パキスタンの首都イスラマバードのモスク(イスラム礼拝所)「ラル・マスジッド」ろう城事件で、
強行突入した軍部隊と神学生側との戦闘状況の全容が明らかになった。寄宿舎の小部屋内に
布団やレンガを積み上げて防戦する学生。閃光弾や催涙弾などを使って学生たちの視界や
体の動きを奪いながら制圧していった部隊側−−。双方合わせて85人(政府発表)が死亡した
2日間の戦闘を、現場取材と関係者の証言などをもとに検証した。
10日午前4時すぎ(現地時間)に始まった突入は、南側と北側の周壁に開けた計三つの穴を
通って始まった。二正面作戦を学生たちに強いるため、南北からの同時突入が選択された。
学生側は敷地の東側にある神学校寄宿舎の屋上に、土のうを積んで陣地を構築。銃や
迫撃砲による反撃を開始した。敷地内に入った軍部隊は、建物の壁をダイナマイトで爆破。
寄宿舎での攻撃に加わった学生は約30人に過ぎず、作戦開始から約4時間後には
「制圧した」との情報が現場から部隊本部に届いた。
しかし、西側にあるモスクの地下に、指導者のラシッド・ガジ師(戦闘で死亡)を含む武装学生が
潜伏していた。その一部が軍部隊のすきを突いてモスクの尖塔(せんとう)(ミナレット)に
駆け上って銃撃を再開。軍側は寄宿舎内部を確認する時間がないまま、戦闘再開を余儀なくされた。
モスク付近での戦闘終結後、軍は寄宿舎内部に70以上ある小部屋の捜索に着手した。軍側は
学生たちが銃を手に待ち構えている可能性があるとして、緊張を強いられる作業が続いたようだ。
だが、実際には大半の学生は武器を持っていなかったとみられる。学生たちは軍の攻撃を
恐れて、うずたかく積み上げた布団の下で息を潜めていた可能性が強い。
閃光弾や催涙弾などであぶり出された学生たちは、次々と投降した。黒く焼かれた小部屋の
壁掛け時計は溶けており、室内が高熱にさらされたことを物語っていた。結局、政府が突入前に
懸念した「人質を巻き込んだ自爆」はなく、軍が押収した武器も「かなりの年代もの」(軍関係者)。
学生側の戦闘能力は、軍と比べようもなかった。
毎日新聞 2007年7月14日 3時00分
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