まるで2ちゃんねるじゃないか
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私事ですが名無しです:2006/10/27(金) 06:48:29 ID:QJs4/wUh BE:1150416689-2BP(143)
死ねポコチン
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...φ(゚ρ゜∵) c⌒っ カキコカキコ・・・
い い
き き
な な
り り
こ こ
レ ス 連 関 連 ス レ
連 連
ス ス
レ レ
人
(__) ウンコモッテキター
(__) ●●
( ・∀・) ●●●
(( | つ=┐●●●●
し―J ◎――◎-
あぼーん
限界のある世界での無限の経済的拡大のシステム、これが開発のイデオロギーである。
それが実現可能でないのは、社会主義の統制によって阻害されていた頃も現在も同じである。
市場文化はおそらく、その宝を略奪された人々のところにまで広がっていくだろう。
その場合、文化は伝播の過程で変化する。
貧しい人々が期待できるのは貧困からの救済ではなく消費主義であり、安全ではなく経済成長であり、
安全な水ではなくコカ・コーラ、適切な栄養の代わりにジャンクフード、教育の代わりに商業主義的な知識、
古くからの文化の代用品として巨大娯楽企業の製品が届けられるだろう。
社会主義の魅力に代わるものとして、過去の時代に考え出されたこの種の「開発」に
彼らがあとどのくらい我慢できるだろうか。
この問題は、屈辱を受けた者、排除された者たちの一部によって、すでに答が出されつつある。
まるで監獄の中だと思ったりした。
監獄の中では、重苦しくせまってくる壁も、鉄格子も、
すべて研ぎすまされた鏡になって、自分自身をうつしだすにちがいない。
いかなる瞬間にも、自分から逃げ出せないというのが、幽閉の苦しみなのである。
ぼくも、自分自身という袋の中に、厳重に閉じ込められて、さんざんもがきまわっていたものだ。
新聞記事も、相変らずだった。
どこに一週間もの空白があったのやら、ほとんどその痕跡さえ見分けられない。
これが、外の世界に通ずる窓なら、どうやらそのガラスは、くもりガラスで出来ているらしい。
《法人税汚職、市に飛び火》……《工業のメッカに、学園都市を》……《相つぐ操業中止、総評近く、見解発表》……
《二児を絞殺、母親服毒》……《頻発する自動車強盗、新しい生活様式が、新しい犯罪を生む?》……
《三年間、交番に花をとどけた、匿名少女》……《東京五輪、予算でもめる》……《今日も通り魔、二少女切らる》……
《睡眠薬遊びにむしばまれる、学園の青春》……《株価にも秋風の気配》……
《テナーサックスの名手、ブルー・ジャクソン来日》……《南ア連邦に、再び暴動、死傷二百八十》……
《女をまじえた、泥棒学校、授業料なし、テストに合格すれば、卒業証書》
欠けて困るものなど、何一つありはしない。
幻の煉瓦を隙間だらけにつみあげた、幻の塔だ。
もっとも、欠けて困るようなものばかりだったら、現実は、うっかり手もふれられない、
あぶなっかしいガラス細工になってしまう……
要するに、日常とは、そんなものなのだ……
だから誰もが、無意味を承知で、わが家にコンパスの中心をすえるのである。
ところで、早速だけど、ぼくという人間を知ってもらうために、一つラジオの話でも聞いてもらうとするか。
そう、ラジオ。
じつは以前、ひどいニュース中毒にかかっていたことがあるんだよ。
分ってもらえるかな、次から次に、たえず新しいニュースを仕入れつづけていないと、なんとも不安でたまらない。
戦場では刻々と戦況が変化しつづけるし、映画スターや歌手は結婚したり離婚したりしつづけている……
火星ロケットが飛ぶこともあれば、SOSを残して消息を絶つ漁船もある……
放火マニヤの消防署長が逮捕されたり、バナナの積荷から毒蛇が出てきたり、通産省の役人が自殺したり、
三歳の少女が強姦されたりしている時に、国際会議が大々的な成功をおさめたり、決裂したりする……
無菌ネズミを飼育する会社が設立され、スーパー・マーケットの工場現場からコンクリート詰めの赤ん坊が発見され、
世界中の軍隊で脱走兵の総計が新記録を樹立する……
世界ってのは、沸きっぱなしの薬罐みたいなものなのさ。
ちょっとでも眼を離している隙に、地球の形だって変りかねない。
あげくにぼくは、七種類の新聞をとり、部屋には二台のテレビと、三台のラジオをそなえ、
外出のときにも携帯用の小型ラジオを肌身離さず、寝るときもイヤホーンを付けっぱなしという始末さ。
同じ時間に、違った局で、違ったニュースをやっていることがあるし、何時、どんな臨時ニュースが流されないとも限らないからね。
臆病な動物はまわりに気をくばりすぎて、だんだんキリンみたいに首がのびたり、小猿みたいに樹から降りられなくなったりする。
笑いごとじゃないよ、当人にとっちゃ深刻な話さ。
ニュースを読んだり聞いたりするだけで、一日の大半がつぶれてしまうんだからな。
自分で自分の意志の弱さに腹を立てながら、それでも泣く泣くラジオやテレビから離れられない。
もちろん、いくら漁りまわったところで、べつに事実に近付いたわけじゃないくらい百も承知していた。
承知していながら、やめられないんだ。
ぼくに必要なのは、事実でも体験でもなく、きまり文句に要約されたニュースという形式だったのかもしれない。
つまり完全なニュース中毒にかかっていたわけさ。
肉体的に劣っていることは、日本人がとくに背が高く頑丈そうな華北の人間に相対
したときはっきりわかる。しかし精神的にも一般に中国人は日本人よりすぐれてい
る。このことはまさに現在の中国において十分に観察できる。日本人と中国人が一緒
に働いているところでは両者は共に相手の言語を習得しようと努める。中国人は日本
語を楽に使いこなし、北京の中小企業者などは少なくともすでにある程度の日本語が
話せる。その反面、日本人は苦心惨憺、昼となく夜となく中国語を覚えようと熱心に
勉強してもうまくゆかない。同じ経験があらゆる分野でなされており、中国人と日本
人に接する人はだれしもこのことがわかる。
中国人は不気味なほど知的な民族である。こうした中国人を単に日本人ばかりでは
なく、わたしたちヨーロッパ人も凌駕できないであろう。
いずれにせよ、わたしたちは今後の事態の動きに関して、中国人の知性を勘定に入
れるのが賢明であろう。日本人を最初見たときはいかにも鈍重に思われる。しかし中
国人はおどろくほどすばやい理解を示す。
日本人に相対した者はだれしも、日本人の知性が不活発であり、日本人が決断力に
乏しく何事についてもためらいがちであり、とくに形式にこだわる官僚主義者である
ことに、最初に驚き、しまいには絶望する。しばしば日本人は一般にいかなる決意、
決断にも踏み切ることができないように思われる。
何という時代だ
月へ行く人間と地球を回る人間
だけど地上の法と秩序にゃみんなが無関心だ
けいれん……同じことの繰返し……
いつも、別なことを夢みながら、身を投げ入れる相も変らぬ反復……
食うこと、歩くこと、寝ること、しゃっくりすること、わめくこと、交わること……
ヨーロッパのどこの都市でも、土曜の夜、
中心部の通りには落ち着きのないエネルギーと楽しもうという攻撃的な決意が充満している。
多くの人々がいい気分になり、酔っ払っている者もいる。
あちこちで喧嘩騒ぎが起こる。私がこれを書いているつい先週、近所で殺人があった。
若者が喧嘩で刺されて死んだのだ。
彼が死んだ場所は、臨時の祭壇のようになっている。
メッセージの書かれたカードや花束が、困惑や心の痛みを示している。
「おやすみ、友よ」「もっといい所で会おう」「君はとてもいいやつだった」
「なんで死ななきゃならなかったんだ」「よく眠るんだよ」。
正気を失った人間による傷害や殺人は、公式の人道主義とは対立する、人間の生命への無関心さを表している。
間違ったときに、間違ったところにいた。運が悪かった。人生ははかないものだ。そんなことは忘れて、先へ進まなくては。
合衆国では、五歳から一九歳までの子供の死因の第二位(第一位は自動車事故)は、殺人と自殺である。
こうした事件は、意味のなさを喧伝している。
これもまた、今の形での豊かさが基本的ニーズを損なっている一例である。
新聞はこうした殺人を「無分別な」殺害と呼ぶ。
だが、無分別な娯楽、無分別な気晴らしを提供され、多くの人間が「無分別な」仕事をしているときに、
このような社会によって引き起こされる暴力がなぜ分別のある、知的なものであるべきだといえるのだろうか。
「首絞め遊び」米で問題に 「死者50人以上」の指摘
2006年03月10日20時39分
米国の10〜16歳を中心とした若者の間に、首を絞めあって遊ぶ「チョーキング・ゲーム」が広がりを見せている。
AP通信などによると、ニューハンプシャー州で2月末、14歳の男の子が死亡する事件が発生、警察は学校関係者に注意を呼びかけている。
チョーキング・ゲームをやめさせるために立ち上げられたウェブサイトによると、ゲームは30年以上前からみられたものの、
ここ数年、米国で新たな広がりを見せ、昨年だけで死者は50人以上に上っている。
また、日本やカナダ、フランスなどでも同じ遊びで死亡例があるとしている。
ウェブサイトによると、脳への酸素供給が遮断され気が遠くなる瞬間や、その危険性が若者を引きつけるらしい。
2人でたがいの首を絞めあうこともあるが、1人で自分の首を絞めてそのまま死亡するケースも目立つという。
原因がわからずに、自殺として処理されるケースも少なくないといい、ウェブサイトは学校や親の注意を喚起し、遊びの危険性を訴えている。
“塀の中でも一人がいい”受刑者「懲罰」が倍増
受刑者の増加で刑務所などの矯正施設の収容能力が追いつかない過剰収容問題が深刻化する中、
雑居房の受刑者がトラブルを起こし独居房に入れられる「懲罰」の対象者数が、
平成六−十六年の十年間で約二倍に膨れ上がっていることが十八日、わかった。
ストレスがたまる雑居房に嫌気がさし、「罰を受けてでも独居房へ」と願う受刑者の増加が主因といい、各刑務所は対応に苦慮している。
高度経済成長期以降の核家族化で、自分の部屋がある暮らしに慣れた受刑者が多くなったことが背景にあるとみられ、
“塀の中”の現代人気質を如実に反映している。
法務省矯正局によると、全国の刑務所の平均収容率は十二年に初めて100%を突破し、その後も増加傾向にある。
これに比例して懲罰事例も増加し、十六年の受罰者数は全受刑者の約73%にあたる四万七千六百四十七人で、
六年の受罰人員(二万二千百二人)の約二・二倍となっている。
中でも、プライバシーが希薄な雑居房から逃れるための「故意の規則違反」とみられる懲罰事例が年々増加。
大阪矯正管区管内(刑務所、拘置所など十二施設)の十六年の懲罰事例件数は約一万千五百件で、十二年の二倍近くに達している。
このうち大阪刑務所(大阪府堺市)では、雑居房逃れの手法として「就業拒否」の事例が急増。
十五年の九百六十四件に対し、翌十六年は一・六倍の千五百五十五件と過去最高に達した。
今年も前年を上回るペースで増えており、なかには「独居房に移してくれないなら作業場へ出ない」と泣きつく受刑者も。
このほか、雑居房から看守を大声で呼びとめ、扉を激しくたたくなどしてわざと「規律違反」を犯すケースもあるという。
大阪刑務所では、受刑者から「寝てるときに足を踏まれた」「静かに本が読めない」
「プライバシーが守られない」といった“苦情”が多く寄せられているといい、
こうした不満が雑居房逃れを増幅させる要因となっているようだ。
一方、刑務所内での暴力事件なども増加しており、大阪刑務所の幹部職員は「収容者の増加に職員の数が追いつかず、
緊張感が高まっている」と不安をにじませる。
土本武司・白鴎大法科大学院教授(刑事法)の話
「懲罰は違反行為に一定の歯止めをかけるためのもので、それさえも利用されるとなれば、
懲役刑のあり方を根本から覆すもので由々しき問題だ。ここまできたかという感がある。
人権意識の高まりなど受刑者の気質の変化がそうした態度を取らせているのかもしれない。
こうしたわがままを許してはならず、刑務所当局としては大きな課題を背負ったといえる」
≪過剰収容 年々深刻に≫
刑務所の過剰収容問題は、近年の起訴人数の増加や刑期の長期化傾向などとあいまって、年々深刻化している。
法務省矯正局などによると、全国で六十七カ所ある刑務所(少年刑務所を含む)の平均収容率は、
平成七年の79%に対して十六年は118%に達し、理想的といわれる「80%程度」にはほど遠い。
各刑務所は定員六人の雑居房を八人部屋にしたり、独居房に二段ベッドを入れ二人部屋にするなどして対応している。
十六年版の犯罪白書は「刑務所の収容状態は過去三十−四十年間で最も厳しい状況」と指摘し、体制整備の必要性を強調している。
受刑者は、病気など特別な事情があるケースを除いて原則的には雑居房に入るが、
トラブルや規律違反を犯すなど共同生活に不適格とみなされた場合は独居房に移される。
本来的には懲罰的な意味合いが込められるが、増加する「雑居房逃れ」は、あえて孤独を望む傾向が強まっていることを示している。
[産経新聞(8月18日)より引用]
サルベージ