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私事ですが名無しです:2006/12/12(火) 04:23:53 ID:saGGW51P BE:684079878-2BP(1220)
国産の奴で適度な辛さ発酵食品の程よい酸味。
おいしい。
たこキムチもおいしいよね。山口下関産のたこキムチが一番おいしい
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kimu:2006/12/12(火) 04:30:45 ID:EF9e7HqD
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■火の玉となって活躍せよ
今や皇軍は海に陸に大勝を博し、破竹の勢いで進撃して居りますが、
私たちはどんな艱苦欠乏にも堪えて銃後を護り通さなければなりません。
あらゆる方面に火の玉となって活躍すると共に、
食事体制も節米と栄養と保存食を充分に考慮することが必要と思います。
(『婦人倶楽部』昭和一七年二月号)
■主婦に課せられた責任
いかなる長期戦も覚悟のうえで、決然起ち上った一億国民には、
物の不足も不自由も、もはや問題ではなくなりました。
今後配給制はますます強化され、限られた材料しか手に入らないであろうことは、当然予想されますが、
料理の根本を会得し、いかなる場合にも栄養と経済の両面から物をよりよく生かすことを研究し、
常に家庭を明るく健康に保ってゆくことが、主婦に課せられた大きな責任だと思います。
(『主婦之友』昭和一七年二月号)
戦地の苦労を思い起こせ
■お台所の頑張り戦
長期戦になって、国と国との総力をあげての戦争だということが、
私達の日常生活にもヒシヒシと感じられて来ました。
鍋一個、大根一本が直接戦争と連り、国家と連っていることを、
今度ほどはっきり感じたことはありません。
国民と国民の頑張り戦、それで勝った方がこの戦争に勝つ――今では敵もそれを充分に考えています。
その国民生活の頑張り戦の中心は、何と云ってもお台所です。
その大切なお台所を預かる私達が、不平を鳴らしたり、悲鳴をあげたりしてしまったら、もう戦争は負けになります。
(『婦人倶楽部』昭和一八年一月号)
■お台所の増産計画
南太平洋の基地では、食糧を運ぶ船舶を一隻でも兵器輸送に回そうと、
雨霰と降る弾丸の中で畠を作り、食糧の自給自足に努めておられると聞きます。
敵米英を叩き潰すためならば、どんな困難も頑張り抜く覚悟は、
私達主婦にももう充分にできているはずですけれど、ただ不自由に耐えるというだけでなく、
もう一歩進めて家庭内の食糧増産まで考えてゆかなければならぬと思います。
空地を耕して野菜を作るばかりでなく、今の場合、与えられた材料を一つの無駄もなく、
それを五倍にも十倍にも効果的に使ってゆくことも、大切なお台所の増産と言えるのではないでしょうか。
(『主婦之友』昭和一八年一二月号)
■足りないのは食糧ではなく反省
この頃の都市の野菜の配給は、従来から見れば多少窮屈になっていることは事実です。
それでも欧州の国々の現状から見れば、想像もつかぬほど潤沢で余裕があるのです。
わが国は地域は狭いが、陽の恵み、地の慈しみに溢れて山の幸、海の幸に満ちています。
米のほかに麦があり、雑穀があります。
肉は乏しくとも魚や貝があります。
芋も大豆も野菜もあります。
立派に食用になる無数の植物が生い茂っています。
前大戦でドイツが敗れた時、ベルリンの郊外は数里にわたって樹木の葉まで、
青いものはすべて食いつくしたといわれています。
それに比べてわが国の現状はどうでしょうか。
足りないのは実は食糧でなくて、食糧に対する反省です。
食事に対する工夫です。
戦時生活を実践する決意と労力です。
(教学練成所練成官・医学博士・杉靖三郎/『婦人倶楽部』昭和一九年六月号)
焼け跡での非常炊事
料理道具は何一つ持ち出せなかったとしても、バケツで結構御飯が炊けます。
洗面器で汁もできれば煮物もできます。退避壕の入口にあるシャベル、これは立派なフライ鍋。
もし油があればこれで非常袋の中の乾燥野菜を炒める。
こうした機転で同じものも美味しく食べられるのです。
爆風で落ちた瓦、これも重宝な調理器具、お米やお豆が即座に炒れます。
干魚も焼けます。
(川島四郎大佐/『主婦之友』昭和一九年一〇月号)
◆貧しい農村、リッチな都会
戦争中の食について知るためには、戦争になる前の食についても知っておく必要がある。
昭和初期の日本の家庭の食卓はどんなふうだったのだろう。
戦前の日本は、いまでは想像もつかないくらい、地域差や貧富の差が激しかった。
貧しかったのは農村だ。米どころでさえ、米だけを主食にしていた農家は少ない。
米は小作料として収穫の半分以上を物納させられたし、
それ以外の米は現金収入を得るための商品だったからである。
よって、大切にとっておいた白米は、年に二、三度、正月やお祭などの特別な日にだけ食べるもの。
ふだんの主食は売り物にならない「くず米」に丸麦や押し麦を混ぜた「麦飯」や、
野菜やいもや雑穀を混ぜた「かて飯」だった。
おかゆや雑炊をよく食べていた地方もあるし、農地の少ない山間部では、
あわ、きび、ひえなどの雑穀類や、いもが主食だった地域もある。
特に昭和の初期は、東北地方で冷害による米の凶作が続き、
栄養失調の子ども(欠食児童などとよばれた)がごまんと出た。
戦争中の食生活は悲惨だったというけれど、農村の食生活はもともと悲惨だったのだ。
いっぽう、都市では多彩な食文化が花開きつつあった。
主食はもちろん、お米屋さんが届けてくれる白米。
朝はパンとコーヒーでというご家庭もあり、ライスカレーはとっくに家庭の定番メニュー。
コロッケ、フライ、ハンバーグ、ロールキャベツ、シチュー、オムレツなども普及しはじめ、
町なかの洋食レストランやデパートの食堂が人気を集めていた。
下に示したのは一九三九(昭和一四)年、すでに戦争がはじまってからのレシピだが、
このころはまだ余裕があり、それまでと変わらず、バラエティに富んだメニューが婦人雑誌の誌面を飾っている。
日本料理の老舗・八百善と、帝国ホテルの料理長が指導する家庭料理。
なかなかの本格派だ。
豆知識としてつけ加えておくと、
すし、天ぷら、うなぎ、そば、うどんといった和食の定番メニューが確立したのは徳川時代の江戸。
西洋料理が日本に入ってきたのは明治だが、
それが「洋食」に化けて家庭に普及したのは大正から昭和の初期にかけてである。
「洋食」とは西洋料理を日本風に改造した和洋折衷料理のこと。
コロッケ、トンカツ、ライスカレー、すべて日本で生まれた「洋食」である。
日本人は外来の文化を自己流にアレンジするのが得意なのだ。
◆戦国時代の武将まで総動員?!
太平洋戦争がはじまって三年(日中開戦から数えれば六年)。
最初のころのイケイケ気分もどこへやら。
長引く戦争に、人々は疲れ果てていた。
婦人雑誌の誌面にも「撃ちてし止まむ」「鬼畜米英!」「進め一億、火の玉だ!」
などのヒステリックな標語があちこちに飛びかうようになり、
料理ページにさえ、下のように、外国や戦地や戦国武将の話まで持ち出して説得にかかるような前文が増えた。
みんな我慢していたのだ、というわけである。
この時期になると、配給の食糧はまったくあてにできなくなっていた。
一日一人二合三勺(三三〇グラム)という「米」の配給は他の主食で代用されることが多くなった。
そのため食糧の買い出しに、何時間も列車に乗って農村へ向かう人々で駅はあふれた。
一九四四年の米の闇価格は公定価格の一〇倍、その年の暮れには五〇倍に跳ね上がったという。
戦争は人間関係も破壊する。
戦争前、都市は豊かで農村は貧しかった。
皮肉なことに、食糧不足はその格差をなくし、やがて逆転させた。
買い出し先や疎開先で意地悪をされ、人間不信になった人も多い。
が、迎える農村の側にしてみても、食を求めて都会人が大挙押し寄せてくるのはおもしろくなかったはずだ。
農民が食うや食わずだったころ、都市の住民は白米中心のリッチな食生活を謳歌していたのだから。
◆寝不足で重労働なのに飯がない
味や食感のほかにもうひとつ、忘れてはいけないことがある。
空腹であることに加え、当時の暮らしは肉体的、精神的な疲労が大きかったことだ。
食卓の準備ひとつにも、おそろしい時間と手間がかかる。
配給の行列に毎日何時間も並んだり、遠路はるばる買い出しに出かけなければ、今日食べるものもない。
調理の準備もたいへんだ。玄米を棒でついて精米する、石臼をゴリゴリ挽いて雑穀を粉にする、
何時間も水でもどさなければ使えない食材がある、ほうろくで炒らなければ食べられない食材もある。
その上、畑で野菜を育てて干しいもを作る。
めしのためだけに費やされる時間とエネルギーの膨大なこと。
しかも戦時の暮らしは、炊事以外の仕事も非常に多いのである。
衣料品も不足していたから、主婦は縫い物や繕い物にも毎日何時間もかけなければならなかった。
ある調査では、修繕と物資確保に費やす時間だけで一日平均六時間にも及んだという。
その上、隣組や婦人会など外での活動も待っている。
子どもたちも同様だった。一四歳以上の男女の勤労奉仕が義務化され、中学生も女学生も工場や農村に動員された。
少国民と呼ばれた子どもたちさえ学校で畑を作り、疎開先でも農作業に駆り出された。
そしてみんなが睡眠不足だった。
戦争の末期には毎晩のように空襲警報が鳴り、都市の住民が布団でゆっくり眠れた日は一日もなかったほどだという。
加えて精神的な重圧感。「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」といった標語の前では、我慢が当たり前だった。
表だった批判はできず、隣組の目が光っているから勝手な振る舞いも許されない。
日常生活の一部始終がわずらわしいことだらけ。
食糧をめぐる争いもそこここで起こった。
そんなことは戦争の中の枝葉の部分でしかない、と思う人もいるだろう。
でも、じつは、寝不足で重労働で飯がない、それが戦争の本質かもしれないのだ。
◆戦地に送るから食べ物がない?
根本的な問題に立ち返ってみよう。
戦争になると、なぜ食べ物が欠乏するのだろうか。
戦争体験者の答えは案外と心もとない。
「軍隊に食糧を供出させられるからでしょう?」
戦地の兵隊さんに送るから食糧がない――これは理屈にあっていない。
たしかに軍隊は兵士の食糧を大量に必要としたが、兵士が何人いようと、国民の総人口そのものは変わらないのだ。
まして旧日本軍は、食糧について甘く見ていた。
太平洋戦争がうまくいかなかった理由のひとつは、食糧の補給や現地調達に失敗したことだ。
補給船が次々に沈められ、南方の島では兵士たちが自ら土地を開墾し、いもやかぼちゃを育てた。
それでも大勢の餓死者が出たのである。戦地では内地よりいっそう食糧に窮していたのだ。
戦争になると、なぜ食べ物がなくなるか。
ひとつめの理由は、すべての産業に軍需が優先するからだ。
男たちは戦地に召集され、戦地に行かない男女は軍需産業に駆り出され、
繊維工場や食品工場など、日用品を作る工場もことごとく軍需工場に転業させられた。
農村の人手は手薄になり、それまで伸び続けていた米の生産量は、一九四〇(昭和一五)年をピークにとうとう減少に転じた。
もうひとつの理由、それは輸送の問題だ。
戦争になると、どこの国でも「食糧の国内自給」を呼びかける。
それは経済封鎖や海上封鎖などで輸送路が断たれ、外から物資が入ってこなくなるからだ。
食料品だけの話ではない。
石油であれゴムであれ、資源のどれかひとつが欠けても近代国家の機能は麻痺する。
一九四一(昭和十六)年に、アメリカが対日石油輸出を禁止したことで、日本は大打撃を受けた。
その穴を埋めるために東南アジアへの進出を企て、太平洋戦争をしかけたものの、
制空権も制海権も奪われて、資源の備蓄は減る一方。
燃料がなければ国内の輸送だって滞る。
どこかに食べ物があったとしても、家庭に届かなければないも同然なのである。
戦争は戦闘や空襲のことだと思ってしまいがちだ。
しかし、戦闘は戦争のほんの一部分でしかない。
戦争の大部分は、物資の調達、運搬、分配といったいわば「お役所仕事」である。
日本政府と旧日本軍はそこを甘く見ていたということだ。
ぼくはよくP公園のベンチに坐って空想しプランを立てます。
詩のことだけではなく、いろいろ科学的な発明についても考えます。
数学の問題をとくことは、詩におとらずたのしいことです。
しかし、何よりたのしいのは、ベンチの前をさすらう女たちの脚を見ることです。
女たちの脚は、戦慄の曲線です。彼女が立去ってしまうと、後に戦慄の方程式が残ります。
ぼくはベンチの背に前身の重みをかけて、その方程式をとくことに没頭します。
その方程式からさまざまな空想とプランが生れます。
例えばぼくはメズサの頭のことを考えます。
メズサの頭を見たものは石になるというのは、論理的におかしいと思うのです。
もしそれが本当だとしたら、生きている人間でメズサを見たものはないことになるわけですから、
メズサの存在すら知っているものはないはずではありませんか。
しかし、この謎も、こう考えれば解けるのです。
メズサの頭を見て石になるというのは、何か特別な理由があるのであって、その理由さえ除かれれば、石にならずにすむのだと。
そこで、ぼくはこう結論しました。
メズサは大変な美人で、その美をヴィーナスと競ったため、罰として髪を蛇に変えられたというほどですから、
よほどの美人であったにちがいない。
つまり、その美に見とれて、スタンダールのいう恋愛の結晶作用のため、化石するのだと。
従って、メズサの美にも動じないほどの冷たい心の持主には、石になる危険もないのだと。
おそらくペルセウスはそんな男だったにちがいありません。
ぼくもそんな男になりたいと思いました。
あらゆるものに敏感で、しかもあらゆるものに動じない、本当に冷たい心の持主こそ、詩人といいうる資格をもった人間です。
「冷たい心、冷たい心、……」ぼくは何度も繰返して、その言葉の効果をたしかめました。
それ以来、その文句は、女たちの脚を見るとき、あるいは街を歩く時の呪文です。
その呪文をとなえていると、女たちの脚のもつ意味が、いっそうよく分るような気がするのです。
「君はろくすっぽ、彼女を見ていないじゃないか。せっかく君のために脱いでいるんだぞ。
もっとしっかり、眼で触るくらいにやってごらんよ。
君、シンコ細工っての知ってるかい。
彼女の首から腕にかけての感じ……固まる直前に、すうっと引伸したような、流れがあるだろう。
でも、ぼくが気に入っているのは、やはり胴のくびれめから、腰のふくらみに移っていくカーブだな。
まだ脱皮しきれていない少女時代の殻が、どこかにちょっぴり残っていて……」
「こだわるなら、脚だよ、ぼくだったら……」
言ってしまってから、急に顎がこわばり、歯がきしった。
目玉が重くて、彼女の顔まで視線を上げることが出来ないのだ。
いま、どんな表情をしているのだろう。
それにしても不審なのは、箱からタバコの煙が吹上る気配もなく、贋箱男がさっぱり咳き込もうとしないことである。
「しかし、分んない、形のいい脚、悪い脚……知らない外国語を無理に読まされているみたいだ……
どうしてこう、脚にこだわるのか、自分でも不思議なくらいだよ。」
「そりゃ、君、生殖器にいちばん近いからさ。」
「ちがう。それだけだったら、どんな脚でも同じことじゃないか。もしかすると、逃げ足に関係あるんじゃないかな。
逃げ足の早そうな脚は、つい追い掛けてみたくなる……」
「こじつけだね。彼女は逃げるどころか、待っている。それじゃ教えてやろうか、とにかく距離が遠すぎるんだ。
もう半歩、踏み出そうとしないから、顔も上げられない。
なぜその半歩が踏み出せないのか、そのわけを教えてやるよ。」
贋箱男は調子をあらため、壁ぎわを離れると、ぼくと彼女を結ぶ線を底辺とする二等辺三角形の頂点の位置に移動した。
「魚でも、鳥でも、けものでも、番をつくる前には、妙な求愛の儀式をするものだ。
専門家に言わせると、あれは威しや攻撃の変形したものらしいんだな。
つまり、生物にはそれぞれ個体の縄張りがあって、その境界線を越えた侵入者に対しては、本能的に攻撃反応を示す。
しかし、相手かまわず攻撃一本槍じゃ、番は成立しない。
交尾というのは、皮膚接触だから、どこかで境界線を突破するなり、扉を開けてやるなりしなけりゃ成り立たないわけだ。
そこで一見攻撃に似ているが、どこか違う、型変りの動作や身振りで、相手の防衛本能を混乱させたり、
油断させたりという技術が生れることになる。
人間だって同じことだよ。
惚れたのはれたの言ってみても、しょせんは化粧して羽飾りをつけた攻撃本能にすぎないのさ。
どっちにしても最終目標が、境界線の突破と、犯すことにある点では変りない。
ぼくの経験だと、人間の場合そのラインは、半径二メートル半くらいの位置にあるようだな。
口説くのもよし、ぴかぴか光るガラス玉なんかで相手をひるませるのもよし、
ともかくその監視ラインをくぐり抜けてしまえば、もうしめたものだ。
その至近距離では、敵の正体を見破ろうにも、かえって見きわめにくい。役に立つのは、触覚と嗅覚だけになる。」
「けっきょくのところ、何が言いたいんだ。」
「あと半歩前に出たら、ちょうどそのラインの上を踏むことになる。」
「それで?」
「君も煮え切らない男だよ。せっかく彼女にねだって、監視ラインの自由通行証を発行してもらったんじゃないか。
あと半歩進めば、いやでもその通行証の提出を求められる。むろんフリー・パスだ。
当然、箱に引返す資格も口実も一緒に放棄したことになる。
君はそれを認めるのが恐いんだ。そのための時間かせぎなのさ。
おかげで彼女は、あのとおり金縛りだよ。君が時計に封をしてしまったんだ。」
人と好ましい関係を築き、それを維持し発展させる能力は子供のときに芽生え、十歳から十二歳の間に強化される。
しかしこの能力が身につかないまま思春期を迎えてしまうと、もはや手遅れだ。
その結果として現れる行動は殺人やレイプとはかぎらないが、人格的欠陥を示す他の行為が見られる。
不幸な子供時代を過ごして深い傷を負った人は、その後完全に正常な人生を歩むことはできない。
彼らはアル中の母親や暴力をふるう父親となって再びすさんだ家庭環境をつくり、
そこで育つ子供を犯罪へと駆り立てることになるのだ。
ポジティブな人間関係を築くためには社会的な技術が必要であり、これは性的な技術に先立つものだ。
しかし精神的なダメージを受けた男の子は、思春期になってもこの技術を身につけることができない。
独りでいることが多いからといって、殺人犯が内向的で内気とはかぎらない。
社交的で話好きな者もいる。
だがそれは表向きの顔で、心の中に孤独を抱えているのだ。
ふつうの若者がダンスをしたりパーティーにいったりする時期に、彼らは自分の殻に閉じこもり、異常な空想にふけるようになる。
空想はもっと健康的な、人間との付き合いに代わるものだ。
そうした空想に依存すればするほど、社会的に受け入れられている価値観から離れていく。
少年Dは、強さに憧れていた。かねがね、もっと強くなりたいと願っていた。
しかし、どうなることが強くなることなのか、はっきりした考えを持っていたわけではない。ある日ふと思
いついて、ベニヤ板と厚紙と鏡で、一種のアングルスコープを製作してみることにした。
筒の上下に、それぞれ四十五度に傾けた鏡を平行に置き、眼の位置を筒の長さだけ横、
もしくは上下にずらして覗き見しようというわけだ。
とくに上端に位置する鏡には、紙の蝶番をつけ、下からの紐の操作で、多少角度の変更が出来るように工夫した。
最初のテストは近所のアパートの、塀と物置の間で試すことにした。
そこは、まだ隠れん坊などをして遊んでいた子供の頃に見つけた場所で、
通りからはもちろん、アパート側からも死角になった狭い隙間である。
しゃがみ込むと、湿った地面の臭いにまじって、鼠の小便の臭いがした。
まず膝で支えた両腕で、アングルスコープの胴をしっかり額に押しつける。
上端をそろそろと塀の上に押し出してみる。
通りは急勾配の坂道なので、その辺ではよほど背丈のある通行人でも、塀の高さまでは届かないはずだ。
それに坂では足元が安定しないから、眼より上に注意をはらったりする者はめったにいないだろう。
そう繰返し自分に言いきかせ、不安を静めてやるのだが、いざ実際に通りの情景が接眼部の鏡に映し出されてみると、Dはおびえた。
風景全体が、彼を非難する眼に変ったような気がしたのだ。
思わず首をすくめてしまう。
はずみでアングルスコープの先端が、塀にひっかかり、夏ミカンを割ったような湿っぽい音をたてて、簡単にもげてしまった。
吹き出す汗をぬぐいながら、セロテープで補修した。
二度目はもっと大胆に、接眼部からせまってくる風景にさからって、観察をつづけてみた。
いったんその圧力を押し戻してみると、あっけなく緊張もほぐれはじめた。
誰からも見返される心配がないと分ると、たちまち疚しさが消え、みるみる風景も変化しはじめる。
風景と自分、世間と自分の関係の変化を、くっきりと自覚することが出来た。
アングルスコープを作ってみようと思い立った最初の狙いに、どうやら狂いはなかったようである。
言われたとおりにするしかなさそうだ。
確かに逃げても無駄らしい。
逃げても無駄だという警告を、逃げなければ学校や両親に通告しないでくれるという意味に解釈すれば、
どんな処罰であろうと、ここで処罰を済ませてもらうに越したことはない。
D少年は、袋詰めにされた家畜の心境で、無駄に終ったアングルスコープを胸に抱き、
建物をまわって玄関に向ったのである。
かねがね肉の襞に似た感触で思い浮べていた、そのドアが、いまはコンクリートの感触に変ってしまっていた。
エボラでゴリラが大量死 コンゴの自然保護区で (共同通信)
エボラウイルスの流行が繰り返し起こっているアフリカ中部コンゴ共和国の自然保護区で、
2002年から05年の間にゴリラ約5500頭がエボラ感染で大量死したとの推計を、
隣国ガボンと欧州の研究グループが8日付の米科学誌サイエンスに発表した。
グループによると、ガボンやコンゴでは、人間のエボラ感染が頻繁に発生、
流行地付近の森で、ゴリラやチンパンジーの死体が多く確認される。
グループは、ガボン国境に近いロッシ自然保護区で、群れやねぐらの数などを調査。
人の感染が確認された直後の02年から05年にかけてゴリラが大量死する地域が急速に拡大し、
保護区西側の約2700平方キロの調査区では、ねぐらの発見率が、影響の少ない東側より96%も低いことを突き止めた。
これらの結果からグループは、調査区内に生息していた6000頭のうち少なくとも5500頭が死んだと推定。
チンパンジーの減少率も約83%に達していた。
グループは「密猟とともに、エボラがゴリラの生存にとって大きな脅威だ」と指摘している。
ゴリラやチンパンジーなどの大型類人猿は、密猟、内戦の影響などで個体数が急減。
国連環境計画(UNEP)などが各国に保護対策強化を求めている。
一九九六年、モブツ政権時代のザイール(現コンゴ民主共和国)にある内陸の小さな町キクウィトに入り、
エボラ出血熱の取材をしたとき、私はそれを痛感した。
ウイルスに感染後、高熱の末、体中から血を噴き出し、当時流行った小説『アウトブレイク』
(ロビン・クック著、邦訳は早川書房刊)の表現を借りれば「まるで爆発するように」死んでいく患者たち。
血液に触れただけでうつる感染力、七割という致死率の高さから、エボラ・ウイルスの恐怖は九五年の発生当時、世界中に広がった。
もちろん、世界中と言っても欧米を中心とする先進世界での話にすぎない。
米国では発生直後にエボラ・ウイルスをあつかった小説『アウトブレイク』が飛ぶように売れ、
ダスティン・ホフマン主演で映画にもなった。
私もそんな俗っぽさに突き動かされ、現地に行った。
これなら否が応でも新聞に載せてくれるという思いもあった。
「エボラ出血熱から一年、村はどうなったか」という企画記事が狙いだった。
発生以来、外国人が訪れるのもまれになった町キクウィトに行くと、
地元の医師や高校の校長が頼みもしないのに私のもとに次々と集まってきた。
町には電気がないため、血液を保存できない。
にもかかわらず、首都キンシャサから来ている医師たちは定期的に元感染者の血を採取していた。
援助してくれそうな外国の研究所に対する一種のデモンストレーションなのだ。
そして、この国に何千もある町の中で再びここでエボラが発生し、
一時的だが、外国人が詰めかけることを、彼らはどこか心待ちにしているようにも見えた。
村人の間の発生経路を細かく調べ上げた校長、キバリ・ヌサンガさん(当時四十一歳)は、
私に数百枚の原稿を持ち込み、「エボラの実態」という本にできないかと持ちかけてきた。
確かに村の誰々が誰々と接触し、と発生当初の事実関係は貴重な資料と思えた。
しかし、校長は彼の調査の一部始終を世界保健機関(WHO)の職員に手渡しており重要な部分の大半がすでに表に出てしまっている。
「このオリジナル原稿をあなたに託すから、キンシャサかヨハネスブルクに行って本にしてくれないか。
手付金を置いていってくれればいいから」
当時は援助金の大半を懐に入れる独裁者、モブツ大統領の時代である。
まさに貧困の極みといった都市キンシャサで本を刷ることなどできるのか、と思ったが、校長は切羽詰まった感じで私に食い下がる。
「エボラのことはまだ誰も本にしていない。絶対に売れる。売り上げはあなたと私で折半にしてもいいから……。
これが世界初の本になるんだ。意義のあることなんだ。頼むよ」
本当のことを言わない方がいいのかもしれない。
過去一年、学校のことなどそこそこに、エボラについて一人で調べてきた彼の熱意に水をさすことになる。
それでも、相手の反応を見ながら私は切り出した。
「でも、エボラの話については、ローリー・ギャレットという医療専門のジャーナリストが『カミング・プレイグ』
(邦訳は河出書房新社刊)という本で、詳しく書いている。その関連本もかなり出ているし……」
「それは、いつ出たんだ」
「最近、そう、去年じゃないかな。それに『アウトブレイク』もあるし」
「え?『アウトブレイク』?」
彼はこのベストセラー本のことを何一つ知らなかった。
「米国の小説で、世界中で何百万部も売れたんだ。映画にもなったし」
「そんな馬鹿な。そんなことが……」
「本当に知らなかったのか」
「まったく、知らなかった」
「エボラ発生」の大号令と共に、感染症を専門とする米アトランタやジュネーブの研究者、
世界中のジャーナリストがこの町、キクウィトに集まった。
独自情報、インターネットによる伝聞などで、何万、何十万というエボラ情報が世界を駆けめぐった。
宇宙服のような防疫服に身をかためた研究者の心理、恐怖、現場で取材するジャーナリストの苦労話といった些末なことまでが、
先進世界のお茶の間に届けられながら、発生源のこの町に暮らす「エボラのエキスパート」の耳に、情報はまったく還元されない。
それがアフリカなのだ。