[野村義男] 検索
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3 :
z:2006/07/01(土) 05:34:12 ID:???
おいらはZ武さ〜、ポー!
おいらは変態、獣姦魔! 今日は
片輪養豚場のブタのケツでも舐めてみるか〜・・・
ポー!!
良くわからんが、石原スレの真髄を見た気がする・・・
イシハラ、緑茶飲ムネ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 先生!また石原です!
\__ _______________
∨┌─────── / /|
| ギコネコ __ | ̄ ̄| ̄ ̄| ̄ ̄| |
| 終了事務所. / \ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| | ∧∧ | < ふざけやがって!終了だ!ゴルァ!
(゚Д゚,,)| \________________
∧∧ .※ ⊂ ⊂|. |〓_ |,[][][]|,[][][]| ..| |
(,, ) / U ̄ ̄ ̄ ̄ 〓/| |,[][][]|,[][][]|,[][][]|/
/ つ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
〜( ) | | /ノ~ゝヾ
(’ヮ’ン ∩∩
( ) (´Д`)  ̄ ̄ 〜 ゴラァ
∪∪ U U ̄ ̄UU 【完】
田原俊彦のヒット曲 ハッとして!Good
田原、野村、近藤真彦の3人で、たのきんトリオ(田野近トリオ)
ギタリストでもある野村のバンドの名前が the グッバイ
【誕生アナルパーティー】
アタシの名前は”爛れまんこの由紀”。そうあの腐れマンコの美紀の妹・・・
今日はアタシの82回目の誕生日!だからあのZ武の変態一族に集合してほしいの。
そして片輪デレ助牧場で、ブタのケツ、牛の金玉、馬のチンポを舐めているZ武に
その家畜の陰部なめショーをアタシの誕生パーティーで見せてもらいたいの・・・!
いつもどおりやって見せて〜! 恥ずかしがらないでさ・・・・!
あんたは どうせキチ・・・、何でも平気でやれるでしょ〜・・・!
i::/' ̄ ̄ ̄ヾi::l
|::| ,,,,,_ ,,,,,,|::|
|r-( ・ );( ・ )-|
( ヽ :::(__)..:: }
,____/ヽ -==- / あれあれ? 障害者を差別する気?
r'"ヽ t、 ヽ___/
/ 、、i ヽ__,,/
/ ヽノ j , j |ヽ
|⌒`'、__ / / /r |
{  ̄''ー-、,,_,ヘ^ |
ゝ-,,,_____)--、j
/ \__ /
"'ー‐‐---''
うんこまん で検索してください
11 :
私事ですが名無しです:2006/07/01(土) 22:32:24 ID:daxdBMT5
ドゥクドゥーン!!
まず、三大欲望と呼ばれる、食欲、性欲、睡気の欲。
それから、一般的なところでは、排泄の欲望、渇きの欲望、脱出の欲望、所有の欲望、遊びの欲望などだろう。
やや特殊なものになって、自殺の欲望や、酒、タバコ、麻薬などによる中毒欲。
さらに、欲望を広義に解釈すれば、名誉欲や、労働に対する欲望なども入れてもいいかもしれない。
だが、《自由の消費》という、最初の篩だけで、その大半がさっそくふるい落されてしまうのだ。
じっさい、いくら睡魔が激しかろうと、それ自体が目的になることなど、まずあり得まい。
あくまでも、より目覚めるための手段にすぎず、どう見てもこれは、むしろ自由の貯蔵に属すべきものだろう。
同じ理由で、排泄、渇き、所有、脱出、名誉、労働なども、さしあたり検討の外に置いてよさそうだ。
……ただし、この最後の労働だけは、そう軽々しく排泄なみの手段扱いしてしまっては、
やはり不謹慎の譏りをまぬかれないかもしれぬ。
たしかに、その結果生み出されるもののことを考えれば、労働こそ、あらゆる欲望の上に君臨すべきものかもしれない。
ものを創り出さなければ、歴史もなかっただろうし、世界もなかっただろうし、
おそらくは人間という意識さえ成り立たなかったに違いないのだ。
おまけに、労働というやつは、労働を超えるための労働という、
自己否定を媒介にしさえすれば、けっこうそれ自体で目的たりうるものである。
しかも、いくら自己目的化しても、所有や、名誉欲のようには、
見苦しくもなければ、また荒廃の印象を与えることもない。
もし、そんな状態にあったとしても、世間はただ、「あいつは真面目にやっている」と、
うなずきながら言うだけのことだろう。
そして、うらみこそすれ、咎め立てたりする気遣いはまずありえなかった。
なにぶん、世間には、よくて金になる仕事か、もうかる仕事か、高く買われる仕事くらいがあるきりだったのだから……
ただ、惜しむらくは、そんな祝福されすぎた状態が、仮面としては我慢ならなかったのである。
なんらかの形で、禁を犯すのでなければ、せっかく仮面をかぶった意味がなくなってしまう。
《仮面だけの自由》は、何をおいても、まず不法行為でなければならなかったのだ。
(現にぼくは、研究所での仕事に六割方の満足を感じていたし……
取り上げられでもしようものなら、九割方の未練さえ起しかねないように思うのだが……
それでも仮面なしで、けっこう済ませてこられたのである。)
労働のための労働は、第一の篩の目だけではなんとか潜り抜けられたとしても、
けっきょくこの第二の篩で、ふるい分けられてしまう運命にあったのだ。
断わっておくが、ぼくは価値を論じたりしているわけではない。
アリバイを保証された脱獄囚の、とりあえずの欲望を語っているだけのことである。
いざ仕事にかかってみると、なぜか思ったほどの抵抗は感じられないのだ。
この変化の原因は、いったい何だったのだろう?
水を絶たれることへの恐怖のせいだろうか、女に対する負い目のせいだろうか、
それとも、労働自身の性質によるものなのだろうか?
たしかに労働には、行先の当てなしにでも、なお逃げ去っていく時間を耐えさせる、
人間のよりどころのようなものがあるようだ。
いつだったか、メビウスの輪にさそわれて、なにかの講演会を聞きに行ったことがある。
会場は、低い錆びた鉄柵で、ぐるりと取りまかれ、柵の中は、紙屑や、空箱や、
その他得体の知れないぼろ布などで、地面が見えないほどになっていた。
設計者は、どういうつもりで、こんなものを取り付ける気になったりしたのだろう?
すると、彼の疑問を写しとったように、鉄柵の上にかがみこみ、
しきりと指先でこすってみている、くたびれた背広の男がいた。
あれは、私服刑事なのだと、メビウスの輪が小声で教えてくれた。
それから、会場の天井には、まだ見たこともないほど大掛りな、コーヒー色の雨もりの跡があった。
そのなかで、講師が、こんなことを言っていた。
――
労働を越える道は、労働を通じて以外にはありません。
労働自体に価値があるのではなく、労働によって、労働をのりこえる……
その自己否定のエネルギーこそ、真の労働の価値なのです。
脱出に失敗してからというもの、男はひどく慎重になっていた。
冬眠しているくらいのつもりで、穴のなかの生活に順応し、まず部落の警戒を解くことだけに専念した。
同じ図形の反復は、有効な保護色であるという。
生活の単純な反復のなかに融けこめば、いつかは彼等の意識から、消えさることも不可能ではないだろう。
反復にはまた、べつの効用もあった。
たとえば女は、この二ヵ月あまり、くる日もくる日も糸にビーズ玉をとおす内職に、
顔が腫れぼったくむくんで見えるほどの、うち込みようだ。
長めの針先が、紙函の底にひろげた鉄色の粒を、ひょいひょい、踊るようにして拾っていく。
間もなく貯金が、二千円になる予定だった。
この調子で、あと半月もつづければ、なんとかラジオの頭金にはなりそうだ。
その針の踊りには、そこに地球の中心を感じさせるほどの、重みがあった。
反復は、現在に彩色をほどこし、その手触りを、確実なものにしてくれる。
そこで男も負けずに、ことさら単調な手仕事にせいを出すことにした。
天井裏の砂はらいや、米をふるいにかける仕事や、洗濯などは、
すでに男の主な日課になっている。
はじめてみると、すくなくもその間は、鼻歌まじりに時がすぎ去ってしまってくれる。
睡眠中にかぶる、ビニール製の小型天幕の考案や、焼いた砂のなかに魚をうめて蒸し焼きにする工夫なども、
けっこう時を過しがいのあるものにしてくれた。
気持を乱されないために、あれ以来、新聞もなるべく、読まないですませられるように努力した。
一週間も辛抱していると、さほど読みたいとも思わなくなった。
一ヵ月後には、そんなものがあったことさえ、忘れがちだった。
いつか、孤独地獄という銅版画の写真を見て、不思議に思ったことがある。
一人の男が、不安定な姿勢で、宙に浮び、恐怖に眼をひきつらせているのだが、
その男をとりまく空間は、虚無どころか、逆に半透明な亡者たちの影で、
身じろぎも出来ないほど、ぎっしり埋めつくされているのだ。
亡者たちは、それぞれの表情で、他を押しのけるようにしながら、絶え間なく男に話しかけている。
どういうわけで、これが孤独地獄なのだろう?
題をつけ違えたのではないかと、その時は思ったりしたものだが、いまならはっきり、理解できる。
孤独とは、幻を求めて満たされない、渇きのことなのである。
だから、心臓の鼓動だけでは安心できずに、爪をかむ。
脳波のリズムだけでは満足できずに、タバコを吸う。
性交だけでは充足できずに、貧乏ゆすりをする。
呼吸も、歩行も、内臓の蠕動も、毎日の時間割も、七日目ごとの日曜日も、
四ヵ月ごとにくりかえされる学期末のテストも、彼を安心させるどころか、
かえってあらたな反復にかりたてる結果になってしまうのだ。
やがて、日を追うてタバコの量が増え、爪垢をためた女と、やたらに人目につかない場所を探してまわる、
汗ばんだ夢にうなされたりして、ついに中毒症状を呈しはじめたことに気づいたとき、
ふと、このうえもなく単純な楕円運動の周期に支えられた天空や、1/8m.m.の波長が支配する砂丘地帯を思って、
翻然としたりすることにもなるわけだ。
男が、繰返される砂との闘いや、日課になった手仕事に、あるささやかな充足を感じていたとしても、
かならずしも自虐的とばかりは言いきれない。
そうした快癒のしかたがあっても、べつに不思議はないのである。
しかし俘虜という身分にあっては、不満は何等重大な結果に到らないものである。
殊に米軍における如く、我々に対する取扱いが良好の程度に達し、
我々として感謝すべき諸点が多々ある場合は、そうである。
私は徒らに自分の不安を反芻していた。これが俘虜の身分の必然である。
といって始終不安でいるわけでもない。別に一日の時間を埋めねばならぬ。
これが人間の必然である。
その一日が実に退屈極まるものであった。
病院では私は米軍の軍医や衛生兵に親しんで、書籍雑誌をほぼ不自由なく手に入れることが出来たが、
収容所では中へ入って来る米兵も少なく、恐らく多数の俘虜に対し公平が保てないからであろう、
我々が雑誌類をねだる気になるような隙を見せなかった。
病院から持って来た本は忽ち読んでしまった。
聖書だけが未読の頁を沢山残していたが、私は既にそれまでの探偵小説等の濫読によって、
そういう固苦しいものを読む習慣を失っていた。
この空隙を埋めるために自然に生れてきた欲望は「書く」ことであった。
書くという行為は人間にそれほど自然ではないように思われる。
言葉はまず人間相互の意志疎通のために生れたのであろうが、それを文字に定着することは、
その意思を恒久化し、時空的にその人間の声音の届かない範囲にいる、多数の他者にまで伝えるためであったろう。
この段階から退屈した個人に「筆のすさび」的意志を生ぜしめるには、
幾多の文化の蓄積が必要であったが、最も重大なのは、自己を読者として設定するという要素である。
かつて自分が抱いた意志或いは観念、或いは見聞した事実を、後日読み返すという予想は、
例えば近代市民社会に流行する日記の根底にある。
そしてそれは小学校で作文実習として奨励され、
出版屋が様々の便宜的意匠を凝して「当用日記」類を売ることによって、社会的習慣と化している。
私が前線で見た事実の中で、私を驚かせたことの一つは、兵士が日記を書くのを好むということであった。
酒保の数少ない品目中にも手帳と鉛筆があった。
駐屯中多くの兵士が日夕点呼後の短い時間に、暗い椰子油の燈火の下で、
熱心にその日の出来事や感想を綴り続けた。
私の職業は俸給生活者であるが、一方古い文学青年として、この種のナルシシスムを意識して嫌悪していた。
私の考えでは、俸給生活者としての私の生活も、兵士としてのそれも、
すべて過ぎ去るに任すべきであり、文字に残して読み返すなどという性質のものではないのであった。
駐屯地で敵の上陸を待ってぼんやり日を過しながら、私の夢みたのは昔ながらの小説であった。
それは私の勤めていた工業会社の製品たる或る元素を題名とし、その会社に加えられた戦争の政治的社会的圧力、
及びそれに因って起る使用人の間の葛藤を主題とするはずであった。
私は上官の眼を盗んで、ノートに鉛筆で書き始めたが、
結局暇が少なく私の頭は文字を工夫する状態にはなかった。
小説はその舞台たる関西の一都市の十頁ばかりのエスキスを留めただけで放棄された。
そのかわりこの書くという習慣から、自分の過去を振り返って見るという思い付きが生れた。
間近い死を控えて、私は自分が果して何者であったかを調べて見る理由があったのである。
私は消燈後の暗闇で反省したことを翌日簡単に書き誌した。
少年時から召集前までの生涯の各瞬間を検討して、私は遂に自分が何者でもない、
こうして南海の人知れぬ孤島で無意味に死んでも、少しも惜しくはない人間だという確信に達した。
そして私は死を怖れなくなった。
私はスタンダールに倣って自分の墓碑銘を選び、ノートの終りに書きつけた。
「孤影悄然」というのである。
私の大小説が墓碑銘に終ったのをみて、私は兵士達の日記をつける習慣を理解した。
彼等とてもそれを後日読み返す希望を持ち得ないのは私と同じである。
彼等はただ毎日反省して自分をいたわる習慣を持ったにすぎぬ。
現代の市民社会は戦場と同じく、それほど我々に辛いのである。
私はそのノートを米軍が上陸して山へ入ってからも持って歩いた。
さらに米軍が近づいた報告を得た時、病臥していた私はそれを破り、
さらに僚友に頼んで、竈の火で燃やして貰った。
比島の山中で誰も理解するはずのない文字で書かれているとはいえ、
私の生命より私の書いたものが生き延びるのは、何となくいやであった。
待ってくれ!
特別でないのは、なにも仮面の計画だけではなかったのではあるまいか?
その仮面の助けを借りなければならなかった、顔の喪失という、ぼくの運命自体が、
すこしも例外的なことではなく、むしろ現代人に共通した運命だったのではあるまいか。
……なるほど、こいつはちょっとした発見だ。
ぼくの絶望は、顔の喪失そのものよりも、むしろ、自分の運命に、
他人と共通の課題がすこしも無いという点にあったのだから。
癌の患者に対してさえ、他人と運命を共にしているということで、羨望の念を禁じえなかったくらいである。
それが、そうでないとなったら……
ぼくが落ち込んだ、この洞穴が、偶然口をひらいた古井戸などではなく、
ちゃんと世間にその所在が知れわたっている、監獄の一室だったということになれば、
当然ぼくの絶望にも、大きな影響を及ぼさざるを得ないわけだ。
ぼくが何を言いたがっているのか、おまえにだって分らぬはずはあるまい。
声変りがはじまった少年たち、初潮がはじまった少女たちが、自?の誘惑を知り、
その誘惑を自分一人だけの異常な病気だと思い込んでいるあいだの、あの孤独な絶望感……
あるいは、誰もが一度は経験する麻疹のようなものにすぎない、最初の小さな盗み
(ビー玉だとか、消ゴムのかけらだとか、鉛筆の芯だとか)を、
自分一人だけの恥ずべき罪だと思い込んでいるあいだの、あの屈辱的な絶望感……
運悪く、その無知が一定期間以上つづけば、ついには中毒症状をきたして、
本物の性的犯罪者や、窃盗常習者にもなりかねない。
そして、その罠を避けるためには、いくら罪の意識を深めてみたところで、
なんの役にも立ちはしないだろう。
むしろ、誰もが同じ共犯者であることを知って、孤独から抜け出すことが、
なによりも効果的な解決策なのである。
そのせいかもしれない、あれから後、街に引返し、馴れない酒を飲んでまわりながら、
酔いがまわるにつれて、見知らぬ他人の誰彼に、抱きついてまわりたいほどの親近感をおぼえていたのも
――その情景については、すぐこの後にも書いてあることだし、重複は避けることにして――
おそらくは、その誰彼のなかに、互いに顔を失った同士という心安さを、
薄々ながら感じ取っていたせいではあるまいか。
もっとも、隣人の親しさを感じていたわけではなく、触れる者すべて敵という、
あまりにも孤独な抽象的関係で共感し合っていたのだから、とうてい小説のなかの登場人物たちのように、
善意というほのぼのとした電気毛布の上で、仔犬よろしくじゃれ合ったりというような場面は、
期待すべくもなかったが……
だが、今のぼくにとっては、このコンクリートの壁の向うに、
同じ運命の者が囚れの身をかこっていることを知っただけでも、大変な発見だったのである。
耳をすますと、隣の房の呻吟が手にとるように伝わってくる。
夜更けともなれば、無数の溜息や、呟きや、すすり泣きが、
積乱雲のように湧き上って、獄全体を呪詛のひびきで充満させるのだ。
――おれ一人ではない、おれ一人ではない、おれ一人ではない……
日中だって、運がよければ、運動や入浴のための時間を割り振られ、
視線や、身振りや、囁きなどで、こっそり運命を頒ち合う機会にだって、巡り合わさないとはかぎらない。
――おれ一人ではない、おれ一人ではない、おれ一人ではない……
それらの声を合算してみると、この監獄の巨大さは、どうも只事ではなさそうだ。
考えてみれば、無理もない。
彼らが問われている罪名が、顔を失った罪、他人との通路を遮断した罪、
他人の悲しみや喜びに対する理解を失った罪、他人の中の未知なものを発見する怖れと喜びを失った罪、
他人のために創造する義務を忘れた罪、ともに聴く音楽を失った罪、
そうした現代の人間関係そのものを現わす罪である以上、この世界全体が、
一つの監獄島を形成しているのかもしれないのだ。
だからといって、ぼくが囚れの身であることには、むろんなんの変更もありはしない。
また、彼らが魂の顔だけしか失っていないのに対して、ぼくは生理的にまで失ってしまっているのだから、
幽閉の度合にも、おのずとひらきがあるわけだ。
にもかかわらず、希望が感じられてならないのである。
一人っきりの生き埋めとは違って、この状況には、たしかに何かしら希望を抱かせるものがある。
仮面なしには、歌うことも出来ず、敵とわたり合うことも出来ず、痴漢になることも出来ず、
夢見ることも出来ないという、半端者の負い目が、ぼく一人の罪状ではなくて、
互いに話し合える共通の話題になってくれたせいだろうか。
そうかもしれない。多分そうに違いない。
ときに、その点、おまえは何うだろう?
……ぼくの論法に狂いがないとすれば、おまえだって例外ではなく、当然賛成せざるを得ないと思うのだが……
むろん、賛成してくれるに決っているさ……
さもなければ、スカートにかけた手を振り切って、ぼくを手負いの猿のような立場に追い込むはずもなかったし、
仮面の罠に落ちるのを黙って見過すはずもなかったし、
また、こんな手記を書かざるを得ないような羽目に追いやることもなかったはずだろう。
おかげで、せっかく能動的で調和型のおまえの顔も、けっきょくは仮面にすぎなかったことが、露見してしまったようなものである。
要するにぼくたちは同じ穴のむじなだったのだ。
なにもぼく一人で負わなければならない債務というわけではなかったのだ。
やはり、この手記を書いただけの甲斐はあったというものである。
まさか梨の礫などということはあり得ない。
その点についても、多分おまえは、賛成してくれるに違いない。
だから、書くことを馬鹿にしてはいけないと言っているのだ。
書くということは、単に事実を文字の配列に置きかえるだけのことではなく、
それ自身が一種の冒険旅行でもあるのだから。
郵便配達夫のように、決った場所だけを、廻り歩くといったものではない。
危険もあれば、発見もあれば、充足もある。
いつかぼくは、書くこと自体に生き甲斐を感じはじめ、何時まででもこうして、
書きつづけていたいとさえ思ったことがあるほどである。
だがこれで、ふんぎりだけはつけることが出来た。
世にも醜悪な怪物が、遥かな娘に捧げ物をするような、屁っぴり腰だけはせずにすまされそうである。
三日の予定を、四日にのばし、五日にのばして、時をかせぐような真似だけはせずにすまされそうである。
この手記を読んでもらえば、通路の復旧作業は、おそらくぼくたち二人の共同の仕事になってくれるに相違ない。
引かれ者の小唄だろうか?いや、楽観しすぎたきらいはあっても、自惚れてだけはいないつもりだ。
お互い、傷ついた同士であることが分った以上、いたわり合う気持を期待したって、べつだん差し支えはないのではあるまいか。
さあ、びくびくせずに、明りを消すとしよう。
照明が消えれば、いずれ、仮面舞踏会も幕を閉じてしまうのである。
素顔も、仮面もない、暗黒のなかで、もう一度よくお互いを確かめあったみたいものだ。
ぼくはその闇のなかから聞えてくるに違いない、新しい旋律を信じようと思っている。
ほう! これは驚きました、先生がついに、ものを書く決心をされたとはねえ。
やっぱり体験なんだな。
皮膚に刺戟をあたえないでおくと、ミミズだって、一人前には育たないって言いますからね……
ありがとう、実はもう、題まで考えてあるんですが……
ほう、どんな題です?……
《砂丘の悪魔》か、さもなければ、《蟻地獄の恐怖》……
こりゃまた、ひどく、猟奇趣味だな。
ちょっと、不真面目な印象をあたえすぎるんじゃないですか?……
そうでしょうか?……
いくら強烈な体験であっても、出来事の表面をなぞっただけじゃ、無意味ですからね。
やはり、悲劇の主人公は、あくまでも地元の人たちなんだし、それを書くことによって、
すこしでも解決の方向が示されるのでなければ、せっかくの体験が泣いてしまいますよ……
畜生!……
なんです?……
どこかで下水の掃除をやっているのかな?
それとも、廊下にまいた消毒液と、先生の口から出るにんにくの分解物とが、
なにか特殊な化学反応をおこしているのかもしれない……
なんだって?……
いえ、どうぞ御心配なく、いくら書いてみたところで、ぼくなんぞ、いずれ作者などという柄じゃないんだから……
これはまた柄にもないご謙遜だ、作者をそんなふうに特別視する必要はないと思いますがね。
書けば、それが作者でしょう……
さあ、どうかな、教師というやつは、とかくやたらに書きたがるものと、相場がきまっているが……
そりゃ、職業がら、比較的いつも作者のすぐ近くにいるからですよ……
例の、創造的教育ってやつですか?
自分じゃ、チョーク入れ一つ、こさえたこともないくせに……
チョーク入れとは、恐れ入りましたな。
自分が何者であるかに、目覚めさせてやるだけでも、立派な創造じゃありませんか?……
おかげで、新しい苦痛を味わうための、新しい感覚を、むりやり身につけさせられる……
希望だってあります!……
その希望が本物かどうか、その先までは責任を持たずにね……
そこから先は、めいめいの力を信じてやらなけりゃ……
まあ、気休めはよしにしましょう、いずれ教師には、そんな悪徳なんぞ、許されちゃいないんだから……
悪徳?……
作者のことですよ。作者になりたいっていうのは、要するに、人形使いになって、
自分を人形どもから区別したいという、エゴイズムにすぎないんだ。
女の化粧と、本質的には、なんの変りもありゃしない……
きびしいですな。
しかし先生が、作者という言葉を、そういう意味に使っておられるのなら、
たしかに、作者と、書くこととは、ある程度区別すべきかもしれませんね……
でしょう?
だからこそ、ぼくは、作者になってみたかったんですよ。
作者になれないのなら、べつに書く必要なんかありゃしないんだ!
ちんぽー!
今こそ問われる石原名人スレッドの真価・・・。