147 :
お題:フィッフィー、魚屋 1/3 ◆XnSHXsXstA :
久しぶりに近くの商店街を通りかかると、ダンボールが嫌というほど積み重ねられ、
窓は曇り、壁にはしみが浮き出した何の店なのかわからない店舗があった。
看板は剥げ落ちて、色あせた水色に赤く錆が流れ出している。
目を凝らしてよく見れば、その水色のトタンの看板に、「水」という文字が
辛うじて読めた。
水。
曇った蒸し暑い午後だった。水か。何屋だったんだろうか。隣のこれまた寂れた八百屋に目をやると、
店番らしい痩せて骨と皮ばかりの老人がこっくりと舟をこいだ。起こすのも気の毒で尋ねかねたので、
そのままそっと店先に詰まれたダンボールを観察した。
ダンボールとばかり思っていたが、半分ほどは発砲スチロールの白い箱が汚れすぎて茶色に、あるいは灰色になっていた。
よくわからない数字が流れるように書き込まれている。ダンボールにはもう剥げかけたインクで「銚子漁業」と読めた。
魚屋だったのか。
ぼんやりとその光景を眺めていると、突然ごそりと右手に積まれた箱が動いた。
人の動かす高さではない。下から二つ目の半ば潰れた箱が、ぼそぼそと不景気な音を立てて動いている。
猫か犬でも入り込んでいるのだろうか。
猫ならいいなと思ってそっと箱に手を伸ばし、ふたに手を触れるなり、風雨に晒されてもろくなった厚紙は
さくりと音を立てて破れてしまった。そして中からぬいぐるみが飛び出してきた。
「あたし、フィッフィー。かわいいでしょ」
電池仕掛けのぬいぐるみか。何かの拍子にスイッチが入ったらしい。ぬいぐるみはひどく汚れていて、
妙に胴体と手足が細長く、本人が言うほどにはかわいくはなかった。フィッフィーだって。ブルーナの絵本の海賊版だろうか。
「あたし、フィッフィー」
ぬいぐるみは再び自分の名を名乗ると、にゅうとその細長い腕を伸ばし、
ぬめるようにしてダンボール箱から這い出てきた。
「かわいいでしょ」
なんだこのぬいぐるみは。
「かわいいでしょ」
148 :
以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2008/10/22(水) 22:57:59.58 ID:lbhCf749O
149 :
お題:フィッフィー、魚屋 2/3 ◆XnSHXsXstA :2008/10/22(水) 22:58:17.18 ID:v8tdIytq0
となりの八百屋の店番のじいさんが竹箒を片手に鉄砲玉のように飛び出してきたのはその時だった。
「去ねっ! ばけもんがぁ!」
さっきまで椅子に腰掛けて転寝していたとは思えない機敏な動作でじいさんはうさぎのぬいぐるみに
手にした竹箒の柄を突き刺した。
見る間にぬいぐるみの体には丸い跡がつき、ぐちゃり、ぼきりと嫌な音が周りに響いた。それだけではない。
ぬいぐるみからは真っ赤な血が音にあわせて飛び散りだした。
呆気にとられてその光景を眺めていると、ひとしきりぬいぐるみのようなものを叩き潰したじいさんが
荒い息のままこちらを振り返った。
「あんた、こいつを見てなんとも思わんのかね? こんなもんに関わっちゃいかん。こいつを見たことは忘れちまうんだな。
でなけりゃあ、こんな風に殺しちまうことだよ」
じいさんの黄色く濁った白目と、渋皮のような肌ばかりが目に入った。じいさんのほうが正直恐ろしかった。
じいさんが嫌なものでも見たようにさっさと自分の店に入ってしまったので、私はそろりと地面に潰れている、
血にまみれたぬいぐるみ――フィッフィーを見た。
「わ たし かわいい でしょう」
驚いたことに、フィッフィーはまだ同じことを繰り返していた。
「わたし フィッフィー か わいい で しょ」
殴られ、路上に放り出されたその姿に同情した。ちょっと気味が悪いかもしれないけど、
こんなにひどく殴ることはないじゃないか。しゃがみこんでフィッフィーを覗き込んだ。
フィッフィーの血まみれの腕が、にゅるりと私の腕にまきついてきた。
「わたし、フィッフィー。かわいいでしょう? 」
フィッフィーの顔はどこにでもあるぬいぐるみと同じだった。ボタンみたいな黒い目。
ばってんのような口。殴られたせいで耳が千切れて破れている。そのプラスチックの黒い目は
どこを見ているのかわからない。血まみれの細い長い腕は、私の服や肌が汚れるのも構わずに、
つたのように私の腕に巻きついて這い上がってくる。
150 :
お題:フィッフィー、魚屋 3/3 ◆XnSHXsXstA :2008/10/22(水) 22:58:58.74 ID:v8tdIytq0
お前がフィッフィーだろうが知ったことじゃないよ
次の瞬間、私の頭の中には嫌悪感しかなくなっていた。
「わたし、フィッフィー。かわいいでしょ」
腕を引き剥がそうとしたが、剥がすそばから巻きついてきて離れない。焦燥感までもが湧き上がってきて、
私は思わずその紐のような腕を引きちぎってフィッフィーの体ごと道路に叩きつけた。
「わたし、かわいいでしょ? 連れて行ってくれるでしょ? 」
ぞっとした。私はあとも見ずにその潰れた魚屋の前から逃げ出していた。
「わたし、フィッフィー。かわいいでしょう?」
何度角を曲がっても、まだ耳にその声が残っていた。
家に帰り着いて電気をつけた。すっかり暗くなっていた。まるで悪夢のような出来事だった。
ひどく疲れて風呂に湯を張り、コーヒーを入れた。お湯が溜まるまでしばらくかかる。私は一抹の不安を覚えて
そっとカーテンをわずかに開け、窓の下を見た。ゴミ置き場が見えた。段ボール箱が積まれていた。
気のせいか動いたようにも見えた。
まさかな。
カーテンをぴったりと閉めなおした。今日のことは悪い夢だ。明日はこんな日にならないに違いない。
私は疲れて、蒸し暑かったのに冷え切っている自分の体を熱いシャワーで流すと、白い湯気を上げる湯船にそっと腰を下ろした。
何かが裸の尻に当たった。それはぐにゃりとして、生暖かく、生肉のような奇妙な弾力を持っていた。
「わたし、フィッフィー」
151 :
お題:フィッフィー、魚屋 4/3 ◆XnSHXsXstA :2008/10/22(水) 23:00:27.30 ID:v8tdIytq0
完