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私事ですが名無しです:
だるまの兄弟が川の中
大きくなってもだるまさん
大きくなってもかたわもの
大きくなっても障害者
乙武
乙武
乙武乙武
乙武乙武
乙武乙武
だーけーど大きくなってーもー
だるまは”だ・る・ま”!
乙武!
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|=(〆)=(〆)=| ひ〜ん
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(* ´ー` *) ぜっとたけっけっ
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v v ドゥーン!!
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, i li (⌒,,ノ^
rl |h ( .(⌒
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(⌒( ,::)::. ::.)ノ ノ
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|=(三)=(三)=|
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', ー=ー ', カモン!
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私事ですが名無しです:2006/11/28(火) 00:45:32 ID:ccRFY9Pl
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(三);(三)==r─、| 〜♪ 〜♪ 〜♪
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!  ̄`. ´  ̄` .ノ
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! ノ.. .⌒ ._ .!
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l 、/( ,_、)ヽ .l
l .,ィェエヲ .|
l !
_ ノ ヽ、
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! / ト、`ー―'t:' ' U. ' ッー--‐'' イ、 }
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ロシア帝国の君主制はなぜ一九一七年二月に滅びたのだろうか。
ソヴィエトの歴史家たちは、それは起こるべくして起こった崩壊だと主張した。
マルクス=レーニン主義の教えによれば、帝政国家は都市と農村の上流・中流階級の利害に奉仕しており、
古くさい専制政治の道具をほしいままに用いた。
そしてその不可避的な帰結は、政治的および民族的な抑圧であり、
経済的搾取であり、そして文化的後進性であった。
おそらく唯一の効果的対抗手段は、マルクスとエンゲルスの教義に献身し
ヨーロッパ社会主義革命の時代にロシア労働者階級の動員のために専心する政党を組織することであった。
この政党は、もし帝国体制を動揺させようとするならば、
高度に中央集権化された秘密の組織をもつことが必要であった。
それはまた、非凡な才能を有する指導者をもたねばならなかった。
公認の歴史教科書は、まさにこの天賦の才能がウラジミール・レーニンという人物の中にあったと主張した。
ソ連が存在した最後の時期に、この分析の細かな点を疑問視する試みが、若干の党員歴史家によっておこなわれた。
とりわけ彼らは、ロシア帝国が基本的には農業的で伝統的社会であったこと、
都市の社会主義者によって指導されて成功した革命にかんして必然的だったことは何もなかったこと、を指摘した。
しかし、マルクス主義、レーニンそして労働者階級が帝政の崩壊をあらかじめ決定した、
という主張を金科玉条とする党指導部と正統派の党史研究者によって、これらの懐疑的歴史家たちは退けられた。
共産主義者でない外国人著述家の大多数は、ソヴィエトの公定教科書の一般的な主張を退けた。
しかし彼らは、ロシア帝国が根本的な問題を抱えていたことを認めた。
一九一七年以前にロシアを訪れた旅行者たちは、この国がいかに近代化から立ち遅れているか、
下層社会にとっての状況がいかに後進的で抑圧的か、を強調していた。
帝国の君主制は、「諸民族の牢獄」でありヨーロッパにおける
民主主義と啓蒙とに対する砦である、という世評をえていた。
しかし、西側のすべての人がこうした陰鬱な概観を受け入れたわけではなかった。
帝政の経済上および教育上の達成は相応に目覚ましいものであったし、
もしロシア帝国が第一次世界大戦に参戦しなかったならば経済は妨げられることなく発展したであろう、
と多くの解説者たちは示唆した。
こうしてその当時の発達した資本主義の水準に向かう上昇が、本当にありうることだったと考えられている。
実際に帝政の政策に対しては、ある程度の支持もあった。
在位中にはすこぶる忌み嫌われたニコライ二世もまた、聡明で柔軟な指導者として描かれている。
西欧とロシアの幾人かの歴史家たちは、さらに進んで次のように主張している。
すなわちロマノフ朝の転覆は、レーニンのボリシェヴィキだけでなく他の社会主義者や自由主義者
および保守主義者のすべての反対派集団による、愛国心を欠如させた裏切りの結果である、と。
そのうえ、第一次世界大戦へのロシアの参戦は、軍事的紛争に至ることが予定されていなかった
一連の外交的衝突の果てに起こったと強調されている。
事態は異なった具合に進展したかもしれなかった。
このような確信をもつ著述家たちは、ロシア帝国が政治的にも十分に健全な国家で、
ドイツとの戦争が避けえたとしたら生き長らえただろう、と結論づける。
戦争がなければ、革命もなかったというわけである。
しかしそうした説明は例外的なものである。
避けがたいものではなかったにせよ、ある種の革命が大いに起こりそうであった、
というのが通常の説明である。
ロマノフ体制のあらゆる側面が、弱さの徴候を示していた。
ニコライ二世は先を見通す力がなく、また一徹であった。
政治体制は警察国家と恣意的な統治によって補強されていた。
すべての民族集団や宗教集団だけでなく、全社会階級が現状に憤慨していた。
貧困は広範な現象であり、基本的な民衆の必要を無視した工業化の推進によって、それはさらに悪化した。
ロシア帝国は爆発するのを待っている火薬樽であった。
しかし近年の歴史研究の多くは、ニコライ二世が受け継いだ好ましくない状況を強調している。
歴代皇帝は広大な領土を統治しており、それゆえ長大な国境を防備しなければならなかった。
対抗勢力は西にも東にも、そして南にも存在していた。
軍事的な必要が改革を制限した。
農民が反乱を起こさないようにするとともに非ロシア人の服従を維持する必要もまた、そのように作用した。
行政組織網はまばらに散在しており、警察は十分な資源をもっていなかった。
輸送と通信は脆弱であった。
北アメリカとヨーロッパ諸国の経済が達成した工業の優位は大きなものであり、さらに拡大しつつあった。
一方、ほとんどのロシア人は――そう、ロシア人でさえ、国民という意識で統合されてはいなかった。
彼らはまた、自分たちを虐げる上流・中流階級を嫌悪した。
労働者と農民だけでなく、多くの知識人もまた、体制に敵対的であった。
二〇世紀初頭のロシアで想定しうるあらゆる政府の能力を
極限まで試すことになった一連の状況はこのようなものであった、といわれている。
それゆえ、たしかにニコライ二世は傑出した皇帝でなかったかもしれないけれども、
政治体制を襲った攻撃に対する体制の反応を弱めたのは彼の個性ではなくて一般的状況だったのである。
ロマノフ家の打倒は年月が経つにつれて、しだいに起こりそうなものになっていった。
いくつかの研究によれば、つのりゆく危機は、あまりにも急速な工業化の社会的結果から生じていた。
ここには多くの議論がある。
大多数の人々にとっての物質的零落と社会的不公正とは極端なものであった。
しかし、経済的変容には肯定的な側面も存在した。
労働者と農民の一部は利益をえていた。
そのうえ帝政国家は、のちのスターリンの独裁ほどには民族的少数集団に対して抑圧的なものではなかった。
それゆえ他の研究が主張したところでは、帝政が弱対化したのは工業化の猛威によるというよりはむしろ、
農民共同体〔ミール、オプシチナなどとよばれた、土地割替を特徴とする土地利用に基づいた地縁的共同体。
農民的自治の基盤であるとともに、統治の道具としても利用された〕、宗教的セクト、
工場労働者連中という伝統的な社会グループの持続的な力によるものであり、
こうしたグループが機会を見つけては政治体制に抵抗しそれを蝕んでいったのである。
まさにその機会が一九〇五年に最初に現れたのであり、一九一七年二月についには成功したのであった。
この章で提起される主張は、第一次世界大戦の帝国秩序が二重の危機、
すなわち闘争を引き起こすような工業化の危機と防御的な伝統主義の危機に対処しつつあった、ということである。
帝政は一つの危機ならほとんど解決したかもしれなかったが、
しかし同時に起こっている危機を二つとも解決することは非常に困難であった。
それらは互いに強烈なほど強化しあった。
ロマノフ君主制とその政府は、社会の「近代的」構成分子を十分に抑えたりなだめたりすることができなかった。
それはまた、昔ながらの構成分子に自らの意思を強制することもできなかった。
ロマノフ君主制は両方の競争に敗れたのである。
さらにこの主張は、もっぱら政治的、経済的、民族的あるいは社会的観点だけでは
納得のいくように議論することができない。
帝政のさまざまな弱さは相互に緊密に関連していたのであり、
それがロシア帝国を全体的に脆弱な状態においていたのである。
もちろん、バランス感覚は維持されなければならない。
一九一四年まで発展してきたロシア帝国は傷つきやすい体制であったけれども、
それは一九一七年の全面的な革命を経験する運命にあったわけではなかった。
その種の革命を可能にしたのは、第一次世界大戦という長く続いた消耗戦であった。
第一次世界大戦がなければ、十月革命はなかった。
レーニンと彼のボリシェヴィキは、おそらく自分たちでは決して獲得しなかったであろう
革命の好機を与えられたのである。
14 :
私事ですが名無しです:2006/12/02(土) 08:37:42 ID:YRJK8/Wa
ヽ( ´ ー ` )ノ 食べ過ぎたのさ〜
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◎ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄◎ ごとごと〜
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ヽ(´ー`)ノ うわぁ〜今日も盛り上がってるなぁ〜
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川 ドゥーン
川
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