【イギリス】ナチスに略奪されたユダヤ人美術商の絵、英国でオークションに[04/29]

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1盥安φ ★
【イギリス】ナチスに略奪されたユダヤ人美術商の絵、英国でオークションに[04/29]

第2次世界大戦中、独ナチス(Nazis)によるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)計画の一環として、
ポーランド・ワルシャワ(Warsaw)のユダヤ人居住区(ゲットー)から略奪された17世紀の絵画が、
元の持ち主の遺族と匿名の売り主により25日、オークションに出品された。

作品は「A Boy, in Profile, Singing, in a Feigned Oval(偽りの楕円の中の歌う少年の横顔)」と題され、
17世紀のオランダ人画家Pieter de Grebberによる油絵。英ロンドン(London)のオークションハウス
「クリスティーズ(Christie's )」で25日に競売にかけられた。

■戦後、ナチスの略奪リストに挙がる

戦時下に略奪された芸術作品の回収と、正当な所有者への返還事業に携わっている
ポーランド外務省関係者によれば、クリスティーズの協力により、作品をオークションに出品することで
売り主と、米国フィラデルフィア(Philadelphia)在住の遺族が合意したという。

作品の元の所有者であるAbe Gutnajerさんは、戦前のポーランドで有名な美術品収集家・ディーラーだった。
1940年、45万人のユダヤ系ポーランド人とともに、ナチスによってワルシャワのゲットーに収容された。
最近のポーランド国内の報道によれば、Gutnajerさんの財産はそこで、バルト海沿岸ラトビア出身の
ナチス協力者を含むナチス部隊によって略奪されたようだ。

ナチス・ドイツは1939年のポーランド侵攻後、ユダヤ人を隔離し、せん滅する「ユダヤ人問題の最終的解決」、
いわゆるホロコーストを容易とするため、当時ヨーロッパで最もユダヤ人人口が多かった同国内の各地に
ゲットーを設けた。ホロコーストの犠牲となった600万人のユダヤ人の半数が、ポーランド出身だった。

ワルシャワのゲットーでは約10万人のユダヤ人が飢えや病気、そして処刑により亡くなった。ゲットーで
生き延びた人々も1942年以降、ポーランド北東部にナチスが作ったトレブリンカ(Treblinka)強制収容所に
一斉送還された。

Gutnajerさんは1942年、ゲットー内で殺害された。
 
第2次世界大戦後、ポーランド政府はナチス占領下で略奪された美術品の公式リストを作成。
Gutnajerさんの所有していた作品も名前が挙がっていた。

■ラトビア人からの出品で存在が明るみに

「選挙新聞(ガゼタ・ヴィボルチャ、Gazeta Wyborcza)」によれば、Gutnajerさんの絵は2006年、
さるラトビア人がクリスティーズでオークションに出品しようとし、その所在が明らかになった。
このラトビア人は氏名などが公表されておらず、ワルシャワから作品を実際に略奪した人物と
直接的なかかわりがあるのかどうかも定かではない。

作品は、クリスティーズがほかのオークションハウスや保険グループらと協力し、紛失・盗難美術品回収の
ために設立した「アート・ロス・レジスター(Art Loss Register)」が鑑定。ラトビア人の売り主と
Gutnajerさん遺族との間の交渉も、クリスティーズとともにアート・ロス・レジスターが仲介した。

選挙新聞の報道によると、オークションの売り上げは、売り主と遺族で折半される。クリスティーズは
オンライン・カタログで作品に対し、2-3万ポンド(約410-520万円)の開始価格をつけた。

ソース AFP BB News 2008年04月28日 22:06
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2384354/2863359
2七つの海の名無しさん:2008/04/30(水) 00:03:14 ID:4vUT4UGT
一体いつまでナチスに罪を押し付けるのか?
3七つの海の名無しさん:2008/04/30(水) 00:04:13 ID:OjNKEC+y
ユダヤ美人かと思った
4七つの海の名無しさん:2008/04/30(水) 00:07:07 ID:Ey5BPzME
ナチスを裏で動かしてた日本はいつ裁かれるんでしょうかね
5七つの海の名無しさん
>>4
大和心とポーランド魂読め↓

■7.日本大使館が庇護したレジスタンス活動■

 1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、
イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運
動参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ
部隊と愛称された。

 そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤
児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加
し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。

 ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、
イエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めた。イエジ
キ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数
のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。

 急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院
は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を
兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たちこのドイツ人た
ちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。

 イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを
大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しま
した」といって直ちに引き上げた。

 当時日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日
本大使館には一目も二目も置かざるを得ない。日本大使館は、
この三国同盟を最大限に活用して、イエジキ部隊を幾度となく
庇護したのである。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog142.html