「……何というんですか……僕の名前は……」
私が、こう尋ねた瞬間に、若林博士は恰(あたか)も器械か何ぞのようにピッタリと口を噤(つぐ)んだ。私の心の中から何ものかを探し求めるかのように……又は、何かしら重大な事を暗示する
かのように、ドンヨリと光る眼で、私の眼の底をジーッと凝視した。
後から考えると私はこの時、若林博士の測り知れない策略に乗せられていたに違いないと思う。若林博士がここまで続けて来た科学的な、同時に、極度に煽情的な話の筋道は、決して無意味
な筋道ではなかったのだ。皆「私の名前」に対する「私の注意力」を極点にまで緊張させて、是非ともソレを思い出さずにはいられないように仕向けるための一つの精神的な刺戟方法に相違なかっ
たのだ。……だから私が夢中になって、自分の名前を問うと同時に、ピッタリと口を噤んで、無言の裡(うち)に、私の焦燥をイヨイヨの最高潮にまで導こうと試みたのであろう。私の脳髄の中に凝固し
ている過去の記憶の再現作用を、私自身に鋭く刺戟させようとしたのであろう。
しかし、その時の私は、そんなデリケートな計略にミジンも気付き得なかった。ただ若林博士が、すぐにも私の名前を教えてくれるものとばかり思い込んで、その生白い唇を一心に凝視している
ばかりであった。
すると、そうした私の態度を見守っていた若林博士は、又も、何やら失望させられたらしく、ヒッソリと眼を閉じた。頭をゆるゆると左右に振りながら軽いため息を一つしたが、やがて又、静かに眼
を開きながら、今までよりも一層つめたい、繊細(かぼそ)い声を出した。
「……いけませぬ……。私が、お教え致しましたのでは何にもなりませぬ。そんな名前は記憶せぬと仰言(おっしゃ)れば、それ迄です。やはり自然と、御自身に思い出されたのでなくては……」
私は急に安心したような、同時に心細くなったような気持ちがした。
「……思い出すことが出来ましょうか」
若林博士はキッパリと答えた。
「お出来になります。きっとお出来になります。しかもその時には、只今まで私が申述べました事が、決して架空なお話でない事が、お解りになりますばかりでなく、それと同時に、貴方はこの病院
から全快、退院されまして、あなたの法律上と道徳上の権利……すなわち立派な御家庭と、そのお家に属する一切の幸福とをお引受けになる準備が、ずっと以前から十分に整っているので
御座います。つまり、それ等のものの一切を相違なく貴方へお引渡し致しますのが又、正木先生から引き継がれました私の、第二の責任となっておりますので……」