ニュー速民は本格的に移住する事になりました。

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1番組の途中ですが名無しです
はい、よろしくね。
2私事ですが名無しです:2006/07/23(日) 22:36:16 ID:???
あうあー
3私事ですが名無しです:2006/07/25(火) 00:15:40 ID:???
ニュー速民は根気が無い
4私事ですが名無しです:2006/07/25(火) 05:52:16 ID:l86PLQQ5
規制リストに入れられました
5私事ですが名無しです:2006/07/25(火) 06:04:45 ID:???
寄生虫リストにも入りました
6私事ですが名無しです:2006/07/25(火) 06:08:02 ID:V03FlO1L
        /\ |  /|/|/|  ドッドッドッドッドッド!!
  |      /  / |// / /|
  |   /  / |_|/|/|/|/|     (´⌒(´⌒`)⌒`)
  |  /  /  |文|/ // /  (´⌒(´祭だ!!祭だ!!`)⌒`)
  |/  /.  _.| ̄|/|/|/    (´⌒(´∧ ∧⌒`)`)`)⌒`)
/|\/  / /  |/ /     (´⌒(´(,゚Д゚ )つ `)`)
/|    / /  /ヽ  (´⌒(´⌒  (´⌒( つ |〕 /⌒`)⌒`)
  |   | ̄|  | |ヽ/|  遅れるな!!   ( |  (⌒)`)⌒`)
  |   |  |/| |__|/.   ∧_∧ ⌒`).ドし'⌒^ミ `)⌒`)
  |   |/|  |/  (´⌒(´( ´∀` )つ  ド   ∧_∧⌒`)
  |   |  |/    (´⌒(´( つ/] /    ォと( ・∀・ ) 突撃――!!
  |   |/        ( |  (⌒)`)  ォ ヽ[|⊂[] )`)
  |  /         (´ ´し'⌒^ミ `)`)ォ (⌒)  |
  |/                     .   ̄ (_)`)`)
2CH至上最大のI橋祭りの始まりかな? I橋さんのバイトがAA貼ってスレ荒らし
してるし確定かな? 芸スポ至上最大の祭りの始まりだよ。
7私事ですが名無しです:2006/07/29(土) 23:58:41 ID:???

ヽ(´ー`)ノ
(___)
|占領|〜〜
◎ ̄ ̄◎ ころころ〜

8私事ですが名無しです:2006/08/01(火) 14:53:39 ID:???

ヽ(´ー`)ノ
(___)
|占領|〜〜
◎ ̄ ̄◎ ころころ〜

9私事ですが名無しです:2006/08/03(木) 23:37:51 ID:???

ZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZz

    
   ●Zスレ建設用地にて、Z民以外の者(愚者)の立ち入りを禁ず●


ZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZzZz
10私事ですが名無しです:2006/08/05(土) 05:34:53 ID:???

ヽ(´ー`)ノ
(___)
|占領|〜〜
◎ ̄ ̄◎ ころころ〜

11私事ですが名無しです:2006/08/19(土) 23:53:57 ID:???

ヽ(´ー`)ノ
(___)
|占領|〜〜
◎ ̄ ̄◎ ころころ〜

12私事ですが名無しです:2006/08/28(月) 20:40:33 ID:???

とうとう来たか。妻の叫び声にそう直感した。
そのとき、私はヨハネスブルク北郊外の自宅で野菜をきざんでいた。
南アフリカの初冬の午後六時。珍しく小雨の降る、暗い時間帯だった。
台所のラジオからはチェロが流れていた。
妻はその日、日本から商用で来た人々の通訳のアルバイトをし、帰宅したところだった。

玄関にかけつけると、妻は真っ白い顔をして門からガレージにかけ上がってきた。

「やられた。ハイジャック」

「どこで」

「すぐ、そこ」

私は入り口に取りつけてある「パニック・ボタン」を数秒間押し続けた。
警備会社の男が「二、三秒続けて押さないと役に立ちませんから。ちょっと押しただけじゃだめですよ」
と言っていたのを思い出したからだ。
直後、聞き慣れないサイレン音が玄関のほうで鳴った。パニック・ボタンが作動すると同時に鳴る仕組みらしい。
13私事ですが名無しです:2006/08/28(月) 20:47:15 ID:???

「あっ、フライング・スクワッド」

妻が南ア警察の「ハイジャック特別対策班」の名を口にした。
ハイジャックとは、ヨハネスブルクで九〇年代に急増した車強盗のことだ。
一般にはカー・ジャックとも言われるが、南アではハイジャックという言葉が日常語になっている。

「この前、うちの夫がハイジャックされて、車を渡したのに肩を撃たれて」

「それはひどい。私も去年……」

郵便局や病院、スーパー、役所と、至る所でこんな会話を耳にする。

「ハイジャックは、はしかみたいなもの。一度やられて、ようやくこの国に住んだことになるのよ」

などと言う主婦もいた。
私自身もこの国に来たばかりのころ、インド洋に面した港町、ダーバンの郊外で三人組に襲われた。
頭に銃を突きつけられ、車、カメラなど一切合財を奪われた。

それ以来、家族ともども気をつけていたつもりだった。
地域に浸り、子供の学校や仕事を通して知人も増え、もう、自分たちは南アフリカ人のようなものとさえ思っていた。
それで気がゆるんだのかもしれない。

その日、通訳の仕事を一時切り上げた妻は、夕食会までまだ時間があったため、一度家に戻ろうと考えたらしい。
十五分ほどの帰り道、犯人の車は女が運転する小さな車を追走したが、彼女はそれにまったく気づかなかった。
幹線道路を外れ、家に差し掛かったところで、初めて車がバックミラーに現れた。
だが、その時点でも彼らを「隣の客」と思ったそうだ。
14私事ですが名無しです:2006/08/28(月) 20:52:08 ID:???

入居したときは気づかなかったが、私たちが借りた一軒家の隣は娼館だった。
都合が悪いと思ったのか大家はこんな言い方をした。

「隣? コミューンみたいなものですよ。若い変わった女性ばかりが住んでいて、何をしているんだか、まったくねえ」

確かにこれなら嘘にならない。暮らし始めてみると、隣家では毎週末、ダンス音楽を大音響
で流し、平日の午後も男の客が車でしばしば乗りつけてきた。

家選びで大事なのは、広さでも見晴らしでもない。まずは壁だ。
自衛策がどれほどなされているかが、一番の選択条件となる。
ヨハネスブルクでは、数十棟を一つの敷地に収めるタウンハウスやクラスターハウスと呼ばれる集合住宅が人気を博し、
一軒家は不用心なため値崩れした。
町内に壁を築くとき住民の議論は沸騰した。

「その辺りを歩いている黒人をみな犯罪者扱いするような言い方はどんなものか。
 彼らは我々のブラザーだ。時代が解決する。犯罪はいずれなくなる」

「我々が自衛すればするほど、敵は巧妙になっていく。
 このまま進めば我々は最後、AK47(自動小銃)を手にした生活を送らなくちゃならなくなる。
 自衛にも限界がある。もっとおだやかな手はないか」
当初はそんなことを言う住民も多かった。

「自衛よりも格差の解消を。犯罪を生む土壌をまず改めよ」
という立派な意見だ。
しかし、町内会の脇で、女性が平然と路上レイプされるような事件が続発し、こうした意見は次第に陰をひそめていった。
15私事ですが名無しです:2006/08/28(月) 21:02:50 ID:???

妻はその日、ミラーで後続車のヘッドライトをみとめたが、「隣の客」だと思い、
いつものように門の前に車を停め、手持ちのコントローラーで扉を開けた。
そして門からガレージまで、一気に車を入れるつもりだった。何一つ疑っていなかった。
すると後続車から三人が一斉に降りてきた。みな十代半ばの、まだ胸板の薄い少年たちだ。

「出ろ」

一人が車の窓越しに妻に銃を突きつけた。相手の顔を見る余裕はなかった。
真っ先に浮かんだのは、

「このまま家に押し入られたら大変なことになる」
という恐怖だった。

「家にいる子供と夫が撃たれる」
まず、そんな光景が目に浮かんだという。

相手の顔をできるだけ見ないようにしてフォードの一三〇〇ccから降り、両手を耳元に上げた。

「それを外せ」
男は買ったばかりの腕時計を所望した。震える手で腕時計を外すと男はそれをむしり取り、言い放った。

「中に入れ」
その命令を「家に入れ」と受け取った彼女は、追われないようにと慌ててゲートに滑り込んだ。
直後、後方でエンジンのスタート音が聞こえ、車はあっけなく走り去った。

「撃たれなかった」
そう思うと妻はガレージに駆け上がり、家に向かい私の名を叫んだ。

妻が連れ去られなかっただけで、救われる思いがした。犯人の少年たちは慣れていなかったのか。
女を誘拐する余裕などなかったのか。
16私事ですが名無しです:2006/08/28(月) 21:09:11 ID:???

ヨハネスブルクの日刊紙『ザ・スター』には「クライム・バスターズ」というコーナーがあり、
そこには毎日、この街で起きた犯罪がいくつも並ぶ。
日本で言う「ベタ記事」の扱いだが、よく目にするのが強姦殺人だ。
日本でなら大きく報じられる話だが、この辺りでは日常の出来事と思われている。
十二歳の少女が四人組に連れ去られ丸三昼夜レイプされ、殺され、ゴミ捨て場に放置された、といった話がごくごく小さく載る。
大きく掲載されるのはよほどひどいケースだ。
ハイジャックで連れ去られ、掘っ建て小屋で数十人にレイプされ、ナイフやアイロンで顔や体中を傷つけられ路上に捨てられる。
そんなときに限り、それなりの扱いで報じられる。

統計によれば、報告された件数だけで、南アフリカのレイプ件数は世界最悪という。
南アフリカ出身のハリウッド女優、シャーリーズ・セロンが、
「南アフリカでは十秒に一人の割で女がレイプされている……。あなたたち、男でしょ。
 本当の男はレイプなんかしない」
と、女性団体のテレビコマーシャルで訴えたこともあるが、
「男全般を強姦魔とみなしているようだ」
と男性の市民団体がコマーシャルの差し止めを求めたり、大統領が、
「統計に少し誇張がある。実際の数字はもっと少ない。それに、レイプするのは黒人、黒人は皆、性犯罪者という偏見を広げている」
などと、人種問題に話を移してしまい、キャンペーンは長続きしなかった。

そんな環境で何年も暮らすと、普段は気にならなくても、レイプという言葉が常に頭の底にねっとりと張りついている。

エイズ・ウイルス(HIV)の感染をはじめとした性病の蔓延について調べてきた英国の研究者、
ブライアン・ウィリアムズ氏と私は、南アの性意識の調査をしたことがあった。
ある程度予想はしていたが、この国では男も女も無理強いの性関係に慣れ切っていることに驚かされた。
17私事ですが名無しです:2006/08/28(月) 21:14:51 ID:???

「ドライ・セックス」

南アフリカ人の女性医師が気軽に使った言葉がすべてを言い表しているように思えた。
体液で潤っていない乾いた状態での性交が、傷をつくり、ウイルス感染を広めているという指摘の中で、彼女が使った表現だった。

「そんなに生々しく書く必要はない」
当時、私のリポートを見た編集者はそんな言い方をして、「ドライ・セックス」という表現を削った。
時には「レイプ」という言葉も、「何だかむき出しのような表現で生々しい」と「暴行」とやわらげられる。
だが、ここにいると、レイプという言葉は日ごろ交わされる日常語にすぎない。
それは交通事故、強盗、火事、あるいはコーラ、バケツといった、何の変哲もない日常用語の中に収まっている。

しかし、身内がレイプされるのが日常であるはずがない。南アフリカ人だからといって、そんなことに慣れているはずがない。
重く漂う不安を取り払うかのように人々は「果実が熟れる(ライプ)」にも似たその音を平然と口に出してみて、
恐怖を口元で頃がしているようなところがある。

私が妻の災難を聞いてそれでも安堵したのは、普段から最も現実的なものとして恐れていたレイプを避けられたからだった。
18私事ですが名無しです:2006/08/28(月) 21:19:33 ID:???

J・M・クッツェーの九九年の作品『恥辱』では、田舎暮らしを始めた娘を訪ねた主人公の元大学教授が、
やはり三人組に襲われる場面が描かれている。
主人公は顔に揮発油をかけられ火をつけられトイレに閉じこめられる。
その間に飼い犬は銃殺され、娘は三人組にレイプされる。主人公はもうろうとした意識の中でこう考える。

〈いよいよ来たわけだ、審判の日が。
 なんの前ぶれもなく、高らかなファンファーレもなく、それはやって来た、わたしはその直中にいる。
 胸の鼓動もはげしく、まぬけな心臓も心臓なりにそれと悟っているらしい。
 われわれはいかにして審判に耐えるのだろうか? わたしと、わが心臓は〉(『恥辱』)

どんなに細心の注意を払っていてもそれはやってくる。やってこないかも知れない。
でも、暴力を日常のように目にする、あるいは耳にする南アフリカに暮らしていれば誰でも、
その到来を似たような思いで迎えるのだろう。
ついに来た、と。

だが、この国に暮らし始めたころ、銃口をこめかみに突きつけられても、私にはそんな現実感さえもなかった。

「一体、これはなんなんだ。何が起きたんだ? 冗談じゃないのか? でも、なんでこの俺が?」

後に捕らえられた襲撃犯に話を聞きにいくと、そのうちの一人はこんなことを言った。
「外国人とは思わなかった。カラード(混血)の野郎がこんなところまでのこのこやってきたと思ったから、後を追いかけたんだ。
 やっつけてやろうと思って」

当時まだのん気だった私は、まさか自分が彼らの敵だなどとは思ってもいなかった。
強いていえば、九四年のマンデラ政権誕生とともに生まれ変わった南アフリカのスローガン、
「多人種共存、虹の国、誰もが地球人、みんな友達」といった幻想を、ぼんやりと不特定多数の国民に期待するナイーブさがあった。
アパルトヘイトなどもう過去の話、そんな思いがどこかにあったからかもしれない。
19私事ですが名無しです:2006/08/28(月) 21:25:31 ID:???

アパルトヘイトは、オランダ系の土着白人アフリカーナーの民族主義をうたう国民党が政権を握った一九四八年に制度化された
非白人を差別する制度だ。
アパルトヘイトにからむすべての法律は九一年に廃止されたが、
すでにそれ以前から人種ごとに分かれて暮らすという考えは現実味がなくなっていた。

ただ、私が暮らし始めた九五年ごろ、アパルトヘイトの名残は町のいたるところに当然のようにあった。
私が勤める新聞社の支局兼自宅はサントン地区というところにあった。
それは、アパルトヘイトの初期、白人地域に住みづらくなったユダヤ系の住民がヨハネスブルクの北方に築いた郊外の町だった。
ところが、ダウンタウンでの犯罪が増え、人々が北へ北へと移りはじめる中、
サントンは商業地区に発展し、北郊外の中で最も栄えていた。
マンデラ前大統領を含む富裕者が暮らすホウトン地区などに比べれば一つ一つのサイズは小さいものの、
サントンは比較的新しい邸宅が並んでいた。
かつてこの辺りを歩く黒人と言えば、庭師かメイドと決まっていたが、
近くにある旧黒人居住区アレクサンドラからの通勤者や買い物客で人通りは年々激しくなっていった。

あるとき、サントンの知人がこんなことを私に言った。

「おい、俺たち、ここに住んでるんだぜ。いつ殺されてもおかしくないところに。これから、お前、家に帰るだろ。
 その途中で、ひょいっとハイジャッカーが出てきて、バンって撃たれて死んだって、俺、べつに驚かないよ。
 よく考えてみろよ。一緒だよ、戦場だって、ここだって。友達や知り合いがもう何人も死んだだろ?」

確かにそうだった。
ヨハネスブルクに住み始めて三年ほどが過ぎ、千円ほどの金を持っていたがために強盗にナイフで殺された知人の葬式に行ったとき、
それまでに殺された取材相手や知人を数え上げてみたら六人もいた。
20私事ですが名無しです:2006/08/28(月) 21:31:37 ID:???

でも、不思議なものだった。彼の言葉を聞いてから私は何だか落ち着き、

「死ぬときは死ぬときだ」
と変に開き直り始めた。

どんなに防御態勢を築いていても、突然のようにやってくる暴力。
そのときの「南アフリカの被害者たち」の心理をJ・M・クッツェーは短い言葉で実に巧みに表している。
襲撃されながらもなんとか一命を取り留め、頭の火傷に水道の水をかけながら『恥辱』の主人公は考える。

〈なにかを所有するというリスク。車、靴、ひと箱のタバコ。なにもかも行きわたるほどは無い。
 車も、靴も、タバコも。人が多すぎ、物が少なすぎる。ここにあるものを使いまわしていくしかないのだ。
 誰もが一日でも幸福になれるチャンスを得るには。それが理屈だ。理屈を死守し、理屈の慰めにしがみつけ。
 これは人間の悪業というより、たんなる巨大な循環システムなのだ。その営みに、憐れみや恐怖は無縁だ。
 この国では、人生をそんなふうにとらえねばならない。おおむねのところ。
 そうでもしなければ、頭がおかしくなってしまう。車、靴、それに女もだ〉
21私事ですが名無しです:2006/08/28(月) 21:37:58 ID:???

南北対立という考え方がある。それを先進国、途上国という分け方と見ても構わない。
そんな風に世界を見れば、世の中を手っ取り早くわかった気になる。
だが、それぞれの国家の中にもそれぞれ貧富の格差や南北問題があり、そう簡単に北と南と分けることなどできない。
まして、世界を二つに分けることなどできはしない。

それでも、南アフリカはぱっと見た限り、世界で最も「南北格差」が鮮やかな地だ。
それはアパルトヘイトという露骨な制度で白と黒という色の違いを際立たせてきたからでもある。

アパルトヘイトの終わりとともに、路上犯罪や空き巣が増え、住宅は二メートル以上の高い塀で囲われるようになった。
塀の上に電流の通ったワイヤー、車には警報装置が取りつけられ、玄関はリモートコントローラーで開閉される。
犯罪は増え続け、五十万人ほどが暮らすサントン地区では毎日のように殺人が起き、住人は町内を塀で囲い込む。
安全地帯の入り口には検問所をつくり、ガードマンを立てる。

この傾向はヨハネスブルクのみならず他の都市、南ア全域に広がり、のどかだった郊外はどこも小ぶりの「要塞」と化していった。
つまり、南北格差の最前線が国の中にできたようなものだった。

妻が襲撃されたのはその要塞の入り口。まさに南と北の境界線上だった。

南アフリカに暮らしていると、頭の中は日々、楽観と悲観を繰り返す。
灰色というイメージを払拭する強い日差し、ほぼ毎日晴天の明るい土地。人種を問わず出会う素朴な良き人々。
その一方で、露骨なほどの人種差別。それに伴う数々の暴力。
そんなものを交互に目にしていると、自分もこの国家が犯してきた罪をどこかで背負わされているという暗い気分に陥る。
22私事ですが名無しです:2006/08/28(月) 21:44:29 ID:???

クッツェーは三十代半ばから平均三年に一度のペースで書き下ろし作品を発表してきた。
死を宣告され、米国に亡命した娘に宛て長い遺書をつづる老婆を主人公にした『鉄の時代』(九〇年)。
その後しばらく彼は南アフリカを舞台にした小説を書かなかった。
丸五年を費やしてまとめた、前出の『恥辱』は、南アフリカのケープタウンの元大学教授という
クッツェー自身を思わせる人物を主人公にすえ、題材もこの国が直面している憎しみや暴力、贖罪を取り上げている。
この作品を執筆中に訪ねた私に彼は「いま書いている作品はとても難しい」とつぶやいていた。

『恥辱』の主人公は多くの被害者とその家族がそうであるように娘のレイプの原因を時代や国家、歴史とからめようとする。
浮世離れし、人種問題など気にもせず、ひとり好きな古典を読んできた主人公の大学教授も、
この国に生まれたがために宿命を負わされるからだ。
娘に降りかかった災難を主人公はいかにも南アフリカの白人らしく、「審判が下った」と受け止める。
そして、主人公は犯人の動機を先祖から受け継いできた人種差別への報復だと結論づける。

〈「彼らをとおして歴史がものを言ったのか」(略)「過ちの歴史が。そんなふうに考えてみたらどうだ、気休めにでもなるなら。
 (犯行は)私怨のように感じられたかもしれない。だが、じっさいは違う。祖先たちから受け継いできたものだ」〉

事件をたまたまそこに生まれ育ったがために運命のように降りかかった出来事ととらえる主人公は、
いわば南アフリカに暮らす欧州系住人の典型でもある。
作品づくりで最も難しかったのは、
黒人農民の助けを借り片田舎に根を張ろうとした矢先に黒人にレイプされる娘の性格づけではなかったろうか。

美しさの盛りを越えた骨太の農婦というイメージの娘は寡黙で芯が強い。
彼女はレイプを警察に報告せず、犯人への憎悪も募らせない。
そんな娘にいらだった父は彼女をオランダに送り返そうとして、激しい口論となる。
23私事ですが名無しです:2006/08/28(月) 21:51:02 ID:???

〈あなたとはなんの関係もないことなの、デヴィッド。
 なぜわたしがある事(自身へのレイプ)にかぎって警察に訴えでないのか、その訳を知りたいんでしょう。
 答えるわ、ただし、もうこの問題は蒸し返さないで。
 わたしに言わせれば、自分の身におきたことは、まったくもって個人の問題だからよ。
 べつな時、べつな場所では、社会問題とみなされるかもしれない。
 でも、この土地、この時代では、違う。これはわたしの問題、わたしだけの問題なの〉

古い時代の白人の典型とも言える父は娘の災厄を黒人差別の歴史、政治の産物ととらえ、そこから抜け出すことができない。
〈きみの頭にあるのは、ある意味、個人レベルの救済だろう? いま苦しむことで過去の罪が償えたら、とでも思っているのか?〉
と言い募るが、娘はこうはね返す。

〈いいえ。かってな誤解ばかりね。罪だの救済だの、みんな抽象概念よ。わたしは抽象論では行動しない〉
〈ここはわたしの生活の場なのよ。ここで暮らしていかなきゃならないのは、わたしなの。
 この身になにがあろうと、それはわたしの、わたし独りの問題であって、あなたには関係ない〉

個人は国家が犯した罪からどこまで自由になれるのか。
クッツェー作品の底には、この問いが流れている。
個人の身にたまたま起こったことを、社会の問題にすりかえた瞬間、個人の自由やその可能性は薄まってしまう。
同時に事件を一般化すれば、「南北の境界」に暮らす、あるいは南北を行き来する人々の多様な生のあり方を、無視することになる。

現実に、この小説の娘のような南アフリカ人がどれほどいるだろうか。
肌の色や国、民族という大枠だけでなく、何事もあくまで個人の問題だと見ようとする人が……。

ただ、この娘の人格を押し出したことで、クッツェーは、
南アフリカで起きている凶悪犯罪を「人種対立の後遺症」と言い切ることを拒んでいるのは確かなようだ。
それを拒むことで、この国の将来にある種の希望を託したのではないだろうか。
24私事ですが名無しです

妻と私は運が良かった。事件直後の過剰とも言える被害者意識は薄らぎ、ほどなく以前の平静な気分に戻った。
だが、もし、妻が『恥辱』の主人公の娘のような目に遭っていたら、どうだったろう。私も考えに考え抜いて同じ結論に至ったろうか。

いや、その瞬間、夢から覚めたようにすっとこの地から身を引き、黒人を、
あるいは黒人たちに憎悪を植えつけた白人たちを呪ったかもしれない。
お前たちが悪いのだと。そして、高い塀の内側に暮らし、日本や欧米、つまり北側へと逃れても、
自分はいつまでも不平を言い続けたかもしれない。
自分の身に降りかかったことを「わたし」の問題ととらえず、すべては歴史の問題なのだと考えて。

明らかに「北」で育った自分自身の立場を省みることもせずに。