1988年冬、モスクワ。酷寒の雪の朝、アパート前に止めていた車に乗り込もうとして、
愕然(がくぜん)とした。半分まで雪に埋もれたタイヤが4つともペシャンコなのだ。
すぐ、産経新聞モスクワ支局のロシア人運転手を呼び、
何人かでトコトコと車を近くの修理屋まで押していってもらった。
その間、記者(斎藤)はアパートの門前で不寝番をしていた民警に
「車はこの哨戒所からはっきりと見える位置にあった。昨夜、何が起きたのだ」と問いただした。
民警とは表向きで、泣く子も黙るソ連国家保安委員会(KGB)の回し者たちだ。
各国外交官や商社マン、特派員といった外国人だけを隔離して住まわせる「外国人ゲットー」を
「犯罪から守る」というのが彼らの建前の任務だが、現実は徹底的な監視だ。
4つのタイヤを次々とパンクさせたのを不寝番が目撃していなかったはずがない。
しかし、民警殿は「全く知らない」の一点張りだった。
修理屋から戻った運転手は「『旦那(だんな)、こりゃあ、見事なテロルだ』って言われましたよ」と、
タイヤを鋭い刃物で一突きにした手口に舌を巻いていた。
真冬のロシアで取材の足を奪われるのは何より痛かった。
アレクサンドル・リトビネンコ氏が、亡命先のロンドンで暗殺された事件の不気味さは、
記者がソ連崩壊前後の特派員時代にKGBから受けた仕打ちの記憶を生々しくよみがえらせた。
もう20年近くも前、ペレストロイカ(再編)とグラスノスチ(情報公開)で
改革花盛りのゴルバチョフ時代でもKGBはその手を休めてはいなかった。
パンク事件は「ゴルバチョフ改革に保守派が根強い抵抗」という
記者の記事が新聞に載ってほどなく起きた。東京のソ連大使館がこの記事を翻訳して
モスクワに電送し、然るべき筋が「見せしめ」として「パンク指令」を下したのだろう。
薄気味悪かったが、
「歴史的な民主改革に挑戦している超大国が、特派員にこんな嫌がらせをして恥ずかしくないのか」
とソ連外務省に抗議した。しかし、似たような記事を書くと何回かに一度は何かが起きた。
これは他国の特派員仲間にも経験者がいた話だが、例えば深夜に帰宅して居間の電気をつけると、
地震は起きないモスクワなのに本棚が倒されていたり、テレビと花瓶の位置が入れ替わっていたりした。
帰国間際になると、特派員の車が何者かの車に追突された、着任まもない特派員が突如、
謎の国外退去を命じられた−といった話も伝わってきた。
モスクワ特派員の先輩に聞くと、ソ連外務省が組織した日本人特派員団の中央アジアへの取材旅行先で、
全く同じメニューの食事をとりながら、特定の社の特派員だけがなぜか食事後に体調が急変して
嘔吐(おうと)や下痢になった“事件”もあったとか。
プーチン政権下のロシアでクレムリンに歯向かう著明な人物の暗殺、暗殺未遂事件が相次いでいる。
ソ連では暗殺か否か判断がつきにくい、つまり証拠を残さない「スマートな暗殺」が
KGBの通常のやり口だった。ここ3年のように、射殺や爆殺、毒殺などという露骨に「見せしめ」を
印象づける荒っぽい手口は、いくら「保守派による見せしめ」でもゴルバチョフ時代には記憶がない。
しかも、リトビネンコ氏やカタールのドーハで爆殺されたヤンダルビエフ元チェチェン大統領代行のように、
海外まで追跡された末に命を断たれた人物も目立つ。この「ロシアの敵」や「裏切り者」への報復の
執拗(しつよう)さは、スターリン時代、国外追放された一番の政敵・トロツキーが11年間も独裁者の密使に
追われ、ついにメキシコで砕氷用ピッケルで撲殺された事件(1940年8月)を彷彿(ほうふつ)とさせる。
プーチン政権が一連の暗殺と未遂事件に手を下した証拠はない。しかし問題の本質は、
プーチン政権が未曾有の石油高騰による好景気と「テロ撲滅」を錦の御旗に独裁支配を強め、
国内外で排外的なゴリ押し政策をあらわにしている中にある。
欧米志向を強めるグルジアやウクライナへの天然ガスの供給停止
▽欧米のNGO(非政府組織)の締め出し▽北方領土でのロシア国境警備艇による日本漁船銃撃
▽日本企業が参加する石油・ガス開発事業「サハリン(樺太)2」の突然の事業停止命令−などは、
暗殺事件と同じ「警察国家」的土壌から噴き出している。
石油景気に沸くモスクワの、ゴルバチョフ時代とはけた違いな
きらびやかさに幻惑されるとロシアの本質を見失う。(斎藤勉)
http://www.sankei.co.jp/kokusai/world/061212/wld061212002.htm