かつ生活に慣れないため、奥田夫人と一緒に、
姉、乳母を連れて先に帰国し、父はスタッフたちと一緒に日本に残って
いました。奥田夫人は上海にしばらく滞在した後、父に依頼され、
上海の自宅に残されたもう一部の文化財、骨董品を持って、再度
日本に戻りました。
1937年6月10日、上海の弁護士の卓騰乾さんからの電話を受け、父は
会社の急用で、帰国せざるを得ない状態になりました。時間が急いだ
ため、父は文化財を“龍名館”の責任者に預かり、スタッフの宋治鈞
を日本に残して、文化財の面倒を見させ、スタッフの顧静波と一緒に
中国へ戻りました。中国での用事を終わらせてから、また日本に文化財
を取りに行く予定でした。
1937年6月末、宋治鈞氏は言葉が通じないうえ、中国からの連絡も
なかったため、奥田さんに会いに行きました(奥田さんは東京に住まれ
ていたが、当時、肺病のため、熱海で療養していた)。奥田さんから
300円を借り、一人で上海に戻りました。今後また父と一緒に日本へ
行って、文化財を取り戻すことつもりでした。
しかし、その後すぐ、1937年7月7日に盧溝橋事件、8月13日上海事変が
起きました。日中戦争が勃発した状況の中、父親は日本から、これらの
文化財を取り戻すことができませんでした。
3 :
urawath:2008/10/18(土) 12:24:28 ID:???0
その3
1941年前後、奥田さんが再び上海に来ました。父は奥田さんと面会し、
奥田さんの話によると、文化財はまた日本東京の“龍名館”に保管され
ていました。その後、父、母は何度もこれらの文化財を取り戻そうと
努力したが、戦争が長引いたため、実現できませんでした。
1945年戦争が終わってからも、中国国内の政治変動などの都合で、父は、
これらの文化財を取り戻すという願望はずっと実現できませんでした。
1949年から、長い間、日中の間は国交関係を結んでいなかったため、父
は再び日本へいくことなく、自らから文化財を取り戻す願望を実現
できませんでした。
1966年2月、父は病気で亡くなりました。亡くなる前に、父は、母に
文化財を日本に保管している証拠をきちんと保管するように頼みました。
将来、子供の私たちがいつかそれらの文化財を中国に取り戻すことを
願っていました。
しかし、その後、中国の文化大革命が起きました。母は自分が保存した
日本での写真や、証拠物(奥田夫人と日本で撮った写真も含み)などが
災難に引き込まれることを恐れ、ほとんどの写真、証拠物を焼却して
しまいました。
前世紀80年代、私の2番目の姉、盛英は友人を通して、藤山さんと手紙
を交わしたことがありました。90年代に、中国関連部門にもこれらの
文化財を取り戻すようにお願いしたが、証拠が不十分のため、その願望
を実現できませんでした。
前世紀90年代、上海作家寧露霞さんが台湾で“盛宣懐一族盛衰史”という
本を出版しました。本の中に父が日本に文化財を残したことを取り上げました。
その後、2002年の前後、台湾商人の方竜驤さんが香港から何回か私に電話を
掛けてきました。電話の中で、彼は一部の文化財を持っていると言いました。
もし、私がこれらの文化財は父が祖父の盛宣懐から受け継いたものである
と証明できれば、文化財がオークションで値上げた分の20%——50%を私に
渡してもよいと言っていました。
それと同時に、私も何度も親戚と友人から、前世紀40年代に日本東京の
“龍名館”の近くに大火災が起き、これらの文化財は焼き尽くされた
かもしれないという話を聞きました。
4 :
urawath:2008/10/18(土) 12:25:09 ID:???0
その4
以上は、わが家族の文化財について、過去70年間の経歴でした。
以下のことについては確実であると考えています。
1、1937年4月、私の父、母は確かに300件余りの文化財を日本へ持ち込み
ました。そして、日本の“龍名館”に預かっていました。我が家族は今まで、
これらの文化財の行方について分からず、取り戻すことができませんでした。
2、わが家族は、東京“龍名館”の支配人(1937年以降の各位)は、これら
の文化財の行方を知っているではないかと考えています。
3、奥田愛三さんのお子様たちは奥田ご夫妻と私の父母との写真を見たこと
があると考えています。さらに、文化財についての情報もあるではないか
と考えます。
4、私自分も、前世紀の90年代前後に、東京の“龍名館”に行ったことがあり、
そこに手紙を出したこともあったが、ご返事はもらえませんでした。
私は、日本の皆様が中国に対して、善意を持っていると深く信じております。
そのため、本文を書きました。これらの文化財に関する情報をお持ちでしたら、
ぜひ、私に連絡していただきたいと思います。我が家族の長年の願望を果たせる
ように、ご協力を心からお願い申し上げます。
もし、これらの文化財を取り戻せるなら、重要な情報をご提供していただける方
に謝礼をさせていただきます。
盛宣懐の曾孫:盛承懋 2008年8月
連絡用電話:86-130-6388-0382 (中国語)
86-139-1555-2957 (日本語)
担当者:盛承懋・楊
E-mail:
[email protected] [email protected] [email protected]
ロボはニートで裕福だよ? でも長文は読めないよ? だからスレ終了。
ながーい
おまえ浮いてるよ。
8 :
私事ですが名無しです:2008/10/19(日) 19:31:14 ID:QgaQmANn0
大変ですね
ふっふっふ
>>9 決して作りばなしではありません。事実とお願いを書いただけです。
うそつけ
ハイアイアイ群島だな
本日は快晴
アー、班長の野村だけんどー、あたかもー盗掘が悪いような話だで?
構ってちゃん乙wwwwww
むふふ。
はっふっぽっ
文化財なんかより保存すべきはサエのウェットパンティーだと思う
腕をすり抜け
年寄りかよ!
長い
おっ
↓こら貴様、ほとんど動いてないスレを延命させるんじゃない!両親は泣いてるぞ!
え?
劇場版みかこさん
狛江?
d,
30 :
私事ですが名無しです:2009/09/14(月) 00:46:04 ID:vOBQi8C30
是自己写的吗?能写的这么好应该在日本读过书的吧
それは困るな。
たまには先回りして
わかんなぁ〜〜〜いい♪
このひとヤリマンです↓
36 :
私事ですが名無しです:2010/02/01(月) 14:34:02 ID:dN7IBZ1IO
槍珍
37 :
鰤鯛:2010/03/06(土) 09:49:04 ID:???O
デカルチャー!
㍇㌞㌟㌞
おまえの人生シコシコウッ! そらシコシコウッ! シコシコウッウぅ!!