【イギリス】「世界初の人権宣言」ペルシャ帝国時代の円筒印章をイランに貸与 大英博物館[9/11]

このエントリーをはてなブックマークに追加
1月曜の朝φ ★
 国営イラン通信は10日、大英博物館が所蔵し、世界初の人権宣言といわれるペルシャ帝国
時代の「円筒印章」がテヘランの国立博物館に貸与され、12日から4カ月間展示されると報じた。

 印章貸与をめぐっては、ことし1月、大英博物館が延期を決定。イラン側は昨年6月の大統領
選後の混乱など政治的な問題が背景にあると疑い「同博物館との協力関係を断絶する」と抗議
していた。

 円筒印章はくさび形文字で民族と宗教の自由を約束した文字が刻まれ、イランの国宝ともい
われる。大英博物館は印章と同じ文字が刻まれた粘土の破片を館内で発見したことから、貸
し出しよりも欠落部分の解読などの研究を優先していた。(共同)
http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/100911/mds1009111643002-n1.htm
大英博物館がイランへ貸し出す「円筒印章」=1月、ロンドン(共同)
http://sankei.jp.msn.com/photos/world/mideast/100911/mds1009111643002-p1.jpg
2七つの海の名無しさん:2010/09/14(火) 23:20:57 ID:xkfThpLy
一生借りておくだけだ
3 [―{}@{}@{}-] 七つの海の名無しさん:2010/09/14(火) 23:30:29 ID:REbaCD3i
>円筒印章はくさび形文字で民族と宗教の自由を約束した文字が刻まれ、
今のイランより進んでるじゃねーか

>イランの国宝ともいわれる。
イギリスが持ってっちゃったのにか
4七つの海の名無しさん:2010/09/14(火) 23:30:55 ID:ZNPsd5hq
そんなのいらん
5七つの海の名無しさん:2010/09/14(火) 23:33:29 ID:tu2fjnfm
ペルシャ人は嘘つき
6七つの海の名無しさん:2010/09/14(火) 23:38:06 ID:N+EJ0aBz
野蛮で田舎者のイギリス人
7七つの海の名無しさん:2010/09/14(火) 23:45:04 ID:dGnUki6A
へちま?
8七つの海の名無しさん:2010/09/15(水) 08:12:16 ID:g0a4s2wy
イランって植民地になったことあるの
9七つの海の名無しさん:2010/09/15(水) 08:37:33 ID:xyI+Kh0L
キュロスの円筒碑文
別に人権宣言なんかじゃないよ
10七つの海の名無しさん:2010/09/15(水) 21:50:40 ID:XIDQB0RT
ササン朝時代が最高だったようだね。
ブドウ酒の名産地だったのがイスラムのせいで潰滅。
11七つの海の名無しさん:2010/09/15(水) 22:44:17 ID:s3FNxgvT
>>8
たしか無いと思う。
12七つの海の名無しさん:2010/09/16(木) 00:02:33 ID:0D4iclYP
>>8
ずっと昔から王国があったわけだけど、中世にはモンゴル、19世紀後半から
20世紀初めにはロシアとイギリスにいろいろやられていたわけで。
13七つの海の名無しさん:2010/09/16(木) 00:10:23 ID:UDo6X/7a
>>12
やられていても独立自体は不変だったでしょ。せいぜい不利な条約結ばされたくらい。
明治の日本だって不平等条約はあった。
タイだって不平等条約はあった。
14七つの海の名無しさん:2010/09/17(金) 00:46:50 ID:d8IH3B+B
古くはアレクサンドロスのマケドニア、イスラーム帝国、モンゴルに征服されて、
近代は名目上独立してたといっても半植民地化で列強の草刈場だし中国やトルコと同じようなグダグダな状況。
後だけどパフレヴィー朝も滅んでしまったし、日本やタイと違って植民地になってないと威張れるような感じではないかと。
15七つの海の名無しさん:2010/09/17(金) 02:04:32 ID:PizCsysQ
タイも緩衝地帯として残されてただけだから有色人種国家の実質的な独立国は日本だけだったな
16七つの海の名無しさん
リベリアとエチオピアを忘れちゃいかん。
さらにオマーンはいつでも独立していたぞ。
それと緩衝地帯だろうがなんだろうが独立は独立。その課程なんかどうでも良い。
さらに言えば、中国やトルコはグダグダだったと言っても、外交も内政政策も
軍隊も自前でやっていて、保護国とかにされていたわけではなく、これも独立。
歴史上で言えば晩期の東ローマみたいなもん。衰えて領土も蚕食されたが、政権自体は独立国。

イランの場合は微妙。名目上は完全な独立国。ただし、ガージャール朝の末期は
英ロ領事の承認がなければ閣僚の選任ができなかったと言われているし、実際に
英ロの圧力で辞任に追い込まれた要人もいたようだ。