1 :
私事ですが名無しです:
もう治った
糞スレ一番乗り
3 :
私事ですが名無しです:2006/02/06(月) 03:01:05 ID:9/D7K/Bn
糞スレ二番煎じ
ひーん
6 :
私事ですが名無しです:2006/02/12(日) 01:13:43 ID:DJgS5fe8
6ゲットってやつ?
7 :
私事ですが名無しです:2006/02/12(日) 01:15:14 ID:HPIUocDJ
下痢って誰
ハゲに決まってるだろ
仮面だよ
9 :
私事ですが名無しです:2006/02/12(日) 03:47:13 ID:grxX8LJN
ゲーリーグッドリッチ
zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
Zスレ建設用地にて立ち入り禁止なのさ〜
zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
人と好ましい関係を築き、それを維持し発展させる能力は子供のときに芽生え、十歳から十二歳の間に強化される。
しかしこの能力が身につかないまま思春期を迎えてしまうと、 もはや手遅れだ。
その結果として現れる行動は殺人やレイプとはかぎらないが、人格的 欠陥を示す他の行為が見られる。
不幸な子供時代を過ごして深い傷を負った人は、その後完全に正常な人生を歩むことはできない。
彼らはアル中の母親や暴力をふるう父親となって再びすさんだ家庭環境をつくり、
そこで育つ子供を犯罪へと駆り立てることになるのだ。
ポジティブな人間関係を築くためには社会的な技術が必要であり、これは性的な技術に先立つものだ。
しかし精神的なダメージを受けた男の子は、思春期になってもこの技術を身につけることができない。
独りでいることが多いからといって、殺人犯が内向的で内気とはかぎらない。
社交的で話好きな者もいる。だがそれは表向きの顔で、心の中に孤独を抱えているのだ。
ふつうの若者がダンスをしたりパーティーにいったりする時期に、彼らは自分の殻に閉じこもり、
異常な空想にふけるようになる。空想はもっと健康的な、人間との付き合いに代わるものだ。
そうした空想に依存すればするほど、社会的に受け入れられている価値観から離れていく。
「世間」とは何か P27-
明治十年(一八七七)頃にsocietyの訳語として社会という言葉がつくられた。
そして同十七年ごろにindividualの訳語として個人という言葉が定着した。
それ以前にはわが国には社会という言葉も個人という言葉もなかったのである。
ということは、わが国にはそれ以前には、
現在のような意味の社会という概念も個人という概念もなかったことを意味している。
フィジカル・インテンシティ'97−'98 season P165
個人というのは、単純に集団や共同体に対抗する概念ではない。
人生のいろいろな局面で、自分で生き方を選び、生き方を決定できる能力のある人のことを「個人」という。
「個人」は自立していなければならない。だから「個人」は自分で経済活動を行う。
たとえば作家は、基本的に個人だ。一人で生活費を稼いでいるからだ。
サラリーマンでも、転職ができるような技術や能力を持っている人は個人だ。
終身雇用や年功序列に依存して生きている人たちはどうあがいても個人としては生きられない。
経済的に自立する可能性を持たない女、夫に従属する主婦も個人ではない。
したがって、子供は個人ではない。
だが、子供の頃から個人になるべく訓練することはできるし、本当はそれが何よりも重要だ。
だがほとんどの家庭でも学校でもそういう訓練はまったく行われない。
フィジカル・インテンシティV P24-
神奈川県警の不祥事が世間を騒がせているが、どうして日本の組織はトラブルを隠蔽しようとするのだろうか。
警察組織の腐敗は昔からあるし、どこの国でも問題になってきた。
だが海外の警察の腐敗はたとえばマフィアなどとの癒着が多い。
つまり賄賂などの私利私欲が根本にある。
神奈川県警の場合には、事件が明らかになると昇進の道が閉ざされるという事情があったらしいが、
金銭的な報酬が目当てだったわけではない。
彼らはどうしてこれだけのリスクを侵して事件を隠蔽しようとしたのだろうか。
内部で起こったトラブルを隠そうとするのは、日本的な組織の特徴だ。
金融機関もずっと不良債権や簿外債務を隠していたし、
東海村の臨界事故でも何とか内部で処理しようとして対応が遅れた。
日本的な共同体においては、責任を取ることのコストが大きすぎるのではないかと私は思う。
銀行や証券会社が破産したときには、記者会見で幹部がメディアのさらし者になる。
彼らは記者会見でテレビカメラに向かって頭を下げなくてはいけない。
外国ではそういう光景を見たことがない。
この国では、事件を起こすとまず「世間」に対して謝らなくてはいけない。
当事者は、彼がスケープゴートであっても、そうでなくても、
世間からの糾弾を一身に浴びるシステムになっている。
法的に罪を償うこととは別に、世間に恥をさらす、という暗黙の懲罰があって、
みそぎが好きな政治家を除いて、生涯その汚名を晴らすことは不可能に近い。
罪を認めたときに、恥をさらして世間から圧倒的な非難を浴びるという余計なコストを軽減しない限り、
日本的な組織の中での不祥事の隠蔽は続くだろう。
世間のさらし者になる人間や組織が確定すれば、他の人間や組織の責任は問われることがない。
たとえば商工ローンの日栄だが、だまされた方には一切責任はないのだろうか。
誤解しないで欲しいのだが、日栄が悪くないと言っているわけではない。
わたしが問題にしたいのは、世間のさらし者になる「加害者」が特定された瞬間に、
「被害者」は単に救済されるべきものとして扱われ、
その責任が一切問われないのは不自然ではないかということだ。
もちろん錯誤の契約は無効だろうし、恐喝的な回収には法的措置が必要だ。
しかし、借り手の責任がゼロのはずがない。
たとえば阪神大震災や地下鉄サリン事件のような天災や無差別テロの被害者と
商工ローンの被害者はもちろん区別されなければならない。
だが日栄の不法取り立て事件の場合、加害者を特定し、ときにはそれをスケープゴートにして、
被害者は単に救済されるべきものとし、それですべてが解決するのだったらこれほど楽なことはない。
また、国全体に遠大な目標があった時代、各共同体が一丸となることが容易だった時代には、
世間のさらし者にするという暗黙の懲罰は効果的だっただろう。
リスクを負うとは具体的にどういうことか、責任を持つとはどういうことか、
責任を果たせなかったときにはどのようなコストをどのような方法で払うのか、
そういった問題に明確にかつ簡潔に答えられる大人はきっと少ないだろう。
そういう社会で、子どもたちはリスクや責任やコストの概念をどこで学べばいいのだろうか?
P104
ぼくは自分の醜さをよく心得ている。
ぬけぬけと他人の前で裸をさらけ出すほど、あつかましくはない。
もっとも、醜いのはなにもぼくだけではなく、人間の九十九パーセントまでが出来損いなのだ。
人類は毛を失ったから、衣服を発明したのではなく、裸の醜さを自覚して衣服で隠そうとしたために、
毛が退化してしまったのだとぼくは信じている(事実に反することは、百も承知の上で、なおかつそう信じてる)。
それでも人々が、なんとか他人の視線に耐えて生きていけるのは、
人間の眼の不正確さと、錯覚に期待するからなのだ。
なるべく似たような衣裳をつけ、似たような髪形にして、他人と見分けがつきにくいように工夫したりする。
こちらが露骨な視線を向けなければ、向うも遠慮してくれるだろうと、伏目がちな人生を送ることにもなる。
だから昔は「晒しもの」などという刑罰もあったが、
あまり残酷すぎるというので、文明社会では廃止されてしまったほどだ。
「覗き」という行為が、一般に侮りの眼をもって見られるのも、自分が覗かれる側にまわりたくないからだろう。
やむを得ず覗かせる場合には、それに見合った代償を要求するのが常識だ。
現に、芝居や映画でも、ふつう見る方が金を払い、見られる方が金を受取ることになっている。
誰だって、見られるよりは、見たいのだ。
ラジオやテレビなどという覗き道具が、際限もなく売れつづけているのも、人類の九十九パーセントが、
自分の醜さを自覚していることのいい証拠だろう。
ぼくが、すすんで近視眼になり、ストリップ小屋に通いつめ、写真家に弟子入りし……
そして、そこから箱男までは、ごく自然な一と跨ぎにすぎなかった。
フィジカル・インテンシティU P99-
日本人が自信を失っているように見えるのは、将来的な経済活動のビジョンがないからだと思う。
輸出主導型経済成長の次の時代に、どういったものを作り出していくのか、
生産の中心になるものは何か、それがいまだに見えていない。
生産すべきものが見えてくれば、その目標がどんなに遠くても日本人は努力を開始するだろう。
だがそのこととは別に重要な問題もある。
これからは生産品が一律で、国民が一丸となって生産労働に励むという構図ではないのではないか、ということだ。
新しい生産活動は高度な技術と知識に支えられたものになるだろう。
国民全部がスペシャリストになれるわけがない。
スペシャリストになるためには長い訓練が必要であり、
そのためのコストにしてもすべての人が負えるものではない。
やがて日本は数少ないスペシャリストの集団と、その他大勢の大集団に分かれるだろう。
だが単純に横並びの社会構造が崩れて競争社会が訪れるというわけではない。
競争のスタートにさえつけない階層が現れてしまうのだ。
それがいいことなのか悪いことなのかわたしにはわからないが、少なくとも充分に予想される現実ではある。
小渕首相が招集して産業競争力会議が発足した。
まるで国家事業としての企業リストラを開始するような仰々しさだ。
きっと求められているのは、リストラではなく想像力なのだが、ビジョンはいまだに影も形も見えていない。
日本のサッカーと似ている。ゴールまでの意図と組立てが見えないのだ。
P67
Y子の後姿を見送るまいとすることは、たいへんな努力のいることでした。
ラクダの檻の前での三倍もの激しさで、胸の空虚感はぼくを責めたてました。
しかし良心は断乎として拒みます。
あんな曠野にY子ひとりでどうやって暮せるでしょう。
たとえ毎日食糧を吸収してやったにしても、人間は食糧だけで暮すわけには行かないのです。
シベリヤの徒刑囚だってそんなにむごたらしい目は見ないにちがいありません。
油の中を泳ぐようにして、やっと部屋にたどりつきました。
P230-
しかし俘虜という身分にあっては、不満は何等重大な結果に到らないものである。
殊に米軍における如く、我々に対する取扱いが良好の程度に達し、
我々として感謝すべき諸点が多々ある場合は、そうである。
私は徒らに自分の不安を反芻していた。これが俘虜の身分の必然である。
といって始終不安でいるわけでもない。別に一日の時間を埋めねばならぬ。
これが人間の必然である。
P317
ひどく気の立っている運転手だ。
行く先を告げても、返事はおろか、うなずきもせず、乱暴にギヤを鳴らして、
老いぼれたエンジンを、同情の色もなく咳込ませる。
もしも「彼」が、《つばき》の裏門をくぐり抜けて、別の世界に脱出して行ったのだとしたら、
やはりこの運転手のように、神経にガラスの破片をまぶしたような毎日を送っているのだろうか?
……そんな生活に耐えてまで、永遠の脱出をつづけなければならないほど、
この世に耐えがたいものがあったのだろうか?
P155 23
Got a one way to the blues, woo woo ――
(こいつは悲しい片道切符のブルースさ)……歌いたければ、勝手に歌うがいい。
実際に、片道切符をつかまされた人間は、決してそんな歌い方などしないものだ。
片道切符しか持っていない人種の、靴の踵は、小石を踏んでもひびくほどちびている。
もうこれ以上歩かされるのは沢山だ。歌いたいのは、往復切符のブルースなのだ。
片道切符とは、昨日と今日が、今日と明日が、つながりをなくして、ばらばらになってしまった生活だ。
そんな、傷だらけの片道切符を、鼻歌まじりにしたりできるのは、
いずれがっちり、往復切符をにぎった人間だけにきまっている。
だからこそ、帰りの切符の半分を、紛失したり、盗まれたりしないようにと、あんなにやっきになり、
株を買ったり、生命保険をかけたり、労働組合と上役に二枚舌をつかったりもするわけだ。
風呂の流し口や、便所の穴から立ちのぼる、片道切符の連中の、
助けを求めるあきらめの悪い叫び声から、耳をふさごうとして、
やたらに大きな声でテレビをかけたり、せっせと片道切符のブルースを口ずさんだりすることにもなるわけだ。
とらわれた人間の歌が、往復切符のブルースであっても、いぶかることは少しもない。
P27 5
昨日の中に今日があるように、今日の中に明日があり、
明日の中に今日があるように、今日の中に昨日が生きている。
そんなふうなのが人間の生活だと教えられ、彼もまたそれを信じてきた。
しかし戦争の結果はそうした約束をばらばらな無関係なものに分解してしまったのだ。
いまの久三にとって、昨日と明日は、もはやなんのつながりもないものになってしまった。
P67- 10
やがて天井の一角から、砂がめまぐるしく変化する幾本ものテープになって、どっと吐き出されてきた。
その流れの激しさにくらべて、いやにひっそりしているのが、なんとも不思議な感じだ。
みるみる畳の上に、天井板の隙間や節穴の位置や大きさが、そっくり浮き彫りになって写し出される。
砂のにおいが鼻を刺した。眼にもしみた。急いで外に逃げた。
ぱっと、突然火を吹いたような風景に、踵から融けていくような気がした。
しかし、体の芯のあたりに、どうしても融けきれない、氷の棒のようなものが残った。
やはり何処かで、疚しさを感じているらしいのだ。
けもののような女……昨日も、明日もない、点のような心……
他人を、黒板の上のチョークの跡のように、きれいに拭い去ってしまえると信じ込んでいる世界……
現代の一角に、まだこれほどの野蛮が巣くっていようとは、夢にも思わなかった。
しかし、まあいい……
ショックから恢復して、やっと余裕をとり戻しはじめたしるしだと考えれば、この疚しさもそう悪くない。
P63 「パニック」
夕方、私はまた昨夜の木賃宿に向って歩いていた。今になって考えてみると、
逃げだすつもりで、実は同じところをぐるぐるまわっていただけであるように思う。
宿に近い、町角で、私はまた尾行者に気づいた。
尾行者は、建物の割目に、吸込まれるように消えた。
すると、私は、一日中見張られていたにちがいあるまい。
次の瞬間を待つ勇気もなくなって、私は尾行者を待った。
しかし尾行者はそれっきり姿を現さなかった。
つづく三日間の行動を、細く書く必要はないと思う。
日常的な習慣をもたないという、新しい習慣を、私は急速につけはじめていた。
日常的な一切のものに敵意をさえ感じ、ある行為が次の行為と結びつく、連続感を恐れた。
それを認めることは、殺人を意識し、繰返して思い出す義務を負うことになる。
そんなことは、幸福な人間のすることだ。
私は現実を、私に似せて、脈絡のないバラバラな破片にしてしまいたかった。
無論我々は過去を尽く憶えているものではない。
習慣の穴を別としても、重なる経験が似通っているため、後の経験が前のものを蔽い、奇妙な類似化が行われる。
この種の累積だけが自我の想起可能の部分である。
この時期の私の経験を、私が秩序をもって想起することが出来ないのは、
たしかにそれがその前、或いは後の、私の経験と少しも似ていないからである。
私が生きていたのはたしかであった。しかし私には生きているという意識がなかった。
私が殺した比島の女の亡霊のため、人間の世界に帰ることは、
どんな幸運によっても不可能であることが明瞭となってしまった以上、
私はただ死なないから生きているにすぎなかった。
不安はなかった。死んだ女も憎んではいなかった。
「どうだろう、久しぶりに、新聞を読んでみたいんだが、なんとかならないだろうか?」
「そうですねえ……あとで、聞いておきましょう。」
女が、誠意を示そうとしているのは、よく分った。遠慮勝ちな、おずおずとした声の調子にも、
彼の気を損うまいとする配慮が、ありありと感じられる。
だが、そのことがまた、いっそう彼を苛立たせるのだ。
聞いておきましょうだと?……おれには、許可なしに、新聞を読む権利もないというのか……
男は、ののしりながら、女の手をはらいのけ、中身ごと洗面器をひっくりかえしてやりたいような衝動にかられる。
しかし、ここで腹を立ててしまっては、ぶちこわしだ。重病人は、新聞くらいで、
そんなに興奮したりするものではない。
むろん新聞は読んでみたい。風景がなければ、せめて風景画でも見たいというのが、人情というものだろう。
だから、風景画は自然の稀薄な地方で発達し、新聞は、人間のつながりが薄くなった産業地帯で発達したと、
何かの本で読んだことがある。
それに、あわよくば、尋ね人の広告が出ているかもしれないし、上手くいけば、失踪記事になって、
社会面の隅っこくらいを飾っていないとも限らないのだ。
もっとも、そんな記事がのっている新聞を、連中がおいそれと渡してくれるはずはない。
とにかく今は辛抱が第一だ。
P89- 13
新聞記事も、相変らずだった。
どこに一週間もの空白があったのやら、ほとんどその痕跡さえ見分けられない。
これが、外の世界に通ずる窓なら、どうやらそのガラスは、くもりガラスで出来ているらしい。
《法人税汚職、市に飛び火》……《工業のメッカに、学園都市を》……
《相つぐ操業中止、総評近く、見解発表》……《二児を絞殺、母親服毒》……
《頻発する自動車強盗、新しい生活様式が、新しい犯罪を生む?》……
《三年間、交番に花をとどけた、匿名少女》……《東京五輪、予算でもめる》……
《今日も通り魔、二少女切らる》……《睡眠薬遊びにむしばまれる、学園の青春》……
《株価にも秋風の気配》……《テナーサックスの名手、ブルー・ジャクソン来日》……
《南ア連邦に、再び暴動、死傷二百八十》……
《女をまじえた、泥棒学校、授業料なし、テストに合格すれば、卒業証書》
欠けて困るものなど、何一つありはしない。幻の煉瓦を隙間だらけにつみあげた、幻の塔だ。
もっとも、欠けて困るようなものばかりだったら、現実は、うっかり手もふれられない、
あぶなっかしいガラス細工になってしまう……要するに、日常とは、そんなものなのだ……
だから誰もが、無意味を承知で、わが家にコンパスの中心をすえるのである。
P92-
ところで、早速だけど、ぼくという人間を知ってもらうために、一つラジオの話でも聞いてもらうとするか。
そう、ラジオ。じつは以前、ひどいニュース中毒にかかっていたことがあるんだよ。
分ってもらえるかな、次から次に、たえず新しいニュースを仕入れつづけていないと、なんとも不安でたまらない。
戦場では刻々と戦況が変化しつづけるし、映画スターや歌手は結婚したり離婚したりしつづけている……
火星ロケットが飛ぶこともあれば、SOSを残して消息を絶つ漁船もある……
放火マニヤの消防署長が逮捕されたり、バナナの積荷から毒蛇が出てきたり、通産省の役人が自殺したり、
三歳の少女が強姦されたりしている時に、国際会議が大々的な成功をおさめたり、決裂したりする……
無菌ネズミを飼育する会社が設立され、
スーパー・マーケットの工場現場からコンクリート詰めの赤ん坊が発見され、
世界中の軍隊で脱走兵の総計が新記録を樹立する……
世界ってのは、沸きっぱなしの薬罐みたいなものなのさ。
ちょっとでも眼を離している隙に、地球の形だって変りかねない。
あげくにぼくは、七種類の新聞をとり、部屋には二台のテレビと、三台のラジオをそなえ、
外出のときにも携帯用の小型ラジオを肌身離さず、寝るときもイヤホーンを付けっぱなしという始末さ。
同じ時間に、違った局で、違ったニュースをやっていることがあるし、
何時、どんな臨時ニュースが流されないとも限らないからね。
臆病な動物はまわりに気をくばりすぎて、だんだんキリンみたいに首がのびたり、
小猿みたいに樹から降りられなくなったりする。
笑いごとじゃないよ、当人にとっちゃ深刻な話さ。
ニュースを読んだり聞いたりするだけで、一日の大半がつぶれてしまうんだからな。
自分で自分の意志の弱さに腹を立てながら、それでも泣く泣くラジオやテレビから離れられない。
もちろん、いくら漁りまわったところで、べつに事実に近付いたわけじゃないくらい百も承知していた。
承知していながら、やめられないんだ。
ぼくに必要なのは、事実でも体験でもなく、きまり文句に要約されたニュースという形式だったのかもしれない。
つまり完全なニュース中毒にかかっていたわけさ。
ところがある日、とつぜん恢復した。
ほんの些細な、自分でも首を傾げたくなるほど些細な事件が解毒剤になってくれたんだ。
あれは、どこだったっけ……たしか銀行と地下鉄の駅にはさまれた、広い歩道のある街角で……
日中にしては人通りが少なかったな……
ぼくのすぐ前を、ごく普通に歩いていた一見サラリーマン風の中年男が、
急に膝の力を抜いて、腰を落したかと思うと、ごろりと横になって動かなくなってしまったんだ。
子供を相手の、熊ちゃんごっこと言った感じだったな。
通りかかった学生風の男が、倒れた中年男をからかうように覗き込んで、
「死んでるじゃないか」と、気まずそうにぼくを見上げて薄笑いを浮かべたっけ。
相手にならずにいると、それでもしぶしぶ、二、三軒先のタバコ屋二電話を借りに行ってくれたよ。
ぼくも商売柄――と言っても、折込広告の商品見本を、
せいぜい月に一、二度まわしてもらえればいいという程度だったが――いったんはカメラを構えて、
いろんな角度から狙ってみたりした。
けっきょく思いなおして、シャッターを切らずにしまったのは、べつに死者を悼んで遠慮したせいじゃない。
絶対にニュースにならないことが、すぐに分ったからさ。
でも、死ぬってのは、たしかに一種の変化だな。第一、皮膚の色がさっと青みがかってくる。
それから、鼻が薄くなり、顎がしなびて小さくなる。
半開きの口は、ナイフを入れた蜜柑の皮の切口みたいで、その間から下顎の赤い入歯がはみ出しかけているのさ。
おまけに着ている服まで変るんだ。
かなり上等に見えていたのが、見る間にへなへなと見掛け倒しの安物に変ってしまったよ。
もちろんそんな事だってニュースじゃない。
しかし死んだ当人にとっては、ニュースになろうと、なるまいと、ぜんぜん関係ないみたいだったな。
仮に、指名手配中の兇悪犯の手にかかった、十人目の犠牲者だったとしても、
べつに違った死に方が出来るわけじゃないだろう。
自分も変化したけど、外の世界も変化しちゃって、もうこれ以上変化のしようがないんだ。
どんな大ニュースも追いつけないほどの、大変化さ。
と、そう思ったとたんに、ニュースに対する感じ方が、がらりと変ってしまっていた。
どう言ったらいいか……「あなたもニュースをやめられる」ってなわけにはいかないよ……
でも、分るだろう、なんとなく……なぜ誰もが、こうニュースを求めるのか……
世間の変化を、あらかじめ予知しておいて、いざという時のため備えるんだって?
以前はぼくもそう思っていた。でも大嘘さ。
人はただ安心するためにニュースを聞いているだけなんだ。
どんな大ニュースを聞かされたところで、聞いている人間はまだちゃんと生きているわけだからな。
本当の大ニュースは、世界の終りを告げる、最後のニュースだろう。
もちろんそいつが聞けたら本望だよ。
ひとりぼっちで世界を手離さなくてもすむんだからな。
考えてみれば、ぼくが中毒にかかったのも、
結局のところその最後の放送を聞きのがすまいとする焦りだったような気がする。
しかし、ニュースが続いているかぎり、絶対に最後にはならないんだ。
まだ最後ではありません、というお知らせなのさ。
ただ後に続ける、ちょっとした決り文句が省略されているだけのことでね。
昨夜B52による本年度最大の北爆が行われました、でもあなたはまだなんとか生きています。
ガス工事中引火して八人重軽傷、でもあなたは無事に生きています。
物価上昇率記録更新、でもあなたは生きつづけています。
工場廃液で湾内の魚介類全滅、でもあなたはなんとか生きのびています。
P30
考えれば考えるほど不思議な気がします。
「文化」と「集団化」という《ことば》の二つの機能が、
うまくバランスをとってくれた時代が果してあったのでしょうか。
「儀式」としての《ことば》はいつも善玉でありすぎたように思います。
たとえば国際親善使節に派遣されるのはいつだって民俗芸能団と相場が決まっている。
この集団化傾向にはらわれる敬意は、暗黙のうちに国家間のマナーにさえなっている。
はじめに述べた「反技術主義」の大義名分も、おそらくその辺にあるのではないでしょうか。
もちろん「集団化」の衝動を一方的に否定しているわけではありません。
ついせんだっても、メキシコ市での大地震のさい、地震の規模にくらべてパニックが少なかったのは、
テレビが休まず情報を流しつづけたせいだという記事を読みました。
おおいにあり得ることだと思います。「集団化」には強い鎮静作用がある。
テレビは簡単に擬似集団を形成してしまいます。
このテレビの擬似集団形成能力は、その功罪をふくめて、
最近の技術的成果のなかでも最大規模のものではないでしょうか。
上野動物園のゴリラのブルブル君でも、テレビでノイローゼを治したのです。
P164-
視聴者はべつに真実を求めているわけじゃないからね。
ただある一定の時間、「時間」の受動的消費に身をまかせていたいだけなんだよ。
君の言っていることとは多少ズレがあるけど、僕も最近、つくづくテレビの脅威を感じはじめていることは事実なんだ。
ただしかならずしも、放映されている内容に関してではない。
不気味なのはとにかくその瞬間に、無数の人間が小さなテレビ画面の前で、
各人の意識とは無関係に巨大な擬似集団を形成しているっていうことね……
―― テレビ自体が擬似集団の場と化すわけですね。
そうなんだ。テレビが出現する以前には、これほど簡単に擬似集団が形成されることはなかったんじゃないか。
しかもとんでもない人数だろ。だいたい集団化は人間の能力のなかでも、とくに重要なものの一つだけど、
それだけに本来非日常的じゃないと困るんだ。
いざという時の伝家の宝刀なんだよね。例外は軍隊と学校かな。軍隊は非常事態が日常だからね。
でも学校の集団化傾向はなんだろう。あれにも何か必然性があるんだろうか。
とくに日本の学校には擬似軍隊的な風潮が顕著だね。学校本来の機能以上のものが期待されているような気がする。
教育のひずみ、とかいろいろ言われているけど、
そもそも学校を集団訓練の場にしようとすること自体に問題があるんじゃないか。
とにかく人間って、そういつも集団でいる必要はないんだ。
むしろ個別化と分業が社会形成の原動力だったんじゃないかな。
いちいち集団を組まなくてもすむように、人間は社会を組織化し、社会に構造を与えてきたわけでしょう。
ただ社会の構造が破れて、パニックに襲われたような場合、
本能的に集団化の衝動が働いて個人を越えた集団的自衛能力を発揮する。
フィジカル・インテンシティV P207-
わたしは、既得権益に縛られ、未来をイメージする力を失った守旧派の政治家と、
好きなことが見つからないと呟くフリーターと、
生活に便利だからと公園に居着いてしまうホームレスが重なって見える。
彼らは、単にもっとも楽だからという理由で、現在の財を食いつぶしているのだ。
日本のプロ野球は日本シリーズのON対決などと騒がれているが、
騒いでいるのはメディアだけで、若い人たちは誰もONなんか知らない。
メディアが勝手に幻想を煽り、他に何もすることがない「新下層階級」がその煽動に乗せられる。
イチローは結果的にそういう国の野球を逃れて、本場へ行く。
彼が大リーグで通用するかどうか、そんなことは実は問題ではない。
もちろん大活躍して欲しいが、たとえ代打や代走だろうと、あるいは3Aに落ちようと、
イチローにとっては充実した時間になるだろう。
イチローは既得権益層の犠牲になるつもりはなかった。日本のプロ野球は寂しくなる。
佐々木にしてもイチローにしても、最高レベルの選手たちはアメリカにいる。
そういう事態は加速するだろう。
そしてその空洞化を再生の契機にするような姿勢と熱意と力は、日本のプロ野球やメディアにはない。
いじめの特徴は一回限りのものでは決してなく、幾度も幾度も執拗に繰り返されるというところにある
眼の中に閉じこめられてしまったような、単調な生活……
いつまでたっても、働いて、食べて、寝るだけじゃないの?
その後ろ姿を、虫けらのようだと思う
君を見ていると、気が滅入ってくる
こんな所で生き残ったって、死んだのも同じじゃないの
急にわけの分らぬ怒りがこみあげてくる
よく考えてみれば、刑務所や精神病院といった社会施設を利用するのも、ひとつの巧みな生き方ですから
病人は遊ぶことを禁じられている
働く者に済まぬ
表に行ってみたって、べつにすることもないし……
めくるめく、太陽にみたされた夏などというものは、いずれ小説か映画のなかだけの出来事にきまっている
生きている者はお前さん、みんな、よりよきもののために生きてるんだよ!
大企業の社員は日本社会のなかでは羨望の的です
社会は動的平衡を保ちながら、ダイナミックに動いているものですが、
その動きからはじき出される人間がいつの時代にも必ずいます
つまり、どこまでも彼らは黒々としており、そして暗いのであった
この人たちはこの苛烈なるものの襲来からついに身をかわすことができなかったという印象を受ける
赤十字の精神はあらゆる慈善事業と同じく、原因を除かずして結果を改めるという矛盾を持っている
なんでも……自分のことは、自分でせよだ……たよる人は、うらむ人っていうからね……おっかないですよ……
個人差を無視して一定の枠にはめるのが文明
文明というものは、そもそも時間を構造化したもの
時間の非可逆性が人間の不安の根源
だから人は物語をつくりだす
物語をとおして未来の一部をすでに見てしまった人間だけが、凝視に耐えられる
つまり性密な対象の把握が可能になる
動物のように瞬間瞬間をおびえながら過している状態では、
じっと一点に目を据えつづけることは外界にたいする油断になる
けもののような女……昨日も、明日もない、点のような心……
スマートで行儀のいい人間しか相手にされないような、瀟洒できれいな社会では生きられない
「水清ければ魚棲まず」のたとえもあります
文明はそういった人びとのためにスラムを用意してきました
しかし、いまの豊かな日本からは、ハンパな人たちの受け皿がどんどんなくなってます
日本人のきれい好きもいい加減にしておいたほうがいい
「待つ」とは生きることではない
希望を云々するまえに、この瞬間をのりきれるかどうかが、まず問題
休養すると云っても臥たきりでは駄目である
また臥たきりにしていられるものでもない
集団生活は何の目的も持たないならば真に堪え難い
おねがいだから、どうか、ぼくを一人にして下さい……
絶望したものは、他人をもたないから、自分の死を記録するだけの短い遺書を書く
死にたくないのに死ななければならないぼくは、どんな遺書を書けば
ああ、よう云うたもんじゃ
お前は、この煙草の葉のように、身も心もかちかちじゃ
おい、そうじゃろう
就職したらそれで問題解決じゃないんですよ。
就職したって、自宅と職場を往復するだけで、休日になるとまた、一人になってしまう。
もともと社会的に孤立していた人は、就職したって、プライベートでは孤独なんです
大部分の者が仕事に報われないのであり、そうした報われない人々が、それにもかかわらず続けるところ、
続けざるをえないところに「仕事とは何か」という問いに対する地に着いた答えがあるように思う。
理想的な要求ではなく、日々の現実的な要求に応えるものこそ、大方の仕事なのだと思う。
この現実を見失ってはいけないと思う。
間木はおれの同僚である。
と言っても、同じ製薬会社につとめているというだけで、仕事は全く質のちがったものだ。
おれの仕事は工場の片隅に仕切られた窓のない小部屋で、一日電気計算機を前にして坐り、
どこからともなく送られてくる無秩序な数字や数式を、無機的に訓練された指先で機械の中におしこみ、
それをまたひきずり出してどこへともなく送り出すという、無意味な動作の連続であり、
それに反して間木の仕事は、近代産業資本におけるヘルメスの竪琴ともいうべきポスターの製作なのだから、
おれたちを結びつけたのは行きつけのノミ屋「どん」のスタンドだった。
ところで、おれたちの関係の、内的関聯性について説明すれば……
同病相憐む、などという言葉は真赤な嘘だと言わなければならない。
まさに、同病相憎んだのである。
おれたちは冷酷に、自分自身のように相手を憎みながら、憎しみのために、相手を求めた。
これは恢癒のための、一種の健康法だったと思う。
おれたちは、互いに、相手を恥じていた。
働かされるのと、働くのとでは、大違いさ。
役人の監視つきで、道路工事なんかさせられたって、くそ面白くもありゃしない。
厚岸まで行けば、もう君たちの天下だ。
三日三晩走りつづけたって、鼻にぶち当るものは、風ばっかりだな。
いいぞ、蝦夷地は、自由の天地だ。
松平 どうだろう、みんなうまくやるかな。
荒井 海軍局も、軍艦を乗っ取られたとなると、まさか表沙汰にも出来まいし……
永井 榎本君も、思い切ったことをする男だよ。もしも厚岸共和国に成功すりゃ、大したもんだが……
榎本 成功? 成功なんか、するはずがないでしょう。
大鳥 なんだって?
榎本 成功するわけがない。連中には、金もなければ、道具もないんだからな。
もう一つ、ないのは、女だよ。あるのは、自由と夢だけだ。
村をつくったところで、男ヤモメの乞食村さね。
共和国か……男ばっかりの国なんて、聞いたことがあるかい?
大鳥 どこかに出掛けて、さらってくればいい。とにかく、軍艦があるんだしな。
榎本 そうさ、さらってくるしかない。
そこで、女をつかまえに、三人か四人ずつどこかの町に送り込むことになるだろう。
そこで、どうなる? それっきりさ。
行った奴は、どこかに消えて、二度と戻ってなんぞ、くるものか。
いずれみんな、浅井君の忠誠にも、飽きが来るだろうし……
永井 すると、君はまた、最初っから失敗を見越してけしかけたのかい?
榎本 そうです。
松平 なんのために?
榎本 種をまくためだよ。
永井 種?
榎本 共和国のね。
永井 そんなことをして、どうなるっていうんだい?
榎本 政府の連中が、いずれたのみに来るでしょうよ、ぼくらに。連中を、鎮圧するよう、
頭を下げてね……蝦夷地にかけちゃ、まず、われわれの右に出る者はないんだから。
大鳥 呆れたね。呆れたよ。
君は、ケミストリーばかりじゃなく、この世を実験室と心得ているんじゃないのかい。
ぼくは、もうそろそろ、本物の飯が食いたくなった。
榎本 いいじゃないか、実験で……
歌っている高橋なんとかです
58 :
クワガタ:
俺様にちんぽこ挟まれたい奴は早くちんぽうpしろだ!!