ドイツ・ベルリンの重心、西から東へ
ドイツの首都ベルリンの「重心」が西から東に移りつつある。学生や若手の自営業者が
1990年の東西ドイツ統一後、安い住居や店舗のある東ベルリン地区に続々と移住
しているためだ。東西分断の象徴、ブランデンブルク門から東側に以前の暗い影はない。
「この辺りは東独時代、多くの労働者が住む荒れた地域だった。“階級の敵”である
西側の有害音楽が流れていないか、政府の役人がよく監視に来たものだ」
東ベルリン地区で一番の人気を誇るプレンツラウアーベルク地域で、年配の男性(66)
は現在の同地域の繁栄ぶりと、往時の状況とを比較してみせた。
「ベルリンの壁」崩壊後、荒廃著しい東ベルリン地区には、若者らが次々と移住した。
住居費が西に比べて30%以上安かったためだ。特にプレンツラウアーベルクでは、
若者向けのレストランやカフェが続々と開店した。ベルリンのホテル・レストラン連盟の
クラウスディーター・リヒター副会長(52)は「開業の流れは95年ごろ、資本主義下の
ビジネスを知らない東独出身者の店の破産で一時途絶えた。だがその後、経営を覚えて
成功する店が急増した」と振り返る。
プレンツラウアーベルクには今、若い弁護士などエリート層の家族が争って住む。
幼児の増加に保育園の建設が追い付かず、仕方なく西に移った家族もある。
「ベルリンの壁」跡近くには、西地区で冷戦時代に始まった「ベルリン国際映画祭」の
会場も移ってきた。東地区の考古学博物館には、古代の逸品も移された。各種高級店が
近くにあるウンターデンリンデン通りは観光客であふれ返る。
“西高東低”の時代が終わりを告げつつあるベルリンについて、市幹部は「歴史的に
ヒトラー時代まで栄えた東地区が復活しただけ」とそっけなく語った。
西ベルリンのクーダム通りは、冷戦時代に栄華を極めた。クーダム連盟のぺーター
・リーデル会長は「西地区の経営者は東独内に浮かぶ『島』の中で生きるため、隣人と
仲良くした。だが『壁』崩壊後は仲間だけでなく、東側とも競争を強いられ苦労した」と語る。
最近は、西側最大の「ツォー駅」に長距離電車が止まらなくなり、同駅東側にできた
「ベルリン中央駅」が街の新玄関口となった。
冷戦の名残で街に3つあるオペラ座のうち、西のオペラ座は閉鎖が予想される。
西地区では往時の繁栄を取り戻そうと、年50万人を呼び込む巨大観覧車の建設が近く
始まる。経済効果は6000万ユーロ(約85億円)。ただ、高さ175メートルの
観覧車からは、皮肉にも発展めざましい東地区を見下ろすことになりかねない。
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/081014/erp0810142143002-n1.htm 若者向けのカフェなどが集まる東ベルリン地区のプレンツラウアーベルク周辺
http://sankei.jp.msn.com/photos/world/europe/081014/erp0810142143002-p1.jpg 若手の弁護士などエリート層の家族も争って住み着くようになった東ベルリン地区のプレンツラウアーベルク周辺
http://sankei.jp.msn.com/photos/world/europe/081014/erp0810142143002-p2.jpg 東ベルリン地区で共産主義時代の名残をとどめる高層アパートも、人気上昇中だ
http://sankei.jp.msn.com/photos/world/europe/081014/erp0810142143002-p3.jpg